2009年8月30日日曜日

本当にあった怖い話② 呼ばれた人

11年前の1998年夏、麻布十番納涼まつりの最中に起こった不思議な話を友人から聞いて当サイト掲示板に掲載したが、今回は、その話を再びご紹介。


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投稿日付: 1998年 10月 14日 05:37
名  前: DEEP AZABU
e-mail :
タイトル: ちょっと怖い話!

以下は、10年ほど前の納涼まつりが終わって間もなく、友人のKさんから届いた
メ-ルからの抜粋です。(本人の了解済みです。)

祭りそっちのけで、十番の山忠で三田の友人と二人で飲んでたんだが
飲み飽きて酔った勢いで、30年ぶりに麻布山にクワガタを探しに行くことになった。
氷川神社の横の路地から塀を乗り越えて墓地に入った。
最初は真っ暗でなにも見えなかったが、その内に目が慣れてくると墓地もだいぶ変わっていて目当ての木はもう無かった。そして旧田宮二郎邸裏の鐘突堂も無くなっていた。むかしあんなに獲れたのに、なんて
感慨にふけっていてふと気がつくと、一緒だった友人がいない!
呼んでみたが返事もない。その手の悪ふざけをするような奴でもないので、しばらく待ったが10分位しても、戻ってこない。だんだん怖くなってきたので、携帯で電話をかけて気を紛らしていると、ひよっこり、そいつが戻ってきた。どうしたんだと尋ねると、恐ろしい事を、言い始めた。

誰かが呼んでいるので行ってみると、とある墓の前だった。そして墓の方から何やら声がする。
良く聞いてみると、「ここを守れ」と言っている。ホームレスでもいるのかとしばらく様子をみたが、まったく人がいる気配がない。しばらくその声は聞こえて、止んだ。そして戻ってきたと言うんだ。
その話をきいて、不思議と怖いとは思わず、私もそこへ連れていけと言って、行ってみた。
すると真新しい墓で一族の墓が何基か並んで柵をめぐらせてある立派な墓だった。オレには何も聞こえなかったが、良く考えてみると「ここを守れ」とは明らかにこのあたりに高層マンションが建設され、墓所が縮小される事を言ってるんだと思った。

私には何も聞こえなかったが、友人が私をからかったとも思えない。第一、そいつは、マンションの計画のことは、まったく知らなかった。
とりあえず、線香が無かったのでその墓に持っていた新しいタバコに火をつけて供養し、出来る限り力になることを祈ってきたが、何とも不思議な出来事だった。
世の中、訳の解らない事って、あるんだな。
という訳で、麻布山のクワガタは永久に獲れなくなってしまった。

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●後日談


私がこの話を聞いたのは彼が体験した直後で、元麻布ヒルズの建設計画が周囲にも周知され始めた時期だった。そして後日、確証のためにK君と昼間墓地を訪れ、私も声がしたというその新しい墓所をはっきりと確認した。が、しかし.....

11年ぶりに当時の様子を思い出そうと、先日(2009年8月)墓所を訪れ、かなり丹念に探したが.....該当する墓所は、すでに存在しなかった。
また、この時の様子を克明に語ってくれたK君に連絡し当時のことを聞くと、.....そのようなことが起こった事を彼は全く覚えていなかった。(当時も今も、K君は冗談やホラでこの手の話をする人間ではない。)

たった11年で、当時出来たての大きな墓所が消えてしまい、体験者の記憶から完全に消えてしまった。
私の感覚からすると、どちらもあり得ない事のように思うが、声の主は、

