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2015年8月10日月曜日

がま池「上の字」札の効能書き

先日インターネットで古書を販売するサイトで「麻布」で検索すると、意外なものが引っかかりました。それは上の字効能書き「湯火傷呪(まじないは旧字)」と書かれており、五千円という価格から一瞬躊躇をしましたが....やっぱり購入しました。

数日で商品は到着し中身を確認すると、経年劣化のためか茶色く変色し、一部に虫食い穴が開いている18cm×13cmほどの小さな紙片が入っていました。
文面を確認すると最後の方に麻布一本松山崎藩中  清水(清は旧字)
とあり、がま池「上の字札」の効能書きに間違いありませんでした。

しかし、文面を読み下す読解力が私にはなく、紹介により郷土資料館にお願いしようとしましたが、担当者の方がお忙しくて連絡がつかず、諦めました。

後日、この資料を現在上の字札を領布している十番稲荷神社にコピーを奉納しようと訪れると、社家の方から意外なお話をお聞きしました。その内容は、

当社にも上の字札と効能書きのコピーが数種類あり、今回私が持ち込んだものはそのいづれとも合致しない、新しい種類のもの。との事でありがたいことに十種類もの効能書きなどをおわけ頂きました。
残念ながらそれらの上の字札は十番稲荷神社にもコピーのみで現物がないため、所有者の許諾を得ることが難しいのでここでの掲載は遠慮することとします。

この十種類プラス私が所有するものをあわせると上の字札の効能書きは十一種類となりました。
そして十番稲荷神社から分けて頂いた効能書きにはありがたいことにすべてに読み下しが添付されており、それらを参考に私の所有する効能書きも、なんとか読み下すことに成功しました。
湯火傷呪(やけどのまじなひ)




上記読み下し


この十一種類の効能書きに書かれていることを比較すると下記のようになります。






この表を要約すると、
  • タイトルに「湯火傷呪(呪は旧字)」と書かれたものが9種類、「湯火傷守」と書かれたものが2種類。
  • タイトルに「ふりがな」があるものは9種類、無いものが2種類。
  • 効能書きの項目が「二つ」のものが2種類、「三つ」のものが1種類、「七つ」のものが8種類。
  • 発行場所が「麻布一本松山崎藩中」が6種類、山崎邸内が1種類、「東京麻布一本松通り西町」が1種類、「東京麻布区山元町三十五番地」が1種類、「東京府麻布区」..以下判読不明が1種類、「成羽藩」が1種類、「麻布一本松」が1種類。
  • 発行元が清水(清は旧字)が8種類、「邸内」が1種類、「林氏」が1種類、「翠露堂」が1種類。
  • 領布開始月日が「文政四(1821)年九月より出」が8種類、「明治二巳(1869)年」が1種類、期日の記載がないものが2種類。
となっていました。これらから解ることは......、

  • 成羽藩・山崎藩の成立は明治維新の官軍に味方した功績による「高上げ」で元の旗本(交代寄合)五千石から一万二千石あまりの大名となり立藩したことから、これらの効能書きは明治時代のものとなることがわかります。(1、2、3、4、6、9、11)
  • 領布開始月日が「明治二巳年」となっている6も明治時代のものであることがわかります。
  • タイトルが「湯火傷守」となっている7、8も東京府麻布区となっているので、麻布区の誕生は1878(明治11)年であることからこれらも明治期のものであることが解ります。
  • そして効能書きの項目については、霊験あらたかな上の字札の効能が時代を経ることで減少するとは考えにくく、当初よりも効能が増えていったと考えるのが妥当かと思われます。つまり(5、6)→(2)→(その他)と考えられます。
山崎家江戸家老発行の箱根関所通行手形
これらからこの11種類のがま池上の字札の効能書きのうち、少なくても10種類については明治期に領布されたものであると想像されます。また残る1種類(5)についても明治以前であるという確証は無く、明治以降である証拠が記されていないだけです。
また、領布開始日についてもこの日に札が領布されたことを示すものではなく、初めて領布された期日を記しているものと思われます。

そして発行者について「清水家」は山崎家が旗本であった時代からの江戸藩邸の重臣であり、
「備中成羽藩史料」という書籍の中にも「山崎家江戸家老発行の箱根関所通行手形」という文章の中にこの清水家と思われる名が記されています。

また発行元としてもう一つ個人名「林氏」がありますが、こちらも山崎家の高官であった可能性が高く、この林氏について専門に研究されている方がいることを十番稲荷神社社家からお伺いしました。さらに「翠露堂」については全くの不明でその解明が待たれます。

