2012年12月12日水曜日

土佐新田藩の幕末

土佐新田藩山内邸があった
南麻布二丁目付近
前回お伝えした寺坂吉右衛門が晩年に請われて仕官したといわれる土佐新田藩、通称麻布藩は、本藩の藩祖山内一豊が関ヶ原の戦功で、遠江掛川六万石から土佐一国二十四万二千石を得て成立したことから起こります。土佐藩山内氏は本家の他に「南邸山内氏」、「本町山内氏」、「中村山内氏」などの分家(中村山内家は幕府非公認の支藩)がありましたが、その中で中村山内家の三代山内忠直の二男山内豊明(大膳亮)は元禄二年(1689年)本来外様大名ではあり得ない「若年寄」まで昇進し、さらに後将軍綱吉は慣例を破って老中にまで抜擢しようとしました。しかし、豊明が病気を理由に辞退したので綱吉は大いに怒り、若年寄職を罷免して中村三万石の領地まで没収してしまい、中村三万石は廃藩となります。

その豊明から三代後の山内豊成の子山内豊産は幕府旗本となり上総・下野・常陸で、三千石を領していましたが、安永九(1780)年に宗家九代藩主山内豊雍から新田領蔵米1万石の分知を受けて、幕府からの旧領と併せ一万三千石を給されて土佐で唯一の支藩である土佐新田藩が成立します。
この新田藩の藩主は江戸常府でありその藩邸は麻布古川町にあったため麻布藩麻布支藩・麻布山内氏などと呼ばれました。
この麻布藩邸は現在の南麻布2丁目2~4番地にあり、敷地は抱屋敷を合わせると約8000坪でした。そして、幕末にはこの麻布支藩も本家土佐藩と共に風雲の中に巻き込まれます。

安政三年(1856年)麻布山内氏の当主となった山内豊福(とよよし)は本家十五代藩主山内豊信(容堂)を補佐して国事に奔走しました。そして慶応四年(1868年)一月十二日、徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に帰着した時、江戸城における評定の中の雰囲気で強行派の主戦論に同調します。

歴代藩主が眠る日東山曹渓寺
しかし麻布藩邸に戻ると本家山内容堂から倒幕の方針転換を知らされ、勤皇、佐幕の板ばさみとなって進退に苦悩し、老臣堀越忠三郎から自重を諌言されたが、夜半過ぎ自刃して果てました。
そして、正室の典子も夫の自刃を知ると幼い2人の娘の慈育を願った後遺書をしたため、自刃してしまいました。その後麻布支藩は、豊福の死を秘匿したまま従弟の山内豊誠(とよしげ)を養子とする願いを豊福の名義で願い出て事態の終息をはかり、その後9月16日に了承されて、豊誠は正式な藩主となります。これに先立ち、藩主を失った麻布支藩は本家と行動を共にして、



慶応4年 3月16日---新政府軍への参加を要請     
               3月26日---土佐藩兵と合流して市ヶ谷尾張藩邸の東山道軍本営に入る。     
               4月23日---「斉武隊」を名乗り壬生城戦に従軍。 その後、鹿沼~大桑村~宇都宮~
                                          白河~会津~猪苗代と転戦した後に、
明治 元年9月19日---東京に帰着。     
9月23日---奥州帰陣の褒章により隊長金子寛十郎が八丈一反を授かる。     
                 11月3日---帰国。
明治 2年   6月2日---戊辰軍功賞典により藩主山内豊誠
                                          に5000両の褒賞金が与えられる。



土佐新田藩主山内家歴代墓所
と、戊辰戦争を官軍側先鋒として転戦を繰り返します。これは、官軍側から見ると江戸城主戦派からの裏切り乗り換えであり、信用されていなかったという事情があります。



南麻布の藩邸内で自刃して果てた山内豊福は麻布曹渓寺と高知市旭天神町の墓所で眠りにつき、あやうく朝敵となりかけ死後も冷遇され続けた維新の被害者は歴史から忘れ去られていきます。

  しかし133年後の2001(平成13)年1月13日、それまで長い間墓前祭も行われずまた、歴代山内家の墓所からも離れたところに埋葬されているために 高知県民からも忘れられた山内豊福も、地元の有志により追悼の行事が執り行われ、歴代藩主の墓所へ並ぶことを許されました。その時の様子が1月14日付け大阪版朝日新聞高知面に 「山内豊福公をしのび133年祭自決した悲劇の殿様/高知」と題して掲載されています。

また、このような悲劇は同じ南麻布町域で奥羽同盟の事実上の盟主となった仙台藩伊達家でもおこっており、現在韓国大使館となっている場所にあった麻布屋敷では、列藩同盟側につくことを主導したとして、明治2(1869)年5/19に家老の但木土佐、藩士の坂英力が藩邸内で斬首されています。



山内の読み方は代々、宗家が「やまうち」、支封は「やまのうち」を称したといいます。

曹渓寺の寺坂吉右衛門
顕彰碑


追記
 
赤穂浪士事件でただ一人の生き残りとなった寺坂吉右衛門は曹渓寺住職の斡旋により麻布山内家に召し抱えられましたが、2008年12/4産経新聞によると、大石内蔵助の一族の子孫が大石神社に寄贈した「弘前大石家文書」は、寛政2(1790)年、当時寺坂の子孫が仕えていた高知新田藩の麻布山内家に、寺坂家の現況などを問い合わせたものといわれ、これに対して、麻布山内家の家臣が答えた書状の中で寺坂吉右衛門の三代子孫の吉右衛門(吉右衛門の名は代々名乗られたと思われます)は、養子のため血縁はないが主君の側頭を務めていることが書かれているといわれています。 
側頭とは主君の側近であるので足軽から数代で側近にまで出世したことがわかり、寺坂家は麻布山内家に代々重用されていたとおもわれます。















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