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2015年8月10日月曜日

がま池「上の字」札の効能書き

先日インターネットで古書を販売するサイトで「麻布」で検索すると、意外なものが引っかかりました。それは上の字効能書き「湯火傷呪(まじないは旧字)」と書かれており、五千円という価格から一瞬躊躇をしましたが....やっぱり購入しました。

数日で商品は到着し中身を確認すると、経年劣化のためか茶色く変色し、一部に虫食い穴が開いている18cm×13cmほどの小さな紙片が入っていました。
文面を確認すると最後の方に麻布一本松山崎藩中  清水(清は旧字)
とあり、がま池「上の字札」の効能書きに間違いありませんでした。

しかし、文面を読み下す読解力が私にはなく、紹介により郷土資料館にお願いしようとしましたが、担当者の方がお忙しくて連絡がつかず、諦めました。

後日、この資料を現在上の字札を領布している十番稲荷神社にコピーを奉納しようと訪れると、社家の方から意外なお話をお聞きしました。その内容は、

当社にも上の字札と効能書きのコピーが数種類あり、今回私が持ち込んだものはそのいづれとも合致しない、新しい種類のもの。との事でありがたいことに十種類もの効能書きなどをおわけ頂きました。
残念ながらそれらの上の字札は十番稲荷神社にもコピーのみで現物がないため、所有者の許諾を得ることが難しいのでここでの掲載は遠慮することとします。

この十種類プラス私が所有するものをあわせると上の字札の効能書きは十一種類となりました。
そして十番稲荷神社から分けて頂いた効能書きにはありがたいことにすべてに読み下しが添付されており、それらを参考に私の所有する効能書きも、なんとか読み下すことに成功しました。
湯火傷呪(やけどのまじなひ)




上記読み下し


この十一種類の効能書きに書かれていることを比較すると下記のようになります。






この表を要約すると、
  • タイトルに「湯火傷呪(呪は旧字)」と書かれたものが9種類、「湯火傷守」と書かれたものが2種類。
  • タイトルに「ふりがな」があるものは9種類、無いものが2種類。
  • 効能書きの項目が「二つ」のものが2種類、「三つ」のものが1種類、「七つ」のものが8種類。
  • 発行場所が「麻布一本松山崎藩中」が6種類、山崎邸内が1種類、「東京麻布一本松通り西町」が1種類、「東京麻布区山元町三十五番地」が1種類、「東京府麻布区」..以下判読不明が1種類、「成羽藩」が1種類、「麻布一本松」が1種類。
  • 発行元が清水(清は旧字)が8種類、「邸内」が1種類、「林氏」が1種類、「翠露堂」が1種類。
  • 領布開始月日が「文政四(1821)年九月より出」が8種類、「明治二巳(1869)年」が1種類、期日の記載がないものが2種類。
となっていました。これらから解ることは......、

  • 成羽藩・山崎藩の成立は明治維新の官軍に味方した功績による「高上げ」で元の旗本(交代寄合)五千石から一万二千石あまりの大名となり立藩したことから、これらの効能書きは明治時代のものとなることがわかります。(1、2、3、4、6、9、11)
  • 領布開始月日が「明治二巳年」となっている6も明治時代のものであることがわかります。
  • タイトルが「湯火傷守」となっている7、8も東京府麻布区となっているので、麻布区の誕生は1878(明治11)年であることからこれらも明治期のものであることが解ります。
  • そして効能書きの項目については、霊験あらたかな上の字札の効能が時代を経ることで減少するとは考えにくく、当初よりも効能が増えていったと考えるのが妥当かと思われます。つまり(5、6)→(2)→(その他)と考えられます。
山崎家江戸家老発行の箱根関所通行手形
これらからこの11種類のがま池上の字札の効能書きのうち、少なくても10種類については明治期に領布されたものであると想像されます。また残る1種類(5)についても明治以前であるという確証は無く、明治以降である証拠が記されていないだけです。
また、領布開始日についてもこの日に札が領布されたことを示すものではなく、初めて領布された期日を記しているものと思われます。

そして発行者について「清水家」は山崎家が旗本であった時代からの江戸藩邸の重臣であり、
「備中成羽藩史料」という書籍の中にも「山崎家江戸家老発行の箱根関所通行手形」という文章の中にこの清水家と思われる名が記されています。

また発行元としてもう一つ個人名「林氏」がありますが、こちらも山崎家の高官であった可能性が高く、この林氏について専門に研究されている方がいることを十番稲荷神社社家からお伺いしました。さらに「翠露堂」については全くの不明でその解明が待たれます。

これら11種類の効能書きを見てきて非常に大きな疑問が残された。
がま池に大ガマが現れそれから上の字札の領布が始まったことが伝えられていますが、
その大ガマ出現したのは、





となっており、いずれも江戸末期のことでした。しかし、11種類の効能書きには江戸期のものがほぼ一つもありません。このことから.......がま池の上の字札の領布が始まったのは明治期になってからではないかという疑問です。

しかし、一方では江戸末の文化・文政期には邸内社信仰が大流行し、

文化十四年1817年 讃岐丸亀藩-虎ノ門金比羅宮の爆発的な隆盛
文政   元年1818年 久留米藩有馬家-赤羽橋 水天宮の大流行
文政   四年1821年  交代寄合(旗本) 山崎家 がま池に大ガマが出現?~上の字札領布のはじまり


というきわめて自然な流れで大身旗本の副職(アルバイト?)の成立が想像されます。

このがま池上の字信仰の隆盛は明治期であると思われ、「幕末明治女百話」では、


山崎家の御家来で、清水さんというのは、御維新後は東町の 、山崎さんのお長屋だったそこに住んでおいででしたが、諸方から上の字のお札を貰いに来てどうもしょうがない。本統をいえば、蟇池の水を、 八月の幾日かに汲んで、ソノ水を種に、上の字のお札を書くんですが、蟇池が身売りされて、渡辺さんのものとなってしまい、一々お池の水を 貰いにいけないンですから、井戸水で誤魔化していても、年々為替で貰いによこすお客様が、判で押したように極っていましたので、こんな旨い 事はないもんですから、後々までも、発送していました。この清水さんの御子息が、鉄ちゃんと仰って、帝大へ入った仁ひと ですが、帝大の法科を卒業するまで、この上の字様の、お札の収入で、学費が つづいたと申します。お札といっても馬鹿になりません。

モトをいえば、蟇池の精の夢枕に立った火を防ぐ約束が、イツカ火傷のお札となって、上の字がついているもンですから、上の字様のお札となって 火傷した時に、スグ上の字さまで撫でると、火傷が
癒るといわれるようになって、大変用い手が増えて来たんですね。
清水の鉄ちゃんがよくそういっていられました。
ありがたいことにこの札が今に効いて、諸国から注文が来るから、私はこれで大学の卒業が出来るが、 ただ勿体ないような気もするよ。井戸の浄水でやっているが(後には水道の水になってしまったようでした)これも大したものだとよく話してでした。
麻布区山元町三五番地

として上の字札の売り上げが莫大であったことを伝えます。
この清水家について廃藩置県で成羽藩が解体されて以降、麻布区山元町三五番地で上の字札の領布を行っていたそうですが、上の字札を書くにあたって、がま池の水ではなく井戸水が使用されていたことがわかります。この山元町の清水家跡は現在元麻布ヒルズ敷地となっています。ちなみに現在十番稲荷神社が領布している「上の字御守」はマンション管理会社の許諾により年に一度がま池の水をくんで書かれているとのことです。


