2012年10月31日水曜日

麻布を通った宇宙中継電波(ケネディ暗殺速報).その1

小学校3~4年生のころ(昭和40年代前半)、男の子の遊びでは12チャンネルで「ローラーゲーム」などという番組をやっていたからか、ローラー・スケートが流行っていた。現在の車輪が一列に並んだインライン型ではなく当時は前輪2輪・後輪2輪の安定の良いもので、割とすぐに滑る事が出来るようになるようなものでした。車輪はゴム・木・鉄製のものがあり、最新のものはゴム製、しかし何年か前のクリスマスプレゼントで貰い、そのまま放置してあった私のスケートの車輪は鉄製で、けたたましい轟音と夕方には火花まで散らすという旧型でした。

東京統制無線中継所
最初は安全な公園内や私道などで遊んだのですが、ある程度姿勢の制御が出来てスピードが出せるようになると、物足りなくなってきます。そこで私たちがよく遊んだのは比較的自動車の往来が少ない内田山山頂付近の通称「マイクロウェーブ」と呼んでいた大きなパラボラ・アンテナのある建物附近から狸坂下まで一気にスロープを滑り下りることが出来る坂道でした。
学校が終わると「マイクロウェーブ行こうぜ!」っと誘い合い、競い合いながら一気に坂を駆け下りました。
大人になりいつの日か「マイクロウェーブ」のパラボラが撤去されても関心を持つこともありませんでしたが、鉄輪をガリガリいわせながら遊んだ坂上のあの「マイクロウェーブ」って、何だったのだろう.....。

子供たちが「マイクロウェーブ」と呼んだ建物の正式名称は「日本電信電話公社・東京統制無線中継所」と言い、大きなパラボラアンテナは文字どうり超短波の中継アンテナでした。そしてそのアンテナはあの歴史的な事件を報じる初中継に使用されていました。

昭和38年(1963年)11月23日、アメリカから日本へ初めての衛星中継が放送されました。これは通信衛星「リレー1号」を使用した衛星放送で、当時は「宇宙中継」と呼ばれた。リレー1号は3時間で地球を1周する低軌道衛星であり、放送は両国から衛星を見渡せる約20分間に限られていて20メートルのパラボラを使用しても衛星の微弱な電波を捉えるのは「アメリカで点けた電球の熱を日本で感知する」ようなものだったといわれています(プロジェクトX)。

モハービー地上局から衛星に送られた電波は茨城県多賀郡十王町にある国際電信電話会社宇宙通信実験所の直径20メートルのパラボラ・アンテナで受信(この過程はプロジェクトXに詳しい)し、筑波山を経由してマイクロ波で麻布の東京統制無線中継所(TRC)テレビジョン中継センターに送られ、そこから有線でNHK放送センター(当時は代々木ではなく内幸町にあった)に送り、各民放に配信されました。

※TRC-東京テレビジョン中継(リレー)センターの略

放送経路


米太平洋岸カリフォルニア・モハービー地上局
(リレー1号に向けて1725メガサイクルで送信)

リレー1号
(アメリカからの電波を4170メガサイクルに増幅)

国際電信電話会社宇宙通信実験所(茨城県多賀郡十王町)
(直径20メートルのパラボラアンテナで受信)

NHK中継車からマイクロウェーブ送信

石尊山

日立製作所日立研究所屋上(日立市)

電電公社無線中継所(筑波山)

東京統制無線中継所テレビジョン中継センター(東京・麻布)
↓(ケーブル)
NHK放送会館(内幸町)

民放配信



第一回目の放送はモハービー地上局から5時18分に待機指令が来て、午前5時27分に始まる。予定ではアメリカ・ケネディ大統領のメッセージが流される予定でしたが、画面にはテストパターン・カラーパターン・NASAのロゴが繰り返し映し出された後、予定外のモハービー砂漠の映像が流され、演説は始まりませんでした。そのとき日本側関係者は予定外の映像に戸惑いました。実はこのとき流される予定の映像はケネディ演説も含めて「事前に録画されたもの」を送信することが前もって決められていました。その録画も流せない状況とは......。

1963年11月22日アメリカ中部標準時12時30分(日本時間23日午前3時30分)、テキサス州ダラスでケネディ大統領は暗殺されていました。

しかし、こう書くとまるでケネディ暗殺は衛星中継が始まるまで「誰も知らなかった」と思いがちだが事実は違います。中継関係者も新聞社も初中継の時間までには、暗殺をすでに知っていました。
暗殺事件の第一報はUPIで、入電は午前3時40分。そして同50分までにAFP、ロイター、APと続き4時30分にはついに「大統領の死亡」が伝えられました。この時各新聞社ではすでに都内版締め切りは過ぎており輪転機が廻り始めていました。しかし、各社ともそれをストップしてほぼ三分の一程度を刷り直したといいます。

当日の各紙朝刊は一面トップに、

・ケネディ大統領暗殺さる(読売?版)
・ケネディ大統領撃たれ死亡(朝日12版)
・ケネディ大統領暗殺さる(毎日13版)

とそれぞれ速報で記事は少ないながら掲載しました。話を戻すと、じつは衛星中継関係者も放送前に暗殺を知り、中継が中止となる事に危惧を抱いていました。そこに開始直前の5時14分、NASAから「大統領が映っている部分の放送は取りやめる」という連絡が入り、何が流されることになるのか危惧は深まりました。

結局第一回目の中継は砂漠の映像に終始して終わり、2回目の放送に関係者の不安は募りました。 2回目の放送は同日午前8時58分から予定どうりはじまり、ついにケネディ暗殺のニュースが衛星を経由してもたらされました。その後の放送の詳細や事件の詳細はプロジェクトXや他のサイトを参照して頂くとして、実はこのケネディ暗殺の速報となった 23日の2回の放送の他に、3日後の26日午前4時・午前7時50分にも第二回目の宇宙中継が行われ、容疑者のオズワルドが射殺される瞬間の映像、ワシントンでの国葬の模様が中継され、2回にわたる宇宙中継は成功のうちに終わりました。そして東京オリンピックを迎えた翌年の1964年には静止衛星の「シンコム3号」が打ち上げられ、長時間で安定した東京オリンピック画像の初衛星世界中継が可能となった。この時も麻布のTRCは大活躍をしたものと思われますが、残念ながら詳細な資料は手に入りませんでした。

(この項を書くに当たって「初宇宙中継」、「ケネディ暗殺放送」については比較的容易に資料を手にすることが出来ましたが、 TRCの概要や通常業務、経歴などの書籍・ネット・新聞などの情報は、あまり存在しないようです。これは対テロ・セキュリティ上の保安措置や、N中マニアへの対策からと思われます。)


















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2012年10月30日火曜日

エノケンの麻布

大正期の十番商店街
「十番わがふるさと」より
喜劇王と呼ばれたエノケンこと榎本健一は明治37年(1904年)青山に榎本平作の長男として生まれました。
父の平作は、青山南町で、 「入間屋」という鞄店を営んでおり、 その後笄町で新しくせんべい屋「武蔵野せんべい」を開業し、やがて麻布十番の雑色通り(現在の十番会館あたり)に移転しました。笄小学校の在校時から「20日ネズミ の健ちゃん」と言われ、すばしっこいガキ大将だったというエノケンも、店の移転と共に十番に住みましたが、南山、東町、埼玉県川越 の小学校、麻布尋常小学校と転々としたそうです。(一説によるとあまりの”腕白”だったので東町小学校を放校になったとも言われます。)
その腕白はエノケンが先妻の子で、後妻には6人の娘がいたため、寂しさを紛らわすためであったとも言われます。エノケンはこの 後妻にはなつかず、父親病気の時、後妻の作った焼き魚を美味しそうに食べているのを見て、自分はもっと父を喜ばせることが出来ると、 父が大切にしていた鑑賞魚のランチュウを焼き魚にして父に大目玉をくらったという逸話が残されています。そんなエノケンには父親も相当手を焼いたと見え、 死を目前にした父はエノケンを枕元に呼んで「おれの寿命を半分縮めたのは、お前のせいだ。」と言ったそうです。そして当のエノケンも、その時の仕返しと思ってか、死を目前にしたときに父の後妻の顔を見たとたんにむっくり起き上がって「このバカヤロ-!」と怒鳴ったそうです。

