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2013年9月2日月曜日

シーボルトの見た麻布

「赤羽接遇所」跡の飯倉公園

1859(安政6)年7月6日、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと長男のアレクサンダーはイギリス客船イングランド号で長崎に入港した。来日は2度目となるシーボルトは、前回来日時に妻となった滝、娘のイネと1830(天保元)年12月7日以来29年ぶりの再会を果たした。そして、前回27歳の時に来日し34歳でいわゆる「シーボルト事件」で国外退去を申し渡されるまで日本に滞在したシーボルトも63歳となっていた。

前回の来日はオランダ軍医としての来日で秘密裏に諜報活動もその任務として与えられていた(一介の軍医としては不相応の大金を所持し、それにより日本にちなんだ物品・情報を大量に収集していた)が、今回は政府の公式な肩書きはなく、民間の和蘭商事会社(国営の出島商館を解体して民営化されたものだが)顧問としての来日で、日蘭通商条約改正案の持参とコレクションの収集という目的もあった。そして目的を達し和蘭商事会社との契約を終了したシーボルトは長崎滞在中に幕府の外交顧問を依頼され、江戸出府を促された。これにより1861年3月3日シーボルト父子・三瀬周三一行は長崎港をあとに横浜へと向かった。


父子は1861(文久元)年3月10日横浜へ入港し外国人居留地で幕府からの指示を待つ。その間に多くの外国人商人や外交官と親交を深め、特にフランス公使ベルクールとは頻繁に付き合うようになった。
幕府から江戸行きの許可が下りたのは5月になってからで、5月10日の朝、船で神奈川まで行きその先は駕篭に乗って江戸入りを果す。そして一行は夕方、幕府から宿舎に定められた芝の赤羽接遇所に到着した。 (駕籠はフランス公使ベルクールの好意により自身のものを貸し出されたといわれる。) その時の様子を、


~海岸に通じる街道を通り、辻々には木戸や矢来があって閉じられるようになっていて、傍らに火の番小屋のある所を通り過ぎると、赤く塗った門のある有馬候の屋敷の向い側にある、黒い塀で囲まれた玄関前の庭を通って、私たちの宿舎、赤羽接遇所に着いた。~

とアレクサンダーは、書き残している。


赤羽接遇所に着くと役人、日本側通訳、目付などに出迎えられ、その後外国奉行新見伊勢守の来訪により将軍からの贈り物を拝領した。赤羽接遇所には条約締結のため直前までプロシア使節団が滞在しており、建物の柱や壁にはプロシア兵たちの落書きやジョークなどが掘り込まれていたという。

江戸滞在時におけるシーボルトは「幕府の外交顧問」、「西洋文明の伝達者」として講義・面会・助言など多忙を極めた。
また、各国公使、幕府外国担当の要人などに意見具申を重ねたが、滞在直後の5月28日深夜、東禅寺襲撃事件がおこるとその事後処理に忙殺される。そして、シーボルトはオランダの公式な外交員ではなく幕府に雇われた外交顧問という立場から各国代表の反感を買い、横浜で静養し再び江戸に戻った8月15日以降、特にオランダ公使デ・ウィットとの関係は冷ややかであったという。そして9月にはデ・ウィットから頻発する外国人襲撃から身を守るためと称して江戸退去を迫られる。しかしシーボルトはオランダの警護は求めずとして退去要請を無視すると、デ・ウィットは各国代表らと幕府にシーボルトの解雇を求め、無理やりに認めさせてしまう。失意のシーボルトは10月15日ついに江戸を離れ、横浜へと向かった。ここで長男のフィリップは英国公使館の通訳官として正式に任官し江戸へと戻ることになり(父シーボルトは息子がロシア海軍の士官になる道を設定していたが、フィリップの意向を尊重してのイギリス公使館勤務となったという)、これが父子の永遠の別れとなった。その後、横浜から船で長崎に戻ったシーボルトは妻のたき、娘のいね、門弟などに送られて1862年4月30日午前10時、シーボルトを乗せた船は出港し日本を後にした。

