2009年5月17日

裏麻布St.


先日、狸坂下の「青いひみつきち」マスターとお話をする機会があり、営業時間外の店に邪魔してきました。この場所は25年ほど前にはJazzの「Ashtray」があった場所で、当時はさんざん他所で呑んだあげくに宮村町に帰るための最後の関所?でした。 
この店のあたりから十番方面に向かう暗闇坂下までの道を「裏麻布ストリート」と呼ぼうという試みが最近起こっているようです。この道沿いのBar店主などが協議して裏原宿(ウラハラ)にあやかって命名した名前のようです。一部気の早い方はタクシー運転手さんに行き先を「裏麻布」っと指定して、きょとんとされるようなことも起こっているようで、もと地元民としては時代の流れを感じさせられてしまいます。
江戸初期までは狸坂と暗闇坂を挟むピザの人一切れのような地域は麻布氷川神社があり、その後幕末までは増上寺の隠居所となった場所だったので、当時はその外周路であったと考えられます。また狸坂下はがま池からの水流と大隅山水流が合流する地点で昔から橋が架かっていたと考えられます。「十番わがふるさと」によると昭和初期頃まで大雨が降るとこのあたりは低地のために氾濫し、水が引いた後には「がま池」から流された鯉や鮒が手づかみで捕れたとあります。またこのあたりから本光寺のある大隅坂登り口あたりまでは「宮村新道」という字名で呼ばれたようで、江戸中期頃に道路が拡張されたときについたものとのことです。この大隅坂は別名きつね坂とも言われていますので、まさに「狐狸ストリート」だったのだと考えられます。現在は中国大使館警備のおまわりさんが立っていますので、さしずめKBストリート?裏麻布も悪くないけど、私としては麻布中心部の最奥部という意味で「奥麻布」くらいにしておいてほしいんですけど......(^^;



2009年3月31日

Google Earth 5.0で麻布もタ~イムスリップ!




最近更新されたGoogle Earth 5.0には過去画像を表示できるスライダー機能が装備されている。
この機能を使うと過去の衛星画像が表示されるようになった。
スライダーには12個のポイントが設定されているようで、スライダーを移動するとその年代の
画像にジャンプする。ちなみに一番古い1997年
までスライドさせて現在六本木ヒルズとなって
いる近辺を見ると、現在の画像よりも解像度は
低いが、見事に1997年の藪下の街並みが表示される。
金魚屋が、同級生の家が、玄碩坂が......。
ちょと感激してしまいました(^^; 
あの頃の自分は....
何をしていたんだろう?
そして.....皆さんは?

2008年12月4日

麻布トライアングル

前回、「謎の地図看板」の文中で、麻布氷川神社だけでは鎮められなかった「怨念」を、「増上寺院居所(隠居した増上寺の管主の住まい)の高名な僧の力を借りて、双方から封じ込めた」という私説を披露しましたが、今回はその続きです。そして前回同様全く根拠のない邪説とお考えのうえ、お読みください。

氷川神社前の通りを暗闇坂方面に向かい元麻布ヒルズを少し超えたあたりに関ヶ原合戦の際の「首塚」があったと思われるのですが、この首塚は1,000以上の首を埋葬したにもかかわらず、現在までその痕跡はまったく発見されておりません。
前回ご紹介した 「武徳安民記」をもういちどご紹介すると、

慶長五年八月二十八日岐阜より使節参着して、再び尺素を献じ、首級をささぐ。其の員数福島左衛門大夫四百三十、池田三右衛門四百九十、淺野左京大夫三百八--中略--を大桶に入れて到着す。家康即ち実験し浅布の原に首塚を築き之を埋め、増上寺源誉玉藏院忠義に命じ供養せしむ

