2012年12月31日月曜日

清河八郎暗殺ーその2(麻布宮村町の正念寺)

前回お伝えした清河八郎暗殺事件ですが、その胴体は柳沢家の菩提寺であった宮村町正念寺に埋葬したとお伝えしました。そしてその寺があった場所に造られたのが 「ビオトープ・宮村池(正式な名称は「元麻布三丁目緑地」)」と呼ばれる小さな池です。

ビオトープ宮村池
この池は港区が自然回復事業の一環として取組んだ、身近な野生動植物のための生息空間。とのことで池の創設時期とちょうど同じ頃に「がま池」のマンション改築工事が行われていて池の保全が問題視されていたことから「ミニがま池」とも呼ばれています。

このビオトープ・宮村池のある場所は、明治期までは「正念寺」という寺院がありました。浄土真宗・本願寺派の勝田山・正念寺は、元地の築都郡勝田村(現横浜市都筑区勝田)から1752(宝暦2)年宮村町に移転してきますが、幕末の1863(文久3)年、清河八郎暗殺事件に関わりをもつこととなります。

一の橋際で暗殺された清河八郎の同志、石坂周造が遺体から首を刎ね、山岡鉄舟のもとに届けました。そして山岡は密かに首を伝通院で埋葬してもらうこととなりますが、胴体は路上に打棄てられたままでした。
そこで、柳沢家により無縁者を葬る宮村町の正念寺に葬られることとなります。これは当時の決まりで武家門前の死骸はその屋敷主が責任を持って葬るものとされていたためで、これにより暗殺された清河八郎の胴体は柳沢家の菩提寺であったこの正念寺に葬られることとなりました。

柳沢家は第五代将軍綱吉の贔屓で小姓から大老格にまで出世した柳沢吉保が起こした家で、この時の功により松平の姓を許され幕末期の地図にも吉保の末裔を「松平甲斐守」と記しています。余談ですが、ヒュースケン暗殺事件に関与したといわれている清河八郎が、ヒュースケン襲撃地点である中の橋北詰先(現在の東麻布商店街入り口付近)からほど近い一之橋際で暗殺されたのも、何か不思議な縁を感じます。

そして、維新後に廃寺となった正念寺は、一時期近くの市谷山長玄寺に吸収され、その後寺号のみが茨城県へと移転し、清河八郎の胴体である無縁仏の所在も不明となります。移転策先は、1903(明治36)年5月14日茨城県久慈郡金砂郷村久米(現在の茨城県常陸太田市久米町20-1)の「願入寺」が寺号のみとなっていた「正念寺」を東京市の許可を得て移転し、以降正念寺と名乗ることになります。

この頃の寺の跡地の様子を明治27年の警視庁起案の東京市参事会では、

共葬墓地ノ儀ハ無縁ノ死屍ヲ埋葬セシ者多ク、近来荒廃ニ属シ無数ノ白骨暴露シテ難擱状況ナルモ、元関係寺院正念寺ハ去ル明治十七年九月中、暴風ノ為メ堂宇悉ク省潰シ、現今殆ント廃寺ノ姿ニテ其管理者タル住職ハ貧困ニシテ到底管理行届カサルニ依リ本案ノ金額ヲ以テ他ノ墓地ヘ改葬セシメントス

と廃寺となった正念時跡の惨憺たる様子から、露出した遺骨の移転を警視庁の公費により執り行ったことを記しています。

そして歴史から忘れ去られた清河八郎の胴体の行方が、1912(明治45)年浅草伝法院で正四位を追贈された清河八郎の五十年祭を営んだ時、祭典に列座した一老人の談話により その後が 判明することとなります。


老人は麻布霞町の柴田吉五郎で、十一歳のときに八郎暗殺の現場を見た一人でした。 その時には、遭難者の首は未だ着いていたとのことで、幾月か経ってから吉五郎は、遭難者が 清河八郎という偉い人であるという事、並びに屍骸は 柳沢家の手で 麻布宮村町正念寺に葬られたという事を聞き知りました。

その後、正念寺は 明治二六年十月に廃寺となり、その寺籍は同町長玄寺に合併されます。その時に柴田老人は檀家総代として万事を処理し、無縁の白骨凡そ三万を、下渋谷羽根沢の吸江寺に移葬して無縁塚を建てます。そして八郎の遺骨もその一部分となっているので、この話を聴いて八郎の遺族斉藤治兵衛は、四月二十日に吸江寺を訪れ、その塚の土を掘って甕に納め、之を伝通院境内の墓石の下に葬ったといわれています。

つまり 正念寺に埋葬された清河八郎の胴体は寺の移転により一時的に 近所の宮村町長玄寺に移され、さらに渋谷吸江寺に無縁塚として埋葬されます。その後清河八郎の遺族斉藤治兵衛が同寺の埋葬地点の土を持ち帰り、首が埋葬されていた小石川伝通院に納めたそうです。



正念寺跡










より大きな地図で 事件地図 を表示













2012年12月30日日曜日

清河八郎暗殺

出羽の国(山形県庄内)浪士の清河八郎正明は、浪士組を作る事を幕臣松平主税之介に提案しました。
当時攘夷派浪士の扱いに手を焼いていた幕府はこの案を受け入れ、7つの組からなる250人の浪士隊を編成して、文久3年(1863年)2月8日京都に向かわせます。目的は、京都守護でしたが、真のねらいは、京都攘夷派の取り込みと将軍上洛の警護であったそうです。

しかし清河八郎は、京到着翌日(2月24日)学習院に尊王の建白書を提出し、幕府との約定を破って浪士隊の真意は尊王攘夷にあるとして天皇に忠誠を誓います。
これに驚いた幕府はイギリスへの攘夷を口実に、急遽浪士隊を江戸に呼び戻しましたが、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三ら20数名が京都守護を名目にとどまり、後の新選組となりました。 また、清川とともに関東へと戻った浪士たちは後に新徴組と改名し庄内藩預りとなります。

3月28日、江戸に着いた清河八郎らの浪士隊は、旗本屋敷や旅篭に分宿します。しかし待てども幕府からのイギリス攘夷の指示が無い事に憤慨した清川らは、独自に異人屋敷の襲撃を計画しました。そして、密偵によりこの襲撃計画を知った幕府は清川暗殺を決定します。

4月13日風邪気味の清河八郎はかねてからの約束で、一の橋の出羽上之山城主松平山城守藩邸に友人金子与三郎を訪ねました。酒を酌み交わし千鳥足で藩邸を辞したのは、4時過ぎでまだ明るかったそうです。

暗殺現場周辺
一の橋を渡りきったあたりで「清川先生」と呼ばれ、見ると同じ浪士隊の佐々木只三郎と速見又四郎がいました。佐々木がかぶっていた編み笠をとり丁寧におじぎをしたので、清川もこれにこたえて陣笠をとったところ、後ろから頭を切られます。そして、倒れたところ、あごにも一太刀受けて絶命しました。
この知らせを日本橋馬喰町で受けた同志の石坂周造は早籠をとばし現場に着くと、放置されていた遺体の首を打ち落とし、懐にあった500人の連判状を持ちかえりました。

首は山岡鉄太郎の屋敷で砂糖漬けにされその後、小石川伝通院に葬られましたが、胴体は無縁仏となったようで、その所在ははわからないとされていました。しかし、その後の調べで胴体は、死体のあった直近の武家がその処理をするという当時の慣例から、一の橋際の柳沢家が処理を行うこととなり、柳沢家の菩提寺であった麻布宮村町正念寺に無縁仏として葬られたことが判明しました。また暗殺された場所は、清川が首謀したとされるアメリカ公使館書記官ヒュースケン暗殺事件の起きた場所である中の橋からもほど近い場所であったので不思議な因縁を感じてしまいます。

清河八郎正明、享年34歳。



2012年12月28日金曜日

瓢箪床

昭和8年頃まで赤羽橋際に「瓢箪床」と呼ばれる理髪店があり、その側に榎の老木があって麻布名所の一つになっていました。

むかし天正十八年8月1日に徳川家康が始めて江戸に入城した時、この木に駒の手綱をつなぎ側にあった瓢箪床と呼ぶ休息所で休んだが、 その時、瓢箪床の主人に徳川家康が髪結い元締め許可のお墨付きを与えました。そしてこの瓢箪床が江戸髪結いの元祖で、その子孫は同所で代々理髪業を営み、昭和初期まで続いたといわれています。

2012年12月27日木曜日

夜窓鬼談の大入道

今回は明治22年に漢学者・南宋画家の石川鴻斎いしかわこうさいによって書かれた漢文の怪談集、「夜窓鬼談やそうきだん」の中の”大入道”という一編をご紹介します。

芝切り通し

麻布のある商人が、ある夜涅槃門の前を通り過ぎると、青黒い顔をし黒衣を着た僧が路傍に佇んでいました。商人が不審そうに見ていると、突然怪しげな気配がして寒気に襲われます。見ると僧が鉢のような頭をし、輝く三つ目の大入道となって首を延ばし、商人を舐めまわしました。驚いた商人は何度も転びながら逃げてやっと家までたどり着きました。

翌日商人は鍛冶屋にこの話をすると、元侠客で度胸のすわった鍛冶屋は商人の仇を討とうと、その日の夜中に手に金槌を持って涅槃門に行きました。そして長い時間待ったが何も現れないので、

「妖怪、出て来い!退屈で困っておる!」

と叫んびました。するとどこからともなく身の丈90cmほどの小僧が姿を現し、3つの目で鍛冶屋をにらみつけ、手招きをします。怒った鍛冶屋は金槌を振り上げて小僧を打とうとしたが、小僧は走って門のひさし に飛び乗り、そこに座って大笑いしました。ますます怒った鍛冶屋は金槌を振り上げましたが庇が高くて届きません。そこで石を投げたが当たっても小僧は平然としています。しかたがないので鍛冶屋はじっと小僧を見つめて下で待ったそうです。



芝切通し
やがて、夜が明け始めると小僧は次第に小さくなり、開けきると姿は無くなってしまいました。
そして、鍛冶屋は庇を見つめているだけでした。

この話の舞台となっている涅槃門は、現在の芝高校付近にあった増上寺の涅槃門で、さらに上がると現在の給水所あたりは広い原っぱであったといいます。

この話の導入部分で作者は、

芝の三緑山(増上寺)の北部一帯は樹木が鬱蒼と生い茂り、僧坊もほとんど無い場所であった。天保の末頃、世間に大入道が出て人を脅すという流言が広まり、日没後は行き来する者も稀であった。そのため大入道を見たものはいなかった。
-夜窓鬼談現代語訳・大入道より抜粋-