以上がシーボルト2回目来日時江戸滞在のアウトラインだが、この期間のシーボルトと麻布の関連キーワードは「善福寺」である。

麻布山善福寺さかさ公孫樹
麻布山善福寺さかさ公孫樹





シーボルトは江戸に到着した直後の5/20・5/21・5/22をはじめとして江戸滞在中、日記に記載されたものだけでも合計9回もハリスを善福寺に訪問している。当時江戸には、アメリカ公使館が麻布山善福寺、イギリス公使館が高輪東禅寺、フランス公使館が三田済海寺、オランダ公館が伊皿子長応寺などにあるが、その中でアメリカ公使館は最初に江戸進出したことから持つ豊富な情報、ヒュースケン事件(シーボルトはヒュースケンが殺害された事を当時滞在していた長崎で事件の詳細を聞き知っていた。)の真相と進捗などを聞き、イギリス公使館は高輪東禅襲撃事件関連での訪問が続いたと考えられる。

そして特筆すべきは5月22日善福寺にハリスを訪問したさいに「逆さいちょう」の観察とヒュースケン・伝吉の墓参を行ったことである。

5月22日、善福寺のアメリカ公使館にハリスを訪れ「逆さ銀杏」を見たシーボルトは、

正午、ハリス邸へ。ヒュースケン、伝吉の墓参り。ハリス邸の寺院の境内に周囲30フィートの太さのイチョウがある。この巨大な樹は、枝分かれの下、高さ12から18フィートあたりの幹から、太さ3から5インチの太い根{気根}が出ている。東ロシアのヴァリンピの樹に似た形である。

私はイチョウの一本を江戸の近くの寺で観察した。その寺は、アメリカ公使館に譲ったものであるが、木は周囲7m、高さがおよそ30mもある

   
ハリスによって造られた ヒュースケンの墓標
ハリスによって造られたヒュースケンの墓標
   
ヒュースケン墓の正面にある伝吉(DAN KUT)墓
ヒュースケン墓の正面にある伝吉(DAN KUT)墓
   
伝吉(DAN KUT)墓の 碑文表面(英文)
伝吉(DAN KUT)墓の碑文表面(英文)
   
伝吉(DAN KUT)墓 の碑文裏面 (和文戒名)
伝吉(DAN KUT)墓の碑文-裏面(和文戒名)


と、帰国後「1886年ライデン気候馴化園の日本植物。説明付き目録の要約と価格表」に記しているが、シーボルトが「逆さ銀杏」を観察し記録した事実はほとんど知られていないという。(シーボルト波瀾の生涯より)

その後、同じ日に麻布光林寺で中の橋近辺で襲撃され命を落とした「ヒュースケン」の墓とその傍らにある イギリス公使館通訳伝吉の墓を参拝した。そして両者の墓碑銘を比較して「静と動の不思議な対比である」と覚書に記している。


(ヒュースケン墓碑銘)

      日本駐在アメリカ公使館付通訳ヘンリック・ヒュースケンの御霊に献ぐ。
      1832年1月20日アムステルダムに生まれ、1861年1月16日江戸にて死去


(伝吉墓碑銘)

      伝吉Dan kutchiイギリス使節団付日本人通訳は、1860年1月29日、
      日本の暗殺者たちによって殺害された


















1861(文久元)年シーボルトの江戸滞在
出 来 事
5月 10日 横浜から神奈川を経由して陸路赤羽接遇所に夕方到着
11日 赤羽接遇所員の勤務名簿を受け取る
20日 善福寺にハリスを訪問
21日 善福寺にハリスを訪問
22日 正午再び善福寺にハリスを訪問し「逆さ銀杏」を見る。その後光林寺にヒュースケン、伝吉の墓参。
29日 早朝3時半高輪東禅寺襲撃の知らせがあり、5時過ぎに25人の護衛に守られて東禅寺を訪問し負傷者を治療。
帰路善福寺にハリスを訪問。接遇所も厳重警備となる
30日 高輪東禅寺の英国公使館にイギリス公使オールコックを訪問
6月 3日 安藤対馬守屋敷にて会談。東禅寺襲撃事件の話など
5日 外国奉行鳥居越前守、イギリス公使オールコックが赤羽接遇所を来訪
6日 外国奉行新見伊勢守来訪、水野筑前守らが来訪
15日 子息アレクサンダーが父シーボルトの書簡を持ち善福寺を訪問
17日 善福寺にハリスを訪問、イギリス公使との調停を斡旋
20日 外国奉行津田近江守と会談。赤羽接遇所に新たに警護所が設けられ警備が強化される
7月 1日 冶金学の講義
3日 外国奉行野々山丹後守来訪
10日 遣欧使節団の計画案を作成
11日 子息アレクサンダー誕生日。父シーボルトはマホガニーの箱に入った2連銃を贈る
12日 将軍侍医団が来訪。その中の一人、伊藤玄朴は鳴滝塾出身でシーボルトの門弟
13日 前日善福寺で暴動(発砲事件)が起こり、赤羽接遇所も厳重警備となる
15日 善福寺にハリスを訪問
16日 将軍侍医戸塚静海来訪。静海は鳴滝塾出身でシーボルトの門弟。仏公使ベルクール来訪
22日 船で江戸から横浜へ出立。途中鈴ケ森で20歳の娘が放火犯として火あぶりの刑に処せられるのを
偶然見る。※この処刑は八百屋お七ではない(お七の処刑は天和3年(1683)3月29日