とあります。これまでの私の説はこの「武徳安民記」の文中における「浅布」を麻布と仮定しての説ですが、現在の「麻布」という字が一般的に使用されるようになったのは江戸中期頃であり、それまでは阿佐布、麻生、浅府、安座部などと多様に表されていたようなので、本当に現在の麻布である確証はありません。(広い意味ではあそう、あさう)なども同義と言われています(詳細は「DEEP AZABU-麻布の由来」を参照ください)
しかし麻布区史、港区史などには、

・「麻布西町6番地辺」麻布区史(986ペ-ジ)
・「元スエ-デン大使館東前あたりに慶長五年 首を埋めたという首塚があり、戦前 まで家が建たなかった。」港区史(上)216ペ-ジ
・「このあたりに慶長五年首を埋めた首塚があるともいうが麻布西町らしい。」港区史(上)218ペ-ジ 

などとあり、両書とも「首塚」の存在を肯定しています。
 麻布西町6番地辺とは現在の元麻布1丁目3番地あたりとなり、前回お伝えしたように増上寺院居所と麻布氷川神社の中間くらいの位置となります。そのため増上寺隠居所と麻布氷川神社が怨霊を鎮めたのでは?と書いたのですが、しかし、よく考えるとさらに麻布山善福寺を入れると、ほぼその中心部に「首塚」が存在していた場所があった事となり「麻布トライアングル」が完成します。
一辺が暗闇坂上の増上寺隠居所、もう一辺が麻布山善福寺、さらに一辺が麻布氷川神社になります。そして首塚は、その三角形のほぼ中心部となります。これって偶然でしょうか?
もっとも、関ヶ原の戦いが行われたのは1600(慶長5)年9月で、氷川神社が移転した(させられた?)のは1659(万治2)年ですから、首塚の設置から麻布氷川神社の移転まで60年あまりが経過しています。
この間の事なのかはわかりませんが、『怪談老の杖』巻之二「くらやみ坂の怪」には、
暗闇坂上の屋敷の崖が崩れ人を葬った石棺が出土した。そして中に矢の根の腐り固まったようなものや白骨などがあり、また埋め直した。その後、下女の失神や主人の祖母の急死など怪異が起こり、祈祷をしたがその後は異変は起こらなかった。
などとあり、首塚との因果も時期も不明ですが、怪異が起こっています。
さらに先日おもしろい新聞記事を見つけました。新聞は1924(大正13)年3月21日の朝日新聞で、そのなかにある広告なのですが「首塚」があったとおもわれるあたりを箱根土地開発(のちのコクド=西部グループ)が分譲する広告です。あのあたりとしては、かなり大規模な分譲だったようで、3,500坪あまりが分譲されたことがわかります。この工事で塚が密かに破壊されたのかはわかりませんが、現在まで「麻布の首塚」が不明なままとなっているのは確かなことです。
まだまだこの他にも、麻布にはたくさんの「不思議」が、解き明かされるのを待って、静かに眠っています..........。


※タイトルの「麻布トライアングル」と聞いて、おっ!?っと思われた方は50代以上の方だと思いますが、これは1970年代にバミューダ・トライアングルにちなんでマスコミなどで呼ばれた「がま池」・「一本松」・「逆さいちょう」を結ぶ三角形の心霊スポットを指します。

2008年11月27日

謎の地図看板

先日麻布十番を歩いて内田坂の下(南山小学校・六本木高校の坂下)

までくると、ある看板が目にとまりました。「ようちえん さくひんてん」と書かれた黄色い看板で、南山幼稚園の園児さんがつくったもののようです。「かわいらしいな~」なんて眺めていたのですが、ふとその横に目を移すとよくある住宅地図看板(っていうのでしょうか?)がみえました。何気なくその看板を眺めたのですが、なにか気にくいません。なんだろう、なんか違和感が......。