あの、「♪おれは村中で一番 モボだと言われた男♪という曲「洒落男」は、白金の叔母ところに手伝いに行った時、夜になると良く物干し台で練習 していたそうです。その時、時計の振り子でリズムをとっていたとわれています。また関東大震災の時は、避難してくる浅草芸人たちを十番で自ら炊き出しをして救援したといわれています。

その後、古川緑波・徳川夢声らと「笑いの王国」、そして「エノケン一座」を結成し喜劇界を席巻してゆくエノケンでしたが、 以外にも本人はこの「エノケン」と呼ばれるのを嫌がったといいます。客やファンがエノケンと呼んでも、何事も無ありませんでしたが、同業者や関係者からそう 呼ばれると返事をしなかったといいます。昭和35年に紫綬褒章を受章し、翌年天皇陛下から園遊会に招待されたエノケンも、昭和45年1月7日肝硬変 で帰らぬ人となりました。享年65歳。墓は榎本家の

長谷寺の榎本健一墓
菩提寺西麻布2丁目の長谷寺にあり戒名は「殿喜王如春大居士」そして、墓碑には 「従五位勲四等喜劇王エノケンここに眠る」と記されています。


<追記>

腕白から近隣小学校を転々としていたとされるエノケンですが、南山小学校第37期生・大正5(1916)年卒業者に榎本健一の名前が記されています。





十番稲荷神社にはエノケン(榎本健一)寄進の鳥居がありました。この鳥居は社の建て替えに伴い老朽化により失われてしまいましたが、現在の石華表(鳥居)左足裏面には寄進を記念した銅板が埋め込まれています。また右足裏面には同じく クラウンガスライター(市川産業株式会社)社長で麻布出身の市川要吉氏の銅板が埋め込まれています。そして社務所前にある狛犬下部には、寄進者で麻布十番育ちの大正・昭和期のアイドル歌手「音丸【おとまる】」さんの本名「永井満津子」が刻まれた銅板が埋め込まれています。エノケンと音丸は坂下町の住民でエノケンの実家は雑色通り(現在の十番会館付近)で「武蔵野せんべい」、音丸の実家は網代通り(現在の十番郵便局付近)で「下駄屋」を営んでいました。またこの下駄屋店前の通り(網代通り)が十番通りに突き当たる場所にはかつて十番通り下水に架けられた「網代橋」があり大正期の下水の暗渠化に伴い廃止されました。

この網代橋の欄干が十番稲荷かえる像正面に保存されています。ちなみにエノケン(榎本健一)は1970(昭和45)年1月永眠し麻布長谷寺で、音丸は1976(昭和51)年1月に永眠し、品川区 天妙国寺で眠っています。










エノケン・市川要吉が寄進した立て替え前の
十番稲荷神社石華表(鳥居)-十番未知案内サイト提供








十番稲荷神社
市川要吉銅板
十番稲荷神社
榎本健一銅板
























十番稲荷神社
音丸寄進狛犬
十番稲荷神社
音丸寄進狛犬





















十番稲荷神社音丸銅板






















品川区天妙国寺「音丸」こと永井海津子墓所














同墓所に設置された「船頭可愛や」歌碑















★関連項目

  ・十番稲荷神社

  ・音丸

  ・市川要吉











2012年10月29日月曜日

幻の山水舎ラムネ瓶

今年の夏頃に麻布山地下壕の取材で宮村町情報を探していたところ、
ネットで不思議なサイトにたどり着きました。

<戦前の山水舎ラムネ瓶>
画像提供:尚nao.氏
そのサイトにはラムネ瓶の画像が掲載されていたのですが、よく見ると「山水 子供飲料」と書かれており、裏には「登録 山水舎」とありました。しかし、それでも何で宮村町なんだ?っと考えているうちに、あれ、これってあの宮村町の山水舎さん?っと気がつきました。掲載月日が2008年4月4日。あれ?今年だ。そして記事を読むとなんと、現在は造られていない山水舎ラムネ瓶が発見されたいきさつが書かれていました。

記事によると、

         砂の中から壜底が顔を出していた。どうせ欠片だろうと思いながら蹴飛ばすと、ボロリと壜が
        姿を現した。~

とあり、神奈川県横須賀市のとある海岸を散策中に、偶然砂の中から顔を出していた物のようです。その後発見者の尚nao.氏は山水舎に連絡を取って取材し、瓶の詳細を山水舎社長のS氏から聞いた顛末が記されていました。 この記事を読んでさっそく当方のネタとして使用させて頂く許可を取ろうとブログ内を探したが、残念ながら尚nao.氏のメールアドレスは記されておらず、さらに調べるとGoogleのキャッシュにこのブログの元ページが入っており、そこには氏のメールアドレスが記されていました。そこで、早速連絡を取りましたが、残念ながら氏からのお返事は頂けませんでした。これはよくあることなのですが、特にキャッシュに入っているサイトなどは現在は更新されておらず、連絡先も現在は使われていないものがほとんどなので、「無理もない」っと、しばらくは忘れ去っていました。

夏が終わり9月半ばの麻布の秋祭りの頃、御輿の取材で麻布を訪れたおり、いっしょに巡回することにしていた同級生のK君が急に御輿を担ぐ事になりました。そこで地元宮村町の御輿にくっついて十番~六本木ヒルズ~宮村町内~麻布氷川神社~パティオと廻って町会のお神酒所に戻ると、ただくっついて廻っただけの私たちにも振舞い酒が供され、遠慮しつつも?ありがたく頂戴していました。するとそこに、宮村町会長でもある山水舎のS社長が見えたので、この際とばかりに「麻布山地下壕」の取材を御願いしたところ、快くお受け頂きました。

後日山水舎にお伺いし、地下壕の貴重な体験を伺ったあとに、サイトに記されていた瓶の話と画像をお見せしたところ「ああ、この方なら連絡があったよ」っと、覚えておられました。そのときに伺った山水舎社長S氏のお話しは、



<戦前の山水舎ラムネ瓶>
画像提供:尚nao.氏
氏の祖父が横浜のラムネ工場を見学し、帰宅後に自分も起業しようと当時湧き水が豊富であった当地に1901(明治34)年工場を設立され、映画館、軍などにも納品していた。そして関東大震災当時は麻布辺はあまり被害を受けなかったが、それでも半壊や損傷家屋などもあり、その罹災者に無料でラムネを配った。

その後、山水舎のラムネは大繁盛となり、近隣主婦のパートさんなどを雇用して夜を徹してのフル回転操業も行っていた。しかしやがて100社以上の類似商品が出回り、経営にはご苦労もされたようで、特に戦時中は砂糖の不足から開店休業状態となり昭和20年には罹災して工場内に大量にあったラムネ瓶も、高温で解けて塊になったとのこと。終戦後、その処理に困り土中に埋めたが、数年後、解けたガラスが売買できる事を知って、残念がった。とのこと。戦後も営業は継続されたが、1960年代新たに日本に進出してきたコカコーラ芝浦工場を見学し、その生産能力と冷蔵設備付きの販売機を見て太刀打ちできない事を悟ったという。山水舎もラムネ以外にオリジナルコーラなども販売したようだが、ついに廃業を決意された。ラムネの販売は昭和36年頃に打ち切った。ラムネ瓶は戦前しか生産されていない。そして戦後業者に引き取って貰ったので現在手元には1本も残されていない。また、この工場倉庫跡に1976(昭和51)年に寺山修司の天井桟敷館が渋谷から移転した。

などと伺いました。
これらをまとめて早速DEEP AZABUへの掲載をと思いましたが、やはり瓶の画像がないとリアリティがないと考え直し、ラムネ掲載を再び封印してしまいました。

そして昨日、ラムネ瓶が掲載されたブログを久しぶりに訪問し、画像を見ているうちにやはりどうしてもあの瓶を掲載したいの思いから、ブログに書き込んでみました。するとその日の中にブログ管理者で瓶拾得者の尚nao.氏から連絡があり、快く転載の御許可を頂くことができました。(最初からそうすれば良かった..(^^;)

瓶は昨年夏(2007年)氏がよく訪れる海岸で拾われたそうで、

昔捨てられた古い陶器やガラスの欠片が落ちているので、興味を持ってよく歩いているとのこと。発見した日は台風の影響の強い雨が降った後で海も荒れていたので、こういうときは、雨や波で海岸や海底から埋まっていたものが現れることが多い。とのこと。また、ラムネ壜など、昔のガラス壜で海岸に捨てられたものは、割れてしまっているのがほとんどで、まず完品であること自体が珍しいこと。しかも、あのように文字のエンボス(浮き彫り)があり、滑り止めと思われる細かい凸凹があるなど、手の込んだ作りをした壜はかなり古いものである可能性が高く、拾い上げたときにこれはすごいものだと直感した。