.......いったい何を伝えたかったのだろうか。


元麻布ヒルズ 2002年竣工

2009年8月28日金曜日

本当にあった怖い話① たいまつ


秋めいたかと思うと、蒸し暑くて眠れない夜が来たりの昨今だが、今回はそんな寝苦しい夜にうってつけの「本当にあった怖い話」を2回に分けてご紹介。

小学校低学年のある夏の夜、あまりの寝苦しさで夜中に目が覚めてしまった。家族もすでに寝静まっていたので、なんとかしてもう一度寝ようと思ったが目が冴えてしまい、なかなか寝付けない。さらに最悪なことに尿意を催してしまった。当時おねしょ癖がなかなか抜けなかった私は、またやったら叱られるとの思いから勇気を振り絞って、我慢の限界でトイレに行くことを決意した。しかし、これは私にとって大冒険だった。

当時、人一倍の恐がりであった私は、この頃まで夜のトイレは父か母を起こして必ず同行してもらっていた。その理由はお化けは勿論だが、当時夕方の再放送で「恐怖のミイラ男」というとてつもなく怖い番組があったためだ。
(この番組は現代の子供が見ても卒倒するほど怖いと思うのだが....。)

そして、やっと一人で行けるようになった深夜のトイレに入って用を足そうと、何気なく窓の外に目をやった。当時私が住んでいた、宮村町の家の窓からは隣のお寺の本堂が見えた。その本堂のあたりで何か明るい物がチロチロと動いているのが目にとまった。最初は何だかわからずにしばらく見ていたが、やがて松明を持った人が歩いているのがわかった。

こんな夜中に害虫退治でもやっているのだろうか?

などと考え、不思議と恐怖心は起こらなかった。それからしばらく眺めていると、30メートルほど移動した松明は、とつぜん消えた.....。
やがて用を済ませた私は、そのまま布団に戻り、そのことは忘れ朝を迎えた。

翌日、朝食の時に父に昨晩のことを話してみると、父曰く
「松明なんて持っている人がいるわけがない。夢でも見たんだろう?」さらに、
「もし本当なら、人魂じゃない?このあたりはお寺も多く、昔は罪人の死骸をうち捨てた場所だったという噂もあるって近所の祈祷師が言ってたぞ!」っと......。

その時初めて、ゾッとして鳥肌が立ったのを、40年以上が経過した現在でもはっきりと覚えている。

昭和30年代後半とはいえ、当時たいまつなどは私も見たことがなく、明かりをとるならば、懐中電灯がすでにどこの家庭にも常備されていた。

ゆらゆらと動きながら、赤く燃えさかっていた割と大きめなあの光は、一体何だったのだろう........。

そして、その晩から深夜のトイレには、ふたたび親を伴って行くことになったのは....言うまでもない。







2009年8月27日木曜日

不思議な「がま池」写真

先日ある講習会のスライドで久しぶりに、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをした。それは私ががま池で写されたもので、「私と町の物語」に掲載された私が所持する唯一のがま池写真であった。

なんとも小っ恥ずかしいのだが、この写真はおそらく私が小学校3~4年生の時、がま池で写されたものだと想像される。時代は昭和39(1964)年前後と思われる。
そして、10年ほど前の「私と町の物語」展覧会にこの写真を自ら出品したのだが、展覧会当時、がま池保存運動のお手伝いを少ししていた私は、わずかでもがま池を知ってもらえばとの思いから、出品したことを覚えている。
しかし、改めてこの写真を見ると、写真には多くの謎が隠されていることに気がついた。

★ 疑問その①

当時の小学生は真冬でも半ズボンしかはかなかったものだ。私の記憶でも冬のよほど寒い日か、病み上がりの時くらいしか長ズボンなんてはいた記憶がない。(っといっても、実際に写っているんだからしょうがないが...)
また、もし真冬であれば、ザリガニ(マッカチと呼んでいた)なんぞいるわけもなく、いったい何を捕っているだろう?
そして極めつけは持っているバケツで、そのバケツには妹の名前がデカデカと書き込まれている。これは当時、生き物が大好きだった私が家の物に、あたりかまわず何でも捕ってきたマッカチやクワガタ、ヤモリなどをいれてしまうため、妹が泣き叫んだことが幾度もあり、私が絶対に持ち出さないように親に頼んで名前を大書きしたバケツが私の使用をはっきりと拒否を示しているのが読み取れる。この後、騒然な兄弟げんかが起こったことが想像されるが、全く私の記憶にないところを見ると、この日の釣果はボウズであったのかもしれない。