よく考えると、ふつうこのような看板は昭和の香りがプンプンするサビ たものが多いのですが、これはとても新しくて綺麗です。まるで昨日設 置されたばかりのような綺麗さで、よく見るとお店の名や建物名も最近のものばかりでした。「へェ~、新しい地図看板なんて珍しいな。」なんて思いながら立ち去ろうとしたのですが、まだ、何か違和感が残ります。そこでさらによく見ると、「あれ?この地図、間違ってる!」っと気がつきました。というより、この地図間違えているのではなく、書いてはならないものが誤って記入されていることに気がつき、うぁぁ~、こ、これは!っと声を上げてしまいました。



左の画像は上の画像の中心部(ストロボが反射しているあたり)を拡大
したものなのですが、この地図には今は存在しない道(って江戸時代の地図を見てもこんな道はありません)が書かれています。安全寺の前から暗闇坂方面に登る道で、こんな道はみたことがありません。

このあたりから一本松方面に向かう道は大昔から「狸坂」と「暗闇坂」しかありえなく、その中間に道(坂)は全くないので本来なら間違いようがないと思うのですが.....。

しかしよく考えると、これってあの麻布山地下壕の宮村町側隧道の位置と完全に重なります。(詳細は むかし、むかし を参照してください)
もし隧道ならば入り口付近は完全に閉ざされていますが、中は当時(昭和20年)のままである可能性が高く(もちろんビルのパイロンなどが打ち込まれているでしょうが)、この地図は間違えていません。


さらに別の要因を考えると、「新しい大型再開発」により作られる予定の道を誤って描いてしまった事も考えられます。同じ宮村町の大規模再開発をした某企業などもさ◎ら坂、け◎き坂などを造った実績があり、勝手なネーミングはお手の物です。


もう一つ考えられるのは、江戸初期までこの地にあった「麻布氷川神社」の境内参道跡説です。ご存じの通り、この地には江戸初期から幕末まで増上寺の隠居所があったのですが、それ以前は太古の昔の創建時より麻布氷川神社が鎮座していました。ですから「一本松」は麻布氷川神社の御神木ともいわれているのです。江戸氷川七社の一社として崇敬され、付近の町名(宮村・宮下・宮元・坂下)などどれも麻布氷川神社がこの地にあったためについた町名です。また一の鳥居が永坂上に、二の鳥居が鳥居坂上にあったことも同様で、暗闇坂から狸坂を挟む広大なお社であったものと想像されます。しかし1659(万治2)年突然、幕命により麻布氷川神社は現在の狭い土地に移転させられてしまいます。

余談ですがこの移転時に宮村の村域(当時このあたりは江戸郊外で代官支配地でした。麻布の村々が町奉行支配の江戸の「町」になるのはずっと後の1713(正徳3)年です。)も同時に召し上げられています。そしてその代地が広尾近辺(現在の広尾商店街付近)に与えられたので、名刹広尾祥雲寺も麻布領であったため「麻布祥雲寺」と呼ばれました。

しかし、その移転理由については定かではありません。当時広大な畑地も残っていたと思われる宮村で、何故移転しなければならなかったのか大きな疑問が残ります。(興味のある方は 歴史年表 を参照してください。)一般的な理由としては社殿が火事により消滅したことが考えられます。この二年前には明暦の大火(振り袖火事)などもあり、それ以外にも江戸の町は度重なる火事に見舞われました。


またこれ以外には、私説で邪説ではありますが、「怨霊の調伏」が考えられます。
関ヶ原合戦[1600(慶長5)年9月]の前哨戦「岐阜城攻め[同8月]」では東軍は城攻めとしては異例の「逃げ口を閉ざした大量虐殺」を行い、その首級を江戸にいた家康に献上しました。そして首実験後に麻布に埋葬されたと言われます。その様子を「武徳安民記」は、



慶長五年八月二十八日岐阜より使節参着して、再び尺素を献じ、首級をささぐ。其の員数福島左衛門大夫四百三十、池田三右衛門四百九十、淺野左京大夫三百八--中略--を大桶に入れて到着す。家康即ち実験し浅布の原に首塚を築き之を埋め、増上寺源誉玉藏院忠義に命じ供養せしむ