また廃藩置県以降上の字札の領布を山崎家から委譲された清水家は、1927(昭和2)年に郷里の栃木県足利市に引きあげる際に、十番稲荷神社の前身である末広稲荷神社に上の字札の販売を委譲します。

これにより末広神社が上の字札の領布を始めることとなりますが、多くの書籍等には末広稲荷神社の上の字札授与が昭和2(1927)年からはじめられたと記されています。しかし十番稲荷神社で特別にお見せ頂いた社記(神社の業務日報?)複写には、

「昭和4(1929)十一月四日ヨリ社頭ニ看板ヲ掲ゲ参拝者ニ授与ス」

と、明確に記されています。







上の字札領布の変遷
江戸期~明治4(1871)年備中成羽領主・交代寄合(旗本)山崎家が自邸がま池池畔で領布
明治期~昭和2(1927)年清水家(成羽藩山崎家家令)が山元町三十五番地(現在の元麻布ヒルズ辺)で領布
昭和4(1929)年~昭和20(1945)年末広稲荷神社が領布
平成20(2008)年~現在十番稲荷神社ががま池の水を使用して領布。(十番稲荷神社は建物強制疎開により取り壊された末広稲荷と竹長稲荷が合祀)





現在十番稲荷神社で領布されている「上の字御守」








現在十番稲荷神社で領布されている「上の字御守」と効能書き


このようにがま池の大ガマ伝説を元にした「上の字御守」は変遷を重ねながらも現在も領布が続けられています。


◆関連項目

DEEP AZABU 麻布七不思議-がま池

十番稲荷神社公式サイト








★20150811追記-井上円了が否定した「上の字」信仰


このがま池の大ガマ伝説を元とする「上の字」信仰について明治期にその効能を完全否定する人物が現れます。
その人物の名は井上円了といい、東洋大学の創立者であり超自然現象を哲学的な立場から解明しその怪異性を否定する「お化け博士」、「妖怪博士」と呼ばれた人物です。
そして、この井上円了は「こっくりさん」(テーブル・ターニングTable-turning)の謎を科学的に解明した人物としても有名で、2011年10/12歴史秘話ヒストリア「颯爽登場!明治ゴーストバスター~“妖怪博士”井上円了~」というタイトルで放送されました。


また、井上円了は妖怪研究に関する書を数多く著しており、青空文庫にも数多く収録されています。その著書の一つ「迷信解」の中ではこのがま池上の字札に触れており、

(引用はじめ)~ほかにもこれに類したる例がある。すなわち、「東京麻布に火傷やけどの御札を出す所あり。その形名刺に似て、その表に「上」の字あり。この札をもって火傷の場所をさすればたちまち癒ゆるという。ある人、御札の代わりに己の名刺を用いしめたるも同様の効験あり」との話のごときも、病患の癒ゆるは御札の力にあらざることが分かる。~(引用終わり)
と記して上の字札の代わりに名刺を使って患部をさすっても同様の効果があったとして上の字札の迷信性を強調しています。
この円了の対局にいたといわれているのが民俗学者の柳田國男です。柳田は民俗学的見地から「非科学的な迷信も共存すべき」と唱えることになります。


○井上円了
哲学的見地から「妖怪」を解明することにより其の存在を否定。妖怪排除のための妖怪研究。→迷信の排除。



○柳田國男
民俗学的立場から「妖怪」を肯定。民間伝承の重要性から妖怪も自然の一部としてとらえていた。→迷信との共存。


という構図になり、両者は思想的には対立関係にありました。


















2013年6月24日月曜日

港むかしむかし

(以下の文章は2000年頃書いたものです。)

港区の図書館が、遅まきながらインターネット蔵書検索に対応したようなので、早速「麻布」で検索をかけてみました。すると83件がヒットしそして麻布(あさぬの)などの無関係な項目を除いた結果、興味のある本がいくつか浮かび上がってきました。そのひとつは「港むかしむかし」というタイトルで本項のタイトル「むかし、むかし」とよく似ており、早速高輪図書館に閲覧に行ってみました。

カウンターで書名を言って教えられた場所を探したが見つからず、係りの方に探してもらうと別の棚から本というよりは小冊子のような手作り風の冊子が見つかりました。表紙は手書きで本文は印刷ですがルビが手書きで振られており、寄贈の印が押されています。発行年は明記されていないのです、がかなり古いもので、おそらくはどこかの小学校で先生が個人的の作成されたものと思われました。内容は麻布七不思議をはじめとして港区内の不思議話・昔話が数多く掲載されており、パソコンのない時代手作りでこの小冊子を作成した作者の苦労がしのばれる逸品です。内容のタイトルは以下。






・麻布七不思議


①善福寺の逆さ銀杏 ②六本木 ③かなめ石 ④釜なし横丁 ⑤狸穴の古洞 ⑥羽衣松 ⑦広尾ヶ原の送り囃子


・狸坂の狸


・狐坂の狐


・がま池


・こうのとりがつたえた霊薬


・火消し地蔵


・お珊(さん)地蔵


・奴地蔵


・麻布名物


①狸そば ②狐しるこ ③お亀団子


・綱産湯の井戸


・親鸞のおきみやげ-善福寺の「逆さ銀杏」


・浅岡飯たきの井戸


・間垣平九郎は実在の人物か


・紅毛久助(あかげきゅうすけ)の墓


・むかっ腹をたてた「め組」の半鐘


・これは意外!-村上喜剣と寺坂吉衛門


・内匠頭の亡霊魚屋にたたる


・首洗い井戸


・我善坊の猫又(ばけねこ)


・小判をのんで死んだ話


・死んだ人の肉を食べたお坊さんの話


・陸蒸気をまねしたたぬき


・竹芝の長者




2013年5月24日金曜日

「麻布新堀竹谷町」のがま池

山口正介氏の著書「麻布新堀竹谷町」は、

  • はげ山
  • 逆さ銀杏
  • 網代公園
  • がま池
  • 麻布映画劇場
  • 麻布プリンスホテル
  • 麻布十番夏まつり
  • 新橋佐久間町
  • 南麻布 
昭和30年代後半のがま池
のタイトルで、山口正介氏自身である東町小学校三年生の主人公「周助」が当時の小学生の目で見た日常生活が主体の自伝的小説です。  その文中に登場する風景は、昭和30年代の麻布中央部を克明に描写していて、私自身の幼年期とシンクロする部分が非常に多い気がします。 その中でも、 
「6月7日からポパイのアニメ-ションがはじまった。~」 
と言う書き出しで始まる「がま池」は特に私の大好きな話です。 
ある日曜日周助は、小学校裏手を仙台坂に抜ける道の手前にある友達「よっくん」の家へやはり友人のシゲルとツトムと共に遊びに行き、 庭でのキャッチボ-ルにあきた4人はがま池を目指す事になります。彼らは仙台坂を上らずに、

手前の崖の隅にあるここから落ちて死んだ猿まわしの猿の墓「猿助の塚」がある急な階段を上ります。頂上は広い自動車道路になっていて、左手には昨年の暮れに出来たばかりの東京タワ-が見える。

そして、この後もがま池までの非常に詳細な道のりが記されています。

壊れた板塀の一角の秘密の入り口から入った周助達の前に、学校のプ-ルの何倍もある池が現れます。ここでのがま池の描写も非常に詳細で、誰かが島に渡ろうとして作られた「沈みかけたイカダ」の事までが記されています。(当時私もこのイカダを見たような気がします。)また、秘密の入り口も「所有者が発見するたびその都度固く閉ざされ~」とあり、私達の頃もやはり池の入り口はコロコロと変わりました。(当時池の前には管理人が住んでおり、見つかると追いかけられました。)

