2012年12月30日日曜日

清河八郎暗殺

出羽の国(山形県庄内)浪士の清河八郎正明は、浪士組を作る事を幕臣松平主税之介に提案しました。
当時攘夷派浪士の扱いに手を焼いていた幕府はこの案を受け入れ、7つの組からなる250人の浪士隊を編成して、文久3年(1863年)2月8日京都に向かわせます。目的は、京都守護でしたが、真のねらいは、京都攘夷派の取り込みと将軍上洛の警護であったそうです。

しかし清河八郎は、京到着翌日(2月24日)学習院に尊王の建白書を提出し、幕府との約定を破って浪士隊の真意は尊王攘夷にあるとして天皇に忠誠を誓います。
これに驚いた幕府はイギリスへの攘夷を口実に、急遽浪士隊を江戸に呼び戻しましたが、芹沢鴨、近藤勇、土方歳三ら20数名が京都守護を名目にとどまり、後の新選組となりました。 また、清川とともに関東へと戻った浪士たちは後に新徴組と改名し庄内藩預りとなります。

3月28日、江戸に着いた清河八郎らの浪士隊は、旗本屋敷や旅篭に分宿します。しかし待てども幕府からのイギリス攘夷の指示が無い事に憤慨した清川らは、独自に異人屋敷の襲撃を計画しました。そして、密偵によりこの襲撃計画を知った幕府は清川暗殺を決定します。

4月13日風邪気味の清河八郎はかねてからの約束で、一の橋の出羽上之山城主松平山城守藩邸に友人金子与三郎を訪ねました。酒を酌み交わし千鳥足で藩邸を辞したのは、4時過ぎでまだ明るかったそうです。

暗殺現場周辺
一の橋を渡りきったあたりで「清川先生」と呼ばれ、見ると同じ浪士隊の佐々木只三郎と速見又四郎がいました。佐々木がかぶっていた編み笠をとり丁寧におじぎをしたので、清川もこれにこたえて陣笠をとったところ、後ろから頭を切られます。そして、倒れたところ、あごにも一太刀受けて絶命しました。
この知らせを日本橋馬喰町で受けた同志の石坂周造は早籠をとばし現場に着くと、放置されていた遺体の首を打ち落とし、懐にあった500人の連判状を持ちかえりました。

首は山岡鉄太郎の屋敷で砂糖漬けにされその後、小石川伝通院に葬られましたが、胴体は無縁仏となったようで、その所在ははわからないとされていました。しかし、その後の調べで胴体は、死体のあった直近の武家がその処理をするという当時の慣例から、一の橋際の柳沢家が処理を行うこととなり、柳沢家の菩提寺であった麻布宮村町正念寺に無縁仏として葬られたことが判明しました。また暗殺された場所は、清川が首謀したとされるアメリカ公使館書記官ヒュースケン暗殺事件の起きた場所である中の橋からもほど近い場所であったので不思議な因縁を感じてしまいます。

清河八郎正明、享年34歳。