とあり、首実検は家康が三万の兵を率いて関ヶ原に向かう9月1日まで行われました。さらに9月1日江戸城を出発した家康は、続々と到着する首級を見て増上寺で行列を止めて首実検を行ったと記録されています。

これらの首級が埋められた場所は定かではありませんが、麻布区史は「麻布西町6番地辺」、港区史は「元スエ-デン大使館東前あたり」と明記しています。これらの住所は現在の元麻布ヒルズ近辺となり、現在の麻布氷川神社と元増上寺隠居所の地の中間に位置しています。もしこれが、麻布氷川神社だけでは鎮められなかった「怨念」を、増上寺院居所(隠居した増上寺の管主の住まい)の高名な僧の力を借りて、双方から封じ込めたとすると移転の理由も納得できます。


いづれにせよ、地図掲示板の不可解な道は謎に包まれています。











2008年10月18日

栄光のルマン


先日「栄光のルマン」という映画のDVDを借りました。思い起こせば中学生の頃、封切されたこの映画を見てやっぱりMcQueenはカッコいいなー!なんて憧れてたのを思い出し、そういえば!っとデジカメ画像を探してみると数年前の玩具ショーに出展されていたポルシェ917Kの画像が見つかりました。このモデルは映画でMcQueenが最初に運転した20号車で、この車でクラッシュします。そしてリタイヤ後チーム監督の要請で21号車に乗り換えて22号車の優勝をアシストするという筋書きでした。この映画は日本では大ヒットしましたが本国アメリカではまったくヒットしなかったようで、最初にこの映画の監督だったジョン・スタージェスは「800万ドルかけたMcQueenのホームムービー」とレースシーンばかりでせりふも人間ストーリーもほとんど無いこの映画をコキおろしたそうです。そしてMcQueenが主宰するソーラー・プロはこの映画の失敗で解散に追い込まれます。しかしMcQueenにとっては至福の作品だったのではないでしょうか。
映画は実際の1970年ルマン耐久レースで撮影が行われ、ソーラー・プロが所有するカメラを搭載した撮影用ポルシェ908/2(No.29)は実際にレースにエントリーして完走しました。また撮影中に21号車ドライバーのデヴィッド・パイパーがクラッシュし右足切断という大事故になり、映画での20号車クラッシュシーンもこの事故を再現して作られたそうです。

現実のルマン1970年レースはザルツブルグチームのポルシェ917-053(No.23)ヘルマン/アトウッド組が優勝していますが、映画にも一瞬ですがこのNo.23が映されています。ちなみに映画でMcQeenが乗車したワークスGulf20号車は実際のレースではシフェールがドライブしました。

2008年9月17日

真説 新・麻布七不思議

このコーナーには麻布以外のネタを書くつもりだったが、DEEP AZABUサイトさえ気が向かないと更新しないのに、Blog更新など夢のまた夢.....。というわけで放置しっぱなしであったが、むかし、むかしコーナーを更新した際に自説「新・七不思議」を披露したので、ここで触れてみたいと思う。私が定義した新しい麻布七不思議は、



1.六本木ヒルズ毛利池の水源

2.十番納涼まつりのマナー

3.四の橋近辺の古川の鯉

4.がま池の公開

5.元麻布ヒルズの形状

6.麻布山地下壕

7.有栖川公園の蛍養殖

であるが、



★「1.六本木ヒルズ毛利池の水源

については、里俗に、がま池とつながっていて互いに水位を調整していると密かにいわれている。その際の給水に用いられるのは明治期に作られた「麻布水道」の使用されなくなった配管である。また両池とも宮村町公園地下の旧麻布水道宮村貯水池に一旦プールされそこから給水されているともいわれる。ちなみに宮村町公園地下の旧麻布水道宮村貯水池ではがまガエルが大繁殖し、それを餌に狐坂で狐が見られるようになったとの噂もある。
もっとも現実にも、毛利池の水源は池の改修時にビニールシートで保護され、これを外せば水源は元のまま復活する。という噂もまことしやかに語られている。恐るべし、現代工学!