と、頂いたメールに記されてありました。ただ街を何気なく歩いている私などから見ると、砂の中からダイヤモンドを見つけるのと同じくらい至難の業にみえる瓶発見も、尚nao.氏の勘と経験に基づいた物であることが伺えます。  何はともあれ、瓶はすくなくても60年以上の歳月を経た物と推測され、発見された三浦半島西海岸まで辿り着いたいきさつを調べることは不可能であることがわかりました。

もし瓶が麻布から流失したと仮定すると、

宮村町→宮村細流→十番大暗渠→古川→東京湾→相模湾
<戦前の山水舎ラムネ瓶>
画像提供:尚nao.氏
となり、膨大な距離を旅したこととなります。しかし実際の可能性を考えると、海軍に納品された瓶が横須賀方面で使用され、相模湾まで流れた。とする方が現実性があると思われます。そして、その瓶が過ごした歳月を想像してみると、「瓶の存在自体が過去からのメッセージ」との思いから、なんともロマンチックな思いにかられるのは私だけではないと思います。


※この話には後日談があり、拾得者の尚nao.氏が最初にネットで山水舎の連絡先を確認したのは普段懇意にさせてもらっている「麻布十番未知案内」サイトだったこ事が分かり、な~んだ、知らなかったのは私だけか!とショボクレました(^^; 

最後になりましたが、文字通り砂の中から「麻布」を掘り起こし、画像と本文転載を快くお受け下さったhiroimonoブログ管理者の尚nao.氏の、この瓶を眺めながらニンマリなさっているお姿を想像しつつ、お礼申し上げます。ありがとうございました。

hiroimonoサイト「山水 子供飲料」はこちらからどうぞ。












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2012年10月28日日曜日

和朗フラット(スペイン村)

新一ノ橋から永坂を登り切り、飯倉片町交差点の少し手前、右手の路地を少し入ったところにレトロっぽい、しゃれた建物達があります。調べてみると「和朗フラット(スペイン村)」という名がありました。

昭和10年(1935年)ころ、アメリカ帰りの農学者上田文三郎が農業視察で息子の万茂とアメリカ西海岸のコロニアル・スタイルの建物に感銘をうけて、親子で設計しました。そして地元の大工と協力して建てたアパ-トは窓の形がすべて異なっていて、そのスタイルから「スペイン村」と呼ばれました。当時から銀座に勤めるホステス、芸能人などに人気がありましたが、現在もデザイナ-、コピ-ライタ-などに人気があるといいます
1936年(昭和11年)前後に、賃貸の集合住宅として、全五棟が建てられた洋風のモダンアパートで当時としては珍しい洋式トイレ、タイル張りの浴室などが完備されていました。同潤会アパートと並びモボ、モガのあこがれであったといわれており、スペイン村とも呼ばれています。
この建物は上田文三郎設計で賃貸住宅として全五棟が建てられましたが、一号館は戦災により焼失し現在は番号を繰り上げて1,2,4号館が現存します。




和朗(わろう)という名は、ここに住む人たちが、和(なご)やかに朗(ほが)らかに過ごせるように願ってつけられたとのことです。五棟の建築主も上田文三郎で、外観のモデルは、1920年代後半、アメリカ旅行で見た、西海岸の明るいコロニアル式住宅ではないかといわれている。設備面では、建築された当時から、都市ガスが浴室・台所・居室に配管され、別に、一号館と二号館では、各戸に、地下ボイラー室から蒸気を送る、いわゆる「スチーム暖房」が使われていました。

居室は全室家具つき。ベッド・テーブル・椅子2脚・電気スタンド・ガスストーブという備品名が、古い契約書に残っているといいます。現在1、2、4号館ともに所有者が別で、4号館は女性専用アパートとして貸し出されているとのことで、また4号館には不定期営業の店舗も唯一存在すします。

































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2012年10月27日土曜日

麻布で黄が知れぬ

江戸の頃、「お前、麻布で気(木)が知れぬ」という言いまわしがありました。
これは、麻布には木が多かったため深川あたりの 下町の「江戸っ子」にすれば、麻布はひどい田舎に思え江戸と呼ぶにはふさわしくない。と言うような意味から、酔狂な人に多少の軽蔑を込めた言葉として「気の知れぬ人」「訳のわからぬ人」「ポ-っとしている人」などに使われたものだと言われています。

しかし調べてみると語源は二世市川団十郎の句に

白菊か夜は麻布の黄が知れぬ

とあり、これは馬場文耕の「愚痴拾遣物語」で、

堺町の花屋、六兵衛と言う者が得意先から「黄菊」を仰せつかり、夜中に遠く麻布の菊畑まで行って菊を刈って帰り、翌朝見てみたら皆「白菊」だった。再び麻布に行く時間も無く、これでは得意先の注文に答えられないと途方に暮れ知り合いの市川団十郎に打ち明けると(当時堺町辺は、劇場街だった。)、団十郎は筆をとって紙に、

先師の句に、
真白に夜は黄菊の老いにけり
かくあれば、黄菊を白とも、白を黄菊ともまちがいたるは、
この人の罪にあらず。
白菊か夜は麻布の黄が知れぬ

としたためて、花屋に与えました。この句が吉原で流行り、やがて江戸中で言われるようになったといわれています。

また麻布村はかなり広大な地域にまたがっていたため、目(黒)、(白)金、(赤)坂、(青)山はあるが(黄)が無いので「黄が知れぬ」とも言われました。

これは、江戸の頃に五色不動参りが流行っていたころの話だといわれます。
またこの句の類似というかアレンジものとして、



一本は松だが6本きが知れず 
から木だか知れず麻布の六本木 
火事は麻布で木が知れぬ 
ねっから麻布で気が知れぬ 
火事は麻布で火が知れぬ


 なんてのもあります。
 







DEEP AZABU 麻布の俳句・川柳・狂歌


2012年10月26日金曜日

麻布映画劇場


麻布映画劇場と麻布中央劇場
山口瞳氏のご子息、山口正介氏の著書に「麻布新堀竹谷町」があります。
これは、昭和30年代の麻布を舞台に主人公、小学生の「周助」が 過ごした麻布界隈の様子が克明に描写されている小説です。
周助が正介氏である事は間違い無く、ほぼ私と同じ時代を麻布で過ごした事になります。そして その「麻布新堀竹谷町」のなかで麻布映画劇場という項があり、これは大黒坂の下(現ピ-コック麻布店)にあった映画館の名です。 ここには麻布映画劇場と麻布中央劇場の2館の映画館があり、麻布映画劇場は東映の封切館で一方の麻布中央劇場は洋画館でした。

 私はこの麻布映画劇場(当時はただ単に東映とい呼んでいた)に行ったのは近所の年が離れたおねえちゃんに連れて行ってもらった「わんわん忠臣蔵」(1963年作品) が最初であると 記憶しています。
調べてみるとこの映画は日本アニメ映画にとって画期的な作品であったといわれ、東映動画がディズニーを意識して企画・制作した娯楽作品であるそうです。原案・構成は手塚治虫。そして何とあの宮崎駿が同社に入社し、この映画の動画を初担当していました。

物語は、

「主人公ロックの母、メスイヌのシロがトラのキラーに殺された。  幼いロックはただ一匹で、キラーに立ち向かおうとするが、とても無理、危うく命を落とすところを、森の仲間たちに救われ、大人になるまで町で暮らすことになる。勇敢なロックは、じきに町の野良犬たちに一目置かれるようになった。恋人のカルー、それと力強い仲間を得たのだ。  これを知ったキラーの手下、キツネのアカミミは策略を使って、ロックを倉庫に閉じ込め、倉庫荒らしの犯人に仕立てた。倉庫番に捕まったロックは樽に入れられて海に投げ込まれてしまう。   その頃、森の動物たちは人間の山狩りにあって、みんな動物園に入れられてしまった。獲物のなくなったキラーはアカミミの勧めにしたがって自ら動物園に入った。そうすれば飢えないですむというわけだ。動物園のなかでも、動物たちはキラーとアカミミに苦しめられることになる。  一方、海になげ込まれたロックは幸い島の小さな女の子に救われ、養われていたが、、動物たちの運命をつばめから聞いて、いてもたってもいられなくなって島を抜け出した。  みんなとの再開を果たしたロックは、いよいよ母の仇のトラ退治に向かう。  キラーは配下の猛獣たちを動員して、雪の降りしきる動物園から遊園地を舞台に、激しい戦いが続く。  そしてついに、ロックたちに凱歌があがった。ロックとカルーを先頭に堂々と大通りを行進する野良犬たちが勇ましい。」
麻布日活館(末広座)
との事ですが ストーリーは 残念ながらほとんど記憶がありません。
また同時上映は「狼少年ケン」とのことでこちらを目当てに観に行ったことは間違いありませんが、これまた全く記憶に残っていません。