7/22-8/14、この間、シーボルト父子は横浜に滞在
8月 14日 朝7時、江戸へと出発
15日 江戸に帰着したことを外国奉行に知らせる。道中で家々の玄関に「月見の祭り(仲秋の名月)」の飾り付けがあるのを見る。
16日 ハリスを訪問
20日 浅草寺へ 芝田町波止場より船で浅草へ浅草寺参拝。浅草では外国掛役人が密かにハリスの警護をした
21日 採鉱学の講義
23日 津和野藩主亀井隠岐守の侍医、池田多仲が来訪
9月 5日 ハリスとクラークが来訪
6日 ハリスとクラークが来訪
7日 善福寺にハリスを訪問
10日 外国奉行水野筑前守来訪。幕府が江戸退去を懇願していることを告げられる
15日 冶金学講義
25日 外国奉行で遣欧使節大使の新見伊勢守、新任の外国奉行、竹本隼人正、根岸肥前守来訪
10月 11日 子息アレクサンダーが横浜に出発
14日 善福寺にハリスを訪問
15日 江戸を出発し横浜に向かう。
(シーボルト日記より抜粋)




1861(文久元)年各国公使館・施設所在地
名 称 公 使 所在地・地図 創設時期 備 考
赤羽接遇所
講武所付属調練所跡 1859(安政六)年8月~ ロシア領事ゴスケビッチ、プロセイン使節オイレンブルグ、シーボルト父子などが滞在
アメリカ公使館 ハリス 麻布山善福寺 1859(安政六)年6月8日~ 子院善光寺はヒュースケン宿舎
イギリス公使館 オールコック 高輪東禅寺 1859(安政六)年6月4日~ 公使館通訳伝吉刺殺事件・2回の高輪東禅寺襲撃事件
フランス公使館 ベルクール 三田済海寺 1859(安政六)年8月29日~ 江戸で3番目の外国公使館。公使館の旗番ナタールが同地にて襲撃され負傷した三田聖坂上にある
オランダ公使館 デ・ウィット 伊皿子長応寺 以前よりカピタン出府時に使用 この時期オランダは長崎出島内に本拠があり公館ではなかったがカピタン出府時などに使用された。この寺は後に写真家ベアトのアトリエが併設される。公館は安政6年に西応寺に設置されたが、慶応3年薩摩藩邸焼き討ちの際西応寺が類焼しここ伊皿子の長応寺が公使館となった。一時期、スイスの公使館員が寄宿していた時期もある。寺は明治期に北海道に移転し現在はマンションとなっている。




      
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板①
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板①
      
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板②
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板②









赤羽接遇所跡

赤羽接遇所は、安政六年(1859)に、これまで講武所付属調練所であった地に設けられた外国人のための宿舎兼応接所である。同年八月に作事奉行関出雲守行篤らによって建設された内部は間口十間、奥行二十間のものと、間口奥行十間のものとの二棟の木造家屋から成っていた。
幕末にわが国を訪れたプロシャの使節オイレンブルグは、上陸後直ちにここを宿舎として日普修好通商条約を結び、またシーボルト父子やロシアの領事ゴシケビチなどもここに滞在し、幕末における外国人応接の舞台となった。

昭和四十八年三月

東京都港区教育委員会









参考文献
・シーボルト日記・再来日時の幕末見聞録-石山禎一・牧幸一訳
・鳴滝紀要-シーボルト記念館
・黄昏のトクガワ・ジャパン-ヨーゼフ・クライナー
・シーボルト波瀾の生涯-ヴェルナー・シーボルト
・歳月-シーボルトの生涯-今村明生
・文政11年のスパイ合戦-秦新二
・ふぉん・しいほるとの娘-吉村昭
・シーボルト父子伝-ハンス・ケルナー
・ジーボルト最後の日本旅行-アレクサンダー・シーボルト
・幕末異人殺傷録-宮永孝
・陽だまりの樹-手塚治虫
・ヒュースケン日本日記-青木枝朗訳
・江戸の外国公使館-港区郷土資料館
・近現代沿革図集--港区郷土資料館