池に入った周助たちは、ボ-ル紙に巻きつけたたこ糸と短冊に切ったイカでつくった仕掛けでザリガニを釣るのですが、「これを池の周囲に何箇所かに仕掛ける」と言う描写には思わずうなずいてしまいます。(当時池のザリガニ釣りはこの仕掛けをいくつ仕掛けられるかが大きなステ-タスで、他所からの初心者や低学年の子供は、地元の高学年やいじめっ子に遠慮して多く仕掛ける事は非常に困難でした。

昭和40年代前半のがま池
そして、文中にもありますが、たまに仕掛けたまま忘れ去られた糸もあり、そっと手繰り寄せてみると先に大きなザリガニが付いている事も多々ありました。)しかし、池に周助たちと同じ学校のいじめっ子兄弟が現れ、仕掛けをとられてしまいます。やっとの思いで逃げ出した周助の足元に忘れ去られた仕掛けがあり、引き上げてみると「赤銅色の大きなアメリカザリガニ」が釣れていました。それはその日みんなの唯一の釣果であり、戦利品でした。そして、そのザリガニを手に家路につく一行。後日、再び池を訪れた周助ですが秘密の抜け穴を発見する事が出来ず、山口正介氏は物語をこう結んでいます。


がま池は少年たちの前でふたたび秘密の扉を閉ざし、深い緑のベ-ルのなかにその姿を隠した。

その日を最後にして、周助たちもがま池に行こうとはしなかった。こうして、がま池はまたしても幻となり、

子供たちの間で伝説として語り継がれるだけの存在となった。





麻布新堀竹谷町」著者山口正介氏は、1950年に東町小学校の近所で作家の山口瞳氏の長男として誕生。その後「オンシアタ-自由劇場」演出部を経て、小説、映画評論、エッセイなどで活躍中です。

数年前に所用で氏と電話で話させて頂きましたが、優しい声の持ち主で「麻布新堀竹谷町」の周助クンと話しているような錯覚を覚えました。






 追記:不思議な「がま池」写真
 
私の少年期にもがま池遊びは小学生まで。という不文律があり、中学生になってがま池で遊ぶのは、子供くさくてとても恥ずかしい行為だったと記憶しています。また、私が育った昭和40年代前半には、小学生は真冬でも半ズボンで過ごすのが一般的で、長ズボンをはいていると友達から「おまえ、病気かっ?」とからかわれました。 しかし中学生になると、まったく半ズボンをはかなくなり、急に大人になったような感覚があったのを、かすかに覚えています。
昭和40年代前半
がま池で遊ぶ私
 右の写真は昭和40年代前半、おそらく私が三年生頃のがま池で遊ぶ姿を写した写真なのですが、私にとって、この写真はとても不思議な写真です。

まずザリガニ釣りができるのは春から秋にかけてですが、当時真冬でもほとんどはいた記憶がない長ズボンをはき、シャツも長袖です。病み上がり?真冬?謎です。
また、そもそもがま池は私有地であり、池の前には管理人がいました。ですので池で遊ぶのは不法侵入で、管理人に見つかると叱られて池から追い出されました。ですから大人が池に立ち入る姿を見た記憶はほとんどありません。
ですが、この写真は明らかに大人が写していると思われます。不思議です。

嘘だとお思いでしょうが、私にはこの日の記憶がかすかに残されています。それは、この写真に写ったバケツの記憶です。このバケツは妹の遊び道具だったのですが、それを無断で使用していました。そしてわたしがこの日にザリガニをたくさん入れて家に帰ると、妹は激怒し、ザリガニを入れたそのバケツを気味悪がって二度と遊びに使わなくなり、親からこってり怒られた記憶があります。

しかし肝心なところの記憶がありません。なんせ、45年近く前のことですので.....。















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2013年5月23日木曜日

六本木随筆のがま池


1999年のがま池
1967(昭和42)年から大衆文芸誌に連載された「六本木随筆」は作家村上元三が自宅のある六本木付近の変遷を書いた随筆です。文中では麻布近辺についても「麻布七不思議」、「鳥居坂について」、「麻布十番」などが掲載されていて、その中で「蝦蟇池」と題した項が昭和47年5月に書かれているのを見つけました。



この随筆が書かれた当時、がま池では池を削ってマンションを建てる問題が新聞に掲載されていた時期でしたので、随筆はその反対運動の新聞記事を追っています。そして、その経過は現在(2001年頃)のがま池を巡る状況と酷似しています。
作者はその新聞記事からとして保存運動を行ったのが日本人よりも付近に昔からある大使公使館員、駐日新聞記者、商社 らの外国人であると述べています。
1972年(昭和47年)3月4日付毎日新聞朝刊の社会面「問いかける群像」の中で、
「ガマ池が消える、伝承の地にも破壊の波、怒った、立った外人が...」

と題した記事が掲載されていて、池の伝説の紹介や、がま池以外の多くの旧跡名所跡がすでに破壊されている事を伝え、さらに当時池の保存運動を行ってったのがドイツ大使館一等書記官、タイム・ライフ東京総局長、フランクフルター・アルゲマイネ新聞極東特派員、海運会社社長夫人、ボウリング会社日本代表などの外国人らであったことを伝えています。
2001年工事中のがま池
活動は近隣住民への回覧板の巡回、池の歴史的研究、署名運動を行ったようで、当時の環境庁長官、東京都知事への陳情も行い、外国人側の呼びかけにより地元の有志もこれとは別に3,800人の署名を集め、港区議会へ「がま池保存の請願書」を提出します。

その請願は区議会により全会派の賛成で採択され、区や都、環境庁も「善処」「検討」を約束しました。これにより外国人保存運動家たちも安堵し、「がま池はたぶん助かる」と思い込もました。

しかし、当時の区長は自身ががま池で遊んだ体験を語りながらも、財源不足を理由に都、国が用地買取を行って欲しいというお気楽な責任転換でその場をやりすごし都は、

港区が将来公園化するのであれば先行取得も可能だが、区はその気が無いようだ。

とし、環境庁は、

所管外でどうにも出来ない都に善処してもらいたい。


とたらいまわしとなったあげく、当時のガマ池所有者は、

都、区が買い上げてくれるなら手放すが、生活権上(マンションを)建てざるをえない。


1972年のガマ池保存運動を伝える
毎日新聞記事
としてると記述されている。記事はここで終わっていますが、結果的にマンションは建設され、がま池が縮小されたのは周知のことです。この記事で文中で外国人保存運動家たちが言ったとされる言葉が非常に興味深く、現在の状況(2001年頃)にもそのまま当てはまるのでご紹介します。
「もう10年もすると、東京には先祖からうけついだもので、子孫に語りつぐべきものがなにもなくなってしまうのではないか」
この記事からちょうど30年後の現在(2001年頃)、同じ池で同じ問題が起こり、同じ過程を踏んできた保存運動はどのような結末に向かっているのでしょうか?
表題の六本木随筆は「蝦蟇池」の項を新聞記事を元に書いているため、元ネタの記事の内容ばかりとなりましたが、随筆の著者村上元三は最後に、
「ここ十年ほどで、東京の人間は川や池が次第になくなってしまうのを、そう気にしないように、慣れさせられている。~中略~古いものが失われて行くのを、書きとめておく気持ちはありながら、抵抗をする気力もないのは、東京に住んでいる人間のあきらめのようなものであろうか。」