しかしわんわん忠臣蔵のテーマ・ソング「わんわんマーチ」の、

すすーめ、すすーめ、しっぽをあげて♪

というくだりは何故か いまだにはっきりと覚えています。

この他にも現セイフ-が麻布日活館(末広座)、現桂亭が麻布松竹でした。また、近隣には金杉橋に芝園館、魚籃坂の下にも2番館の京映があり。さらに以前には、一の橋に一の橋館、六本木に新興キネマ、広尾に広尾キネマ(銀映)、薬園坂の下に麻布松竹館などがあったといわれ、 まさに麻布近辺は、シネマパラダイスであったそうです。(なお魚籃の京映、広尾の銀映は故大桑氏の情報提供により館名を加筆させて頂いきました。)



冒頭にご紹介した麻布新堀竹谷町の著者山口正介氏の父であり、作家の山口瞳氏は実家が新堀町で工場を経営しており、麻布中学へは実家から通いました。
また、昭和24(1949)年5月28日、氏は鎌倉アカデミアで同級生だった古谷治子との結婚式を麻布氷川神社であげています。そして一時期サラリーマンになってからの氏はこの実家に住み、息子の正介氏は麻布で過ごすこととなりますが、済生会に入院していた瞳氏の父の逝去、そして都電通りの拡張工事、また正介氏の病状改善などのため郊外への転居をすることとなり、一家は麻布を離れます。



☆追記

この麻布映画劇場と麻布中央劇場のポスターを現在も多数保持していて、自費で「麻布十番を湧かせた映画たち」を出版なされた遠藤幸雄(麻布十番の理容エンドウ店主)氏は、昨年TV東京の人気番組「なんでも鑑定団」に当時のポスターを出品され、高額の鑑定結果を得て会場を沸かせていたのをご覧になられた方も多いと思います。





































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2012年10月25日木曜日

釜なし横丁


日東山曹渓寺
江戸の頃、麻布本村町の絶江坂付近に貧しい長屋がありました。その長屋は、 ごはんを炊く「釜」も長屋中で一つしかないほど貧しかったので「釜なし横丁」と呼ばれていました。
しかし、長屋の住人達はこの名を嫌がり、氷川神社の祭礼の時、無け無しの銭をはたいて張り子の大きな釜が乗った山車を作り、汚名を返上しようとしました。しかし、町内を巡行中に急に雨が降り出して山車が張り子であることがバレてしまい、よりいっそう貧乏が有名になってしまったといわれています。
この話を聞いた時落語かと思いましたが、そうではないようで麻布七不思議のひとつとして数えられることもあるようです。
 


○麻布区史
絶江紹堤墓
今日の市立光明小学校[本村町]の付近にあった。むかし貧民長屋が多く、毎朝一つの釜を共有したので、この呼称は始まったといわれる。もっとも長屋の人たちはこの呼称を残念に思って、ある年の氷川神社祭礼に、とぼしい財布から出しあって大釜の張子を作り、これを山車として町内を曳き廻した。これを見た他町の人々は大いに驚嘆したが、このことがあってからますます釜無し横町の名は高くなったという。
○落語「黄金餅」
五代目志ん生は 十八番 おはこ の落語「黄金餅」でハイライトである「道中付け」の最後に、
~大黒坂を上がって一本松から、麻布絶口釜無村の木蓮寺へ来たときにはずいぶんみんなくたびれた。...あたしもくたびれた。~  

と絶江と絶口と替えて釜無村を入れています。
寺坂吉右衛門碑


また、「絶江」の名が付いた坂「絶江坂」が曹渓寺の西側にあります。
その坂標には、

 ぜっこうさか

   承応2(1654)年坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転してきた。初代
   和尚絶江が名僧で付近の地名となり坂名に変わった。

とあり、また「絶江」について文政町方書上の本村町項では里俗の字として、

上ノ町・仲町(新町)・西ノ台(御殿新道)・川南町(新堀端)・大南町・仲南町などと並んで「絶江」を、

    絶江と申すは、同所曹渓寺と申す寺に名僧これあり、これにより里俗に絶江と申し伝え候


と記しており、曹渓寺については、(注)として、

港区南麻布二丁目九番二二号の地にある臨済宗妙心寺派の寺院。元和九(1623)年酒井
絶江坂
雅楽頭 忠興の内室が創基し、絶江を開山とした。承応二(1653)年
に現地に移転する。赤穂浪士の寺坂吉右衛門が晩年を過ごしている。
境内には南町奉行有馬則篤、儒者藤森天山、寺坂吉右衛門の墓が
ある。

としています。









(DEEP AZABU注:この寺は観光寺ではないため、檀家以外の参拝は認められていません。)









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2012年10月24日水曜日

旧東京天文台


狸穴にあるロシア大使館裏手には、大正時代まで東京天文台が設置されていました。 
旧東京天文台
1874(明治七)年に海軍水路寮がこの地に観象台を設置した後、1888(明治21)年6月1日、帝国大学の学生用観象台と海軍省観象台と内務省地理局が統合され、帝国大学付属「東京天文台」として東京麻布飯倉に設立されました。
その際海軍省が持っていた、日本最大の天文観測施設「観象台」も引き継がれ、「天文台」に改称されました。この時から、天体観測施設の名称として「天文台」が使われることになります。初代台長は東大星学科教授の寺尾寿。創立当時の職員は6名でした。

国策としての当時の職務は、恒星の測定、太陽・彗星の観測、暦の作成などとともに時刻を報せる「報時」があった。陸軍が正午を報せるために鳴らしていた大砲(この音から「ドン」と呼ばれ、”半ドン”の語源となりました。)の時刻合わせから、明治23年以降は有線による「報時」を行ったといわれています。

その後、1923(大正12)年の関東大震災で観測機器に大きな被害を受けた天文台は、周辺の都市化が進んで空が明るくなってきたこともあり、郊外の三鷹へと移転しました。

そして時は下り、1988(昭和63)年、東京天文台は水沢の緯度観測所などと統合され、国立天文台となります。さらに国立天文台は文部省、文部科学省の管轄を経て2004(平成16)年4月1日より法人化し、大学共同利用機関法人「自然科学研究機構国立天文台」となり現在に続きます。
 

    ※ この東京天文台が麻布に設置されていたことを記念して小惑星に「Azabu」という名前が
       付けられました。詳細は「小惑星AZABU(3290) 」をご覧下さい。








ゴーチェ子午環
★ゴーチェ子午環



    関東大震災で受けた観測機器の被害は「子午環」と呼ばれる機
    機にも及びました。
    これは、メルツ・レプソルド子午環と呼ばれた機機で、天体の位
    置を精密に観測できるよう工夫された望遠鏡でした。震災時に
    このメルツ・レプソルド子午環は落下により修復不能の大破を
    してしまいます。
    しかし、当時の東京天文台はこのメルツ・レプソルド子午環の
    ほかにゴーチェ子午環という機機も所持していました。この
    ゴーチェ子午環は飯倉の敷地が狭かったため、1904(明治37)年
          に購入されてから梱包されたまま敷地内に保管されていました。

    飯倉にあった頃の東京天文台は2,500坪ほどの敷地を持っていましたが、これは斜面を
    含んだものでした。そして、新しく購入されたゴーチェ子午環の使用には南北100mのところ
    に子午線標が必要でしたが、飯倉の敷地ではその設置は不可能でした。これにより購入後
    もずっと梱包されたまま保管されていた事により震災の被害を免れたゴーチェ子午環はつい
    近まで使用され現在も三鷹の地に展示保管されています。



        














日本経緯度原点碑(旧)
★ 日本経緯度原点碑(旧)