としています。また港区近代沿革図集は、涅槃門のあたりを、

~涅槃門は切通坂のなかばにあって、みだりに通り抜けが出来ず、まがりくねった細道であった~

としてこの地の寂しげな様子を表していますが、さらに「切通し」については、港区近代沿革図集には、

明治8年地図に描かれた時鐘
切通しの上は広い原で軍談師、売卜者、浄瑠璃かたり、賭博師、豆蔵、噺師、酒売り、菓子売りなどがあって賑わったが今は増上寺山内に囲い込まれた。(増補改正万世江戸町鑑)

この地は赤羽とともに栄えた地で、見世物・浄瑠璃・芝居・香具師・古着屋等が並び、いまの浅草公園のようであったが、維新後撤去された。(東京案内)

などとあり、坂上の原っぱ付近は栄えていましたが、少し下った涅槃門付近はとても寂しい所であったものと考えられます。

また坂下には時鐘があり、落語「芝浜」で主人公が聞くのは、この時鐘だと思われます。
この鐘は青龍寺脇にありましたが、その前に二代秀忠の元和元(1615)年、西久保八幡山にあったものが壊れたので家光時代の寛文十(1670)年に廃止されます。しかし、四代家網の頃に増上寺の鐘の余材で作り、芝切通しの青龍寺にかけて復活したといわれています。

<夜窓鬼談は明治22年~27年にかけて出版された怪異奇談の短編集で上下巻で86話からなる漢文の著書ですが、多少の例外を除いて日本の怪談・奇談が題材とされています。またこれらを渋沢龍彦や小泉八雲などが底本にしたことでも著名です。
作者の石川鴻斎は清国大使館などにも出入りし、清国官吏などとも交流を深めましたが、1918年(大正7年)9月13日、静岡県磐田市で86歳の生涯を終え、同所省光寺に仮埋葬されました。

三田小山町の龍原寺
そして、その後の同25日には三田小山町の龍原寺(オーストラリア大使館向い)にて本葬が営まれ、同寺の墓所に葬られました。








夜窓鬼談・大入道












より大きな地図で 大名・幕臣・文人居宅 を表示







2012年12月26日水曜日

赤羽接遇所(外国人旅宿)

赤羽接遇所跡の飯倉公園
現在の飯倉公園付近には江戸末期、「赤羽接遇所」と呼ばれる江戸における外国人の宿泊施設がありました。
赤羽橋脇心光院の裏手で、それまで幕府の武芸練習であった神田の講武所所属の空き地約9500㎡を幕府は安政6年(1859年)3月、外国人の旅宿所に指定し8月に普請が出来あがります。これは、前年6月にアメリカとの修好通商条約調印を皮切りに、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも条約を締結したため、各国使節の宿舎が必要となったためです。

赤羽接遇所の周囲は黒板塀で囲まれ、黒塗りの表門を入ると、右手に大きな玄関がありました。間口10間奥行き20間の平屋建てで、その中央のは長い廊下が設けられていました。万延元年7月23日(1860年)、修好通商条約締結のためプロシア全権公使オイレンブルグの一行はここに滞在し、その交渉の過程では、幕府側全権委員の堀 利煕が閣老との意見の相違から引責自殺し、また幕府の要請から条約協議に通訳として参加したアメリカ公使館書記官のヒュ-スケンが、接遇所からの帰途 中の橋付近で暗殺されます。

幕府の延引にあい3ヶ月の交渉が終わった12月18日、外国人に対する暴行、暗殺が頻繁に横行していた不安な情勢からプロシア使節一行は、あわただしく江戸を離れ帰国の途につきます。

赤羽接遇所
その後接遇所は、二度目の来日時の文久元年5月11日(1861年)から同年10月16日まで江戸に滞在したシ-ボルト父子の宿所となり、幕府の外交顧問として東禅寺襲撃事件の事後処理を閣老に進言し、ここから頻繁に善福寺のハリスを訪ねています。

この赤羽接遇所の他にも「高輪接遇所」が泉岳寺脇に設けられます。
これは、1861(文久元)年5月28日と翌文久2年(1863)年の二回襲撃を受け、さらに同年12月には移転を計画していた御殿山に新築されたイギリス公使館が高杉晋作、久坂玄随、伊藤博文、井上聞多などにより襲撃され焼失してしまいます(英国公使館焼き討ち事件)。そこで、イギリス公使館は、慶応元(1865)年に着任した公使パークスの要求で現在の泉岳寺前児童遊園の場所に移転します。しかし、浪士の襲撃を避けるためイギリス公使館であることを秘匿し、イギリス公使館を「高輪接遇所」と称しました。
しかし、各外国使節の江戸における宿泊所としての役割を事実上持っていたのは、赤羽接遇所のみであったと思われます。
接遇所解説板
                                  




















より大きな地図で 大名・幕臣・文人居宅 を表示

















2012年12月25日火曜日

徳川さんのクリスマス~麻布本村町(荒 潤三著)より 

麻布本村町の出身で、本村小学校の卒業生でもある荒 潤三氏の著書「麻布本村町」に「徳川さんのクリスマス」という項があります。

ちょうど「麻布のクリスマス」を探していたところだったので、是非この話を掲載したいと思い電話帳で荒氏を探し当てました。そして、当サイトの趣旨を説明した所、掲載の御快諾を頂くことが出来たので感謝しつつ、クリスマスにちなんでご紹介します。
南麻布4丁目(旧富士見町)の現在フランス大使館になっている敷地は、江戸の頃は青木美濃守、戸沢上総介の下屋敷であり、荒氏が5~6歳の頃(昭和5~6年)は松平春嶽の四男で尾張徳川家の養子となった元尾張藩主17代目の徳川義親候の屋敷でした。義親候は学習院在学中に「ジンマシン」で苦しみ、転地療養でシンガポ-ルに滞在した折、虎狩りをしたので、虎狩りの殿様と言われたが、一面学究肌で気さくな人だったといいます。

荒氏が小学校に入学する前の年(※昭和初期?)、徳川さん出入りの商人、職人たちに声がかかり、その子供たちがクリスマスの夜、屋敷に招待されたそうです。
荒氏の親戚もお抱えの植木職人だったので声がかかりましたが、子供がなかったので、荒氏とその兄が出かけることになりました。よそ行きの洋服 に羊の毛皮のマントを羽織って、店員に連れられて屋敷につきました。そして門を入ると、とんがり屋根の西洋館があって、玄関から中に入ると今まで暗い夜道を歩いてきたので、別世界のようであったと記されています。

明るい照明の下、スト-ブやペチカが燃え、にぎやかな子供たちの声がする部屋に案内されると舞台が設置されていて、そこには口紅をつけ、腰みのをまいた南洋の原住民に扮装した男が腰を振りながら、面白おかしく踊っています。しばらくしてショ-が終わると、広い部屋に案内されました。そこには、大きなシャンデリアが下がり、輝くような明るさであったそうです。
真っ白なテ-ブルクロスのかかったテ-ブルには大きなデコレ-ション・ケ-キが置いてあり、おのおのが自由に切り取って食べられる様になっていました。




はじめは気後れしていた荒兄弟も、兄が見様見真似でケ-キを切り取って潤三氏にサ-ビスしてくれました。普段まんじゅうや大福を食べていた荒氏は、初体験のケ-キの味に”上の空”になってしまったとあります。(もっとも当時、ケ-キを食べたことがある子供など、そうはいなかったであろうと思われますが)そして、その晩の事は、見るもの聞くものも、ただただ驚くばかりで、こう言う所もあるものかと口も聞けなかった。と「麻布本村町」には記されています。

この夜の様子を氏は、かなり興奮気味に記しており、65年以上たった現在もありありとその夜の事が浮かび上がってくる様がうかがえ、

帰りに玄関の所で、サンタクロ-ス姿の人が、おみやげを渡していました。それを受け取りマントを羽織って外に出ると、冷気の中、し-んと静まりかえったお屋敷町を迎えの店員と三人で歩いて帰った。

とあります。

「麻布本村町」には、昭和初期、まだ一般にはあまり祝うことがなかったクリスマスの情景が生き生きと描かれています。






徳川義親邸付近の青木坂(富士見坂)


























より大きな地図で 大名・幕臣・文人居宅 を表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2012年12月24日月曜日

二つの東福寺の謎

 前回の、麻布近辺の源氏伝説(総集編) でもお伝えしましたが、麻布と源氏伝説には深い謎があります。昨年来麻布氷川神社創建説の一つでもある源経基を調べていますが、一般的な資料の少なさから遅々として進んでいません。しかし、不思議な偶然?から同じ名前の寺がどちらも麻布氷川神社を創建したとされる源経基に関わりを持っていることが判明したのでお知らせします。

渋谷山東福寺
麻布氷川神社のご神木ともされる「一本松」ですが、この松について江戸時代の享保十七(1732)年に創刊された江戸の地誌や社寺・名所の来歴を記した「続江戸砂子」では、
○一本松
一名、冠の松と云。あさふ。大木の松に注連をかけたり。天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。~略~
 と、源経基が一本松の付近にあった民家に宿泊し、後日その民家は精舎となり渋谷・金王八幡神社の別当寺で同社と同じ敷地にある渋谷山東福寺となった事が記されています。(便宜上、渋谷東福寺と呼ぶこととします。) 

渋谷山東福寺は金王八幡宮の敷地に宮と共に創建された(住職の話では80年ほどの差があるようですが)渋谷区最古の寺院といわれ、創健者の河崎基家かわさきもといえ居城渋谷城址の一部と伝わります(別説には源義家創建説もある)。金王八幡社の社伝によると、渋谷氏の祖となる河崎基家は桓武平氏の流れをくむ秩父氏の一族であり、前九年の役での武功により源義家により与えられた武蔵国豊島郡谷盛庄(やもりのしょう)を有し源頼朝の家臣、渋谷重国の祖父だといわれています。


この基家の息子「重家」が渋谷氏を名乗ったとされ、さらに重家の息子「渋谷重国」は別名土佐坊昌俊とさのぼう しょうしゅん金王丸こんのうまるとも呼ばれ金王八幡神社の縁起となっています。
この渋谷重国は頼朝の父である源義朝の忠臣であり。これは渋谷重家の嫡男がこの神社に祈願して金剛夜叉明王の化身として生まれたことにより金王丸と称したことによるとされています。 笄橋伝説に登場する白金長者の息子「銀王丸」と恋に落ちた渋谷(金王)長者の姫の伝説も残されているが、金王八幡神社には源経基が笄橋に設けられた関所を通過する際に敵を信用させるために使用したとされる「笄」が社宝として残されています。 