これら11種類の効能書きを見てきて非常に大きな疑問が残された。
がま池に大ガマが現れそれから上の字札の領布が始まったことが伝えられていますが、
その大ガマ出現したのは、





となっており、いずれも江戸末期のことでした。しかし、11種類の効能書きには江戸期のものがほぼ一つもありません。このことから.......がま池の上の字札の領布が始まったのは明治期になってからではないかという疑問です。

しかし、一方では江戸末の文化・文政期には邸内社信仰が大流行し、

文化十四年1817年 讃岐丸亀藩-虎ノ門金比羅宮の爆発的な隆盛
文政   元年1818年 久留米藩有馬家-赤羽橋 水天宮の大流行
文政   四年1821年  交代寄合(旗本) 山崎家 がま池に大ガマが出現?~上の字札領布のはじまり


というきわめて自然な流れで大身旗本の副職(アルバイト?)の成立が想像されます。

このがま池上の字信仰の隆盛は明治期であると思われ、「幕末明治女百話」では、


山崎家の御家来で、清水さんというのは、御維新後は東町の 、山崎さんのお長屋だったそこに住んでおいででしたが、諸方から上の字のお札を貰いに来てどうもしょうがない。本統をいえば、蟇池の水を、 八月の幾日かに汲んで、ソノ水を種に、上の字のお札を書くんですが、蟇池が身売りされて、渡辺さんのものとなってしまい、一々お池の水を 貰いにいけないンですから、井戸水で誤魔化していても、年々為替で貰いによこすお客様が、判で押したように極っていましたので、こんな旨い 事はないもんですから、後々までも、発送していました。この清水さんの御子息が、鉄ちゃんと仰って、帝大へ入った仁ひと ですが、帝大の法科を卒業するまで、この上の字様の、お札の収入で、学費が つづいたと申します。お札といっても馬鹿になりません。

モトをいえば、蟇池の精の夢枕に立った火を防ぐ約束が、イツカ火傷のお札となって、上の字がついているもンですから、上の字様のお札となって 火傷した時に、スグ上の字さまで撫でると、火傷が
癒るといわれるようになって、大変用い手が増えて来たんですね。
清水の鉄ちゃんがよくそういっていられました。
ありがたいことにこの札が今に効いて、諸国から注文が来るから、私はこれで大学の卒業が出来るが、 ただ勿体ないような気もするよ。井戸の浄水でやっているが(後には水道の水になってしまったようでした)これも大したものだとよく話してでした。
麻布区山元町三五番地

として上の字札の売り上げが莫大であったことを伝えます。
この清水家について廃藩置県で成羽藩が解体されて以降、麻布区山元町三五番地で上の字札の領布を行っていたそうですが、上の字札を書くにあたって、がま池の水ではなく井戸水が使用されていたことがわかります。この山元町の清水家跡は現在元麻布ヒルズ敷地となっています。ちなみに現在十番稲荷神社が領布している「上の字御守」はマンション管理会社の許諾により年に一度がま池の水をくんで書かれているとのことです。


また廃藩置県以降上の字札の領布を山崎家から委譲された清水家は、1927(昭和2)年に郷里の栃木県足利市に引きあげる際に、十番稲荷神社の前身である末広稲荷神社に上の字札の販売を委譲します。

これにより末広神社が上の字札の領布を始めることとなりますが、多くの書籍等には末広稲荷神社の上の字札授与が昭和2(1927)年からはじめられたと記されています。しかし十番稲荷神社で特別にお見せ頂いた社記(神社の業務日報?)複写には、

「昭和4(1929)十一月四日ヨリ社頭ニ看板ヲ掲ゲ参拝者ニ授与ス」

と、明確に記されています。







上の字札領布の変遷
江戸期~明治4(1871)年備中成羽領主・交代寄合(旗本)山崎家が自邸がま池池畔で領布
明治期~昭和2(1927)年清水家(成羽藩山崎家家令)が山元町三十五番地(現在の元麻布ヒルズ辺)で領布
昭和4(1929)年~昭和20(1945)年末広稲荷神社が領布
平成20(2008)年~現在十番稲荷神社ががま池の水を使用して領布。(十番稲荷神社は建物強制疎開により取り壊された末広稲荷と竹長稲荷が合祀)