スライドショー

2013年8月28日水曜日

楠本イネの住んだ麻布

① 麻布区我善坊町25番地

以前お伝えしたシーボルトには日本人妻「其扇(そのぎ)(たき)」との 間に、娘の「イネ」がいます。イネはのちに「オランダおイネ」とも呼ばれ女医(正確には医師免許は取得せず、産婆であったそうです。)の草分けとなった人ですが、その晩年を麻布で暮らしたことはあまり知られていません。

イネは1827(文政10)年5月6日長崎出島で生まれました。しかし、2歳の時に父シーボルトは国外追放となり、イネの養育は シーボルトの信頼する弟子の二宮敬作に託されます。長じたイネは二宮敬作、石井宗謙らのもとで産科医としての 修行をはじめます。1852(嘉永5)年、25歳で石井宗謙とのあいだに長女「たか」が出生。その後もポンペ、ボードウィン 、マンスフェルトなどに医学を学び、1859(安政6)年32歳の時にシーボルトの再来日により母滝とともに父への再会を 果たします。その後、1870(明治 3)年には上京し築地で産科医を開業、福沢諭吉らと親交を持ちながら1873(明治 6)年- 宮内省御用掛を拝命し若宮の出生を助けています。しかしその先祖の墓所を守りたいとの念から長崎に帰省し、西南の役が起こる1877(明治10)年、二度目のシーボルト江戸参府に付き添い、娘たかの夫となっていた三瀬周三が急死。これ によりイネとたかは長崎で同居を始めますが、まもなく医学を学ぶためにたかは江戸へとむかいます。


② 麻布区麻布仲ノ町6番地
その後、1879(明治 12)年長崎に戻ったたかは懐妊していました。そしてその子が生まれると亡くなった前夫とおなじ名「周三」をつけました。 周三は生まれるとまもなく池原家に養子に出され、たかは請われて山脇泰介(山脇学園創始家)に嫁ぎます。しかし翌年、イネは池原家 に懇願して周三を自分の養子として貰い受け養育を始めます。そして山脇家に嫁いだたかは二子をもうけるが、幸せは 長く続かず夫の山脇泰介が急死し、たかは再び長崎のイネのもとに戻り、同居を始めます。

その後、1889(明治22)年秋、シーボルト離日時に英国公使館通訳官として日本に残った異母弟アレクサンダーからの 招聘でイネは再び東京に出ることとなります。そして麻布区仲ノ町11番地アレクサンダーの弟ハインリッヒの持ち家の空き洋館に住居を定め、 娘たか・孫(戸籍上は養子)周三、多き、たねと同居し、楠本医院を開業する(イネは医師免許を取得しなかったため産婆としての開業)。 この時に麻布区役所に提出した「借家寄留届」にはイネ自身の身分関係を「亡佐平孫楠本イ子」として親の名を記していないそうです。ちなみに 1898(明治31)年戸籍法が制定されるとイネは長崎市に親の名を「新兵衛」として届けていますが、これは死亡月日などから 母たきのことだろうと思われます。これらは当時有名人とはいいながらも、異国人を父に持つという現実が世間の目からは相当 厳しくみられていたであろうことを忍ばせる出来事だと考えられています。

③ 麻布区麻布仲ノ町11番地

この我善坊町の屋敷で一年半あまりを過ごしたイネと家族は、明治24年5月10日に麻布区麻布仲ノ町6番地、明治25年5月20日 麻布区麻布仲ノ町11番地と麻布区内に住居を変えることとなります。そして明治28年5月18日(イネ68歳)麻布区飯倉片町32番地にて逝去します。前日の 夕食にイネは好物の鰻を食べ、その後孫たちと西瓜を食べたそうです。その後、夜半に腹痛を訴えて医者が呼ばれましたが、医者の診断は「食傷」とのことでした。しかし明け方には昏睡状態となりその日の夜、家族に見守られながら息を引取ったといわれています。