この笄について江戸砂子には、

鉤匙橋こうがいばし-大むかしは経基橋といひしと也 


笄橋伝説の笄
此川、大むかしは龍川たつかわと云大河なり。天慶二(939)年平将門将軍良望を殺し、下総相馬郡石井の郷に内裏を立てる。六孫王経基は武蔵の都築郡にあり。将門羽書をして相馬へ招く。その謀をしらんと下総に至り、帰路に竜川にかかる。越後前司広雄と云者、興世王に与し、竜川に関をすへて旅人をとがむ。ここにおゐて経基帯刀の笄を関守にくだし、是後日のあかしなるべしと也。それより経基橋といひならわせしを、康平六(1063)年三月、源頼義当所旅陣の時、その名をいやしむ。いはれあればと鉤匙橋こうがいばし とあらためられしと也。傍に一宇を建て、鉤匙殿こうがいどのとあがめしと云。 その笄、親王院にありとぞ。此親王院は渋谷東福寺の事なり。かのかうがひ今に東福寺にあり。 

としており、「笄」が別当の東福寺にあったことが記されているので寺に問い合わせました。すると、明治初期の廃仏毀釈により寺宝は現在隣接する金王八幡社に移管し保存されているとのことなので、早速連絡をすると宝物殿に現存していることが判明しました。

○東福寺誌6p  

~略~「金王八幡社記」によると、寛治6(1092)年、源義家が後三年の役の凱旋の途中にこの地に赴き、領主・河崎基家が秩父妙見山に拝持する日月二流の御旗のうち、月の御旗を請い求めて八幡宮を勧請した。そのおり、天慶2(939)年の将門の乱のときに源経基が宿泊したという家を改めて一寺となし、親王院と称して別当寺とした。これが東福寺の起立である。~略~


○金王八幡社・社宝
・河崎基家が金王八幡社創建時に勧請した月の御旗(複製)
・源経基の笄
・鎌倉・鶴岡八幡宮の宮御輿
・金王桜
・徳川家光・春日局が寄進した本殿
・三葉葵のついた用途不明の木戸
・渋谷城址石垣の石


渋谷氏
河崎基家 源義家に隷属 武蔵国豊島郡谷盛庄に居城渋谷城を構築
 
渋谷重家 源義家に隷属 金王八幡を勧請・渋谷氏を名乗る
渋谷重国 源義朝・頼朝の家臣 金王丸=土佐坊昌俊
 
渋谷高重 源頼朝の家臣 重国の長男
渋谷光重 源頼朝の家臣 重国の次男、長男以外の息子が北薩摩に定住し薩摩渋谷氏となる


○渋谷重国=金王丸=土佐坊昌俊・説 

寺の由来が記された
渋谷山東福寺梵鐘
金王八幡社の社伝では渋谷重国を金王丸としていますが、異説には弟とする説もあります。また金王丸が土佐坊昌俊となったとする説もあります。金王丸の由来は重国の父である渋谷重家が子宝に恵まれるように金剛夜叉明王に祈願したところ男児を授かったので金剛夜叉明王の前後の2文字をとって金王丸としたとあります。そして現在も金王八幡社の一隅には金王丸を祀る金王丸影堂が安置されています。
源義朝が平治の乱で平清盛に敗れた後、義朝の家臣であった金王丸は京都に上り義朝の愛妾であり牛若丸(源義経)の母でもあった常盤御前に事の由を報告した後、渋谷に帰って出家し土佐坊昌俊と名乗って義朝の霊を弔ったとされています。
この伝説からか金王八幡社の近くには、常磐御前が植えたとされる松が由来の一つとされる「常磐松」の地名が残されています。

そして後年、渋谷重国は源頼朝の隆盛により再び頼朝の家臣となります。この時期に頼朝の命により、櫻田郷・霞ヶ関辺に櫻田神社を創建しているので、おそらく霞ヶ関あたりも渋谷氏の勢力圏内であったと想像されます。
後年の江戸砂子には渋谷の旧地名で渋谷氏の勢力が及んだと考えられる地域である谷盛庄を、渋谷・代々木・赤坂・飯倉・麻布・一木・今井として「谷盛七郷」としています。そして上・中・下渋谷三ヶ村と上・中・下豊沢三ヶ村に隠田を加えた七ヶ村を渋谷郷としています。 櫻田神社創建に関与した渋谷重国はその後、頼朝により義経追討を命じられ京都にて義経軍との戦いに敗れた後に馘首され生涯を閉じたと伝わります。(別説には馘首されたのは影武者でその後天寿を全うしたとの説もあります。)これらの功績を惜しんだ頼朝は、鎌倉亀ヶ谷の館に咲く桜木を渋谷重国の本拠地金王八幡に移植し「金王桜」としたとされ、その桜は社境内に現存します。 

金王丸以降も渋谷氏は存続し、この辺りを統治したと思われるが、大永四(1524)年北条氏綱の関東攻略の際、江戸城の扇谷上杉朝興おおぎがやつうえすぎともおきと氏綱が高縄原で衝突した(高縄原合戦)のおりに渋谷城は炎上し、渋谷氏は滅亡したとされます。そしてそれ以降渋谷氏は青山長者丸付近に館を建てて帰農したとされ、笄橋の銀王丸伝説へと続いてゆくこととなります。

 また、渋谷重国の子、渋谷光重は宝治元年の合戦の恩賞として北薩摩を拝領し長男以外の子らが薩摩に渡って土着し、薩摩渋谷氏の祖となります。
金王八幡神社
この家系は分派して明治期に東郷平八郎を輩出する東郷家の他、祁答院・鶴田・入来院・高城など渋谷五家となり薩摩においては島津家に次ぐ隆盛を誇りました。また、戦国時代以降は長年敵対した薩摩氏とも和睦のうえに隷属して後に縁戚を結ぶこととなります。これらのことから、薩摩藩島津家が幕末期に安政の大地震で倒壊した芝屋敷の代わりに幕府により常磐松の地に再建を許され、天璋院(篤姫)がこの屋敷から江戸城に輿入れすることとなったのも、ただの偶然ではなく島津家と薩摩渋谷氏の関係から選ばれた地であったことが想像されます。またさらに後年、時代の表舞台から姿を消して豪農となった渋谷氏=金王長者の居館があった青山長者丸からもほど近い原宿に、東郷神社が建立されるのも渋谷氏との関連からと想像されます。 

余談ですが、明治期のもう一人の元勲、乃木希典の乃木家は長府毛利家の家臣でしたが、幕末には櫻田神社に度々参拝したといわれています。乃木家は宇多源氏系の佐々木氏を祖に持つと云われており、佐々木秀義は平治の乱で源義朝に服属して敗北し、追捕命令が下り奥州へと落ちのびる途中で渋谷重国が二十年にわたり庇護し秀義を婿に迎えて縁戚をも結んでいます。この秀義の子である佐々木四郎高綱が乃木家の祖と伝えられるので渋谷氏と乃木氏は縁戚関係にあったことになり、これにより恩人であり縁戚関係もあった渋谷重国が創建に関与した櫻田神社を崇敬したことが想像され、櫻田神社の由緒によると乃木希典が初参りで櫻田神社を参詣したおりに着用した産着が戦前まで社に保存されていたという逸話が残されています。(後に櫻田神社により乃木神社に奉納され現在も乃木神社の社宝となっているが非公開とのことです。)

またこの渋谷東福寺とは別に、江戸期には本村町薬園坂にも「七仏薬師」で有名で、やはり東福寺の寺号を持つ寺院が存在しました。(こちらを便宜上、薬園坂東福寺と呼ぶ) 


◎薬園坂東福寺(医王山薬師院 東福寺)港区南麻布3丁目 

薬園坂七仏薬師東福寺跡
この薬園坂東福寺は正確には「医王山薬師院 東福寺」といい、江戸名所図会にも「七仏薬師 氷川明神」として描かれている。そしてこの薬園坂東福寺の「七仏薬師」は源経基の念持仏であるといわれました。

弘仁年間(810~824年)に伝教大師が上野・下野下向の折に弟子の慈覚大師が下野国大慈寺に安置し、その後天慶年中(938~956年)に源経基が守護仏として護持、その後に源頼義が守護仏として鎌倉に移し代々の管領の崇敬を受けた後に長禄年間(1457~1460年)太田道灌により川越に移設、そして江戸城平川に移転。徳川家康移転時には江戸城中に安置されていたものを慶長9(1604)年神田駿河台に移転し堂宇・常院を建立、元和3(1617)年上野広小路に移転、そして天和3(1683)年上野広小路より本村町薬園坂に移転しました。

しかし、江戸期を薬園坂ですごした東福寺も明治初期には廃仏毀釈の影響を受け廃寺となり、本堂は隣接する明称寺に売却され、七仏薬師像と十二神将像は品川区西五反田の安養院に移設されることとなります。そして残念な事に、昭和20年戦災により像は焼失した。また、明称寺に売却された薬草が天井一面に描かれた本堂は、明称寺の現在の本堂となって現存しているが拝観は出来ないようです。 

六孫王経基の念持仏とされる本尊の七仏薬師は、

★七仏薬師(伝・伝教大師作)
1.美稱名吉祥如来
2.寳月智厳院自在王如来
3.金色寳光妙行成就如来
4.旡憂最勝吉祥如来
5.法海雷音如来
6.法海惠遊戯神通如来
7.薬師瑠璃光如来
 の七像とされ、「府内誌残編」によると、
江戸末期の
薬園坂東福寺

~略~寺伝ニ本尊薬師ハ往古伝教大師比叡山ニ於テ手刻セシ七台ノ一ニシテ、比叡山中堂ニ安置セル薬師ト同木ノ像ナリ。~略~ 
 と記しています。 

★<その他の寺宝>

・徳川秀忠が家光生誕を記念して家光の名で寄進した十二神将像
慶長1十(1605)年乙巳卯月吉日
源右大将若君(家光) 御寄進

と像の背面に銘があったという。
・日光菩薩像・月光菩薩像
これで、江戸期には同じ宗派でどちらも源経基に深い縁を持つ同名の寺が麻布と渋谷に存在したことが判明しました。

この二つの東福寺を比較して見ると、



東福寺 比較
仮 称 山 号 寺 名 宗 旨 創 建 創建地 庇 護 経基との関わり 備考 所在地 現 存
渋谷
東福寺
渋谷山 親王院
東福寺
天台宗 永承~治歴
(1046~1068)年間
金王八幡
境内
河崎基家
源義家など
一本松宿舎
を後に寺とする
源経基の笄が保存
谷盛庄渋谷郷(現在地)に
金王八幡宮別当寺として建立
渋谷区最古の寺院
渋谷区
渋谷
3-5-8
元地に現存
薬園坂
東福寺
医王山 薬師院
東福寺
天台宗 慶長9(1604)年? 神田
駿河台?
源経基
太田道灌など
七仏薬師像が
経基の念持仏
七仏薬師・天和3(1683)年
上野広小路より本村町に移転
港区
南麻布
3丁目
明治初期
廃絶