現在十番稲荷神社で領布されている「上の字御守」








現在十番稲荷神社で領布されている「上の字御守」と効能書き


このようにがま池の大ガマ伝説を元にした「上の字御守」は変遷を重ねながらも現在も領布が続けられています。


◆関連項目

DEEP AZABU 麻布七不思議-がま池

十番稲荷神社公式サイト








★20150811追記-井上円了が否定した「上の字」信仰


このがま池の大ガマ伝説を元とする「上の字」信仰について明治期にその効能を完全否定する人物が現れます。
その人物の名は井上円了といい、東洋大学の創立者であり超自然現象を哲学的な立場から解明しその怪異性を否定する「お化け博士」、「妖怪博士」と呼ばれた人物です。
そして、この井上円了は「こっくりさん」(テーブル・ターニングTable-turning)の謎を科学的に解明した人物としても有名で、2011年10/12歴史秘話ヒストリア「颯爽登場!明治ゴーストバスター~“妖怪博士”井上円了~」というタイトルで放送されました。


また、井上円了は妖怪研究に関する書を数多く著しており、青空文庫にも数多く収録されています。その著書の一つ「迷信解」の中ではこのがま池上の字札に触れており、

(引用はじめ)~ほかにもこれに類したる例がある。すなわち、「東京麻布に火傷やけどの御札を出す所あり。その形名刺に似て、その表に「上」の字あり。この札をもって火傷の場所をさすればたちまち癒ゆるという。ある人、御札の代わりに己の名刺を用いしめたるも同様の効験あり」との話のごときも、病患の癒ゆるは御札の力にあらざることが分かる。~(引用終わり)
と記して上の字札の代わりに名刺を使って患部をさすっても同様の効果があったとして上の字札の迷信性を強調しています。
この円了の対局にいたといわれているのが民俗学者の柳田國男です。柳田は民俗学的見地から「非科学的な迷信も共存すべき」と唱えることになります。


○井上円了
哲学的見地から「妖怪」を解明することにより其の存在を否定。妖怪排除のための妖怪研究。→迷信の排除。



○柳田國男
民俗学的立場から「妖怪」を肯定。民間伝承の重要性から妖怪も自然の一部としてとらえていた。→迷信との共存。


という構図になり、両者は思想的には対立関係にありました。


















2013年5月25日土曜日

「麻布本村町」のがま池

昭和初期のがま池
前回、前々回に引き続き、麻布に関した書物の中の「がま池」を紹介します。

麻布本村町」は仙台坂上にある麻布本村町のクリ-ニング屋の子息として大正14年に生まれた荒潤三氏が、昭和30年にその地を去るまでの、昭和初期から中期までの麻布を回想する自伝です。登場する項目は、








1.麻布本村町2.庶民の町3.お寺のある風景4.水道の水で産湯
5.本村尋常小学校6.麻布仙台坂7.仙台山8.有栖川記念公園
9.がま池10.南部さん11.徳川さんのクリスマス12.麻布山善福寺
13.歳末とお正月14.氷川様とお祭り15.提灯屋のおじさん16.電気屋のおじさん
17.袋小路18.物売り19.お湯屋20.雑式通り
21.麻布十番通り22.映画館23.麻布十番倶楽部24.大相撲の巡業
25.六大学野球26.ツェッペリン伯号27.麻布三連隊と兵隊さん28.ちんちん電車
29.ぽんぽん蒸気30.両国の川開き31.銀座32.農村動員
33.建物の疎開34.東京大空襲35.風船爆弾36.買出し
37.八月十五日





と非常に多彩で昭和時代の麻布南部をよく表しています。この中でがま池について、
氏が5~6歳の頃、がま池を擁するお屋敷の前を母と共に歩いていると、自動車に轢かれてペチャンコになったカエルがあちこちで見られたといます。そして母からがま池の伝説を聞かされます。この当時のがま池を荒潤三氏は、

荒潤三著 麻布本村町
「昔より縮小整理されひょうたん型の池のまん中に小さな島があり、橋がかけられて、周囲の道路と連絡していた。-中略-この池の工事のとき、おおきながま蛙が出てきたという話を聞いた記憶がある。」

と書いています。そして当時池は一般開放されていて、子供たちの絶好の遊び場所であり、春にはたくさんのオタマジャクシがいたといいます。しかし、池の周囲が分譲地となると同時に縮小された池のそばでは、蛙が轢かれているのを目にする事もなくなったと記しており、その分譲地は当時あまり売れずに空き地が多く、ツクシやノビルを採ったとあります。その後分譲地付近で松竹映画のロケ-ションなども行われ、洋服姿の片岡知恵蔵や上原謙などもみられたと記しています。 最後に荒潤三氏は、