と自嘲気味に記しています。




★1972年の主な出来事

(政治・事件)

・ニクソン米大統領訪中、日中国交正常化


・札幌冬季オリンピック


・沖縄返還


・元日本兵横井さん帰還


・あさま山荘事件


・テルアビブ乱射事件


・作家川端康成自殺



(社会)

・ロマンポルノが映画界に新風


・山陽新幹線開業


・上野動物園パンダ初公開


・オセロゲーム発売


(話題の商品)
・カシオミニ(電卓)


・ソックタッチ


・消える魔球付き野球盤


・オロナインH軟膏


・仮面ライダーカード



(音楽)

・レコード大賞 ちあきなおみ-喝采


(ヒット曲)
・女のみち ぴんからトリオ


・せんせい 森昌子


・旅の宿 吉田拓郎

・どうにもとまらない 山本リンダ


・ひなげしの花 アグネス・チャン


・男の子女の子 郷ひろみ






東京名所図会のがま池

Blg化にあたっての追記


この記事を最初に書いたのは2001年がま池が二度目のマンション工事により縮小保存される工事が始まった頃で、その時のものをBlog化しているのは2013年初夏です。 
二度の保存運動を経て面積が2/3ほどとなった「がま池」は現在も残されています。 しかし2001年頃にデベロッパーである森ビルの子会社 「サンウッド」と「周辺住民、がま池を守る会」と「港区」の三者で締結された、 
マンションが建った後も要望があれば池を公開する。 
という三者協議会での締結事項がマンションの転売によりあっさりと破られ(※1)、現在池は非公開となってしまいました。これについてマンションの管理会社にインタビューしたところ「防犯上の理由」とのことでした。 これは明らかに締結事項に違反しているのではないでしょうか? 
がま池の解説板は池の北西側に港区教育委員会が設置したオフィシャルな解説板の他に、マンション敷地内北東部分に管理会社が設置した「がま池解説板」がありました。この解説板には池の公開を自ら明文化してあったのですが、近隣住民である仙華さんの情報によると、2013年5月現在、マンション側が設置した「がま池解説板」は撤去されてしまったようです。


港区教育委員会設置「がま池解説板」








解説板文面














マンション管理会社が設置した「がま池」解説板
2013年現在撤去されているそうです。











管理会社設置解説文章
公開を明文化しています。







また港区議会で「がま池保存の請願書」が提出され、この誓願には党派を超えた区議の署名がありました。その申請も長い間「継続審議」として塩漬けにされた後に、どこかに消えてしまいました。 

※1  
私もこの三者協議会に出席していましたが、その時点でマンションの転売が決められていたので、転売後も協議内容を反故にしない確約が得られていたと記憶しています。つまり転売されても池を保全、公開するという特記事項が遵守されるという内容であったと思いますが....。 








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2013年5月22日水曜日

がま池アップアップ

現在のがま池周辺
2001(平成13)年頃 「がま池消滅の危機」という噂がありました。これは当時池の畔にあったマンションを取り壊し、池全体を使って新しいマンションを建設するという噂でした。

 この噂により、はらきんの釣堀、ニッカ池に続いてまた一つ麻布の湧き水がなくなってしまうと思い込んでいたので、当時大変悲しい情報でした。そして、1月の半ばに港中学PTA関係者の方から廃校に伴う記念誌に当ペ-ジのがま池画像使用の問い合わせを頂いたばかりで池の消滅を聞いたので、何とも残念な気持ちでいっぱいでしたが、K区議の情報により、現在の池面積より20%ほど削られてしまうが、池自体は埋めないとの事でした。そこで当時現状を確認するため久しぶりにがま池に行ってみました。

久しぶりに近辺を訪れて見ると、周辺には工事反対の看板が林立しています。そして、その中の一つに池の水を循環させるポンプの電源を云々というものがあり、あれ?と思いました。子供の頃の池には湧いた水を一定の水位で保つために下水道に水を逃がすための大きな排水口(水門と呼んでいた。)が池の北側に設置されていて、いつもジャ-ジャ-と大量の水が流れ落ちていました。
その水門は子供ならば楽に入れるくらいの広さがあり門の中は、水流に流されて落ちてしまったと思われるザリガニの宝庫でした。

解体前の旧マンションとがま池
自宅に戻り調べてみると1991年10月30日の朝日新聞に「がま池アップアップ」と題した記事が掲載されていることがわかりました。記事によると、港区防災課が1976年に確認されたがま池など港区内の湧水地27ヵ所の追跡調査を行ったとの事で、76年~91年の15年間の変化が記載されていて、91年の再調査で湧水が確認されたのは、麻布山善福寺の柳の井戸、三田の成覚寺、高輪東禅寺、白金自然教育園など12ヶ所だけで、なんと15年で65%もの水源が枯れてしまったといいその中には、三田の宝生院と共に残念ながらがま池の名も確認できます(有栖川公園池もポンプによって回遊)。
枯渇の原因として同記事はビル建設などにより地下水を保つ樹林地が減少していて、道路の舗装により雨水が地下に浸透せず下水道に流れてしまっているなどを挙げています。

また、1991年11月10日の読売新聞朝刊にも「大火防いだ大ガマ伝説」との記事があり、こちらはがま池伝説や当時の地権者の話、最後はその頃池の傍にあった金丸信・元副総理宅の火炎瓶襲撃事件も、がまのご利益でボヤ程度であったと結んでいます。

そして今回のマンション立て替え工事に関連した記事が、先週2月25日付けの東京新聞に掲載されています。内容はカラ-写真付きで紹介されており、池の周囲で生息している「ゴイサギ」の幼鳥の写真を見て、一昨年の夏に池を見学させて頂いた時の、東京とは思えないほどの蝉時雨とトンボの群れを、ふと思い出してしまいました。
麻布からの帰り道、一本松方面から麻布十番へ抜けようと歩くと、電信柱と区掲示板にがま池の環境保全を要求するポスタ-が(多分違法的)貼ってあった。あ~!と思ってよく見ると掲載された

画像は私が撮ったがま池写真でした。
解体中の旧がま池マンション

この記事は2001年頃書いたもので、がま池保全運動が起こっていることもまだ知らない時期でした。しかし、その後池周辺の住民が池保護の署名を集めており、当サイトも電子署名や三者(デベロッパーである森ビルの子会社サンウッド・周辺住民・港区)協議会告知に協力していた事を昨日のことのように思い出します。そのときの様子は「麻布七不思議-がま池」に記していますので興味のある方はどうぞ!