・宗派・寺号が同じ
・どちらも源経基の関わりを持っている。
・どちらも江戸初期に徳川家光・春日局との関わりを持っている。

江戸名所図会 七仏薬師・氷川明神
と類似点がありますが、両寺共に不明な点が多く特に渋谷山東福寺は、梵鐘に書かれた寺の由緒にも創建当時から関係のある金王八幡神社の社記にも東福寺となった精舎が一本松から移築したという記述は見あたらない。しかし前述のとおり江戸砂子には「一本松」とはっきり明記されているので、渋谷東福寺と一本松精舎の関連はさらに謎が深まります。

また笄橋伝説で源経基は渋谷側から麻布側に橋を渡ったのならば一本松での宿泊が想像され、その後暗闇坂から現在の麻布氷川神社、本村町薬園坂を抜ける古道(奥州街道といわれています)を通って西へ落ち延びたことが推測できますが、麻布側から渋谷側に笄橋を渡ったのだと仮定すると渋谷山東福寺での宿泊後に古道(のちの鎌倉街道中道なかつみち)を西へと落ち延びたことが想像されます。しかし残念ながらどちらも推測の域を出ない私の私見です。 また薬園坂東福寺については、廃寺となっているために資料が少なく江戸期に、あの場所に存在した理由を突き止めることはまったく出来ませんでした。

しかし東福寺・金王八幡神社の周囲には、渋谷重国の時代に同じ渋谷城内であったと想像され、現在も広大な社領を有して江戸初期までの麻布氷川神社を彷彿とさせる渋谷氷川神社も鎌倉期には源頼朝の庇護を受けたとされ、金王丸信仰の社であり、境内では金王相撲と呼ばれた相撲がもようされていたとあります。
さらにこの渋谷氷川神社に隣接する社の別当・宝泉寺も渋谷重本の開基といわれています。
薬園坂東福寺敷地見取図
宝泉寺は明治初期の廃仏毀釈によって没落し一時無住職となった渋谷山東福寺の管理を行っており、渋谷氏との因縁が深いといわれています。また明治初期にやはり廃仏毀釈によって没落し無住職となった麻布宮村町・千蔵寺(広尾稲荷神社の別当)、薮下・円福寺の住職を兼務するなど、麻布との関係も深い名刹であることなどがわかりました。

いづれにせよ麻布氷川神社を始め、多くの源氏伝説が残された麻布周辺ですが、 残念ながらその真実を伝えるものは、何も残されていません。

2012年12月23日日曜日

麻布近辺の源氏伝説(笄橋伝説 その2)

江戸名所図会-笄橋
これまで笄橋伝説、一本松・麻布氷川神社創建など源氏と麻布のかかわりを伝えてきましたが、今回はその麻布源氏伝説のまとめをご紹介します。

源氏と麻布のかかわりが初めて登場するのは、平将門の乱(承平天慶の乱)にちなんだ伝説です。源経基を六孫・六孫王などと唱えることがありますが、これは清和天皇の第六皇子の子ども、つまり孫なので、六孫王と言う意味だそうです。

天慶二(939)年2月、武蔵国へ新たに赴任した権守(国司クラスの地方行政長官)の興世王と介(副長官)の源経基が、前例のない赴任早々の税の取り立てをめぐって以前からの足立郡の郡司(郡を治める地方官)武蔵武芝と紛争となってしまいます。そこでこれまで親族闘争や近隣との紛争により関東地方に権力を持っていた平将門が両者の調停仲介に乗り出し、興世王と武蔵武芝を和解させましたが、祝宴の際に武芝の兵がにわかに経基の陣営を包囲したと思い込み、驚いた経基は京へ逃げ出してしまいます。そして京に到着した経基は将門、興世王、武芝の謀反を朝廷に訴えました。これが平将門の乱(承平天慶の乱)の始まりでした。この京へ逃げ帰る道中で、経基は麻布の笄橋通り一本松で宿泊することとなります。

★笄橋伝説  

この頃の笄川(龍川)は水量も多く大きな流れでしたので、この橋を通るしかありませんでしたが、橋では前司広雄と言う将門一味の者が「竜が関」と言う関所を設けて厳しく通行人の詮議をしていました。経基は一計を案じ、自分も将門の一味の者で軍勢を集めるため相模の国へ赴く途中であると偽りました。すると関所の者に何か証拠となるものを置いていけと言われ、刀にさしていた笄(こうがい)を与えて無事に通ることができました。これにより以後この橋を経基橋と呼んだそうです。そして後に源頼義が先祖の名であるためにはばかり「笄橋」と改称させました。 
金王八幡神社に伝わる
笄伝説の笄
 そして橋を渡った経基は一本松にたどり着き、樹のそばの民家に宿を求め止宿します。翌朝この木に装束をかけ、麻の狩衣に着替えたといわれます。
その様子を江戸期の書籍「続江戸砂子」は、

★一本松伝説  

天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也

としています。
しかし渋谷八幡(金王八幡神社)は寛治六(1092)年、渋谷山 東福寺は承安三(1173)年の創建と伝わっており年代が合いません。 (しかし東福寺には経基との因縁を示すものとして、経基が笄橋通過時に川の関守に与えた笄が残されています。 )  また、本村町薬園坂には江戸期まで七仏薬師を安置する東福寺薬師堂(正確には医王山薬師院東福寺)、またの名を源経基との縁から六孫王寺とも呼ばれる寺があり、この七仏薬師は源経基の念持仏と伝わっていたので、あるいは渋谷云々は「続江戸砂子」の誤記であるのかもしれません。

麻布一本松
この薬園坂の東福寺を「精舎」に当てはめるのが妥当かと思われますが、江戸名所図会、江戸砂子などによると、七仏薬師は鎌倉→川越→江戸平川 →神田→下谷と変遷して天和二(1682)年に麻布薬園に安置され、さらに貞享1(1684)年に東福寺に安置されたと伝わっていますので源経基の麻布通過時には存在していなかったようです。よって、残念ながら無関係だと思われます。

そして、あくまでも根拠のない全くの推測ですが、これを麻布氷川神社の創建と仮定すると、ほぼ年代的には無理がないように思えます。また一本松は氷川神社のご神木であったとの説もあるので、精舎→麻布氷川神社と考えても場所的にも時代的にもあまり無理がないように思えます。 

鳥居坂~暗闇坂~現在の麻布氷川神社~本村町薬園坂は古道(麻布区史には古奥州道とあります)といわれているので経基はこの道を通過したものかとも思われますが、根拠はありません。また敵対した武蔵武芝については諸説ありますが、現在も芝・聖坂の上にある済海寺は竹芝寺の跡といわれ、その当時は武蔵武芝の居館の一つであったとの竹芝伝説もあるので、北関東に拠点を置く平将門の乱の当事者たちと麻布近辺の不思議な縁が、しのばれます。

そして、武蔵武芝は氷川神社を祀る武蔵国造家を勤めたといわれており氷川神社との因縁も深いものと思われます。 
芝・聖坂の下を麻布御殿の造営に伴う古川改修工事で現在の川筋が造られるまで、三の橋から分岐した古川が流れ薩摩藩邸重箱堀となって最後に江戸湾に流れ出ていました。この川は改修工事が行われるまでは古川の本流だったとの記述もあり、この川は「入間川(いりあいがわ)」と呼ばれていました。ご存じのように「入間川(いるまがわ)」と呼ばれる川が現在も北関東に流れており、将門の乱の当事者たちの本拠地である鴻巣、浦和などのすぐ近辺でした。
一本松由来碑
 
不思議な事ですが、これは偶然の一致でしょうか?また敵である武蔵武芝が社務職を司った氷川神社を何故経基は勧進したのでしょうか?そして、経基は将門追討軍の副将軍として関東に向かいますが、将門が討たれ乱が終息したため途中から京へと引き返すこととなり、さらに帰京後にほぼ同時期に瀬戸内海で起こっていた藤原純友の乱にも副将軍に任命されて再び戦地へと赴く事が決まりますが、これも終息により実戦には参加していません。しかし、これらの功績?により地方行政官から中央軍事貴族として大きく飛躍し、以降の清和源氏が発展する礎となった事は間違い有りません。 

この他にも、三田綱坂に名を残す渡辺綱は通称で、正式名称は源綱で清和天皇を祖とします。また後年渡摂津国渡辺庄に住んだことから渡辺氏の祖ともいわれています。そして綱は、桓武天皇の皇子嵯峨天皇を祖とする嵯峨源氏の一族で、名前が代々漢字一文字であるため一字源氏といわれています。この綱の先祖には源氏物語の光源氏の実在モデルといわれる源 融(みなもと の とおる)がおり、おそらくそうとうな美男子であったと想像します。この綱が芝・綱町の由来となっており、綱坂、産湯の井戸、綱の手引き坂などにも名を留めています。江戸期の川柳には、
氏神は 八幡と 綱申し上げ


三田綱坂
 などとありますが、八幡とは御田八幡神社のことで、現在札の辻にある御田八幡の社地は一時期、三田小山町であったことから詠まれました。この渡辺綱の生まれを綱町近辺と確定する資料は無いようですが、もしあのあたりとすれば生まれが天暦七(953)年とされているので、天慶二(939)年に起こった将門の乱の直後と考えられ、その事件を聞いて育ったのかもしれません。 

また、さらに源経基の孫にあたる源頼信は、平将門の叔父良久の孫忠常が下総の国で乱を起こしたおり(平 忠常の乱)、朝廷からの命令により「鬼丸の剣」でこれを討ちはたし、鎮守府将軍となりました。その時[長元1(1028)年]坂東の兵を集めたのが赤羽橋の土器坂付近で「勝手ヶ原」とよばれた地域であったといわれています。 そして、金王八幡神社とのつながりのある金王丸(渋谷氏)と白金長者(柳下氏?)の娘の恋は笄橋伝説の別説となっており、 

★笄橋伝説の別説

白金長者の息子銀王丸が目黒不動に参詣した時、不動の彫刻のある笄(髪をかきあげるための道具)を拾った。その帰り道で黄金長者の姫と偶然出会い、恋に落ちる。2人は度々逢瀬をかさねるようになり、ある日笄橋のたもとで逢っていると、橋の下から姫に恋焦がれて死んだ男の霊が、鬼となって現れ襲い掛かった。すると笄が抜け落ち不動となって鬼を追い払い、2人を救った。その後ふたたび笄に戻って橋の下に沈んだ。のちに長男であった銀王丸は家督を弟に譲り、黄金長者の婿となった。