がま池に近い私の家は、関東大震災、B-29の大空襲にも焼かれることがなかった。

昔いたといわれる、大がまの霊がが守ってくれたのかと思うと、感謝の気持ちで一杯だ。
と、結んでいます。


最後に荒潤三氏が「麻布本村町」の前書きで記しているリルケの詩「若き詩人への手紙」をご紹介します。
それでもあなたは、まだあなたの幼年時代というものがあるではありませんか、

あの貴重な、王国にも似た富、あの回想の宝庫が。そこへあなたの注意をお向けなさい........。









★2013年追記

10年ほど前、この項を書くにあたって荒潤三氏に電話で使用許諾を頂いたのですが、その時すでに80際近いご高齢にもかかわらず、いろいろとお話をして下さいました。麻布を離れて大田区にお住まいとのことですが、どうぞお元気でお過ごし下さい。



◎麻布本村町とは?

久松安著 麻布本村町会史
この項のテーマである「がま池」は麻布宮村町南部にあるように誤解しがちですが、実は麻布本村町域に属しています。そして現在もがま池は麻布本村町会の管轄地域であり、麻布本村町会は東は麻布氷川神社から仙台坂下北側まで、北はがま池まで、西は麻布高校敷地辺まで南は古川北岸までと広大で、現在港区で一番広い担当区域を有しているそうです。

麻布本村町は麻布南部の中心的地域で、町域内には貝塚などもあり、おそらくこのあたりでは最初に集落が形成された地域で、その名残から「本村」としたと考えられています。
暗闇坂を上り麻布山の尾根道(麻布の台、亀子台とも)を仙台坂上から相模殿橋(四之橋)方面へと抜ける古道(奥州道ともいわれています)が町の中心部を走り、交通の要所でもあったようです。

そして、江戸中期の正徳三(1713)年、代官支配地の「村」から町奉行支配地で都市部となる「町」となった際にも町名の「村」を棄てて「本町」あるいは「元町」とすべきところを「本村町」とあえて村を使用しとたままにした町名には当時の本村町名主などの意気込みが感じられます。なを、同様に「村」を残したまま町名とした「宮村町」があります。宮村は江戸初期まで、本村は現在も麻布氷川神社の鎮座地であるので、何か関連があるのかも知れません。

またそれまで「阿佐布」や「麻生」「浅府」、「安座部」などさまざまに表されてきたアザブの漢字を「麻」に「布」で麻布と統一した経緯について当時幕府公認の地域ガイドブックである「江戸町方書上」において麻布本村町の名主「栄太郎」は、


正徳三(1713)年町御奉行所御支配に相成り候頃より麻布と文字書き改め候。この訳は往古この辺り、一円百姓地にて御代官伊奈半左衛門様御支配所に御座候。その頃、 百姓耕作の助けに麻を作り女子ども手業に布を織り、また、麻苧紙と申すを漉き渡世に致し候由、これにより阿佐布を麻布と文字改め候由申し伝え候

 

麻布申酉会著 麻布本村町
と「麻布」と表記するようになったのは麻布が江戸市中に組み込まれた頃と明記しており、アザブを「麻布」と表記する語源の出典根拠として、さまざまな文章で使用されています。
 
今回ご紹介した荒潤三氏が表した「麻布本村町」の他によく似たタイトルの書籍が存在します。
一つは現本村町会会長の父上が自費出版された「麻布本村町会史」で、町会の由緒や昭和2年に行われた麻布氷川神社の社殿新築工事の様子と共に「蝦蟇ヶ池」としてがま池伝説が記されています。

そして、二つ目は麻布高校昭和13年度の卒業生で麻布申酉会の同窓誌「麻布本村町」で、私はふらりと立ち寄った古書店でこの書籍を手に入れました。内容は戦前の学校内を回想した文章などが掲載されていて非常に興味深いのですが、残念ながら「がま池」に触れている文章を見つけることはできませんでした。









より大きな地図で 麻布の旧町名(昭和31年) を表示












2013年5月23日木曜日

六本木随筆のがま池


1999年のがま池
1967(昭和42)年から大衆文芸誌に連載された「六本木随筆」は作家村上元三が自宅のある六本木付近の変遷を書いた随筆です。文中では麻布近辺についても「麻布七不思議」、「鳥居坂について」、「麻布十番」などが掲載されていて、その中で「蝦蟇池」と題した項が昭和47年5月に書かれているのを見つけました。