がま池保全ポスター




















がま池保全ポスター


















2013年5月7日火曜日

麻布七不思議-江戸の七不思議

これまで麻布七不思議のという麻布で語り継がれてきた昔話をお伝えしてきましたが、以前、麻布七不思議-不思議話の生まれる背景でお伝えした、
水辺や台地端にかつての聖地があり、江戸が開発されてゆくプロセスで、聖地も変化する。しかし周辺の地域の人々には、そこが聖地であった 証を不思議な現象として記憶にとどめておこうとする意図が、これらの世間話には反映している。
という不思議話の生まれる条件がほぼ同じで似た状況の地形や環境を持つ芝高輪・白金、赤坂・青山地区には何故か「七不思議」という形では昔話が残されていません。推測ですが、港区域では何か特別な状況が「麻布」だけに存在して、語り継がれるべき伝説を多く残しているのかも知れません。

江戸には麻布以外にも貴重な七不思議が伝承されています。これら地域の状況と麻布を比較してみるのも面白いかも知れませんので、そのいくつかをご紹介します。




○本所七不思議

  1. 置いてけ堀

  2. 馬鹿囃子

  3. 送り提灯

  4. 落葉しない椎の木

  5. 津軽の太鼓

  6. 消えずの行灯

  7. 足洗い屋敷



○番町七不思議


  1. 城家の団子婆

  2. 朽木の幽霊

  3. 狸囃子

  4. 足洗い

  5. 宅間稲荷の霊験

  6. 番町の番町知らず

  7. 八つの拍子木


○江戸城七不思議


  1. 深夜の馬の蹄

  2. 行方不明の軍用金

  3. 本丸御殿の踊る白狸

  4. 北の御部屋の猫

  5. 願いの松

  6. 血水の井戸

  7. 夜泣き石


○吉原七不思議


  1. 大門あれど玄関なし

  2. 河岸あれど船つかず

  3. 角町あれど隅にあらず

  4. 茶屋あれど茶は売らず

  5. 新造にも婆あり

  6. 若い者にも禿あり

  7. 遣手といえども取るばかり


○八丁堀七不思議


  1. 奥様あって殿様あり

  2. 女湯の刀掛け

  3. 金で首が継げる

  4. 地獄の中の極楽橋

  5. 貧乏小路に提灯かけ横町

  6. 寺があって墓がない

  7. 医者儒者犬の糞


○馬喰町七不思議


  1. 鼠に似た怪しい異国の獣

  2. 卵を生む女房

  3. 犬の珍しい行為

  4. 天水桶の溺死

  5. 仲裁後の手傷

  6. 三日月井戸の暗号

  7. 先祖の因縁がめぐる御霊社詣


○東海寺七不思議


  1. 鳴かぬ蛙

  2. 片身の鱸

  3. 片生の銀杏

  4. 潮見の石鉢

  5. 血の出る松

  6. 火消しの松

  7. 千畳吊りの蚊帳








2013年5月6日月曜日

麻布七不思議-狐しるこ



名所江戸百景
広尾ふる川
前回お伝えした狸橋の下流にある四の橋(相模殿橋)近辺にも狐狸伝説があり、狐にちなむ伝説「狐しるこ」が残されいます。

むかし、四の橋(相模殿橋)のそばで、尾張屋藤兵衛とい」うものがしるこ屋を商っていました。そこに時々狐が化けて買いに来たので、評判となり大いに繁盛したといいます。尾張屋はそれを元手に京橋三十間堀に移転したそうです。



◎麻布区史
相模殿橋(今の四の橋)の傍で尾張屋藤兵衛と云ふ者が商つてゐたが、そこへ時々狐が化けて買ひに来たのでそれが評判となり、大いに繁盛したとい云ふ、尾張屋は後に京橋三十間堀へ移転した。



またさらに現在の白金商店街入り口付近には江戸期から鰻の名店「狐鰻」があり、江戸~明治期の鰻の名店で名士、著名人が多く利用したようす。その様子は安藤広重の「名所江戸百景広尾ふる川」にも描かれています。

現在も東麻布にある鰻の名店「野田岩」もこの狐鰻で修行したため店の看板に「狐鰻」の文字が書き込まれています。 このいわれは、現在の初代野田岩の店主・岩次郎が四之橋狐鰻で修行した事と、鰻の種類が狐鰻と呼ばれる顔のとがった上質の鰻を取り扱っているための二つの意味から、看板に狐鰻の文字を掲載したと現在の店主が述べているようです。

そして、木戸孝允日記には、
1875年(明治8年)2月26日
其より井上(馨)・伊藤(博文)に狐鰻店にて会し
野田岩看板
との記述が見え、明治時代の料亭政治の一端が顔をのぞかせています。


いづれにせよ、このあたりから広尾辺は江戸郊外としての静寂を保っており、他にも七不思議の一つ「広尾の送り囃子」や近隣の自然教育園が明治期には「狸山」と呼ばれていたと近代沿革図集に記述があることなどから、狐狸との因縁の深い場所であったものと思われます。










現在の四の橋白金商店街
この伝説が残された場所(現在の四の橋商店街辺)は麻布域から古川を挟んで対岸となる白金にありますが、「新堀向こう」とよばれていた農耕地で三田亀塚代地二カ所と西久保天徳寺領屋敷を併せて「麻布田島町」が江戸期成立します。もともと田圃であったところに忽然と町域ができたのでまるで田圃の中にある「島」であるかのような情景から田島とし、さらに本来は代官支配である農耕地ですが、繁栄を願って何とか江戸市中に編入されようと「麻布の町域」として成立したようです。このように古川の対岸白金がわにあった麻布の町域は他にも江戸期には麻布永松町(のちの白金志田町)、そして明治期からは麻布新広尾町などがあります。
田島町が麻布を冠したのは1911(明治44)年年までですが、1947(昭和22)年港区が成立すると再び麻布を冠称します。そして昭和44年の新住居表示により白金1,3,5丁目の一部となり、麻布域を離れました。





江戸期の麻布田嶋町
★文政町方書上-麻布田島(嶋)町
町方起立の儀は、古来一円に伊奈半左衛門様御代官所阿左布村のうちにて、小名新堀向と相唱え、野田にて罷りあり候ところ、元禄十三辰年七月武家十人一同に拝領致され候て町屋に仰せつけられ、なおまた、同月白金御殿番人八人、宝永三戌年中芝増上寺御霊屋御掃除頭両人へ下し置かれ、同五子年六月三日武家方十八人、同年八月十三日武家方十六人、同月十五日同十七人、同丑七月同六人、享保二酉年三月御庭口役六人、都合八十三人おいおい拝領致され、その後、年代相い知れず三田のうち亀塚と申すところにより同所代地二か所当所にて相渡り、その外西久保天徳寺領屋敷三か所とも合わせて元禄の頃より一統田嶋町と相唱え候えども、右町名の訳相知れ申さず。~









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2013年5月5日日曜日

麻布七不思議-狸橋の狸そば


狸橋と碑
天現寺橋と五の橋の間に「狸橋」という小さな橋を見つけました。「狸橋」という名の由来は、昔、橋の南西に蕎麦屋があったそうで、子供を背負い手拭いをかぶったおかみさんに蕎麦を売り、そのお金を翌朝確かめると”木の葉”になっていたからとも、江戸城中で討たれた狸の塚があったからともいわれています。 
麻布七不思議の一つに数えられることもある狸穴の狸そば」の伝説によると、

狸穴下に「作兵衛蕎麦」という色の黒い純粋の生蕎麦がうまい蕎麦屋があったそうです。時の食通にも好評だったが、いつのまにか廃業したといいます。名の起こりは、徳川の大奥を荒らしまわった狸穴の古狸が、内田正九郎という侍により討ち取られその霊を蕎麦屋の作兵衛が奉祀したことから始まったと伝わり、狸を葬った狸塚は広尾にあったともいわれています。この狸橋を渡ったあたりは江戸期「狸蕎麦」という地名で呼ばれていましたので、資料はないものの狸穴の古狸はこのあたりに葬られたものかと想像します。
白金分水古川合流口
また 明治期までこの橋のそばに蕎麦屋があり、その地所を福沢諭吉が購入して別荘にしていました。またこの蕎麦屋は水車営業権を持っていたので、福沢はその権利も買い取って米搗き水車として営業し、塾生の経費のたしにしたそうです。しかし、この蕎麦屋が里俗の地名である「狸蕎麦」の由来となる蕎麦屋かどうかはわかりません。そしてこの狸蕎麦水車が動力としていた水流は江戸期に作られた三田用水の分水で「白金分水」と呼ばれていました。この白金分水はそもそも麻布御殿への給水を目的として作られた分水で、おそらくこの水車のあたりから懸樋か水道橋のようなもので古川を渡り、対岸の麻布御殿まで通水していたものと考えられています。