イネが最晩年を過ごした麻布ですが、


① 明治22年7月11日(イネ62歳)麻布区我善坊町25番地 
② 明治24年5月10日(イネ64歳)麻布区麻布仲ノ町6番地に転居 
③ 明治25年5月20日(イネ65歳)麻布区麻布仲ノ町11番地に転居 
④ 明治28年5月18日(イネ68歳)麻布区飯倉片町32番地に転居 
⑤ 明治36年8月26日(イネ76歳)麻布区飯倉片町28番にて逝去




④ 麻布区飯倉片町32番地
と、現在の飯倉片町交差点を中心としてこの場所への固執がみられるような気がします。これについてシーボルト記念館に質問 してみましたが、その理由を明らかにする
資料は見つかりませんでした。しかし、個人的な推測ですが、この住居選定と養子の周三が 大きく関わっているような気がしてなりません。

これは、イネ一家の上京がイネが養子の周三に医学を志してほしいとの思い から発したもので、吉村昭著「ふぉん・しいほるとの娘」によるとイネは以前から親交のあった石神良策の娘婿である 海軍軍医石神亨に相談し、義父の愛弟子である高木兼寛の創立した慈恵医大への入学を勧められていたようです。そして周三は、その意に答 えてイネの逝去前後に慈恵医大に入学しています。

この入学時期について吉村昭は「ふぉん・しいほるとの娘」でイネの生前で であるとしてこの入学を機に周三に鳴滝の土地の譲渡を行っているとしていますが、慈恵医大データベースにある論文 「髙木兼寛の医学-シーボルトの曾孫・楠本周三-松田誠著」には、イネに慈恵医大を紹介したのは福沢諭吉であり、 周三の入学時期を1904(明治37)年としています。しかし1879(明治12)年生まれの周三は慈恵医大の入学時には25歳であった ことになります。これは当時の慈恵医大の受験は難関であったため浪人期間があるのかもしれないと論文は推測しているのですが、 独協中学への入学も周三の年齢を18歳としていて、小学校の後に2年間の高等小学校に通ったと仮定してもさらに 4年ほどのブランクが生じることとなります。これは当時の一般的な中学の入学年齢の12歳前後からすると大変に遅いものです。

      
⑤ 逝去地
麻布区飯倉片町28番

そして慈恵医大の卒業名簿から周三の卒業を1908(明治41)年29歳としている。これらのことから論文によるとイネの逝去時には まだ周三は慈恵医大には入学していなかった事となりますが、イネが周三に慈恵医大入学を希望していたのは確かなことである と思われ、イネは芝愛宕の慈恵医大の比較的近所であった土地を意識的に選んで転居を繰り返していたのではないかと思われてなりません。

余談となりますが、楠本周三の実母「たか」は江戸末期には宇和島藩主伊達宗城の侍女として使えますが、その当時漫画家の松本零士の六代 前の先祖が三瀬周三の同僚で「たか」と面識があったそうです。松本家の先祖は「たか」の美しさを代々語り継ぎ松本零士にも伝えられたそうです。  この記憶によって松本零士は作品で描く宇宙戦
艦ヤマトのスターシアや銀河鉄道999のメーテルなどの女性像を、「たか」を イメージして作った。と自身が講演会などで語っています。

イネの姓について「ふぉん・しいほるとの娘」で吉村昭は宇和島藩主伊達宗城がイネにそれまでの失本( しいもと)から「楠本(くすもと)」姓を名付け、 名をいね→伊篤(いとく)、としたとしていますが 「鳴滝紀要-楠本・米山家資料にみる楠本いねの足跡-シーボルト記念館発行」によるとシーボルト記念館の収蔵資料に最初に 「楠本」姓がみられるのは明治2年だといわれ、それ以降も書簡などに失本を名乗っているものがあるそうです。 また名もいね、い祢、以祢、イ子(いね)を名乗っていますが「稲」は 相手が宛先に「稲」を使用した書簡が残されています。しかし、これは誤字だとされているようです。最後に父シーボルトは再来日時の書簡では「Oine」と 書いています。