三田綱の手引坂
との伝説を残していて、こちらにも渋谷氏と源氏のつながりが垣間見えます。さらに、時代が下って江戸初期には渋谷氏が創建したとされる櫻田神社が元地の櫻田郷から赤坂を経て麻布へと移転し、麻布と源氏の因縁をさらに強めることとなります。

















綱産湯の井戸
























より大きな地図で 麻布近辺の源氏伝説 を表示

























2012年12月22日土曜日

黄金、白金長者(笄橋伝説 その1)

現在の西麻布交差点付近は、住居表示変更前までは麻布笄町(こうがいちょう)という町名で呼ばれていました。
笄橋跡から牛坂


笄町は明治期に新設された町名で、旧湯長谷藩邸、武家地、開墾地などを併せて起立した広い範囲の町で、牛坂下の笄川こうがいがわ龍川たつかわ)にかかる笄橋があったためについた町名だそうです。

そして、「こうがい」の語源については諸説があるようですが、代表的なものとして、



●笄 
源経基がこの橋を通過する際に使用した刀の笄が語源
鉤匙
上記笄と同義。本来笄は髪を整えるための道具。毛筋を立てたり、髪のかゆいところをかいたりするための、箸に似た細長いもの。象牙・銀などで作られており刀の鞘(さや)に挿しておく、中世以降は装飾具として使用された。
●甲賀・伊賀
家康入府に伴いこのあたりに組屋敷を拝領した甲賀衆と伊賀衆の境界の橋。「こうが・いが」が「こうがい」に転化
●香貝(こうがい)
このあたりをかうがい村・こうが谷といったのが転化した。
●小貝
上記に同じ。「こがい」が「こうがい」に転化
●高貝
長谷寺鐘銘にこのあたりを「高貝村」とあるため。高貝村の橋で高貝橋
●鵠が居
こうが生息する地域で「鵠が居」
国府方こうがた
このあたりを国府方こうがた村といったため。「こうがた」が「こうがい」に転化
●後悔
むかしこのあたりの百姓が公儀に訴訟をしたが、敗訴して後悔したのでついた地名。
●狼谷
「江戸雀」には笄橋あたりを狼谷おおかみだにとも呼んだとある


江戸末期の笄橋
などがあります。 そして、この笄橋にはいくつかの伝説が残されており、その一つは、黄金長者の息子と白金長者の娘にまつわる伝説です。

★黄金白金長者伝説

鎌倉から室町時代にかけて南青山4丁目付近に黄金長者(一説には渋谷氏)とよばれた長者が住んでいました。名の由来は幼名を金王丸といったためで、現在も長者丸商店街、金王丸塚、渋谷長者塚などが現存します。 
また白金長者は、柳下氏といい元は南朝禁中の雑式を勤めた家系で、南朝没落後の応永年間(1394年~1427年)頃から郷士となって今の白金自然教育園あたりに住み、江戸時代には元和年間に白金村の名主となって幕末まで栄え、その子孫は横浜市に現存するそうです。 
この二つの長者は、近隣であったため交流があったと思われ、その有名なものが現在西麻布交差点付近の「笄橋」の由来です。 
白金長者の息子銀王丸が目黒不動に参詣した時、不動の彫刻のある笄(髪をかきあげるための道具)を拾った。その帰り道で黄金長者の姫と偶然出会い、恋に落ちる。2人は度々逢瀬をかさねるようになり、ある日笄橋のたもとで逢っていると、橋の下から姫に恋焦がれて死んだ男の霊が、鬼となって現れ襲い掛かった。すると笄が抜け落ち不動となって鬼を追い払い、2人を救った。その後ふたたび笄に戻って橋の下に沈んだ。のちに長男であった銀王丸は家督を弟に譲り、黄金長者の婿となった。
江戸名所図会-笄橋
 といわれています。 そして、現在は、笄川こうがいがわ龍川たつかわ)が暗渠になってしまったため橋も存在せず、ただの交差点になってしまいましたが、笄川(龍川)は暗渠を通って今でも天現寺で古川に注ぎ込んでいます。そして上笄町には、黄金長者の姫が長者丸の屋敷から笄橋で待つ銀王丸と逢うために下りた坂が「姫下坂ひめおりざか」という名を残しています。 

江戸期の書籍「江戸砂子」の鉤匙橋の項には、 

~又古き物語に、白銀長者の子銀王丸と云もの、黄金の長者が娘と愛著の事あり。
童蒙の説也~ 

 とあり、また同書「長者が丸」の項では両長者を、 

百人町の南。むかし此所に渋谷長者と云者住みけり。代々稚名おさなな金王丸こんのうまる と云。
渋谷の末孫なりといへり。その頃白銀村に白金の長者といふあり。それに対して黄金の長者
もいふと也。応安(1368~1375年) ころまでもさかんなりしと云。その子孫、ちかきころまでかす
かなる百姓にて、此辺にありつるよし。今にありけんかしらず。

 と記しています。また、「故郷帰の江戸咄」という書籍では、

それより百人町かかり、長者丸を過て香貝橋に着たり。ここを長者丸云事、香貝橋のいわれを古老の云伝にはむかし此所に渋谷の長者とて長者有けるが、金(こがね)の長者也とて代々おさななを金王丸といへり。是正尊(※土佐坊正尊)が子孫成べし。然るに後光厳院の御代かとよ、其時の長者の子なきにより、氏神八幡宮に祈て女子をもうけたり。此姫十五の春の比、目黒不動に参詣しける所に、白銀村の長者の子をしろかねの長者也とて代々おさな名を銀王丸と申せしが、是も目黒に参詣して御賽前のきざ橋にてかうがひをひろい給う。見ればくりからぶどうのほり物也。是はひとへに明王より給りたる所なりとて秘蔵し、下向の道にて渋谷の長者の娘を見て、恋慕の闇にまよひ、帰りて中だちを頼、千束の文を送りて終に心うちとけければ、忍やかに行かよふ。あこぎが浦のならひあればはやはしはし人も知たるようになる程に、有夜姫をともなひて、館の内を忍出て此橋まで迄来たりぬ。もとは大河にて橋も広長成けるとぞ。渡らんとするとき橋の下より鬼形あらはれ出てさまたげんとす、其時太刀にさしたるかうがいぬけて、くりからぶどうと化、鬼神をのまんとかかる。鬼神も又是にまけじとあらそひけるが、終に鬼神いきほひおとりて、いづちともなくさりうけり。その時またもとのかふがひと成りてここにしづみける故にかうがいはしと云うと也。彼鬼形と見へしは日比渋谷の姫を恋て、色にも出さずして恋死たるものの霊魂なりとかや。彼長者の住ける跡を長者丸と云伝へけると也。かくて追手のもの共来り、二人ともつれ帰りて、渋谷の長者には幸男なければとてむこに取りて銀王を改金王丸とし、銀(しろがね)の長者には子供おほき故に次男を総領に立てけると也。其長者の末孫近き比迄かすかなる百姓にて有ぬるよし今もや有けん
 
と記して二人の恋の話しと笄橋伝説を伝えています。


金王八幡神社に伝わる
笄橋伝説の笄
★源氏伝説(源経基通過説)

笄橋は長者伝説の他に源氏由来説もあります。
平将門が関東で乱を起こした時(天慶の乱)、六孫王源経基はその状況を天皇に直訴するため京都へ向かう途中、笄橋にさしかかります。この頃の笄川(龍川)は水量も多く大きな流れだったのでこの橋を通るしかありませんでしたが、橋では前司広雄と言う将門一味の者が「竜が関」と言う関所を設けて厳しく通行人の詮議をしていました。 
そこで経基は一計を案じ、自分も将門の一味の者で軍勢を集めるため相模の国へ赴く途中であると偽ります。すると関所の者に何か証拠となるものを置いていけといわれ、刀にさしていた笄(こうがい)を与えて無事に通ることができたといわれています。 
これにより以後この橋を経基橋と呼びましたが、後に源頼義が先祖の名であるためはばかり笄橋と改称させたといわれています。

江戸砂子には、

鉤匙橋こうがいばし-大むかしは経基橋といひしと也
此川、大むかしは龍川たつかわと云大河なり。天慶二(939)年平将門将軍良望を殺し、下総相馬郡石井の郷に内裏を立てる。六孫王経基は武蔵の都築郡にあり。将門羽書をして相馬へ招く。その謀をしらんと下総に至り、帰路に竜川にかかる。越後前司広雄と云者、興世王に与し、竜川に関をすへて旅人をとがむ。ここにおゐて経基帯刀の笄を関守にくだし、是後日のあかしなるべしと也。それより経基橋といひならわせしを、康平六(1063)年三月、源頼義当所旅陣の時、その名をいやしむ。いはれあればと鉤匙橋こうがいばし とあらためられしと也。傍に一宇を建て、鉤匙殿こうがいどのとあがめしと云。その笄、親王院にありとぞ。此親王院は渋谷東福寺の事なり。かのかうがひ今に東福寺にあり。
このようにして笄橋の関所を通過した源経基はその後、麻布一本松の民家で一夜の宿を求めます。この様子を続江戸砂子「一本松」では、
一名、冠の松と云。あさふ。大木の松に注連をかけたり。天慶二年六孫経基、総州平将門の館に入給ひ、帰路の時、竜川を越えて此所に来り給ひ民家致宿ある。主の賤、粟飯を柏の葉にもりてさゝぐ。その明けの日、装束を麻のかりきぬにかへて、京家の装束をかけおかれしゆへ冠の松といふとそ。かの民家は、後に転して精舎と成、親王院と号と也。今渋谷八幡東福寺の本号也。  
 として、こちらでも渋谷東福寺との因縁を記しています。

この他にも麻布と源氏を結び付ける伝説は多く、源経基はこの他、「一本松」に衣をかけたといわれ、また 「氷川神社」を勧進したともいわれます。
経基の国司としての居城は埼玉県鴻巣に城址が現存しますが、麻布にも彼に関わる何か(荘園、支城?)のような物があったのでは、と説もあります。また彼の孫にあたる源頼信は、平将門の叔父良久の孫忠常が下総の国で乱を起こしたおり(平 忠常の乱)、朝廷からの命令でこれを討ちはたし、鎮守府将軍となりました。その時(長元元年10月)坂東の兵を集めたのが麻布であった。また近辺の三田にも源頼光の家来で四天王の一人、大江山の鬼退治で有名な「渡辺 綱」の伝説があります。