現在の狸橋は昼間でも人通りが少なく、おそらく地元住民しか通らない橋となっていますが、江戸期の天現寺橋は古川ではなく笄川(竜川)にかかる橋であったため、目黒・白金方面に抜ける橋は四の橋(相模殿橋)の上流には狸橋しかなかったようです。おそらくに日中は目黒不動参詣などにより、狸橋にかなりの通行があったものと思われますが、夜は極めて寂しい場所であったことが推測されます。そして、白金自然教育園が明治期には「狸山」と呼ばれていたことなどから、このあたりは狐狸との因縁の深い場所であったものと思われます。



近代沿革図集-狸山
里俗の称で文献がない。古老の話では明治坂上の左側丘陵をさすという。また他の説に、白金台五丁目の国立自然教育園一帯をさしたともいう。明治のころ、海軍火薬庫があって、衛兵が狸にばかされたことがあったと伝える。








狸橋碑文
★狸橋 由来碑-碑文 
 狸橋の由来
むかし橋の西南にそば屋があって
子供を背負い手拭をかぶったおかみさ
んにそばを売ると、そのお金が、翌朝
木の葉になったといいます。
麻布七不思議の一つで、狸そばと呼ん
だのが、地名から橋の名になりました。
ほかに、江戸城中で討たれた狸の塚が
あったからともいっています。

昭和53年 港区





★近代沿革図集-狸蕎麦

麻布新広尾町三丁目、狸橋近くで麻布七不思議の一つだという。のちに福沢家の別荘となった梅屋敷にそばやがあった。子供を背負い手ぬぐいをかむったおかみさんに、そばを売った代金が、翌朝みると木の葉だった。誰いうとなく狸蕎麦と呼び、評判だった。そばやの屋号が里俗地名となったものか。
なお麻布の狸蕎麦には<狸穴下の蕎麦屋(江戸の口碑と伝説)>(名代のそばやで、討ち取られた古狸の霊を屋敷内に祭って、その名がついた。この狸を葬った狸塚は広尾にあった)があり、別説には<古川の狸蕎麦>がある。

狸橋
麻布新広尾町三丁目38~162番地間 長さ16.4m 幅3.6m










江戸期の「狸蕎麦」辺









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★追記
自然教育園スタッフBlogによると昨年2012年には子狸が二頭生れ、四頭の狸の生存が確認されているそうです。また、2013(平成二十五)年3/18、この狸橋からもさほど遠くない恵比寿駅付近で野生の狸が捕獲されました。

論文-自然教育園におけるホンドタヌキとハクビシンの自動撮影記録と糞の分析
























2013年5月4日土曜日

麻布七不思議-柳の井戸

麻布山善福寺参道の柳の井戸と「うなり柳」
善福寺惣門を入って参道右手にある井戸。境内の「逆さいちょう」と共に麻布七不思議の一つにも数えられています。
柳の井戸は正式には「楊柳水」といい、井戸の脇には「楊柳水銘」と書かれた石碑がある。この石碑は明和二(1765)年に建てられたようで、江戸名所図会によると弘法大師が常陸の鹿島明神に願って得た阿伽井(あかい)であるということで「鹿島清水」ともいわれる。碑文の最後には「葛辰書」とあるのでおそらく麻布東町生まれで服部南郭に学んだ、あの松下君岳(烏石)の揮毫と思われます。

楊柳水銘
毖彼石泉
盈科而流
空海所呪
其霊永留
阿那楊柳
水中影浮
飲者治疾
徳潤千秋
明和二年乙酉歳中秋前一日
藤公縄義篆
藤定福銘
葛辰書

麻布山善福寺 柳の井

ま「柳」とは、井戸の横に「うなり柳」とも呼ばれる柳の木があるため。 「続江戸砂子」は、「うなり柳」について、
麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。うなり柳。古木はかれて若木也と云。清水のかたはらの柳といへり。来歴しれす。
としており、江戸名所図会では、
鹿島の清水。総門と中門との間いあり。往古弘法大師常陸国鹿島明神に乞得給いひし阿伽井なりと。又土人云く。鹿島の地に七井と称する霊泉あれども其一つは空水といへり。昔は其側に柳樹ありしかば。一名を楊柳水とも唱へ侍ると云々。此柳をうなりやなぎという由。来歴詳ならず。
とあります。

弘法大師が、鹿島大明神に祈願して手に持った杖を突き立てたところ、たちまち湧き出したと言われる井戸で常陸の鹿島神社にある七つの井戸は、一つをここによこしたため、空井戸になっているといわれています。 
関東大震災や昭和20年4月、5月の空襲時にはこの井戸が多くの人に水を与えましたが、現在は保健所の指導によりそのまま飲むことは出来ないそうです。


柳の井戸 説明板

★説明板
柳の井戸

自然に地下から湧き出る清水である。
東京の市街地ではこのような泉が比較的少ないためか、
古くから有名で、弘法大師が鹿島の神に祈願をこめ、手
に持っていた錫杖を地面に突きたてたところ、たちまち
噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて堀った
ものであるとか、信仰的な伝説が語りつがれてきた。
とくに現在のわれわれとしては、大正十二年の関東大
震災や昭和二十年の空襲による大火災の際に、この良質
な水がどれほど一般区民の困苦を救ったかを心にとどめ、
保存と利用にいっそうの関心をはらうべきものと思われ
る。

昭和四十九年1月

東京都港区教育委員会

楊柳水 湧水
楊柳水 湧水

























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           ★追記:湧水が味わえる場所
 現在この井戸の水はそのままでは飲むことが出来ませんが、この水と同じく武蔵野台地を流れてきた湧水を味わうことが出来る場所があります。それは、麻布山善福寺からもほど近い、仙台坂下にあるCAFE KARIZさんです。このカフェの地下に湧水井戸があり、床の一角をガラス張りにした店内からもその湧水を確認することが出来ます。さらにその湧水を加熱せずNASAが開発した特殊な浸透膜で濾過したまるやかな湧水で入れたコーヒーが味わえます。また店で出される水もこの湧水が提供されています。




CAFE KARIZ








CAFE KARIZ
地下の湧水井戸







CAFE KARIZ
店内



















2013年5月3日金曜日

麻布七不思議-一本松

 暗闇坂大黒坂狸坂を登り切った合流点にある松の木。この木のあたりから上の
麻布一本松
なだらかな坂を一本松坂といいます。
ここは、古い街道筋であったと思われ、松にいつわる伝説がいくつもあります。有名なものでは、源経基がこの傍の民家に宿を求め翌朝この木に装束をかけ、麻の狩衣に着替えたといわれる伝説が残されています。また、京から来られた”松の宮”という高貴な方が、ここで亡くなり衣冠と共に埋葬したことから”冠の松”と呼んだという伝説も。その他にも小野篁が植えたとの説、氷川神社の御神木説、徳川家康が植えた、秋月邸(高鍋藩:現在の麻布中学の敷地に上屋敷がありました。)の羽衣の松、など数々の話が残されています。
現在の松は、3代目の植えつぎで残されたものであるとの事ですが、それ以上の植継がれているという説もあります。