これまで使われてきた経緯度原点の数値は1918年に告示された「日本測地系」によるものであった。しかし、2002年4月1日に施行された現行の測量法では「地理学的経緯度は、世界測地系に従つて測定しなければならない」と定めているので、原点の位置もこれに基づいて再設定されました。
●経緯度原点(日本測地系基準)
 東経139度44分40秒5020、北緯35度39分17秒5148
●新しい経緯度(世界測地系基準)
 東経139度44分28秒8759、北緯35度39分29秒1572



測量法施行令(昭和二十四年政令第三百二十二号)(抄)

(日本経緯度原点及び日本水準原点)

日本経緯度原点解説板
第二条 法第十一条第一項第四号に規定する日本経緯度原点の地点及び原点数値は、次のとおりとする。

  • 一 地点 東京都港区麻布台二丁目十八番一地内日本経緯度原点金属標の十字の交点
  • 二 原点数値 次に掲げる値
  • イ 経度 東経百三十九度四十四分二十八秒八七五九
  • ロ 緯度 北緯三十五度三十九分二十九秒一五七二
  • ハ 原点方位角 三十二度二十分四十四秒七五六(前号の地点において真北を基準として右回りに測定した  茨城県つくば市北郷一番地内つくば超長基線電波干渉計観測点金属標の十字の交点の方位角)  (平成13年12月28日公布・平成14年4月1日施行)









毎年11月24日は「東京天文台設置記念日」とされました。さらに1996(平成8)年10月22日には、天文台元地で「日本経緯度原点」のある麻布台の地が港区指定文化財(史跡)に指定されます。


日本経緯度原点
























日本経緯度原点碑(新)
★東日本大震災による経緯度原点の移動
2011年3月の東日本大震災地殻変動により経緯度原点が27cm東へ移動したため、2011(平成23)年10月国土地理院により日本経緯度原点碑が再設置されました。











東日本大震災による経緯度原点の変化
項 目 経 度 (東経) 緯 度 (北緯) 方 位 角
震 災 前 139°44′28.8579 35°39′29.1572 32°20′44.756
震 災 後 139°44′28.8869 35°39′29.1572 32°20′46.209























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2012年10月23日火曜日

小惑星AZABU(3290)

このタイトルを見て何の事かわかった方は相当な天文ファンと言うことなのでしょうが、
なんと、「麻布」の名前が太陽系の小惑星に付いていました。

小惑星AZABUは太陽から3.97天文単位(1天文単位=太陽⇔地球間の平均距離=約 1億4960万km)の場所を7.9年の周期で回っていて、その大きさは約28kmとの事です。

AZABUの発見は1973年 9月19日 で、発見者はVan Houtenn氏・場所はPalomer天文台でした。 そしてその小惑星の命名者は元国立天文台助教授で現在は鳥取県八頭郡佐治村にある佐治天文台長の香西洋樹氏。しかし天文素人の私には、「発見者」と「命名者」の違いなどわからない事だらけであったので、早速香西先生に問い合わせたところ、非常に親切なお返事を頂戴しました。

「発見者」と「命名者」の違いは、Van Houtenn氏からの申し出で、香西先生の発見した小惑星3291番とVan Houtenn氏の発見した小惑星3290番の命名権を交換した。これはVan Houtenn氏がその後に続く(3292)などと連続して命名したいとの思いがあったためとの事です。そして3290番を「麻布」と命名した由来は東京天文台発祥の地(正確には、本郷との事)で、さらに日本測地原点がある場所を記念し、後世に残したいと思ったからとの事であったそうです。また、この小惑星麻布は、2001年4月上旬から7月中旬までの間太陽から3.5天文単位、地球から2.6~3.8天文単位の位置にあり、明るさは17.3等~18.2等なので、とても肉眼では見ることはできないとの事です。
ちなみに、香西先生は現在までに79個もの小惑星を発見されています。(2001年現在)


小惑星....
 
おもに火星と木星との間に軌道を持つ小さな天体で、軌道の判明している小惑星は7000個以上もありますが、そのほとんどは直径数kmから数十km程度で、直径250kmを超えるものは十数個ほどであるそうです。
 
小惑星にはまず、発見された年と月を示す仮符号が与えられます。仮符号は年と、それに続く発見された半月ごとの期間を示す英字、さらにそれに続くその半月内での発見順序を示す英字からできています。そして、それら仮符号の与えられた天体の軌道が未来の位置を予測できるほどよくわかってから、確定した番号と名前が与えられるそうです。しかし、衛星に比べるとかなり自由に名前がつけられるとの事です。

2012年10月22日月曜日

麻布原の首塚

慶長5年(1600年)関ケ原の戦いで討ち取られた首は、江戸の家康のもとに送られ首実検の後、浅布(麻布)原に首塚を築き、増上寺の源誉上人・玉蔵院忠義法師により供養されたといわれています。しかし、塚自体が現存せず「麻布原」を港区以外とする説もあり正確な場所は分かりませんが、増上寺隠居所(暗闇坂上)あたりと言う説と、西町近辺という説があるようです。また一本松を首塚とする説もあるようです。

一本松坂上の旧西町付近
武徳安民記には、

  「慶長五年八月二十八日岐阜より使節参着して、再び尺素を献じ、首級をささぐ。其の員数
福島左衛門大夫四百三十、池田三右衛門四百九十、淺野左京大夫三百八--中略--を
大桶に入れて到着す。家康即ち実験し浅布の原に首塚を築き之を埋め、増上寺源誉玉藏院
忠義に命じ供養せしむ」

とあります。


しかし、関ケ原の戦いは慶長5年(1600年)9月15日に行われた大会戦であり8月28日に首があるはずがありません。そして9月15日には家康は関ケ原に布陣していたので、江戸で法要を営む事など出来る筈も無く疑問が生じたので、この期間の家康の所在を調べてみました。
(青字は家康江戸在府)



慶長5年(1600年)7月21日
家康会津征伐のため江戸を立つ。




一本松付近
7月24日
家康小山着陣。翌日、諸将を集めて上方の異変を告げ、軍議する。




7月28日
諸将小山を陣払いし、西征の途につく。




7月29日
石田三成、近江佐和山より伏見に到着。





8月1日
西軍伏見城を陥落。城将鳥居元忠、松平家忠ら戦死。





8月4日
家康小山より江戸に戻る。





8月10日
石田三成、美濃大垣城に入る。





8月20日
石田三成、島津惟新の兵をして美濃墨股城を守らせる。





8月22日
福島正則、池田輝政ら木曽川を渡り竹ヶ鼻城を落とし、岐阜城に向う。





8月23日
福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長、
一柳直盛、井伊直政、本多忠勝ら東軍諸将、織田秀信の岐阜城を陥落。





8月24日
徳川秀忠の中仙道軍宇都宮を発し信濃に向う。




東軍東海道先発隊、赤坂の高台を占領。大垣城に対峙する。





8月25日
西軍毛利秀元、伊勢安濃津城を攻落する。





8月26日
石田三成美濃大垣より近江佐和山に帰る。





9月1日
家康兵3万を率いて江戸を進発。





9月2日
西軍大谷吉継、越前より美濃に入る。





9月3日
家康、小田原着。秀忠、小諸到着。





9月4日
家康、三島着。





9月5日
家康、駿河清見関着。




9月6日
家康、駿河島田着。





9月7日
家康、遠江中泉着。




西軍毛利秀元、吉川広家美濃入り。




9月8日
家康、遠江白須賀着。小早川秀秋の使者が家康の宿陣を訪問。





9月9日
家康、三河岡崎着。





9月10日
家康、尾張熱田に着。秀忠、上田城攻めを中止する。





9月11日
家康清洲城着。秀忠美濃に向う。





9月13日
家康、岐阜着。先鋒の諸将、来謁する。





9月14日
家康、岐阜を発し正午ころ赤坂に到着。





9月15日
美濃関ケ原において大会戦、東軍が勝利をおさめる。

 
このように家康が江戸に居たのは8月4日~9月1日までであり、9月15日以降家康は大阪に向い江戸に帰ったのは翌年の11月であるようです。関ケ原の首実験は確かに行われていましたが、その場所は当の関ケ原で、麻布ではないようです。それでは、麻布の首塚とは?