三瀬周三と高






  • 1827(文政10)年-5月6日 長崎出島で誕生
  • 1830(天保元)年-12月7日シーボルト国外追放
  • 1845(弘化 2)年-1851(嘉永4)年まで備前の石井宗謙のもとで産科修業(18歳)
  • 1851(嘉永 4)年-1854(安政 1)年まで長崎の阿部魯庵もとで産科修業(24歳)
  • 1852(嘉永 5)年-2月7日 長女たか誕生(25歳)
  • 1854(安政 1)年-1861(万延2)年まで伊予宇和島の二宮敬作のもとで産科修業(27歳)
  • 1859(安政 6)年-7月6日父シーボルト再来日(32歳)
  • 1859(安政 6)年-7月8日母たきとシーボルトに対面(32歳)
  • 1859(安政 6)年-1862(文久2)年までポンペに産科を習う(32歳)
  • 1862(文久 2)年-4月19日アレクサンダー英国公使館通訳官となる
  • 1862(文久 2)年-4月30日父シーボルト日本を離れる(35歳)
  • 1862(文久 2)年-1866(慶応2)年までボードインに産科を習う(35歳)
  • 1869(明治 2)年-母たきの死亡により家督を相続(42歳)
  • 1870(明治 3)年-アレクサンダー日本政府民部省入省(43歳)
  • 1870(明治 3)年-上京し築地で産科医を開業(43歳)
  • 1873(明治 6)年-宮内省御用掛を拝命(46歳)
  • 1879(明治12)年-孫の「周三」が生まれるが、すぐに養子に出される。(52歳)
  • 1880(明治13)年-孫の周三を養家から引取り養子とする(53歳)
  • 1883(明治16)年-孫の「多き」が生まれる(56歳)
  • 1884(明治17)年-産婆免許願いを長崎県令に申請(57歳)
  • 1887(明治20)年-孫の「多祢」が生まれる(60歳)
  • 1889(明治22)年-7月11日長崎から麻布我善坊町25番地に転居(62歳)
  • 1891(明治24)年-5月10日麻布仲ノ町6番地に転居(64歳)
  • 1892(明治25)年-5月20日麻布仲ノ町11番地に転居(65歳)
  • 1895(明治28)年-5月18日飯倉片町32番地に転居(68歳)
  • 1900(明治33)年-鳴滝の土地を周三に譲渡(73歳)
  • 1901(明治34)年-隠居届を提出、周三戸主となる(74歳)
  • 1903(明治36)年-8月26日麻布区飯倉片町28番にて逝去(76歳)



このように晩年の14年間を麻布で過ごした「いね」ですが、何故麻布に住まいを決めたのかを解く鍵は孫の周三にあると思われます。 長崎を終の棲家としていたいねが人生最後の力を振り絞って上京したのは、私見ですが孫周三を医学の道に就かせたいという、希望というよりも 執念に近いものがあったように思えてなりません。

前回の上京時に知己を得た慶應大学の福沢諭吉を通して慈恵医大を知る立場にあり、慶應大学にはまだ医学部がなかった事からも、いねは周三の慈恵医大入学を 熱望したのではないでしょうか?そしてその願いが叶った折にも全寮制の慈恵医大からも近い我善坊、狸穴辺を選んだのかもしれません。いづれにしても麻布内を4回も転居を重ねながらも、位置的には飯倉片町辺からほとんど動かなかった 転居には何がしかの理由があったものと想像されます。






参考文献
・鳴滝紀要-シーボルト記念館
・ふぉん・しいほるとの娘-吉村昭
・シーボルト日記・再来日時の幕末見聞録-石山禎一・牧幸一訳 ・シーボルト、波乱の生涯
・東京市及接続郡部地籍地図-1912(大正1)年発行
・東京市及接続郡部地籍台帳-1912(明治45)年発行
・シーボルト父子伝-ハンス・ケルナー
・ジーボルト最後の日本旅行-アレクサンダー・シーボルト
・近現代沿革図集--港区郷土資料館



レファレンス協力

・シーボルト記念館
・大洲市立博物館











より大きな地図で シーボルト足跡・榎本いね晩年居宅 を表示








2012年12月26日水曜日

赤羽接遇所(外国人旅宿)

赤羽接遇所跡の飯倉公園
現在の飯倉公園付近には江戸末期、「赤羽接遇所」と呼ばれる江戸における外国人の宿泊施設がありました。
赤羽橋脇心光院の裏手で、それまで幕府の武芸練習であった神田の講武所所属の空き地約9500㎡を幕府は安政6年(1859年)3月、外国人の旅宿所に指定し8月に普請が出来あがります。これは、前年6月にアメリカとの修好通商条約調印を皮切りに、オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも条約を締結したため、各国使節の宿舎が必要となったためです。