小野篁説では、京都から松乃宮様という方が下ってきて、この松の下で亡くなり、介抱をした小野篁が衣冠と遺体を埋め、松の木を植えた。木造の如意輪観音を安置した。小野某の死後この観音様は現在隣の長伝寺に移されたと伝えています。

★文政町方書上-麻布一本松町
 ~往古当所へ松の宮様と称し奉り候御方京都より御下向これあり、暫くお足を留められ候に終に薨御あそばされ候につき、かねて御介抱され候小野姓の何某御衣冠とも当時の場所に葬り、お墓の印に植えられ候松ゆえ冠の松と唱え候由。右傍に草堂を結び如意輪観音の木像を安置しお跡を弔い申され候ところ、終焉の後、年代知れず、観音は同所長伝寺へ移し、跡へは松の守りに番人差し置き候由。観音は、およそ丈八寸位の座像にて、智証大師の作の由。松の儀は、古来一葉ゆえ一本松と呼び替え候や、明和九辰年焼失致し植え継ぎ候えども、おいおい一葉に相成り申し候。今は氷川神木の由申し伝え高さ三丈六尺八寸、枝東へ二丈、西へ二丈六尺、南へ一丈六尺八寸、北へ一丈六尺三寸、根廻りにて五尺八寸これあり、右へ長さ一丈、幅八尺四方の駒寄せ致し置き、咳の病人平癒の願掛け致し、成就の上は竹の筒へ醴を入れ納め候由に御座候。~
★東京名所図会-一松山長伝寺
 同寺に安置せる観音の木像あり。伝云ふ往昔一本松の枯死したるの際。其の樹皮朽蝕剥落して木心僅かに存せるもの七八寸。其の状観音の立像に類せるより時人之を祀れるものなりと。其傍に一面の石碑あり。丈二尺五寸。幅一尺許り三梵字を刻せり弥陀。観音。勢至の佛菩薩の名號なりとぞ。右方に延文3(1358)年戊戌三月吉日と刻せり。
江戸名所図会 麻布一本松
とあります。 また、狸坂と暗闇坂を挟んだ広大な土地が江戸初期の萬治二(1659)年、幕命によって芝増上寺の隠居地になるまで、このあたりは 麻布氷川神社の社領であったといわれています。これにより一本松は麻布氷川神社のご神木であったといわれ、また、源経基が平の将門の乱により京に逃げ帰る過程として笄橋を渡って一本松に至り、そこで宿を求めたという説も残されており、笄橋伝説、一本松伝説の発祥の元となっています。

続江戸砂子-一本松には、
 天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川(笄川)を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。
とあり、「渋谷八幡東福寺」と明記しています。渋谷八幡は創建を寛治六(1092)年とし、同じ敷地にある別当寺の東福寺は承安三年(1173年)開創と伝わっていますので、これらが正しければ源経基が止宿した天慶2(939)年頃とは年代が合いません。しかし東福寺には経基が竜川(笄川)を渡るときに関守に渡したという笄が残されており、また渋谷八幡の別名「金王丸」は河崎重家(後の渋谷重家、渋谷家の祖)の子で、源頼朝により義経追討の命を受け戦死した金王丸常光(後の土佐坊昌俊)に因むといわれているので、いづれにせよ源氏との因縁は深いとおもわれます。






そして江戸期には一本松からも遠くない本村町薬園坂に源経基の持念仏といわれる七仏薬師が祭られた東福寺薬師堂(正確には医王山薬師院東福寺)が移転してくるのは、単なる同名寺の偶然でしょうか?謎は深まります。(源経基縁の渋谷と薬園坂の両東福寺を江戸初期に庇護したのは家光生誕を祝う於福の方(春日局)でした。)

また同書には続いて天正年間(1573~1593年)の話として、 
安藤広重木版画「麻布一本松」
嫉妬ふかき女、此松に呪詛して釘をうちけり。夫よりしうとめのしるしの松と云り。
とあり、呪いの松とも呼ばれたといわれています。

さらに、
★麻布区史
首塚-一本松増上寺隠居所の辺で、関ヶ原役に岐阜より到着せる多数の首級を埋めた處である。
★文政町方書上-麻布一本松町
~前書一本松の儀、首塚とも申し伝え候えども、この儀は相分かり申さず候。~
とあり、慶長5(1600)年8月に関ヶ原の戦の前哨戦として行われた岐阜城攻めの首を、江戸城の徳川家康が検分後、このあたりに埋めたという説があります。このことから「家康手植え・首塚説」なども伝わりますが、この首塚説には異説もあり、もう少し南側の西町近辺とする説もあるようです。

また、六本木の地名発祥の一説には、
 平安末期、源氏に追われた平家の落ち武者が6人落ちのびてきた。六本木あたりまで来るともはや力が尽きてしまったので、榎の幼木を墓標がわりに植えて切腹し相果てた。しかしその中の一人は、希望を棄てずさらに刀を杖に一本松までさまよったが、ついに力尽きてあとを追った。あたりの村人はこの武者を憐れみ、5本の榎に一本の松をいれて六本木として弔った。そしてこのあたりを六本木というようになったという。
ともあります。

元禄15(1702)年の赤穂事件で討ち取られた吉良上野介は、浅野内匠頭切腹後に鍛冶橋から本所へと幕命により転居されることとなります。その本所屋敷改装中の仮寓先を定説では上杉家高輪屋敷としていますが、麻布区史は、吉良家一本松邸では?という疑問を投げかけており、その一本松吉良邸の合った場所を「府内往還沿革図書」を出典として善福寺北方、本善時・徳正寺・大法寺に取り囲まれた場所としています。またほぼ同時期の元禄16(1703)年に一本松では南部家などとも縁の深い幕府表絵師「麻布一本松狩野家」が「花下遊楽図」(国宝)の筆者、狩野長信の三男・休円清信を祖として誕生しています。

また江戸期の書籍「諸家随筆集」では、当年(寛政10年(1798年))東武七奇の一つとして、
麻布一本松水茶や婆々九十二歳にて、名はかめ、6月朔日、男子を産、其子生れ落てより物言。
とあり得ない話を記していますが、一本松横にあった茶店「ふじ岡」のことでしょうか?
この「ふじ岡」は、松の枝に甘酒を入れた竹筒をかけるとぶら下げると咳が止まるという里俗信仰が一本松に残されてい事から甘酒を売って繁盛したといわれています。

そして樹とは直接関係はありませんが、太平洋戦争末期の昭和20年には本土決戦が叫ばれ、麻布山も巨大な地下壕が建設されていました。この地下壕の宮村町-麻布山善福寺を結ぶトンネルがこの松の下あたりを通っていたことが地元の目撃情報などにより明らかとなっています。詳細はこちらをどうぞ

またさらに麻布区史では、このあたりが古墳であったのでは?と述べていますが、区史が執筆された昭和初期にはその痕跡をとどめないとも書かれています。しかし、この近辺では未完成の石器などが出土しており近辺の石器の製作所跡との説もあります。