★「2.十番納涼まつりのマナー

は、悪いのは来訪者ではなく、設備不足のまま集客してしまう管理体制では、っと、2ちゃんねるなどではささやかれている。しかし、祭り翌朝の商店街はものすごい臭気である。


★「3.四の橋近辺の古川の鯉

で紹介した画像は7年位前に四の橋から下を覗いた折にたまたま居合わせた赤い鯉であるが、土地の人の古い言い伝えでは、雨のたびに古川河口の金杉橋辺まで流されるので、鯉は筋肉が発達し、胸びれを使って陸上を歩き元の四の橋まで帰る事ができるようになったという。また遡上が過酷なために色が退色し、緋鯉は真鯉になるという。そして、その中の幾匹かは遡上を諦めて海へとくだり、ボラの祖先となった。だから河口付近ではたまに親戚に会いに来る赤いボラ(緋ボラ)を見かけることがあるという。河口付近の住民はこのボラを、幻の緋ボラと呼んでいる。


★「4.がま池の公開

これは人様の土地を持主がどう使おうと勝手なので、大きなお世話である。そして池は公開されている。最近入手した情報によるとどうやらあのマンションの地下3階に秘密の会員制クラブがあるという。情報主によると、地上に残された池は実はレプリカで、地下3階には本来の広さと深さを保った本当の池が、「秘密裏に管理されていた」水源によって満々と水を湛えているという。むかし3級下のかっチャンが池に落ちたときに立ち泳ぎするほどの深さ(たぶん1.2mくらい)の池がそのままの姿で再現されている。(もっとも当時は底なし沼だと聞かされていた。)もちろん池にはザリガニ、くちぼそ、和メダカの他に、ゴールド会員にはやはり地下に作られた池周囲のクワガタ生息木への立ち入りが許され、冬でも虫採り遊びが用意されている。(ゴールド会員は池では淡水伊勢えび釣り、クワガタは天然の20年物オオクワガタが用意されているという。)ちなみに会員制秘密クラブの名称は「白亜の館」とのことだが、現在は会員の募集は行われておらず、数年待ちとのこと。これは数年前に流行った昭和レトロブームと「三丁目の夕日」現象からだと専門家は苦笑している。(実際にあった会員制フレンチレストランの白亜館とは何の関係もないようです。念のため。)


★「5.元麻布ヒルズの形状

これまた建物がどんな格好をしていようが、地権者と入居者以外には大きなお世話である。が、先日訪れた商店街のスーパーマーケットで、同級生で店のパート店員をしている方からこのビルを建てる時のエピソードを偶然、伺った。

このビルを建てる際に設計を任された設計士は先見の明がある方で、すでにエコロジーが将来問題になることを予知していた。そしてそのエコロジー的な建物を設計しようと日々、頭を悩ませていた。そして奥さんから頼まれた夕飯の買い物を十番のスーパーで買っているときにふと、野菜売り場であるものを見てひらめいたそうである。これだ!長い間捜し求めていた形状は!っと絶唱し、そのあるものを毎日買い求めた。当時一般市場に出たばかりのその「あるもの」は、古来のものとは大きく違う形状をしており、当時、これぞエコロジー!っと思ってしまうのに十分不思議な形であった。そして数年後、ビルは完成し、それを見た近所の子供が思わず叫んだ。

あれ、エリンギじゃん!