再読すると「八月二十八日岐阜より使節参着して.....」の部分を見落としていました。このあたりで1,000以上の首か落ちるような戦いは、一つしかありません。それは、8月23日に行われた岐阜城攻めです。

この戦いは関ケ原大会戦の前哨戦とも言えるもので、西軍に属する織田信長の嫡男秀信の守る岐阜城を福島正則、池田輝政、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長、一柳直盛、井伊直政、本多忠勝ら東軍諸将が攻撃し陥落させた戦いでした。
暗闇坂上
8月23日正面の追手口を福島正則が、搦め手から池田輝政が攻撃を開始し本丸めざしました。しかし先鋒の福島隊は七曲口の激戦で進撃を阻まれ、その間に搦め手の池田隊が本丸に突入して城は陥落し、城主織田秀信は剃髪して高野山に向いました。この時、織田側で最後まで生き残ったのは、側近の者数十名を数えるのみであったといわれています。

これはあまたある中世合戦の中でも異例で、四方を包囲してしまうと死にものぐるいで自暴自棄の
戦いを仕掛けられるので、一方向以上を女子供や逃走者のためにあらかじめ開けておき、そこから離脱させたそうです。しかし、今回の岐阜城責めでは、豊富恩顧の東軍方大名の動静を家康は信じていないので、むりやりその信を得ようと東軍諸将は殺戮の限りを尽くしたようです。

前日から先陣争いで仲たがいしていた福島正則、池田輝政であったが事を憂慮した軍監の井伊、本多によって岐阜城攻めの先陣は両将同時入城という判定を下し、事無きを得ました。
そしてこの戦いは、小山から江戸に戻った家康が東軍の秀吉子飼の諸将への「踏み絵」的な要素も持っていたようです。家康は、この戦いで先を争って手柄をたて、首をわざわざ江戸まで送って来た秀吉子飼の東軍諸将にやっと安心して9月1日に江戸を発することが出来ました。(家康は西軍諸将に裏切りの催促の手紙をこの時期乱発していましたが、自らも東軍の裏切りを最も恐れていました。)

切り取られた首級は続々と東海道を登り、江戸の家康へと送られました。そして、その後も首は続々と送られてきた様で、家康が合戦に参加する決意を固め、9月1日江戸城を発しようと桜田門まで来ると、美濃の軍監からの使者に行き会い首を見参にいれたいとの事で、芝増上寺門前に首桶のまま並べて行軍を休止して実験したといいます。

武徳安民記に記載された、

福島左衛門大夫四百三十、池田三右衛門四百九十、淺野左京大夫三百八

を合わせると、430+490+308=1,228


これらから、麻布原の首塚はそのほとんどが織田秀信家臣のものであると思われ、またこの戦いは前記のように関ケ原の戦いの前哨戦の意味も持ちますが やはり、9月15日の大会戦とは、はっきりと区別して「岐阜城攻め」としたほうが良いと思われます。そして、合戦から399年を経た現在も、麻布原の首塚は発見されておらず、元の麻布氷川神社近辺とも、西町近辺とも言われる塚の所在の謎はつきませんが 郷土資料などによると、

この首塚の場所を、
麻布西町6番地辺
と麻布区史(986ペ-ジ)は明記しています。

そして港区史(上)216ペ-ジにも、
元スエ-デン大使館東前あたりに慶長五年首を埋めたという首塚があり、戦前まで家が建たなかった。

また、218ぺ-ジには、
このあたりに慶長五年首を埋めた首塚があるともいうが麻布西町らしい。

とあります。

またこの塚を供養した「源誉」とは家康が江戸入府する際に知遇を経て、増上寺が将軍家菩提寺となる基礎を築いた増上寺第12世で、後に普光観智国師の号を贈られた高僧です。

麻布西町6番地辺とは現在の元麻布1丁目3番地あたりで、現在高層マンション工事中の場所となります(この文章は1999年頃書きました)。私の子供の頃、このあたりは小さな建売住宅が並んでいましたが、首塚の話を聞いた事はありませんでした。また現在まで遺骨が出土したという話もありませんので、事実はわかりません。また、この話を調べるうちに江戸宝暦年間の「怪談老の杖」に暗闇坂付近の話として、

くらやみ坂の上にある武家屋敷にて、あるとき、屋敷の内の土二三間が間くづれて、下のがけへ落ちたり。そのあとより、石の唐櫃出たり。人を葬りし石槨なるべし、中に矢の根のくさりつきたるもの、されたる骨などありしを、また脇へうずめける。そののち、その傍に井戸のありしけるそばにて、下女二人行水をしたりしに、何の事もなく、二人とも気を失ひ倒れ居たるを、皆々参りて介抱して、心つきたり。両人ながら気を失いしは、いかなる事ぞといひければ、私ども両人にて、湯をあみをり候へば、柳の木の陰より、色白くきれいなる男、装束してあゆみ来たり候ふ。恐ろしく存じ候ひて、人を呼び申さんと存じ候ふばかりにて、後は覚え候はず、と、口をそろへて言ひけり。その後、主人の祖母七十有余の老女ありけるが、屋敷の隅にて草を摘まんとて出で行きて見えず。御ばば様の見え候はぬ、と騒ぎて尋ねければ、蔵の後ろに倒れて死し居りける。そのほか怪しき事ありしかば、祈祷などいろいろして、近頃はさる事も無きやらん、沙汰なし。確かなる物語なり。
とあり古来よりこの付近では怪奇現象がおきていたと思われますが、首塚との関連は記されていません。












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2012年10月21日日曜日

明治の麻布水道

あまり知られていませんが、麻布区は明治初期、他に類を見ない「区営上水道」を造りました。

1879(明治12)年9月、明治天皇は市民の衛生施設の改良・発達を望まれ、その資金として市民に七万円の下賜があり15区に分配されました。 これによって麻布区にも2,000円あまりが下賜されました。この時、麻布区では初代区長の前田利充をはじめ、多羅尾慶、竹中萬寿藏、笠井庄兵衛、平原嘉兵衛らの提案により、区議の決議を経て、この下賜金を主にして水道を開設することを企画し、華族10名の願書を添えて、府知事の許可を請願しました。

この計画は麻布、赤坂、芝の3区に給水するものでしたが、発案した麻布区が工事を施行し2万円の予算で、内訳は1500円の下賜金と区内有志よりの寄付金が16700円、不足分は区の共有金から支出するというものであったそうです。またこの水道の使用料は井戸一つが年税4円とし、寄付をした有志については500円につき井戸一つを免税とし、それ以上は500円毎に1井戸ずつ免税されることに決まりました。

1880(明治13)年に4月府知事の許可を得た麻布水道は、工事を府に委託し再三の折衝を繰り返して明治14年11月に着工し、翌15年に完成しました。水道は玉川上水を四谷大木戸で分水し、ほぼ旧青山上水の道筋を引用した形で、裏大番町、表大番町を経て麻布区に入り、5線に分れた。1つは三河台町、市兵衛町から赤坂霊南坂に至り、1つは仲町、飯倉6丁目、榎坂から芝区栄町に至りました。そして、この2線は江戸六上水のひとつ旧青山上水と同じ経路でした。
 というより青山上水の木管を再利用して通水しました。ちなみに青山浄水の開通は万治三(1660)年で廃止された享保七(1722)年ですので200年近く前の木管を再利用して通水を計画したことになります。

三田用水と分水

また1つは龍土町、材木町、桜田町、三軒家町、本村町を経て仙台坂に至りました。その他1つは、ソビエト大使館から東京天文台に至り、最後の1つは榎坂下、飯倉3・4丁目から赤羽橋に至りました。そしてその麻布水道も明治17年には井戸数189、使用者は920戸を数えたといわれています。

しかし、明治16年夏頃から水量が減るようになり市兵衛町線と飯倉町線を隔日の配水とし、漏水個所を修理したが水量は復活しなかったそうです。この水量減少は200年も前の木管を流用していたことからの漏水に他なりません。

このため麻布水道は維持困難に陥ってしまい、17年12月に工費未納金の免除、その他の経費の返還を条件に、麻布水道を府下の一般水道に編入するための請願をしました。これにより翌18年1月に麻布水道は東京府の玉川上水線に編入され府の管轄となりました。このように短命に終わった麻布水道でしたが、明治の初期に区民の自主的な努力によって建設されたもので、水道史上に誇るべき事柄であると「港区史」は力説しています。
そして麻布水道が区の管轄を離れる際に、麻布区会議場敷地内に碑を建設しその功績を称えたといわれています。

その他、明治の水道で麻布近辺に関連した当時の新聞記事を以下に。

○麻布水道(明治13年9月11日、東京日日新聞)