★ 疑問その②

当時の蝦蟇池は池の前に管理人が住んでおり、タイミングが悪い?とすぐに叱られて追い出された。
池への入り口は、管理人住居のすぐ前なので、こちらはよっぽどの命知らずしか通ること出来ず、池の周囲に張り巡らされた鉄条網の破けたところから進入するのが、正しい池への進入方法だった。
しかし、鉄条網のほころびが管理人に発見されると、すぐさま補修されてしまうので、通常はほころびを巧妙に偽装していた。またその偽装が見破られて補修されると、池裏方坂上(現在のコインパーキング付近) の階段から進入をはかった。だから池の入り口は、概ね2箇所が交互に存在した。

がま池は今も昔も、れっきとした個人の私有地なのである。もし、この写真を私の親が写したのだとすれば、親が子供の前で管理人に叱られるという、ありえないほどの危険を冒して撮られた物といえる。
しかし、大人が入り込むことは非常にリスキーな事で、普段大人はあまり見かけなかった。そんな場所に親子連れで入り込むなど、当時の常識を逸しており、私の記憶にも親と入った記憶は一度もない。なのに....私の家のアルバムに堂々と飾られたこの写真は一体誰が撮影したんだろう?
当時、小学生には現在で言うところの「Toy カメラ」を持つことが流行っており、私もでシミズで買った記憶があるが、写したものを写真屋に持ち込むと、何も写っていないことが大半であった。これはやはり、所詮はおもちゃのカメラなの作りが甘く、フィルムが感光してしまうからであった。
そんなカメラで友達同士で撮影したとすれば、写っているのは奇跡に近いのだが、被写体である私がカメラを意識している様子が微塵も見られないし、カメラを持ち込んだ記憶もない。

一体誰が何のために写した写真で、どうして家のアルバムに収まっているのか.......。

そしてまるで嫌がらせのように、床屋に行ったばかりと想像される私が、最も人に見られて恥ずかしいと当時から思っていた「絶壁の後頭部」が、日の光を浴びて輝いている写真.....。

考えれば考えるほど、不条理な写真である。




2009年8月26日水曜日

CPUは宮村公園の夢を見るか?

先日約10年ぶりにデスクトップ・パソコンを造りました。この間にノートパソコンはジャンクを買ってきてそこそこ遊んでいたのですが、デスクトップはHDDを変換する程度で済ませてきました。それまで使用していたSingle-Core2.6GHzのCPUからQuad-core3.0GHzになり、メモリーも1GHBから4GHBと大幅アップ。その速さに当初は驚きました。そして、モニターも15インチから22インチになり広い画面領域が確保できるようになりました。またOSはWindowsXP・Windows7RC・LinuxのマルチブートにしてメインでWindows7RCを使用しています。当初はマシン自体の速さとWindows7RCのキビキビ感で、とてつもなく速くなったと感じました。しかし.....。3日も使うと慣れてしまい、速さはもはや体感できません。勝手なモンですね。結局は絶対的な数値より、なんとなくというような「体感」の方を私の脳は優先してしまうようです。

先週土曜日にちょっとした懇親会があり、普段はなかなかお話出来ないような方たちとお会いし、貴重な時間を過ごしました。そして会が終わったのが夕方だったので、まだまだ夜はこれからとばかりに、参加者のK先輩と連れだって六本木ヒルズの盆踊りを見学してきました。

