2012年12月10日月曜日

日ヶ窪生まれの乃木希典

六本木ヒルズ建設時のニッカ池
嘉永2年(1849年)1月11日の正午頃、麻布日ケ窪の長府藩毛利邸の長屋で一人の赤ん坊が産声をあげました。

父は馬廻役の乃木十郎希次、母は寿子、赤ん坊は二人にとって3人目の子供でした。しかし前の二人は早世していたため、3人目の子供は事実上の長男となります。無人(なきひと)と名づけられたその子は、虚弱な体質で次に生まれた妹のキネにさえよく泣かされたといいます。そして、六才下の弟真人(まひと、後に正誼)は、兄と違い生まれつき体も大きく腕白で気性も激しかったので、父の希次は長男無人のひ弱さに頭をいため、真人の将来に期待したそうです。
乃木親子が住んでいた長屋は、かつて赤穂浪士が討ち入りの後預けられ切腹までの約50日を過ごした場所でもあったので、ひ弱な無人に 父は、その切腹の様子などを語り武士としての度胸付けに力を注いだといわれます。また月に三度は藩の菩提寺でもある高輪の泉岳寺に参拝し、赤穂浪士の武士道精神を教え込みました。







乃木邸跡に移設された
乃木将軍と辻占売り少年の像
乃木の家は、元は藩医でしたが、希次が幼少の頃から剛直で武勇を好み武術、武家礼法に長じていたため藩主元義公に認められ武士として 取り立てられました。そして藩邸で礼法師範に取り立てられ毛利元運公の息女、銀姫の守り役にも抜擢されます。しかし真人の下に次女のイネが誕生してまもなくの安政5年(1858年)11月、希次が華奢文弱な藩政を諌める建白書を家老に提出したため藩主の怒りを買い減封の上、長府へ国詰として左遷されてしまいました。
江戸から長府(現下関市)までの長旅は、筆舌につくせない苛酷なものであったそうで、一家に奉公人の長助を加えた一行は、夫妻と無人、長助らは徒歩で一日30キロを歩き、幼い真人、イネは駕籠をつかったそうです。(この時、7歳の長女キネはすでに他家の養女になっていました。)この時希次は死を覚悟していたといわれますが、約1ヶ月かかってついに大阪に着き、そこから船で長府に近い外浦海岸にむかい、到着したのは12月中旬でした。



写真は、日ケ窪旧萩藩邸内、通称「ニッカ池」の傍に残されていた「乃木将軍産湯の井戸」。



そして、やはり池畔にあった「乃木将軍と辻占売り少年の像」。傍らの建設由来記を要約すると、明治24年の初春、乃木将軍が少将で名古屋の歩兵第5旅団長時代、軍の用務で金沢に出張の折、当時8歳の今越清三郎少年と偶然出会い、8歳にして辻占を売って悲運の一家を支えていた今越少年をやさしく慰め、金弐円をあたえ激励しました。

乃木将軍と辻占売り少年の像解説
この事を今越少年は長じても忘れることなく、苦難を切り開き金箔師として滋賀県の無形文化財に指定されるまでになりました。この像が出来た昭和43年当時、今越清三郎氏は84歳で存命中であったそうです。

最後は北日ヶ窪児童遊園に建立され、現在さくら坂公園に移設された乃木将軍碑。この碑と乃木坂の乃木邸に移設された「乃木将軍と辻占売り少年の像」は現在も見ることが出来ますが、産湯の井戸碑は六本木ヒルズ建設時に撤去され、現在も行方がわかっていません。

殉死当日の大正元年(1912年)9月13日午前8:50分に自宅前で撮られた、乃木将軍陸軍大将正装の写真が残されています。この後、婦人と共に参内し明治帝の霊柩に永訣した後、病気を理由に帰宅し、午後8時、静子婦人と共に古来の作法に則り切腹、殉死しました。




乃木将軍産湯の井戸
乃木将軍と辻占売り少年の像



















乃木大将生誕乃地碑
生誕乃地碑解説