麻布区の水道は本月中より着手するよし、先づ最初は四ッ谷大木戸より大番町まで引き、跡は来春を待て布設すると云う。此の工事はすべて土木用達会社にて受負ふよし。







○東京水道(明治23年8月8日、東京日日新聞)






水道設計は先頃、告示ありし如く南豊島郡千駄ケ谷村旧戸田邸に沈澄池及び濾水池を設け蒸気喞筒にて十八尺の高地給水管(口径36吋)のものへ注入して四谷、麹町、神田、小石川、本郷の各区へ送水し、其吐水口は神田三崎町、常盤橋、雉子橋の各地へ設け、他の一は四谷伝馬町辺より赤坂、麻布、白金台に至りて高輪より品海へ疏通し、低地給水管も同沈澄池より口径42吋の水管を通じて麻布宮村町の浄水貯池へ送水し、同所より芝、日本橋、下谷、浅草、本所、深川に至り洲崎遊郭を経て海に入り、他の一は沈澄池より小石川伝通院下の貯池へ送水し、同所より牛込、小石川、本郷、神田等の各地へ送水する筈なれば市街道路には地中に水管のあらざる所なし、恰も人体に脉路の通ずる如くならんと云ふ。








○井戸端の水喧嘩(明治26年8月15日、時事)






東京下町通りの掘井は最合に使用する水量の涸れて人民の迷惑を感ずる事は、毎度、紙上に記載せしが、其後も、日々、照り続き、稀に昨日の如き驟雨あるも、是は東京の一部に止まり、小石川の雨はにて日脚を望み、深川の潤ひは四谷にて水を撒く位なれば、中々、井水に影響を及ぼす程の喜びにあらず、芝三田四国町の如きは豆腐店の傍に最合井戸ありて水の出方多きも汲みの劇しき為め、日中は全く淤泥と為り、未明に群集して汲取り居りしが、これすら後れては選択もの々用に立ち難く、最早、十日前より午前2時に起きて汲み取る騒ぎに、毎度、紛争絶へず、果ては先を争ふて夜間、安眠すること出来ざる程なりと。
なを、この項を書いた当時の1999年2月8日付けの読売新聞朝刊(首都圏版)都民版の東京伝説に、近代水道誕生の記念碑として淀橋浄水場の記事が掲載されていて、明治期の水道の様子が詳細に語られています。






麻布水道流路図
(港区史より引用)



























麻布水道流路図2
(港区史より引用)







※追記

現在六本木ヒルズ住宅棟となっているあたりに六六再開発まで営業していた「原金魚商店」は釣り堀と金魚養殖をしていましたが、明治期の地図を見ると、
四角い人工的な池が並んでいます。
全くの私見ですが、この四角い池群はもしかしたら、麻布水道の「宮村貯水池」ではないかと思っています。
ちなみに「曹洞宗大学林」と書かれた赤い建物は現在のテレビ朝日社屋にあったも後に駒沢に移転して駒沢大学となります。そしてその北西には現在の「毛利池(昭和期にはニッカ池)」が描かれています。





「参謀本部陸軍部測量局 五千分一東京図測量原図」から、
「東京府武蔵国麻布区永坂町及坂下町近傍」図(明治16年10月)

































2012年10月20日土曜日

五嶋家門前の要石

現在の麻布総合支所辺の路上に明治初期まで大きな石がありました。麻布七不思議のひとつに数えられることもある「要(かなめ)石」で、別名「永坂の脚気石」ともいわれました。

江戸の頃、五嶋家門前にあった要石は塩を供えて願いをすると、足の病に効能があり永坂の脚気石」とも呼ばれ評判を取ったそうです。道の真ん中にあり、通行の邪魔だと取り除こうとしましたが、氷山の一角ではないが根が深く、びくともしなかったそうです。明治になり、露出した上部は取り除かれたましたが、果てしなく大きな根はいまだに土中にあるといわれています。

ご存じの方も多いと思いますが、江戸期の地図は屋敷主の氏名が書かれた上方に正門があるという決まりがあり、後藤家の場合は鳥居坂からロアビルまでの通り沿いにあったことがわかります。

この麻布の要石のほかにも、鹿島神宮・香取神宮の要石が有名です。


その他にも滝沢馬琴「兎園小説」の中で、城南読書楼教授であり、林一門の五蔵の一人の大郷信斎は「麻布学究」という名で麻布の異石を述べています。






○秋月家の庭にあった三尺ほどの寒山拾得の石像
前記事参照
○長谷寺にある五~六尺の夜叉神像
こちらも以前は秋月家にあったが長谷寺住職が霊夢により寺に移したと言われる。岡本綺堂が半七捕物帖で夜叉神堂として取り上げている。昭和20年空襲により消失。現在は復元された夜叉神像が安置されている。
○山崎家の陰陽石
がま池のほとりにあり「結びの神」といわれました。

○日月(じつげつ)の石
森川家別邸(広尾橋辺)にあった烏帽子形の石で二尺ほどで日月の像が出ていた。園丁茂左衛門というものが霊夢により郷里、越後の畑中より掘り出した。道聴塗説十編には、
祥雲寺前の橋爪に森川家の別荘あり。ここに住める下部茂左衛門といふ者、今年正月霊夢により、其の郷里越後国頸城郡荒井東吉城村にて、三月二日長さ二尺余、広さ一尺計り、その形少しく烏帽子の如く、左右に日月のかたち突起せるを堀出し、これを負うて江戸に来り、件の別荘に安置しければ、近隣聞き伝えてあつまり観る者多し。目出度き石と申すべきか。
とあります。
 そして上記5つの異石とは別に、
予が家の傍に、字を鷹石といふ町あり。昔鷹形ある石を堀出して霊異あり。今はなし。
 
と、鷹石についての記述がありますが、兎園小説が書かれた江戸末期の文政年間(1800年代初頭)にはすでに元地の東町には鷹石が存在しなかった事がわかります。




兎園小説とは文政8(1825)年から文政12(1829)年まで滝沢馬琴の呼びかけで当時の文人が毎月一回集って、見聞きした珍談・奇談を披露し合った会「兎園会」におけるオカルト・ホラーや都市伝説、奇人変人から忠義、孝行話などまとめた書です。


2012年10月19日金曜日

寒山拾得の石像

高鍋藩上屋敷
曲亭 馬琴の「兎園小説」中で、麻布の異石其の一として真っ先に取り上げているのが、寒山拾得の石像です。

現在麻布高校となっている地は、江戸時代に上杉鷹山の生家でもある高鍋藩秋月氏の上屋敷があり、敷地はがま池に隣接していました。この藩邸内がま池のほとりに寒山拾得の石像があったといわれています。

この石像は天文18(1549)年、富春山永徳寺(宮崎県串間市)に一蘭和尚により安置されたものを江戸時代に秋月氏が麻布の藩邸に移設し安置しました。
そして、この石について秋月家には不思議な言い伝えが残されています。

ある夜藩邸で時ならぬ時刻に「鰯売り、鰯売り」という声が聞こえたので宿直の武士は怪しんで刀で斬りつけた。するとその宿直の武士は急に高熱を発して苦しんだ。翌朝、寒山拾得の石像の石像を見ると頭から背にかけて刀疵が出来ていた。それ以来、秋月家に異変が起こるとこの傷跡が夜泣きして知らせたという。

  このように不思議な伝説を持つ石像も前述したように江戸期には滝沢馬琴の兎園小説で取り上げられ、さらに昭和初期の「麻布区史」では麻布七不思議の一つとして取り上げられている事からも、当時多くの崇敬・畏怖を集めた異石であったことが伺えます。
像は正確に言うと「寒山」と「拾得」という二人の人物の石像で、画像の右の筆と巻紙を持っているのが「寒山(かんざん)」、左側のホウキを手にしているのが「拾得(じゅっとく)」です。この二人はワンペアで画題や名などとしてよく描かれますが、中国・唐時代の伝説的な僧です。寒山は巌窟に住んで詩を書き、拾得は寺の掃除や賄をしたといわれ、拾得は寒山の分身とも言われ、二人は奇行が多いが、奔放で無垢な童心を失わず俗世を厭い天台山国清寺に住んだ自由人といわれています。また、日本では、寒山は文殊菩薩の、拾得は普賢菩薩の化身とされています。
宮崎県高鍋城址(舞鶴公園)