この随筆が書かれた当時、がま池では池を削ってマンションを建てる問題が新聞に掲載されていた時期でしたので、随筆はその反対運動の新聞記事を追っています。そして、その経過は現在(2001年頃)のがま池を巡る状況と酷似しています。
作者はその新聞記事からとして保存運動を行ったのが日本人よりも付近に昔からある大使公使館員、駐日新聞記者、商社 らの外国人であると述べています。
1972年(昭和47年)3月4日付毎日新聞朝刊の社会面「問いかける群像」の中で、
「ガマ池が消える、伝承の地にも破壊の波、怒った、立った外人が...」

と題した記事が掲載されていて、池の伝説の紹介や、がま池以外の多くの旧跡名所跡がすでに破壊されている事を伝え、さらに当時池の保存運動を行ってったのがドイツ大使館一等書記官、タイム・ライフ東京総局長、フランクフルター・アルゲマイネ新聞極東特派員、海運会社社長夫人、ボウリング会社日本代表などの外国人らであったことを伝えています。
2001年工事中のがま池
活動は近隣住民への回覧板の巡回、池の歴史的研究、署名運動を行ったようで、当時の環境庁長官、東京都知事への陳情も行い、外国人側の呼びかけにより地元の有志もこれとは別に3,800人の署名を集め、港区議会へ「がま池保存の請願書」を提出します。

その請願は区議会により全会派の賛成で採択され、区や都、環境庁も「善処」「検討」を約束しました。これにより外国人保存運動家たちも安堵し、「がま池はたぶん助かる」と思い込もました。

しかし、当時の区長は自身ががま池で遊んだ体験を語りながらも、財源不足を理由に都、国が用地買取を行って欲しいというお気楽な責任転換でその場をやりすごし都は、

港区が将来公園化するのであれば先行取得も可能だが、区はその気が無いようだ。

とし、環境庁は、

所管外でどうにも出来ない都に善処してもらいたい。


とたらいまわしとなったあげく、当時のガマ池所有者は、

都、区が買い上げてくれるなら手放すが、生活権上(マンションを)建てざるをえない。


1972年のガマ池保存運動を伝える
毎日新聞記事
としてると記述されている。記事はここで終わっていますが、結果的にマンションは建設され、がま池が縮小されたのは周知のことです。この記事で文中で外国人保存運動家たちが言ったとされる言葉が非常に興味深く、現在の状況(2001年頃)にもそのまま当てはまるのでご紹介します。
「もう10年もすると、東京には先祖からうけついだもので、子孫に語りつぐべきものがなにもなくなってしまうのではないか」
この記事からちょうど30年後の現在(2001年頃)、同じ池で同じ問題が起こり、同じ過程を踏んできた保存運動はどのような結末に向かっているのでしょうか?
表題の六本木随筆は「蝦蟇池」の項を新聞記事を元に書いているため、元ネタの記事の内容ばかりとなりましたが、随筆の著者村上元三は最後に、
「ここ十年ほどで、東京の人間は川や池が次第になくなってしまうのを、そう気にしないように、慣れさせられている。~中略~古いものが失われて行くのを、書きとめておく気持ちはありながら、抵抗をする気力もないのは、東京に住んでいる人間のあきらめのようなものであろうか。」

と自嘲気味に記しています。




★1972年の主な出来事

(政治・事件)

・ニクソン米大統領訪中、日中国交正常化


・札幌冬季オリンピック


・沖縄返還


・元日本兵横井さん帰還


・あさま山荘事件


・テルアビブ乱射事件


・作家川端康成自殺



(社会)

・ロマンポルノが映画界に新風


・山陽新幹線開業


・上野動物園パンダ初公開


・オセロゲーム発売


(話題の商品)
・カシオミニ(電卓)


・ソックタッチ


・消える魔球付き野球盤


・オロナインH軟膏


・仮面ライダーカード



(音楽)

