2012年12月18日火曜日

永井荷風の偏奇館と松田照子

大正8年(1919年)11月8日、永井荷風は麻布市兵衛町1丁目6番地に貸地があるのを知って下見に行いきます。
偏奇館
市兵衛町は慶長年間に黒沢市兵衛という名主にちなんで名づけられた町名で、当時比較的静かな土地であったそうです。荷風は4日後の12日にもう一度様子を見て、翌13日にはその土地を借りる事を決めます。大久保余丁町の家を売却し、数え歳40歳にして市兵衛町を「隠棲の地」と定め麻布区民となることになりました。
荷風はこの地に25坪ほどで長方形2階建てペンキ塗りの家を建て、「偏奇館」と呼んびました。
荷風自身の書いた偏奇館路漫録によると、

「庚申の年孟夏居を麻布に移す。ペンキ塗りの2階家なり因て偏奇館と名づく。内に障子襖なく代る扉を以てし窓に雨戸を用ひず硝子を張り床に疊を敷かず榻を置く。旦に簾を捲くに及ばず夜に戸を閉すの煩なし。冬来るも経師やを呼ばず大掃除となるも亦用なからん。偏奇館甚独居に便なり。」

とあります。
近くには明治期に皇女和宮(静寛院宮)が住んでいて大正の当時には東久邇宮邸となった屋敷や住友邸などがあり、隠棲の地ふさわしい静けさの中に、「偏奇館」も存在したものと思われます。

その偏奇館の近所で麻布麻中小学校の先、丹波谷坂付近の市兵衛町2丁目25にこの大正8年、7歳の誕生日を迎えた女の子が住んでいました。女の子の名は松田照子。彼女の父は陸軍中佐であり、恐らく相当に厳格な教育を受け育ったと思われます。しかし成長した彼女はソビエート大使館商務官下僚ビリーイッチ氏と結婚、1930年(昭和5年)18歳でソビエトに渡りモスコー東洋語学校教師を勤めました。が当時粛清の嵐が吹き荒れたソビエトで1937年夫ビリーイッチはブハーリン派として粛清され妻の照子も消息不明に......。その後、彼女も1937年12月25日に逮捕され翌1938年3月14日にソ連最高裁軍事法廷 によりスパイ活動の容疑で銃殺宣告を受け同日、刑は執行されていたことが判明しました。
荷風と照子のつながりは何もありませんが、同時代を麻布市兵衛町で過ごした事は確かで、もしかしたら道ですれ違った事くらいはあったかも知れません。(松田照子さんの詳細はこちらをクリックしてください。)

昭和10年代に入ると偏奇館の主人は日記を部分的に切り取り、特高警察に踏み込まれた場合の防備をし始めます。昭和11年の2.26事件では、「麻布連隊反乱」と言う記述があり近所の東久邇宮邸も憲兵が物々しく警備し、27日に荷風は谷町から車に乗り虎ノ門あたりで野次馬の話により岡田総理邸襲撃の光景を知ります。この「麻布連隊反乱」という記述の中には、地元の連隊が麻布の住人を脅かした事による痛烈な怒りが込められていました。

さらに時は進み昭和20年3月10日未明、のちに東京大空襲と呼ばれる空襲で偏奇館も灰燼に帰すことになります。
当時空襲が恒常化していた東京は、9日の夜発令された警戒警報のままで明けて行くかに見えました。しかし10日午前0時8分からB29の編隊 296機が超低空で東京上空に現われ、主として下町方面を対象に焼夷弾による絨毯爆撃を開始します。

空襲警報が発令されたのはその8分後でその時にはすでに都内各所で火の手が上がっていました。編隊の一部は下町での目標物を失いやがて山の手方面に向います。そして麻布方面にも焼夷弾を投下しはじめました。火災は当初市兵衛町2丁目の長垂坂の中腹からおこり、西南の風で偏奇館のある1丁目方向に向かってきました。
隣人の叫ぶ声に驚き、鞄を持って庭に出た荷風は谷町辺にも火の手が上がるのを目撃し、気がつくと庭に火の粉が降り注いでいたといいます。
表通りに走り出た荷風は、

「時に7、8歳なる女の子老人の手を引き道に迷へるを見、余はその人々を導き住友邸の傍より道源寺坂を下り谷町電車通りに出て溜池の方へと逃がしやり....」

とあり、およそ世間嫌いの習性にふさわしくない行いを何故かしています。
そしてその後 何を思ったか、再び偏奇館方面に戻り始めます。しかし途中の東久邇宮邸で巡査により道が遮断されていたため荷風は木立、電柱などに身を隠し、偏奇館のあたりを望みました。その時荷風に見えたのは蔵書に火がまわり一段と強く上がった炎のみであったそうです。

  そして偏奇館の焼失後荷風に残されたのは、鞄に入れて持ち出した扉に西暦年号を記した日記と原稿だけでした。

後年、再びこの荷風の「鞄」がクロ-ズアップされるのは、昭和34年です。
3月1日日曜日正午浅草のレストラン「アリゾナ」で病魔のため歩行困難に陥った荷風は店の主人が付けてくれた見送りのボ-イを振り切って、病躯を引きずりながら自力でタクシ-を拾い帰宅。いかにも荷風らしい最後の浅草行でした。その後体力を急速に失った荷風は食事も近所の大黒屋で済ませ、家の出入りも老女中のトヨのみとなります。

4月30日朝、トヨが訪れると奥の6畳間に倒れて死亡している荷風の元に残されたボストンバックには貯金通帳があり残高は23,344,974円であったそうです。

この項を書きながら、空襲の際の逃げ惑う少女と老人の姿が荷風と照子にダブってしまう不思議な錯覚にとらわれてしまいました。









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