赤羽接遇所の周囲は黒板塀で囲まれ、黒塗りの表門を入ると、右手に大きな玄関がありました。間口10間奥行き20間の平屋建てで、その中央のは長い廊下が設けられていました。万延元年7月23日(1860年)、修好通商条約締結のためプロシア全権公使オイレンブルグの一行はここに滞在し、その交渉の過程では、幕府側全権委員の堀 利煕が閣老との意見の相違から引責自殺し、また幕府の要請から条約協議に通訳として参加したアメリカ公使館書記官のヒュ-スケンが、接遇所からの帰途 中の橋付近で暗殺されます。

幕府の延引にあい3ヶ月の交渉が終わった12月18日、外国人に対する暴行、暗殺が頻繁に横行していた不安な情勢からプロシア使節一行は、あわただしく江戸を離れ帰国の途につきます。

赤羽接遇所
その後接遇所は、二度目の来日時の文久元年5月11日(1861年)から同年10月16日まで江戸に滞在したシ-ボルト父子の宿所となり、幕府の外交顧問として東禅寺襲撃事件の事後処理を閣老に進言し、ここから頻繁に善福寺のハリスを訪ねています。

この赤羽接遇所の他にも「高輪接遇所」が泉岳寺脇に設けられます。
これは、1861(文久元)年5月28日と翌文久2年(1863)年の二回襲撃を受け、さらに同年12月には移転を計画していた御殿山に新築されたイギリス公使館が高杉晋作、久坂玄随、伊藤博文、井上聞多などにより襲撃され焼失してしまいます(英国公使館焼き討ち事件)。そこで、イギリス公使館は、慶応元(1865)年に着任した公使パークスの要求で現在の泉岳寺前児童遊園の場所に移転します。しかし、浪士の襲撃を避けるためイギリス公使館であることを秘匿し、イギリス公使館を「高輪接遇所」と称しました。
しかし、各外国使節の江戸における宿泊所としての役割を事実上持っていたのは、赤羽接遇所のみであったと思われます。
接遇所解説板
                                  




















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2012年10月1日月曜日

シーボルトの見た中秋の名月

中秋の名月と
麻布氷川神社 2009年
昨晩は中秋の名月。しかし台風17号の通過でほとんどの方が、
その姿を見ることが出来なかったと思われます。

今から150年あまり前の1861(万延二)年、シーボルトは二度目の来日で、赤羽接遇所(現在の飯倉公園あたり)におりました。
この滞在中、一時期横浜に出張し再度江戸に戻る短い旅行の中で
不思議な体験をします。シーボルト日記によると、


1861年9月19日(木曜日) 旧歴 八月一五日

外国奉行に江戸到着を知らせた。
月見-月祭りTsuki-mi-Mondfestが祝われた。
そのため我々は、昨日、大名行列にも会わなかった。民衆の姿もほとんどなかった。

そして覚書にも、

[覚書]月見の祭
 八月一五日、月見(tuki-mi)が行われる。神奈川から江戸に行く街道のいたる所、家の玄関の前 に二本の竹竿が立てられている。花を咲かせているススキ、ヨシ、その他の秋の植物で飾られている。

と、民衆も大名も外出を控えて、家での月見を楽しんでいた様子が記されています。
このシーボルトが江戸を訪れた江戸末期はまだ太陰暦でしたので、毎年八月一五日は中秋の名月でした。

シーボルトが滞在したこの年はアメリカ公使館ヒュースケン殺害事件高輪東禅寺の第1回イギリス公使館襲撃事件善福寺襲撃などが攘夷派によって行われ、シーボルトは毎日のように善福寺のアメリカ公使館を訪れて、ハリスと意見の交換を行っています。そんなシーボルトが見たつかの間の庶民の楽しみを、心に深く刻んだものと思われます。

その後10月まで江戸に滞在したシーボルトは、息子アレキサンダーを英国公使館書記官として日本に残し、長崎で娘イネや門弟などに別れを告げた後、帰国の途につきます。
そして明治の世を迎えると、アレキサンダーと共に次男のハインリッヒも来日して、外国人のオヤトイとして日本側の外交官として活躍することとなります。

更に時代は下って1889(明治22)年7月11日、すでに老境となっている62歳のシーボルトの娘「楠本いね」は長崎の鳴滝塾を処分し、二度目の上京をします。そして、父と腹違いの弟が滞在した赤羽接遇所のすぐ近所である飯倉片町、我善坊町、中ノ町辺に何故か執着し、1903(明治36)年8月26日76歳で麻布区飯倉片町28番地にて、その生涯を閉じることとなります。