・レコード大賞 ちあきなおみ-喝采


(ヒット曲)
・女のみち ぴんからトリオ


・せんせい 森昌子


・旅の宿 吉田拓郎

・どうにもとまらない 山本リンダ


・ひなげしの花 アグネス・チャン


・男の子女の子 郷ひろみ






東京名所図会のがま池

Blg化にあたっての追記


この記事を最初に書いたのは2001年がま池が二度目のマンション工事により縮小保存される工事が始まった頃で、その時のものをBlog化しているのは2013年初夏です。 
二度の保存運動を経て面積が2/3ほどとなった「がま池」は現在も残されています。 しかし2001年頃にデベロッパーである森ビルの子会社 「サンウッド」と「周辺住民、がま池を守る会」と「港区」の三者で締結された、 
マンションが建った後も要望があれば池を公開する。 
という三者協議会での締結事項がマンションの転売によりあっさりと破られ(※1)、現在池は非公開となってしまいました。これについてマンションの管理会社にインタビューしたところ「防犯上の理由」とのことでした。 これは明らかに締結事項に違反しているのではないでしょうか? 
がま池の解説板は池の北西側に港区教育委員会が設置したオフィシャルな解説板の他に、マンション敷地内北東部分に管理会社が設置した「がま池解説板」がありました。この解説板には池の公開を自ら明文化してあったのですが、近隣住民である仙華さんの情報によると、2013年5月現在、マンション側が設置した「がま池解説板」は撤去されてしまったようです。


港区教育委員会設置「がま池解説板」








解説板文面














マンション管理会社が設置した「がま池」解説板
2013年現在撤去されているそうです。











管理会社設置解説文章
公開を明文化しています。







また港区議会で「がま池保存の請願書」が提出され、この誓願には党派を超えた区議の署名がありました。その申請も長い間「継続審議」として塩漬けにされた後に、どこかに消えてしまいました。 

※1  
私もこの三者協議会に出席していましたが、その時点でマンションの転売が決められていたので、転売後も協議内容を反故にしない確約が得られていたと記憶しています。つまり転売されても池を保全、公開するという特記事項が遵守されるという内容であったと思いますが....。 








より大きな地図で 麻布七不思議・麻布の不思議話 を表示
 
 
 
 
 
 
 








2013年5月22日水曜日

がま池アップアップ

現在のがま池周辺
2001(平成13)年頃 「がま池消滅の危機」という噂がありました。これは当時池の畔にあったマンションを取り壊し、池全体を使って新しいマンションを建設するという噂でした。

 この噂により、はらきんの釣堀、ニッカ池に続いてまた一つ麻布の湧き水がなくなってしまうと思い込んでいたので、当時大変悲しい情報でした。そして、1月の半ばに港中学PTA関係者の方から廃校に伴う記念誌に当ペ-ジのがま池画像使用の問い合わせを頂いたばかりで池の消滅を聞いたので、何とも残念な気持ちでいっぱいでしたが、K区議の情報により、現在の池面積より20%ほど削られてしまうが、池自体は埋めないとの事でした。そこで当時現状を確認するため久しぶりにがま池に行ってみました。

久しぶりに近辺を訪れて見ると、周辺には工事反対の看板が林立しています。そして、その中の一つに池の水を循環させるポンプの電源を云々というものがあり、あれ?と思いました。子供の頃の池には湧いた水を一定の水位で保つために下水道に水を逃がすための大きな排水口(水門と呼んでいた。)が池の北側に設置されていて、いつもジャ-ジャ-と大量の水が流れ落ちていました。
その水門は子供ならば楽に入れるくらいの広さがあり門の中は、水流に流されて落ちてしまったと思われるザリガニの宝庫でした。

解体前の旧マンションとがま池
自宅に戻り調べてみると1991年10月30日の朝日新聞に「がま池アップアップ」と題した記事が掲載されていることがわかりました。記事によると、港区防災課が1976年に確認されたがま池など港区内の湧水地27ヵ所の追跡調査を行ったとの事で、76年~91年の15年間の変化が記載されていて、91年の再調査で湧水が確認されたのは、麻布山善福寺の柳の井戸、三田の成覚寺、高輪東禅寺、白金自然教育園など12ヶ所だけで、なんと15年で65%もの水源が枯れてしまったといいその中には、三田の宝生院と共に残念ながらがま池の名も確認できます(有栖川公園池もポンプによって回遊)。
枯渇の原因として同記事はビル建設などにより地下水を保つ樹林地が減少していて、道路の舗装により雨水が地下に浸透せず下水道に流れてしまっているなどを挙げています。

また、1991年11月10日の読売新聞朝刊にも「大火防いだ大ガマ伝説」との記事があり、こちらはがま池伝説や当時の地権者の話、最後はその頃池の傍にあった金丸信・元副総理宅の火炎瓶襲撃事件も、がまのご利益でボヤ程度であったと結んでいます。