綱が産湯を使った「産湯の井」は、オ-ストラリア大使館内に、出生地の綱生山当光寺、綱坂、綱の手引き坂、綱が馬を得た土器(かわらけ)坂、また三田綱町と言う住居表示にも残されています。そして、

江戸っ子の綱に対する人気を表わす川柳を以下に紹介。

名からして江戸っ子らしい源氏綱

あぶないと 付き添う 姥に幼子も 手をとられたる 三田の綱坂

江戸っ子に してはと綱は 褒められる

氏神は八幡と綱申し上げ
 
などと詠まれました。 












より大きな地図で 麻布近辺の源氏伝説 を表示

2012年12月21日金曜日

岡本綺堂の麻布

半七捕物帳シリーズで有名な作家岡本綺堂は、1872年(明治5年)10月15日に高輪北町で生まれました。父岡本きよしが旧御家人で後に当時高輪東禅寺にあったイギリス公使館で書記官を務めていたために、公使館が五番町に移転するまでの3年間を高輪北町で過ごします。
岡本綺堂住居跡辺
その後、イギリス公使館の移転に伴い岡本家は麹町に居をることとなりますが、時代は下って綺堂51歳の1923年(大正12年)9月1日におきた関東大震災により岡本家も延焼し、家財蔵書など全焼してしまいます。そして9月2日には目白・高田町の弟子、額田六福(ぬかだろっぷく)方に避難し仮住まいをしますが、知人の紹介で10月12日、麻布宮村町10番地光隆寺前の借家に移転することとなりました。この日の引越しの様子を綺堂は、

~くもりと細雨のなか、9時頃から馬車で荷物の積み出し、綺堂、細君、おふみさんらは電車を乗り継いで、宮村十番地の借家へ(港区元麻布3丁目9番地)。正午に荷馬車到着。光隆寺という赤い門の寺の筋向いで、庭は高い崖に面している。~

と、日記に記しています。

綺堂は後に、宮村町での生活を「綺堂むかし語り」という随筆の中の「十番雑記」「風呂を買うまで」などで語っていて借家の様子を、


~家は日蓮宗の寺の門前で、玄関が三畳、茶の間が六畳、座敷六畳、書斎が四畳半、女中部屋が二畳で、家賃四十五円の貸家である。~裏は高い崖(がけ)になっていて、南向きの庭には崖の裾の草堤が斜めに押し寄せていた。~元来が新しい建物でない上に、震災以来ほとんどそのままになっていたので、壁はところどころ崩れ落ちていた。障子も破れていた。襖(ふすま)も傷(いた)んでいた。庭には秋草が一面に生いしげっていた。~
暗闇坂
と記し、十番商店街については、震災を免れて繁盛している様子を、


~十番の大通りはひどく路の悪い所である。震災以後、路普請なども何分手廻り兼ねるのであろうが、雨が降ったが最後、そこらは見渡す限り一面の泥濘(ぬかるみ)で、ほとんど足の踏みどころもないと云ってよい。その泥濘のなかにも露店が出る~ここらの繁昌と混雑はひと通りでない。余り広くもない往来の両側に、居付きの商店と大道の露店とが二重に隙間もなく列(なら)んでいるあいだを、大勢の人が押し合って通る。又そのなかを自動車、自転車、人力車、荷車が絶えず往来するのであるから、油断をすれば車輪に轢(ひ)かれるか、路ばたの大溝(おおどぶ)へでも転げ落ちないとも限らない。実に物凄いほどの混雑で、麻布十番狸が通るなどは、まさに数百年のむかしの夢である。「震災を無事にのがれた者が、ここへ来て怪我をしては詰まらないから、気をつけろ。」と、わたしは家内の者にむかって注意している。~
としています。また、近所の坂を詠んでいます。




狸坂くらやみ坂や秋の暮


 ~わたしの門前は東西に通ずる横町の細路で、その両端には南へ登る長い坂がある。東の坂はくらやみ坂、西の坂は狸坂と呼ばれている。今でもかなりに高い、薄暗いような坂路であるから、昔はさこそと推し量られて、狸坂くらやみ坂の名も偶然でないことを思わせた。時は晩秋、今のわたしの身に取っては、この二つの坂の名がいっそう幽暗の感を深うしたのであった。 坂の名ばかりでなく、土地の売り物にも狸羊羹、狸せんべいなどがある。カフェー・たぬきと云うのも出来た。子供たちも「麻布十番狸が通る」などと歌っている。狸はここらの名物であるらしい。地形から考えても、今は格別、むかし狐や狸の巣窟(そうくつ)であったらしく思われる。私もここに長く住むようならば、綺堂をあらためて狸堂とか狐堂とか云わなければなるまいかなどとも考える。それと同時に、「狐に穴あり、人の子は枕する所無し」が、今の場合まったく痛切に感じられた。~
狸坂
そして、末広座が明治座と改称して左団次一座の公演に向けて震災で傷んだ建物の改修工事を行っている様子や、綺堂自作の信長記、鳥辺山心中、番町皿屋敷を妻らと観劇し、末広座から通りをはさんだ福槌亭にも妻らが足を運んだことが記されています。

そして、風呂好きであった綺堂は近くの越の湯、日の出湯などに通っており、冬至のゆず湯の風景が描写されています。




宿無しも今日はゆず湯の男哉

そして大正13年の正月を迎えた綺堂は、1月15日にあった「かなり大きな余震」により9月1日の大震災ですでに傷んでいた宮村町の借家がより大きく傷んでしまったので、家主の建て直しの意向もあって引越しを決意せざるをえなくなり、その年の3月19日に大久保百人町へと再び転居します。綺堂は1923年(大正12年)10月12日から翌年3月19日までの仮寓ともいえるわずか5ヶ月間の麻布住いとなりましたが、随筆や日記には、当時の麻布界隈の様子が生き生きと描かれている貴重な資料となっています。











より大きな地図で 大名・幕臣・文人居宅 を表示










2012年12月20日木曜日

坊主湯

今の子供たちがまったくなくしてしまったコミュニケ-ションの一つに、銭湯での遊びがあります。私が小学生の頃は学校が終わって宮村公園で遊んだあとには、連れ立って銭湯に行きました。
内田坂下の朝日湯跡
宮村町界隈(というより小学生が行ける範囲)には、麻布十番に、越の湯(十番温泉)、吉野湯(現麻布病院)、金春湯(山元町)などがあり中でも、一番近い「越の湯」はよく行きました。
腰の湯は黒いお湯なので、潜水艦のおもちゃを沈めるとどこに行ったかわらなくなり、足で探すこととなります。また、シャンプ-の空き容器にお湯を入れて、女湯に飛ばすと悲鳴が聞こえました。(ただしこの遊びは、番台に恐い主人ではなく、おかみさんなどの場合のみ行われました。)また、湯から上がるとロッカ-の鍵隠しをして遊んだりもしました。

こうして1~2時間遊んで、帰りはおもちゃ屋兼駄菓子屋のしみずでプラモデルの下見をしながら腰に手を当ててラムネかチェリオを飲み干す。こんな話を先日宮村町のタバコ店渡辺さんにお邪魔して話していると昔宮村町にも「日の出湯」という銭湯があり、遊びに行くとよく湯に入れてもらったとご主人に伺いました(1998年頃)。

調べると、近代沿革図集麻布、六本木編昭和8年の地図に今の元麻布3-6-20あたりに日の出湯が載っています。また「十番わがふるさと」によると、現在の六本木ヒルズ敷地である日ヶ窪の栴檀林(現駒澤大学)寮舎の生徒(お坊さんの見習)が、その当時内田坂下の宮下町にあった朝日湯で衣装を代えて町方に遊びに行き、寮に帰る時また来て法衣に着替えたといわれています。



駒沢大学サイトによると、

1883(明治16)年の周辺地図
文禄元年(1592)、曹洞宗が禅の実践と仏教の研究、漢学の振興を目的に当時神田駿河台にあった吉祥寺に設けた学林に淵源を発し、それから65年後の明暦3年(1657)、吉祥寺が現在の駒込に移転した際に栴檀林と命名され、更に明治15年(1882)、麻布日ヶ窪に校地を得て移転し、校名を曹洞宗大学林専門本校と改めたことをもって、開校の記念日としております。その後、明治38年(1905)、曹洞宗大学と改め、更に大正2年(1913)、現在地の駒沢に移転し、大正14年(1925)、大学令による大学として認可を受けたのを期に、駒澤大学と改めました。

とあります。



そして、この見習いのお坊さんたちは、湯には入る事以外の目的である更衣室的な利用をしたため、地元の人からこの朝日湯は、「坊主湯」と呼ばれていたそうです。


また宮村町大隅坂下にあった「日の出湯」は、作家岡本綺堂のお気に入りで、「綺堂むかし語り」という随筆では、関東大震災震災直後に約半年間住んだ宮村町の風呂屋について、

わたしはそれから河野義博君の世話で麻布の十番に近いところに貸家を見つけて、どうにか先ず新世帯を持つことになった。十番は平生でも繁昌している土地であるが、震災後の繁昌と混雑はまた一層甚だしいものであった。ここらにも避難者がたくさん集まっているので、どこの湯屋も少しおくれて行くと、芋を洗うような雑沓で、入浴する方が却って不潔ではないかと思われるくらいであったが、わたしはやはり毎日かかさずに入浴した。ここでは越の湯と日の出湯というのにかよって、十二月二十二、二十三の両日は日の出湯で柚湯にはいった。わたしは二十何年ぶりで、ほかの土地のゆず湯を浴びたのである。柚湯、菖蒲湯、なんとなく江戸らしいような気分を誘い出すもので、わたしは「本日ゆず湯」のビラをなつかしく眺めながら、湯屋の新しい硝子戸をくぐった。
1933(昭和8)年の周辺地図

宿無しも今日はゆず湯の男哉



と記しています。また岡本綺堂日記にも、


10月12日

柳田と私は十番の湯へゆく。屋は越の湯といって、なかく大きい。湯から帰って、額田中嶋柳田等でビール、サイダー、洋食をくひ、額田と中嶋は一足先に帰り、柳田は八時半ごろに帰る。それから十番の通りへ出で、再び買物をする。武蔵屋で原稿紙を買った。



10月15日

竹下君に礼状をかく。それを投函ながら自宅から西の方へ行ってみる。そこにも日の出湯という綺麗な湯屋がある。



10月21日

四時ごろ入浴。このごろは越の湯をやめて日の出湯へゆく。近くて綺麗だからである。岡(鬼太郎)君も広尾からここの湯まで入浴に来るのだといふ。



などと記しています。

その他に近代沿革図集昭和8年の地図に麻布界隈では、

鶴の湯(一本松町)、東湯(北新門前町)、花湯(森元町)、和倉温泉(飯倉)、野沢湯(飯倉)、天満湯(飯倉)、一の橋浴場(一の橋)、大正湯(市兵衛町)、人参湯(今井町)、桜湯(桜田町)、日の出湯(龍土町)、朝日湯(霞町)、みどり湯(三軒家町)東湯(東町)、亀の湯(新広尾町)、竹の湯(竹谷町)、朝日湯(広尾町)、金春湯(田島町)