会場に到着するとすでにすごい人だかり。毛利池(あれはニッカ池だってば!)横の広場には大きな櫓が組まれ、最上部では太鼓をたたき、中層ではニコニコ顔の子供たちが踊り、広場でも参加者が輪になって踊りを楽しんでいました。いいな~盆踊りは!なんて眺めていたのですが、何か違和感
があります。最初その違和感は久しぶりに盆踊りを見たからかな?っと思っていたのですが、やがて気がつきました。
違和感はその場にいた参加者に、知っている顔が一人もいなかった事からくる疎外感のようなものでした。もちろん私が知らないだけで、地域の方たちも大勢参加していたのだとは思いますが、それでも私にとっての「お祭り」感が急速に萎えてゆくのが実感できました。
その晩は、急につまらなくなり8時というありえない時間帯に帰宅を決めました。

翌日はせっかく六本木ヒルズまで行きながら納涼祭りの写真を撮らなかったことを後悔し、午後から再出撃。しかし日曜日のせいか15時の十番通りはすでにあり得ないほどの人混みとなっていました。
そして十番を歩いても、やはり昨日の疎外感が.....。そそくさと写真だけを数枚撮り、昨日同様同行してもらったK先輩と十番を離脱して、祭りだから許されるだろうと、お酒を買って宮村公園で宴会。2時間ほど呑んで良い気持ちになった頃、町会班長を務めているK先輩のお手伝いで、宮村町会が納涼祭りに出店していたテントの撤去のお手伝い。久しぶりに見た町会役員さんたちの顔は、昔より少しお歳を召して?いましたが、どなたも元気なお顔でした。
さらに、再び宮村公園で同級生も呼び出しての宴会。BGMには秋の虫が鳴いています。気がつくと......午前2時を廻っていました(^^;




2009年5月17日日曜日

裏麻布St.


先日、狸坂下の「青いひみつきち」マスターとお話をする機会があり、営業時間外の店に邪魔してきました。この場所は25年ほど前にはJazzの「Ashtray」があった場所で、当時はさんざん他所で呑んだあげくに宮村町に帰るための最後の関所?でした。 
この店のあたりから十番方面に向かう暗闇坂下までの道を「裏麻布ストリート」と呼ぼうという試みが最近起こっているようです。この道沿いのBar店主などが協議して裏原宿(ウラハラ)にあやかって命名した名前のようです。一部気の早い方はタクシー運転手さんに行き先を「裏麻布」っと指定して、きょとんとされるようなことも起こっているようで、もと地元民としては時代の流れを感じさせられてしまいます。
江戸初期までは狸坂と暗闇坂を挟むピザの人一切れのような地域は麻布氷川神社があり、その後幕末までは増上寺の隠居所となった場所だったので、当時はその外周路であったと考えられます。また狸坂下はがま池からの水流と大隅山水流が合流する地点で昔から橋が架かっていたと考えられます。「十番わがふるさと」によると昭和初期頃まで大雨が降るとこのあたりは低地のために氾濫し、水が引いた後には「がま池」から流された鯉や鮒が手づかみで捕れたとあります。またこのあたりから本光寺のある大隅坂登り口あたりまでは「宮村新道」という字名で呼ばれたようで、江戸中期頃に道路が拡張されたときについたものとのことです。この大隅坂は別名きつね坂とも言われていますので、まさに「狐狸ストリート」だったのだと考えられます。現在は中国大使館警備のおまわりさんが立っていますので、さしずめKBストリート?裏麻布も悪くないけど、私としては麻布中心部の最奥部という意味で「奥麻布」くらいにしておいてほしいんですけど......(^^;



2009年3月31日火曜日

Google Earth 5.0で麻布もタ~イムスリップ!




最近更新されたGoogle Earth 5.0には過去画像を表示できるスライダー機能が装備されている。
この機能を使うと過去の衛星画像が表示されるようになった。
スライダーには12個のポイントが設定されているようで、スライダーを移動するとその年代の
画像にジャンプする。ちなみに一番古い1997年
までスライドさせて現在六本木ヒルズとなって
いる近辺を見ると、現在の画像よりも解像度は
低いが、見事に1997年の藪下の街並みが表示される。
金魚屋が、同級生の家が、玄碩坂が......。
ちょと感激してしまいました(^^; 
あの頃の自分は....
何をしていたんだろう?
そして.....皆さんは?