そして今回のマンション立て替え工事に関連した記事が、先週2月25日付けの東京新聞に掲載されています。内容はカラ-写真付きで紹介されており、池の周囲で生息している「ゴイサギ」の幼鳥の写真を見て、一昨年の夏に池を見学させて頂いた時の、東京とは思えないほどの蝉時雨とトンボの群れを、ふと思い出してしまいました。
麻布からの帰り道、一本松方面から麻布十番へ抜けようと歩くと、電信柱と区掲示板にがま池の環境保全を要求するポスタ-が(多分違法的)貼ってあった。あ~!と思ってよく見ると掲載された

画像は私が撮ったがま池写真でした。
解体中の旧がま池マンション

この記事は2001年頃書いたもので、がま池保全運動が起こっていることもまだ知らない時期でした。しかし、その後池周辺の住民が池保護の署名を集めており、当サイトも電子署名や三者(デベロッパーである森ビルの子会社サンウッド・周辺住民・港区)協議会告知に協力していた事を昨日のことのように思い出します。そのときの様子は「麻布七不思議-がま池」に記していますので興味のある方はどうぞ!












がま池保全ポスター




















がま池保全ポスター


















2013年4月1日月曜日

麻布な涌き水

Rinksでお世話になっている「東京の水」の本田さんから宮村町の小川(本当は下水と呼んだ方が近いが、あえて”おがわ”と言わせて頂く)に付いてのご質問がありました。氏は古川の事を詳細に研究されている方で、その流域の涌水という事でのご質問でした。以下は当時(2000年頃)私がお返事したメ-ルからの抜粋をご紹介します。

”小川”ですが、私は本光寺の横に生まれ住んでい ましたが、地元でもあの小川を名称で呼ぶのを聞いたことがなく 詳細はまったく不明です。
私が小学生の頃(昭和40年代前半)には、 すでに下水化しており、今と同じ状態でした。しかし「十番わがふるさと」 に、この小川の記載があるので抜粋します。

○(11)法久山安全寺とその周辺

「.....家の前の40センチ幅の溝は小川の流れのように清水が四六時中   流れていた。この水はがま池の水や周囲の高台から懇々と涌き出る   水が流れ込むもので、田舎の小川のように美しい風情があった。   今は暗渠になっているが、現在でも一カ所だけ昔をしのぶ所が残っている。   (奥の三叉路石屋の前の下水)......。」
○(12)明見山本光寺とその周辺
「.....大雨でも降ると大変だ。宮村通りの溝は溢れ、道全体が小川のようになる。 子供達は俄か漁師となって古スダレを持ち出し、溝に仕掛けてどじょうや小魚をとる。 ........。」
また、文政年間(1818年~30年)に書かれた「江戸町方書上」(三)麻布編には、
  • 一、板橋一ヵ所。渡り長さ三尺、巾三尺。町内中ほどにて内田伊勢守様お屋敷境より横切り下水の上にこれあり候。
  • 一、石橋一ヵ所。渡り長さ四尺、巾三尺。町内西の方新道境にこれあり、右二ヶ所とも掛けはじめ年代相分かり申さず候。
この小川の他にも、テレビ朝日通りから十番方面に抜ける玄碩坂の途中「妙経寺」 のあたりのマンホ-ルの上に立ち、耳をそばだてるとゴ-ゴ-とすごい勢いで 水が流れているのが聞こえます。これは、つい最近までこのあたりにあった”池” (私が子供の頃は、ハラキンと言う釣堀でした。)の涌き水がそのまま下水に流れ 込んでいる音の様です。
また一橋公園の噴水も古くからの涌き水との事。前出「十番わがふるさと」(二)一ノ橋の井戸と言う項に 関東大震災直後位の話として以下が掲載されている。
「小林馬肉店を横へ薪河岸の方へ曲がると高さ1間程の吹き上げ井戸が四六時中清水を吹き上げていた。
表の湯屋が使用しているらしいが、太い竹の樋から滝のように流れているので、隣り近所の人々もこの水を利用していた。
とても旨い水で冬暖かくお湯のようだし、夏は氷水に負けない冷たさだ。水道を引いている家でもこの井戸で用を足していた。特に茶の湯の通人は、わざわざ遠くから汲みに来た。天現寺、金杉橋辺のファンは電車に乗って汲みに来たものだ。」
その他にも「がま池」「麻布山善福寺、柳の井戸」「ニッカ池」「本村小学校横の釣堀、衆楽園(港区南麻布3-9-6)の池」「有栖川公園」など水源には事欠かきません。 また麻布十番にも戦前まで大きな溝があり川が流れていました。(がま池、長玄寺水流を合わせた宮村町水流と原金池水流、ニッカ池水流、吉野川水流の合流したもの)川には網代橋が架かっていました。そして各商店も客のために自前で木製の橋を架けていて、大雨が降るとよく流されたとあります(網代橋の柱石は、十番稲荷入り口に現在も保存されています)。また溝によくお金や財布などの物を落とす人がいたので、専門のさらい屋がいたそうです。
 