江戸期をがま池のほとりで過ごした石像も明治になると、藩主別荘のあった神奈川県藤沢市片瀬に移設され、さらに大正期には旧領知の宮崎県高鍋に移設されました。

最後の当主秋月種英の婦人須磨子はことのほかこの石像を大切にしており、東京に転居する際には高鍋の地元住民に「くれぐれも石像を大切にするように」との言葉を残しています。そして現在も高鍋城址(舞鶴公園)に安置されている石像は、地元で「かんかんさん」と呼ばれて親しまれ、毎年5月10日にお祭りが催されているそうです。



・材質:砂岩
・石像背面の碑文
天文十八年巳酉孟夏下□日
富□山人一□老袖□安置

大工文甫
 
寒山拾得の石像





















高鍋藩秋月氏上屋敷今昔






















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2012年10月18日木曜日

東町の鷹石

近代沿革図集に”鷹石(たかいし)”という項目があります。
その石は鷹の姿が浮き出た自然石で、近代沿革図集の文中には、

「江戸の頃善福寺門前東町西北角に植木屋の四郎左衛門と言う物が居り伊豆から取り寄せた石面が鷹の形に見える石を店先に置いた所、松下君岳という者がきて石を所望し、元文六(1741)年二月に鈴ヶ森八幡へ奉納した。君岳は烏石山人と称した書家で、この石に銘を彫った。石が鷹の形をしていたのでこのあたりを里俗に鷹石という。(文政町方書上)」

磐井神社

とありました。早速調べてみると、鈴ヶ森八幡という神社はなく大田区の磐井神社であることがわかりました。この神社は貞観元年(859年)創建で江戸期には将軍も参詣し、鷹石が寄進された事により江戸の文人、墨人たちにもてはやされた。この神社には他に鈴ヶ森の由来になる鈴石(鈴ヶ森地名の由来)、狸筆塚などもあり、境内には万葉集にもよまれた笠島弁天もあります。

また文政町方書上には、
元文(1736~1740年)の頃東町の植木屋四郎左衛門は、伊豆より取寄せたる庭石の中に鷹の形が現はれた石があったので店先に据えて自慢したが、いつしか町の噂となって處の名さへ鷹石と呼はるるに至った。然るに一日松下君岳といふ者がやつて来て、是非にと此の石を所望したので、之を譲った處が、彼は此の石に烏石山人銘を加えて元文六酉(1741)年二月之を東海道の往来繁き鈴ヶ森八幡宮に奉納した。
と石の移転を記しており、。江戸名所図会には移転先の鈴ヶ森八幡の項には、この石を「烏石(うせき・からすいし)として」、
烏石 社地の左方に在る。四五尺ばかりの石にして、面に黒漆を以て書くが如く、天然に烏の形を顕せり。石の左の肩に南廓先生の銘あり、烏石葛辰是を鐫すと記せり。葛辰自ら烏石と号するも此石を愛せしより発するといふ。江戸砂子い云、此石舊麻布の古川町より三田の方へ行所の三辻にありしを、後此地へ遷するなり云々。
鷹石(烏石)
としています。

その他、松下君岳は麻布山善福柳の井戸横の碑文、麻布氷川神社の「麻布総鎮守」と書かれた額を揮毫しています。  江戸期の書籍「兎園小説」の中で「麻布学究」こと大郷信斎は麻布の不思議な石を「麻布の異石」として取り上げていますが、その中で番外としてこの鷹石を紹介しています。そしてそれらの異石のなかで現存が確認されているのは、宮崎県に移設された「寒山拾得の石像」と大田区・磐井神社で現存する、この鷹石だけであるようです。


鷹石を烏石と名を変えて鈴ヶ森八幡へ奉納した松下君岳(1699-1779)とは、書家で本名は葛山辰・曇一、号を烏石といいました。家は下級の幕臣でしたが、君岳はその次男で幼い頃より手跡に精進して、儒学を服部南郭に,書を佐々木文山,細井広沢に師事し唐様書家として名を上げたといわれます。君岳は麻布古川町に住んでいたため、以前からこの地で有名だった「鷹石」を整えて「烏石」と変名し、自らの号としたそうです。そして君岳は赤羽橋に転居のさい、「烏石」も移動し、さらに鈴森八幡に奉納したようです。

第26代江戸南町奉行であった根岸鎮衛が表した「耳袋」巻の三には、「鈴森八幡烏石の事」と題して「鷹石」を紹介していますが文中では、


烏石碑
「~烏石生まれ得て事を好むの人なりしが、鷹石として麻布古川町に久しくありし石をととのえて、己が名を弘めん尊くせん為、鈴ヶ森へ、同志の、事を好む人と示し合わせて立碑なしけるなり。からす石という事を知りて鷹石の事を知らず。右鷹石は山崎与次といえる町人の数奇屋庭にありし石のよしなり~」
と、「烏石」と変名させた松下君岳についてはその売名行為を痛烈に批評しています。これは警察官僚・民生官である根岸鎮衛が、書家としては一流とみなされていたが、放蕩無頼な山師、犯罪者という一面をも持つ松下君岳を知っていたためで、根岸鎮衛が表した著書「耳嚢」によると、その根拠となる事件は、宝暦11年(1761)親鸞の五百回忌が京都の西本願寺でとりおこなわれた際におこったそうです。

京都に居を移し、どうした手づるからか西本願寺門跡の師匠格なっていた松下君岳は、西本願寺関係者が五百回忌を期に親鸞に大師号が授かるように朝廷に働きかけていますが、朝廷、幕府双方から拒絶されて頓挫しているのを知り、不良公家衆とはかって金を出せば事が円滑に運ぶと檀家、関係者を説いて回り、その金を着服したそうです。ことはすぐに発覚して同罪の不良公家衆は蟄居させられました。しかし君岳の罪について記された物が見つからないところを見ると、どうにかして言い遁れたのかも知れません。再び江戸に戻った君岳について、根岸鎮衛はもう一つの逸話として「町屋の者その利を求むる工夫の事」を残しています。江戸に戻った君岳は日本橋二丁目にある本屋「須原屋」に100両を借り受けたようです。しかし君岳には返済の当てなど無い事を見抜いていた須原屋が、君岳の住まいをたづねて書を没収し、100両以上の利益を得たという話で、いかに君岳が信用されていなかったかが、うかがえる逸話が残されています。
解説板
「耳袋」とは、江戸中期に御家人から勘定方となりさらに、勘定組頭、安永5(1776)年には勘定吟味役を経て佐渡奉行、勘定奉行、南町奉行などの奉行職を歴任した根岸鎮衛(ねぎしやすもり)が同僚や古老の話を書き留めた全10巻からなる随筆集で、猫が人に化けた話、安倍川餅の由来、塩漬にされた河童の事、墓から死人が生返った話等々、天明から文化年間までの30年にわたって書き続けた珍談・奇談を満載した世間話の集大成です。

この根岸鎮衛はまた、第26代南町奉行就任中に芝神明の境内で起きた「め組の喧嘩」を取り扱いその際に、庶民からは、御家人という低い身分のから町奉行にまで出世し、下情に通じた好人物とみなされて、大いにもてはやされた。この為に真偽はともかく、いつしか体に入墨をいれたお奉行という奇妙な伝承も生まれたと言い、桜吹雪の遠山の金さんのモデルともなったそうです。その後の寛政12年(1815年)7月、鎮衛は 79歳で500石を加増され家禄1000石となり、


御加増をうんといただく500石 八十翁の力見給へ
の句を残し得意の頂点となる。その句が世間に知れ渡ると、


500石いただく力なんのその われは1000石さしあげている
と、悪評のあった肥田豊後守左遷のパロディにも使われた。(豊後守は左遷により1000石を幕府に返上)

そんな鎮衛も同年11月、自宅に祀っていた聖天の燈明により屋敷が焼失して自身も皮肉られ、



御太鼓をどんと打つたる御同役 八十(やそ)の翁のやけを見給へ
善学寺
と詠まれた。さらに11月4日には18年間勤めた町奉行を辞して、12月上旬、冥界へと旅立ったといわれ(一説には11月4日現職のまま逝去、同9日に奉行職転免とも)。その墓は六本木の善学寺にあります。

「耳袋」は永い間その一部しか発見されていませんたが、最近、その100話1000編からなる
完本がアメリカのUCLAバ-クレイ校三井文庫から発見されたそうです。






根岸鎮衛墓所
むかし、むかし1-20 鷹石
http://deepazabu.com/m1/mukasi/mukasi.html#20


















俚俗江戸切繪圖



















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