などが見えますが、これは麻布という土地が湧水などに恵まれ水の便がよかったことの証であると思われます。

 現在、麻布域の銭湯は麻布竹谷町にある黒美湯温泉 竹の湯さんだけが唯一営業を続けています。















より大きな地図で 麻布の水系 を表示















2012年12月19日水曜日

旧室風狂の事

今まで度々取り上げてきた「耳袋」から、今回は「旧室風狂の事」というお話をご紹介します。

宝暦(1751~64年)の頃まで俳諧の宗匠をしていた旧室(江戸の人。活々坊・天狗坊とも号した宗因派の中興者。 明和元年〔1764年]没72歳。奇行に富み、俳諧天狗話にその逸話を残す。) という人は、並はずれて背の高い異相の持ち主であり、面白い気性の持ち主でした。欲心は少しもなく、わずかばかりの衣服なども、時には人に与える事もあったそうです。  
 旧室は、ある日麻布近あたりの武家屋敷の門前を通りかかった時に、剣術の稽古の物音を聞いて、どうしてもやってみたいという気を起こしました。そして「稽古を拝見したい」と案内を乞い座敷へ通されます。しかし、旧室の風体は色の黒い大男であるため集まった者たちは互いに「天狗が懲らしめに来たに違いない」とささやきあったそうです。 
その武家屋敷の主人は若年であり、相応の挨拶がなされた後に旧室は「とにかく竹刀で一本打ってみたい」と遠慮なく申し出ました。しかし「ここは道場ではなく、内稽古をしてるだけですから」と断られましたが旧室がさらに「たってお願いする」と願うので、仕方なしに立ち合う事になります。しかし元来俳諧の宗匠である旧室に武術の心得などあるはずもなく、ただ一振りの内にしたたか頭を打たれ、やがて座敷に上がりました。そして「やれやれ、痛い目にあった。硯と紙を所望したい」といって筆で

五月雨にうたれひらひら百合の花   旧室

 と書き残して帰ったので、「今のがあの酔狂な旧室だったのか!」と大笑いになったという。

 またある時、旧室は他の宗匠たちと一同に諸侯の元に呼ばれ、俳句の会を催して一泊しましたが、旧室はその寝所の床間に出山の釈迦の掛軸があるのをことさら褒めました。そして旧室がその掛軸に「賛をしたい」と言い出したので他の宗匠たちは、せっかくの掛軸を汚すのはもってのほかだと叱ったそうです。  そして他の宗匠たちが再三再四説得したので、旧室もその場は承知して寝ました。しかし、夜更けに起きて、黒々と賛を書いてしまいました。

蓮の実の飛んだ事いう親仁(おやじ)かな

 このように旧室は愉快な僧でしたが、酒は怖いものです。ある日、本所の屋敷で行われた俳席から帰る際、「お送りしましょう」と言われたのを断ってひとりで帰ったところ、どこかで足を踏み外したものか、水に溺れて命を落としたといいます。

年末年始、主席が続きますが、皆様もどうぞお気をつけ下さい。
って、自分もですが(^^;



掛軸に賛をする→ 掛軸に俳句や自署を書き加える事。
蓮の実の~  →元気で無鉄砲な若者の形容。


2012年12月18日火曜日

永井荷風の偏奇館と松田照子

大正8年(1919年)11月8日、永井荷風は麻布市兵衛町1丁目6番地に貸地があるのを知って下見に行いきます。
偏奇館
市兵衛町は慶長年間に黒沢市兵衛という名主にちなんで名づけられた町名で、当時比較的静かな土地であったそうです。荷風は4日後の12日にもう一度様子を見て、翌13日にはその土地を借りる事を決めます。大久保余丁町の家を売却し、数え歳40歳にして市兵衛町を「隠棲の地」と定め麻布区民となることになりました。
荷風はこの地に25坪ほどで長方形2階建てペンキ塗りの家を建て、「偏奇館」と呼んびました。
荷風自身の書いた偏奇館路漫録によると、

「庚申の年孟夏居を麻布に移す。ペンキ塗りの2階家なり因て偏奇館と名づく。内に障子襖なく代る扉を以てし窓に雨戸を用ひず硝子を張り床に疊を敷かず榻を置く。旦に簾を捲くに及ばず夜に戸を閉すの煩なし。冬来るも経師やを呼ばず大掃除となるも亦用なからん。偏奇館甚独居に便なり。」

とあります。
近くには明治期に皇女和宮(静寛院宮)が住んでいて大正の当時には東久邇宮邸となった屋敷や住友邸などがあり、隠棲の地ふさわしい静けさの中に、「偏奇館」も存在したものと思われます。

その偏奇館の近所で麻布麻中小学校の先、丹波谷坂付近の市兵衛町2丁目25にこの大正8年、7歳の誕生日を迎えた女の子が住んでいました。女の子の名は松田照子。彼女の父は陸軍中佐であり、恐らく相当に厳格な教育を受け育ったと思われます。しかし成長した彼女はソビエート大使館商務官下僚ビリーイッチ氏と結婚、1930年(昭和5年)18歳でソビエトに渡りモスコー東洋語学校教師を勤めました。が当時粛清の嵐が吹き荒れたソビエトで1937年夫ビリーイッチはブハーリン派として粛清され妻の照子も消息不明に......。その後、彼女も1937年12月25日に逮捕され翌1938年3月14日にソ連最高裁軍事法廷 によりスパイ活動の容疑で銃殺宣告を受け同日、刑は執行されていたことが判明しました。
荷風と照子のつながりは何もありませんが、同時代を麻布市兵衛町で過ごした事は確かで、もしかしたら道ですれ違った事くらいはあったかも知れません。(松田照子さんの詳細はこちらをクリックしてください。)

昭和10年代に入ると偏奇館の主人は日記を部分的に切り取り、特高警察に踏み込まれた場合の防備をし始めます。昭和11年の2.26事件では、「麻布連隊反乱」と言う記述があり近所の東久邇宮邸も憲兵が物々しく警備し、27日に荷風は谷町から車に乗り虎ノ門あたりで野次馬の話により岡田総理邸襲撃の光景を知ります。この「麻布連隊反乱」という記述の中には、地元の連隊が麻布の住人を脅かした事による痛烈な怒りが込められていました。

さらに時は進み昭和20年3月10日未明、のちに東京大空襲と呼ばれる空襲で偏奇館も灰燼に帰すことになります。
当時空襲が恒常化していた東京は、9日の夜発令された警戒警報のままで明けて行くかに見えました。しかし10日午前0時8分からB29の編隊 296機が超低空で東京上空に現われ、主として下町方面を対象に焼夷弾による絨毯爆撃を開始します。

空襲警報が発令されたのはその8分後でその時にはすでに都内各所で火の手が上がっていました。編隊の一部は下町での目標物を失いやがて山の手方面に向います。そして麻布方面にも焼夷弾を投下しはじめました。火災は当初市兵衛町2丁目の長垂坂の中腹からおこり、西南の風で偏奇館のある1丁目方向に向かってきました。
隣人の叫ぶ声に驚き、鞄を持って庭に出た荷風は谷町辺にも火の手が上がるのを目撃し、気がつくと庭に火の粉が降り注いでいたといいます。
表通りに走り出た荷風は、

「時に7、8歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通りに出て溜池の方へと逃がしやり....」

とあり、およそ世間嫌いの習性にふさわしくない行いを何故かしています。
そしてその後 何を思ったか、再び偏奇館方面に戻り始めます。しかし途中の東久邇宮邸で巡査により道が遮断されていたため荷風は木立、電柱などに身を隠し、偏奇館のあたりを望みました。その時荷風に見えたのは蔵書に火がまわり一段と強く上がった炎のみであったそうです。

  そして偏奇館の焼失後荷風に残されたのは、鞄に入れて持ち出した扉に西暦年号を記した日記と原稿だけでした。

後年、再びこの荷風の「鞄」がクロ-ズアップされるのは、昭和34年です。
3月1日日曜日正午浅草のレストラン「アリゾナ」で病魔のため歩行困難に陥った荷風は店の主人が付けてくれた見送りのボ-イを振り切って、病躯を引きずりながら自力でタクシ-を拾い帰宅。いかにも荷風らしい最後の浅草行でした。その後体力を急速に失った荷風は食事も近所の大黒屋で済ませ、家の出入りも老女中のトヨのみとなります。

4月30日朝、トヨが訪れると奥の6畳間に倒れて死亡している荷風の元に残されたボストンバックには貯金通帳があり残高は23,344,974円であったそうです。

この項を書きながら、空襲の際の逃げ惑う少女と老人の姿が荷風と照子にダブってしまう不思議な錯覚にとらわれてしまいました。









より大きな地図で 大名・幕臣・文人居宅 を表示

2012年12月17日月曜日

お竹如来


心光院
お竹は両親が出羽の国(山形県)の湯殿山に願をかけて授かった子で、成長の後に江戸大伝馬町にあった佐久間勘解由の店の奉公人になります。
生来慈悲深いお竹は、朝晩の自分の食事を乞食や犬猫にまで与え、自らは水板のかどに網を置いてそこに溜まった残飯・切りくずなどを食べ、常に念仏を唱えたと伝わります。そして、その行いは奇特で、お竹のいる台所からは後光が射したといわれます。
このような徳行により死後「大日如来」になったといわれ、また、武蔵の国比企郡(埼玉県熊谷市)の乗蓮という行者が湯殿山にこもり生き仏が拝みたいと願をかけると、夢のお告げでお竹を知り羽黒山の玄良坊と言う山伏と江戸にのぼり、お竹を見つけます。
そして、大日如来の化身であることが知れると、お竹は紫雲と共に昇天していったといわれ、これにより主人の佐久間勘解由は等身の大日如来像を作り供養します。この話が江戸中に広まり如来像を拝もうとする人、数知れない有様となります。そしてに、五代将軍生母の桂昌院が、お竹の女中姿の木像を芝増上寺の子院であった心光院に祀り、江戸城の奥女中にも信仰させたことから「お竹信仰」が江戸でも盛んになったと云われています。