この溝も昭和3年ころに約半年間の工事で暗渠となった。この工期の間商店は開店休業状態に追い込まれたが、保証を要求する者など皆無であったと「十番わがふるさと」には記されています。









2013年1月22日火曜日

麻布近辺の古代遺跡

古代の麻布近辺では標高5メ-トル以下の土地は東京湾の入り江であったと思われ、縄文時代には水辺の豊富な海産物が採集しやすい麻布の高台近辺に多くの遺跡、出土物が集中しています。 
しかし、弥生期や古墳時代の遺跡は少なく、これは麻布近辺が水田耕作に適さなかったためと思われます。以下に麻布周辺の主な遺跡をご紹介します。




麻布周辺の主な遺跡
時代 名称・所在地 備  考



西新橋1丁目(旧桜田本郷町) 古くからの伝承によるが、標高が5メ-トル以下であるため古代は海面下であったと思われ、真偽は定かではない。
虎ノ門5丁目10番 縄文時代の貝塚で、前期関山式土器、後期の土器が出土。
丸山貝塚(芝公園内) 古墳の東南斜面に散在。後期安行Ⅰ式土器も出土。
芝公園4丁目2番 東京タワ-の西端、旧紅葉館敷地跡あたりとされるが、現在は場所の特定が出来ず、謎。土器、手斧などが採集されたと言われる。
伊皿子貝塚(三田3丁目、旧三井邸内) 永く謎とされてきた貝塚だが、工事(NTT社屋の建設)によりかまど跡、土器が多く出土。
高輪1丁目24番 打製石斧が出土した記録があるが、現在は詳細不明。
白金台1丁目(明治学院内) 加曽利E式土器が出土したが、現在は消滅。
白金台5丁目(自然教育園内) 縄文土器、石斧が出土したといわれるが、詳細不明。
白金6丁目(神応小学校内) 石器が出土したと伝えられるが、詳細不明。
麻布台2丁目3番(熊野神社境内) 加曽利B式、安行Ⅰ式土器が出土。
旧三河台町、福岡氏邸内 縄文土器が出土したと言われるが、詳細不明。
旧麻布桜田町、鈴木氏邸内 貝塚、石斧が出土したが、詳細不明。
西麻布交差点 打製石斧が出土、詳細不明。
西麻布1丁目付近 打製石斧が出土と言われるが、詳細不明。
西麻布3丁目21番(鳥居氏邸内) 考古学者である氏の邸内から中期縄文土器の”厚手土器”が出土。
西麻布1丁目、3丁目 縄文土器が出土したと言われるが、詳細不明。
元麻布2丁目3番(麻布学園裏) 縄文後期の貝塚。堀の内、加曽利B式が出土。
西麻布2丁目(笄坂上) 縄文土器が出土。詳細不明。
元麻布2丁目10番(がま池付近) 厚手土器が出土。詳細不明。
南麻布3丁目1番 縄文中期の厚手土器が出土。詳細不明。
本村町貝塚(南麻布3丁目8番、11番) 港区で最大級の縄文貝塚。諸磯式土器、黒浜式土器が出土。
南麻布5丁目5番(旧盛岡町南部坂) 打製石斧が発見されたと言われるが、詳細不明。
元麻布1丁目6番(麻布山善福寺) イチョウ付近、台地の住宅地から磨製石斧が出土。
元麻布1丁目3番(旧一本松町24番地) 未完成の石器などが出土。近辺の石器の製作所跡との説も。



芝公園4丁目 大正時代に朱塗りの土器が出土。詳細不明。
三田4丁目(亀塚公園) 公園付近から弥生式土器が多く出土。
青山墓地内 長頸壺形土器が出土。詳細不明。



亀塚古墳 現在は著しく本来の形を損なっているとされ、帆立式古墳、前方後円墳の可能性も?
丸山古墳群 丸山と呼ばれる前方後円墳の西に約10基の小円墳が点在したが、芝ゴルフ場になり小円墳は現存しない。
西麻布(笄町) 詳細不明。
六本木5丁目(北日ケ窪) 詳細不明。
南麻布5丁目(有栖川公園) 詳細不明。
赤坂6丁目(赤坂氷川神社内) 詳細不明。









縄文海進の麻布中央部





アサップル伝説