2012年12月13日木曜日

麻布の吉良上野介

盛岡町の町名の元になる盛岡藩南部家が有栖川公園の敷地に屋敷を持っていました。この土地は相対替え(等価交換)をする前は、笠間藩(のちに赤穂藩)浅野家の下屋敷であったことは以前お伝えしましたが、実は吉良上野介も麻布に屋敷を持っていました。

刃傷事件当時、吉良上野介は鍛治橋に上屋敷を、麻布一本松に下屋敷を拝領していました。刃傷事件後、上野介は家督を養嗣子吉良義周(妻の実家である米沢藩上杉家の養嗣子となった上野介の実子綱憲の子を吉良家の養子とします。つまり上野介の孫が吉良家を継ぎました。)に譲り隠居となり、元禄14年8月19日に本所松坂町の元近藤登之助野屋敷に移転することとなります。

しかし、この屋敷が荒れ果てていて手入れが必要だったために、その改装中に上野介は飯倉にあった米沢藩上杉家の下屋敷または白金の下屋敷に滞在していたといわれています。しかし、これを上杉家の屋敷ではなく、自邸である吉良家麻布一本松屋敷であったのでは?との説を「麻布区史」は披露しています。
もしほんの少し歴史か違っていたら、有栖川公園で雪の別れを行い、そして討ち入りが麻布一本松?...なんてこともあったのかもしれません。




★追記

「麻布区史」では麻布屋敷の場所を、
~吉良氏の麻布下邸に就いては多くの義士伝中に全く之を伝えて居ないのであるが、其の元禄七年より同一六年(1694~1703年)に亘り、善福寺の北方本善寺徳正寺及大法寺に囲まれたる東西に長さ一廓の地に之を存したことは「府内往還沿革図書」の明示する處で尚此の邸は寛永元年(1624年)七月、其の内八百坪を有馬隼人に給し、残りの八百四十五坪を内藤主膳に預けられている。~  
とし記しています。 
さらに吉良上野介の妻は上杉氏であり、これにより上野介の子息「綱憲」は上杉家を継ぎ、逆に綱憲の子息が上野介の養子となって (実際は孫に当たる)嫡子として世襲することなります。 
この関係により上野介は本所ではなく上杉家麻布屋敷(飯倉)に永住するとの噂が流れ、これが本当ならば上杉家邸に討ち入ることとなるかもしれないので上野介の情報を収集していた赤穂義士を慌てさせたと「義士伝」は伝えています。しかし、これは上杉家麻布屋敷ではなく吉良家麻布屋敷の間違いではないかと「麻布区史」は記載しています。 
そして、その理由を四位の少将で高家筆頭の吉良家前当主が隠居後とはいえ、そして大大名たる上杉家に実子が当主とはいえそこに仮寓するのは、当時の制度からもあり得ない事としています。

三大名邸(細川越中守・松平隠岐守・毛利甲斐守・水野監物)で赤穂浪士が切腹をした元禄16(1703)年2月3日、幕府評定所の仙石伯耆守久尚は、吉良家当主の吉良義周を呼び出し、吉良家改易と義周の信州諏訪藩高島への配流の処分を下します。

しかし、翌年宝永1(1704)年には上杉家当主で実父の実父・綱憲が死去し、これまでの心労からか翌宝永2(1705)年10月に義周は寝たきりとなり、さらに、配流3年目の宝永3(1706)年1月20日享年21歳で死去することとなります。


余談ですが、この吉良上野介の実子であった上杉家第四代藩主「綱憲」のさらに後、九代藩主となった「治憲」は後年、号を「鷹山」としていましたが、この治憲は現在の麻布高校敷地にあった高鍋藩秋月家からの養子で、治憲はこの敷地で産まれたことにより幼名を「直松、松三郎」などとつけられます。この「松」は明らかに「秋月の羽衣松」ともいわれた麻布一本松から命名されたと想像され、麻布との因縁をその幼名につけられていたこととなります。そして、10歳で上杉家養子なるまで麻布に住んでいたものと思われています。









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