お竹は、延宝8年(1680年)5月19日に亡くなったとされています(別説では寛永15年[1638]3月21日)。
お竹の墓は生前雇われていた佐久間家に弔われていましたが佐久間家断絶後には、その親戚の馬込家に引き継がれ、その馬込家の菩提寺であった北区赤羽の善徳寺にあります。そして生前に雇われていた佐久間家の菩提寺である心光院にはお竹が使ったと言われる「水盤(流し板)」が伝わり、この板はお竹の死後、  五代将軍綱吉の母・桂昌院が寄進したと言う三つ葉葵の紋入の蒔絵のある黒漆塗りの箱におさめられ現存します。

しかし、本来ならば生前雇われていた佐久間家の菩提寺である心光院にあるべきだと思われますが、何故か祭祀を引き継いだ馬込家の菩提寺である善徳寺にあるなど、疑問も多く残されています。

有形文化財の表門

流し板が保存されている心光院は増上寺の学寮として開設され、増上寺が家康入府後貝塚(現・千代田区紀尾井町)から移転した時に、芝切り通しの涅槃門付近(現・芝高校辺)に移転します。さらに宝暦十一(1761)年に九代将軍徳川家重霊廟造営のため赤羽橋北詰西側に移転し、昭和ニ十五(1950)年現在地に移りました。そして、戦災を免れた表門は国の有形文化財に登録されています。ちなみに現在の寺地は完全に芝の領域であるにもかかわらず、「東麻布」の住所となっています。


当時このお竹如来は、浮世絵、歌舞伎、俳句にも表わされ庶民の人気が偲ばれる。お竹を題材にした作品を以下に。

  • 滝沢馬琴....免園小説
  • 式亭三馬....お竹大日忠孝鑑
  • 十返舎一九...お竹大日絵解
  • 小林一茶....句、「雀子やお竹如来の流し元」「守るかよお竹如来のかんこ鳥」「雪の日やお竹如来の縄だすき」
  • 歌川国芳....お竹如来昇天の図
お竹大日堂





















お竹如来像と桂昌院奉納の箱






江戸末期の心光院












お竹如来縁起











心光院寺地の変遷







より大きな地図で 麻布の寺社 を表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2012年12月16日日曜日

麻布っ子、上杉鷹山

上杉景勝から数えて9代目の米沢藩主となった上杉鷹山(治憲)は、麻布の生まれといわれています。
宝暦元年(1751年)高鍋藩三万石の6代目藩主、秋月種美と正室である秋月藩黒田長貞の娘春姫の次男として麻布一本松邸に生まれ、幼名を「松三郎」その後「直松」と称し、10歳で上杉家の養子となるまでを一本松邸で過ごしたといわれています。しかし文久2年(1862年)に書かれた地図「御府内沿革図書」を見ると高鍋藩秋月邸は今の麻布高校のあたりであり、現代の感覚からすると「一本松」とはかなり離れています。
また麻布区史に「秋月の羽衣松」という項があり、一本松の別名とあります。しかし、私には、羽衣松が一本松と同じとは考えにくく、以前の秋月邸が一本松にあったか、別の銘木があったのではないかとも考えています。しかし先日、港区郷土資料館に行ったおりに、この事を学芸員に伺ったところ「昔の地名は目標物をかなり広範囲で使っている事もある」との事で事実は不明でした。

秋月家は後漢の霊帝の末裔で応神天皇の時代に帰化して大蔵~原田を名乗り、鎌倉時代に将軍家から秋月の庄(福岡県甘木市)を授かってこれを姓とします。その後、秀吉により日向の財部(たからべ)に移封されます。この時に財部(たからべ)を高鍋(たかなべ)と改めます。この地名変更は秀吉から秋月種実への移封を申し付ける朱印状の中で「財部」を「高鍋」と誤記してあったので、これにより「高鍋」と改めたといわれています。
その後、関が原の合戦では西軍として参戦しますが、途中から東軍に寝返り、家康に所領を安堵されることとなります。しかし、この時秋月の家督を継いでいた種実の子「種長」は西軍であった不安感から、慶長10年(1605年)に江戸で家康に拝謁したおり、人質を差し出す事を申し出て、これを許可されました。おそらく秋月家麻布邸が出来たのはこの時であろうといわれています。

この秋月直松が上杉家の養子となる事が決定したのは、鷹山の母方の祖母にあたる黒田長貞の正室「豊姫」が実家の当主上杉重定から後嗣が無い事を嘆かれ、相談を受けた事により、豊姫が直松(鷹山)を推挙した事に始ります。

宝暦10年(1760年)6月27日、幕府より正式に養子縁組の許可がおりた上杉家は早速、直松を養子とし、名も「直丸」と改めて上杉家桜田屋敷に入ります。しかし、この上杉家も屋敷を桜田(日比谷)、麻布台(現外務省飯倉公館)、白金に構えていたので麻布との縁は切れなかったと思われます。
しかし当時の上杉家は財政的に逼迫していて、当主の上杉重定は以前に幕府へ藩籍の奉還まで考えていました。これは、上杉景勝の時合会津120万石が関が原の戦いで30万石に減らされ、さらに三代藩主綱勝が急逝したおりに、幕府への世嗣の届け出が無かった事により、お家が断絶するところを15万石に減封されるに留まります。この時、急きょ世嗣に仕立て上げたのが、藩主綱勝の末娘で「参姫」の夫である吉良上野介の長男(後の綱憲)でした。以降、上杉家は吉良家の財政援助なども行い、また15万石に減らされても、家臣数も格式も30万石時代と同等であったので、上杉家の財政は見る間に逼迫しました。

上杉家当主の重定は明和元年(1764年)、藩籍の奉還を願い出ましたが、親戚であった尾張藩主徳川宗睦に諭されて、これを撤回します。明和3年(1766年)7月18日、重定は直丸を伴って江戸城に登城。将軍家治の御前で元服し、直丸は将軍の一字を賜って「治憲」と称し従四位下弾正大弼となります。そして重定は翌明和4年、病弱を理由に隠居を宣言して家督を「治憲」に譲り、ここで17歳の上杉治憲(鷹山)は名実共に上杉家の当主となりました。しかし藩の財政的な状況はさらに悪化しており、江戸の庶民も、新品のなべ釜の「金っけ」を取るのに「上杉弾正大弼」と書いた紙を貼ったと言われるほどであったそうです。

また、上杉家当主となっても治憲は、実家が三万石と小さな大名家の出身であるため必ずしも家臣達に快く思われていなかったようです。しかし、江戸藩邸にいた藩内の政治的反主流派である改革派の「折衷派」との接近から江戸藩邸を改革し、明和6年(1769年)初めて米沢城に入って領地内の改革に着手しますが、当時の主流派であった重臣達から疎まれ妨害されることとなります。そこで藩士全員の登城を命じ、

①自助
②互助
③公助

を柱に新規地場産業の導入などの改革案を総て語ります。

その後、長い道のりを経て旧主流派の排除、地場産業の定着、家臣の意識改革を行い米沢藩の改革は成功してゆくこととなります。そして、後に上杉家中興の祖と言われた上杉鷹山の改革を成功させたものは、おそらくトップ自らが率先して苦労する「率先垂範、先憂後楽」という思想を貫いたためであったと思われます。その後天明5年(1785年)35歳で隠居、家督を「治広」に譲るさいに「人民は藩主の為に存在するのではなく、藩主が人民のために存在する」などと説いた「伝国の辞三ヶ条」を贈り、改革の継続を命じました。

昭和に入って、時のアメリカ大統領ケネディに日本人記者団が質問すると「私が最も尊敬する日本の政治家は上杉鷹山である」と答え、鷹山を知らなかった日本人記者がいたこともあり記者団を慌てさせたといいます。
なぜケネディ大統領が鷹山を知っていたのかは、おそらく明治41年に内村鑑三が著した英文著書「代表的日本人」のなかで西郷隆盛、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮と共に5人の日本人として取り上げられていたからであると思われます。









★追記

上杉鷹山(治憲)の実家である高鍋藩秋月家は現在の麻布高校の地に敷地を持っており、がま池と隣接していました。藩邸の庭がま池の近くには滝沢馬琴の「兎園小説」でも取り上げられた五つの異石のうちの二つが存在したといいます。一つは「寒山拾得の石像」そしていまひとつは「夜叉神像」であり、特に寒山拾得の石像は秋月氏の領知であった宮崎県児湯郡高鍋町に現存します。また幕末のアメリカ公使通訳官ヒュースケン、イギリス公使館通訳官伝吉が眠る慈眼山光林寺と六本木墓園には東京における秋月家歴代当主の墓があります。





江戸期の高鍋藩主秋月氏墓所
歴代藩 主年 代関係備 考墓 所
初 代秋月種長天正15(1587)年
~慶長19(1614)年
種実
長男
関ヶ原の役では西軍だが
寝返り所領安堵
崇巌寺(現六本木墓苑)
二 代秋月種春慶長15(1610)年
~万治2(1659)年
種貞
長男
母は種長の娘崇巌寺(現六本木墓苑)
三 代秋月種信寛永8(1631)年
~元禄12(1699)年
種春長男財部を高鍋と改名宮崎県児湯郡高鍋町・竜雲寺
四 代秋月種政明暦4(1658)年
~正徳6(1716)年
種信次男統治体制の整備宮崎県児湯郡高鍋町・大竜寺
五 代秋月種弘貞享6(1684)年
~宝暦3(1753)年
種政
長男
稽古堂を創設練馬区桜台・広徳寺
六 代秋月種美享保 3(1718)年
~天明7(1787)年
種弘
二男
上杉鷹山の父麻布光林寺
七 代秋月種茂寛保 3(1744)年
~文政2(1819)年
種美
長男
上杉鷹山の兄麻布光林寺
八 代秋月種徳宝暦13(1763)年
~文化4(1808)年
種茂
長男
生来から病弱麻布光林寺
九 代秋月種任寛政 3(1791)年
~安政3(1856)年
種徳
二男
藩政改革麻布光林寺
十 代秋月種殷文化14(1817)年
~明治 7(1874)年
種任
長男
明治維新後は明治天皇の侍読、
貴族院議員等
宮崎県児湯郡高鍋町・大竜寺





      

光林寺歴代秋月家藩主墓所
※ 六本木墓苑(港区六本木3-14-20)は、戦後の道路拡張で正信寺・深広寺・教善寺・光専寺・崇巌寺の浄土宗五ヶ寺 の墓地を常巌寺の跡地に集約した共同墓地です。



歴代藩主は所領の宮崎県児湯郡高鍋町にも墓所があり、

★ 龍雲寺 →1・3・6・7代藩主墓所



★ 大龍寺 →2・4・5・8・9・10代藩主墓所



となっているそうです。








より大きな地図で 大名・幕臣・文人居宅 を表示