麻布一本松
麻布一本松
これらの事象から、
・源経基止宿説
・麻布氷川神社ご神木説
・呪いの松説
・松の宮埋葬説
・小野篁植樹説
・徳川家康植樹説
・首塚説
・秋月の羽衣の松説
・甘酒快癒伝説
・塚の印説
・古墳説
など諸説が現在も伝わっていて、古来より大切にされてきたことが伺えます。


松樹の根元の碑(昭和38年一本松・西町町会建立)によると、
江戸砂子によれば
天慶2年西紀939年ごろ
六孫源経基平将門を征服し
ての帰途此所に来り民家に
宿す 宿の主粟餃を柏の葉
に盛りさゝぐ 翌日出立の時
に京家の冠装束を松の木に
かけて行ったので冠の松と
云い又一本松とも云う
とあり、また、碑の最後には、
注 古樹は明治9辰年焼失に付き植継
昭和20年四月又焼失に付き植継
昭和38年建立 一本松・西町町会が建立した碑
一本松・西町町会が建立した碑
とこの樹が焼失により2回植継がれていることが書かれています。しかし、十番未知案内サイトの解説によると明治9辰年 は誤り(明治9年は辰ではなく子)で明和9辰年の誤記ではと指摘しています。調べてみると確かに明和九(1772)年2月29日には行人坂大火があり麻布も広範囲に罹災しているのでこちらの説の方が説得力があると思われます。
追記:文政町方書上を再読してみると「明和九辰年焼失」とはっきり書かれていました。文政町方書上は町年寄り・名主が幕府に差し出した正式な記録で信憑性が高いと思われるので、十番未知案内サイトの説は、正しかったことが確認されました。
また、この他にも麻布区史によると、文化年間(1804~1817年)に表された「飛鳥川」には、 
   「麻布一本松も先年焼失して、今の松に植えかへ、昔の松の影もなし」 
と記されているといわれていますが、これは1806年文化三(1806)年におこった文化の大火(別名芝車町大火)との関連を想像させるものであり、事実ならば、一本松は江戸の三大大火といわれる「明和の大火」、「文化の大火」で焼失していたことがわかります。
また、麻布生まれの国学者である岩本素白 は著書「山居俗情」の中で、
静かな屋敷町続きの坂の上に、昔ながらの松が一と本。植ゑついだもので、まだ老木といふ程にはなつて居ないが、振りの佳い枝が縁の袖を伸ばして、その下影に在る一基の石灯籠も、その根元を固めた低い石垣も、すべて名所図会そのままの面影を留めて居る。

と昭和初期の松の様子を記しています。

松樹の土台石垣には安政二(1855)年「若者」の文字を彫り込んだ石が埋め込まれ、樹の横には道標として使用されたと思われる古い標石、「家持中」「世話人 若持中」「文化四丁卯年(1807年)」と書かれた石灯籠、そして何か曰わくがありそうな古そうな石などがあります。この古そうな石のうちの一つをよく見ると墓石であり、
寛文六?年(寛文六(1666)年は辛酉だが一文字しか入っていないような...)
為其月妙林信女
六月三日
と表面に彫られています。松樹との因果は不明ですが、寛文六(1666)年とのことで、江戸初期のものであることは間違いないようです。

さらに麻布区史では秋月の羽衣松について、
今の一本松を云った。江戸繪図を見ると、秋月候の邸地とは大分離れてゐるから、或は別に邸内に一本松があつたのかとも思はれる。その由因は今詳らかにしない。
江戸の華名勝會-三番組、 麻布一本松
江戸の華名勝會-三番組、麻布一本松、六孫王経基・嵐雛助(歌川豊国)/元治元(1864)年二月出版
とありこの一本松との関連を、それとなく否定しています。しかしこれらを含めて、
・秋月の羽衣松→高鍋藩麻布一本松邸
・一本松狩野→麻布一本松狩野家
・南部盛岡藩邸→江戸麻布一本松御下屋
・三井家→一本松町家(連家)
などと、一本松を冠した呼称・家名が使用されていました。昭和四十年代期に一本松三井家の跡地は空地として近隣少年の格好の遊び場で、三井さんの原っぱ、わんわん原っぱなどと呼ばれていました。これは「薩摩っ原」、「有馬っ原」などと同義の呼称だと思われます。また、この一本松町家屋敷と一本松狩野家以外は実際の一本松とはかなり離れており、江戸期の「一本松」は、広範囲で使われた呼称であると考えられます。

余談ですが、三井家はこの一本松町家の他にも麻布近辺には、伊皿子家(本家)・本村町家(連家)・永坂町家(連家)などの連枝があり、さらに総領家である北家三井八郎衛門高公邸は笄町にあったものが江戸東京たてもの園に移築され一般公開されているそうです。(詳細はウィキペディアでどうぞ。)


★江戸鹿子-壱本松
あさぶに有。そのかみ天正のころをひ、嫉妬ふかき女房此松を植て人を呪詛しけるとなり。又説には此木、塚の印の木なりと云。伝未た明ならす。
★続江戸砂子-一本松
一名、冠の松と云。あさふ。大木の松に注連をかけたり。天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。又天正のころ嫉妬ふかき女、此松に呪詛して釘をうちけり。夫よりしうとめのしるしの松と云り。又小野篁のうへられし松と云説も有。一本松に経基王の来歴、わかりかねたる文段也。説も亦とりかたし。病をいのるとて、竹筒に酒を入れてかくるといふ。此松、近年火災にかゝりて焼けぬ。今は古木のしるしのみありて、若木を植そへたり。

       ★麻布一本松町の起立
正徳三(1713)年多くの麻布の村々がそれまでの代官支配(村)から町奉行支配の(町)へと移行し、麻布一本松村も麻布一本松町として起立します。1869(明治二)年麻布台雲寺門前を合併。同五年、長伝寺、大法寺、賢崇寺などの寺地と武家地跡を合併し、町域を広げた。「麻布」の冠称は1911(明治四十四)年まで。しかし港区が成立した1947(昭和二十二)年旧区名の冠称により再び麻布一本松町と改称します。同三十七年、北東部が新住居表示により麻布十番二丁目となり、同四十一年残地が元麻布一、二丁目となります。また、一本松町会は西町町会と合併し一本松・西町町会となりましたが、残念ながら1990年代頃に活動を休止し、現在に至っています。よって現在は麻布氷川神社の氏子町会としての一本松町会神輿は出ていません。


★一本松坂

西町から一本松町へ下る坂で、坂の途中東側の一本松に因む坂名です。かつては暗闇坂と分岐して東へカーブするあたりもから下(現在の大黒坂)も一本松坂と呼んでいましたが、坂下の栄久山大法寺境内にある大黒天が有名になったことから、大黒坂と呼ばれるようになったようです。

★その他


五大臣祝賀会
1916(大正五)年、寺内内閣の組閣に際して麻布区在住者が五人同時に国務大臣となったことから、12月3日その祝賀会が暗闇坂上の藤田家一本松町で行われました。(一本松町会の町域は狸坂下西部分にまで及んでいました。)

        ◆クレージー黄金作戦
1967(昭和42)年に製作されたクレージーキャッツ主演の映画で東宝三十五周年記念「クレージー黄金作戦」では映画のオープニングでタイトルバックと共に一本松阪から大黒坂を降りてくる主人公(植木等)が描かれており、一本松三井家跡地の通称「わんわんはらっぱ」も写り込んでいます。 
余談ですが、この映画は渡辺プロの強力なバックアップから当時としては珍しい一本立て興業として上映され、アメリカロケ、ドリフターズ・加山雄三らの出演と周年記念にふさわしい豪華な内容となっています。










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