完成時には「エリンギ」はごく一般的な食材となっていた。


★「6.麻布山地下壕

これは里俗の言い伝えと言うよりは、国家機密に属する部類の話であるが、二人の地下探偵団麻布支部員が極秘に漏らした情報で、じつは地下鉄南北線は、白金高輪駅を出るとやすぐに左に急カーブして四の橋を超え、太平洋戦争中に海軍が掘った「麻布山地下壕」に入り尾根伝いを直進する。そして宮村町をかすめて麻布山善福寺横で再び急カーブ(または地下ループで廻ってから)で麻布十番駅へと到着する。地下鉄とはまったく縁のない宮村町近辺で夜更けに耳をすますと、よく「列車通過らしき音」を聞く。という地元民の情報があり、地元民は音がする方向が山の中と不明瞭なので不思議に思い、「新狸ばやし」、「狸坂の狸が戻った!」などと噂をしているようである。

ちなみに、2名の地下探偵団麻布支部員はその他情報として、都内各所の未使用地下鉄線路情報、三田小山町の地下壕なども話され、私も住まいの近所・品川区の目黒川河口付近に未使用の地下駅の噂があることを確認した。東京は国会議事堂近辺の秘密の地下鉄線路の噂を筆頭に、秘密の地下だらけだそうである。


★「7.有栖川公園の蛍養殖

これは私が最も危惧する内容の話である。以前、有栖川公園で養殖されていた蛍は当時最先端の技術を駆使して出来た「遺伝子組変え蛍」であったという。これによりどんな濁水でも羽化できるようになったバイオ蛍の生命力は絶大で、事態の重大性を重んじた関係機関により絶滅された...。っと思われたが、中の数匹が生存に成功し、なんとゴキブリと交配してしまう。これにより付近の家庭では、「お尻が光る」ゴキブリが目撃されるようになった。地元住民の話では、「夜中に台所では電気をつけなくても明るくなった。」など、喜びの声も聞こえるが、最近は大型のゴキブリにも「お尻が光る」ものが現れ、こちらはさすがに敬遠されているという。

なを最新のニュースとして、周囲ではお尻が光って、なおかつカブト虫の角を持った大型ゴキブリや、クワガタ虫の角を持ってお尻が光る「ゴキブリ」も目撃されていると言われるが、確かな情報は届いていない。住民の一人は、「昔は良かった。有栖川が怖いといっても鯉ヘルペスくらいのものだったに....」と困惑を隠せないようだ。当局の話として新聞は、「不思議なゴキブリを見つけたらすぐに届けるよう指導している。許可なく飼育したり、繁殖させると罰せられます。とのこと。」しかしネットオークションではすでに1匹数万円での取引が確認され、当局では落札者の身元確定を急いでいるという。


以上七つの麻布不思議話、如何でしたか?

信じる、信じないは、.....あなた次第....。

(あたりまえですが、この七つの話は、もちろんすべてフィクションです!)

2008年6月8日

Clapton's Guitars その2



ブラウニーが落札された5年後の2004年6月24日、今度はあのBlackieがクリスティーズで行なわれたオークションにかけられた。このギターはご存知の通り、Claptonがレインボー・コンサート以来、長い間一番お気に入りのギターとして使用し、Clapton=Blackieとまで言われた名機だ。私が一番印象的なのは「Just One Night」というライブアルバムにもなった1979年の東京公演時E.Cがメインで使用していたことで、公演ではあまり歪んでいないきれいめなハーフトーンを出していた。(ちなみにこの公演の Tulsa Time 、Early In The Morning などのボトルネックにはブラウニーを使用していた。)またこの公演時にはジョージ・ハリスンとの正式離婚が成立したパティ(元ジョージ・ハリスン夫人でLayla・Wonderful Tonightで唄われた)を同伴?との噂もささやかれ、私も会場内をキョロキョロと見まわしてしまった(^^;


オークションは当初15万ドル程度で落札されるだろうとの予想を大きく裏切り、最終的に95万9,500ドル(およそ1億520万円)で落札された。これは、これまでのギターの最高落札価格であった自身のブラウニー49万7,500ドルをも大きく引き離した。しかし本当に驚くのはここからである。


このギターが落札された2年後の2006年11月24日、Fender Custom ShopからこのBlackieのレプリカが発売された。
275本の製作で価格は何と!280万円!実売ではもう少し安いようだが、レプリカで280まんえんとは! 驚きである。