2012年12月6日木曜日

続・猫塚-荷風の見た猫塚

防衛省防衛研究所前庭の
猫石と樊獪石
 
恵比寿の防衛省防衛研究所資料館を訪れたおり、前庭に大きな石が二つ並んでいるのが見えました。その時はあまり気にしていなかったのですが、次に訪れた際、石の傍らに説明文が掲載されているのを見つけました。二つの石のうち一つは白っぽい台形のような形で名を「樊獪石(はんかいせき)」と呼ぶそうです。そしてもう一つは黒っぽくてねじれた円錐のような形であり、説明文には「猫石」と書かれていたので読んでみると、なんと元赤羽橋久留米藩有馬邸のものであることがわかりました。
前項「有馬家化け猫騒動」で赤羽小学校に現存する猫塚と同じ所にあった石です。

小学校の裏庭にあるその猫塚を4年位前に見たとき、付き添って頂いた先生の話では塚の由来はまったく不明との事でしたが、見た目が新しいその塚は江戸の昔からあるものにはすこしも見えませんでした。そこで、なぜ猫塚は赤羽小学校に現存し、「猫石」と呼ばれるものが恵比寿にあるのかを調べてみました。


石の説明文によると1871(明治4)年に久留米藩邸跡地が工部省所管(赤羽製作所、後に赤羽工作分局)、1883(明治16)年に海軍省所管(兵器局海軍兵器製作所、後に海軍造兵廠)となり1902(明治35)年の海軍造兵廠時代に、まず猫塚上部の「猫石」は猫塚台座部を残して表門正面へ移されました。そして現在の築地市場の地を経て1930(昭和5)年9月、今の恵比寿に移設されたといいます。それでは残された台座部の赤羽橋の猫塚は?その答えは永井荷風の「日和下駄」にありました。

「日和下駄」第八-閑地で大正3年(1914年)5月、当時慶応大学の教授で35歳の荷風は友人から「有馬の屋敷跡に名高い猫騒動の古塚がいまだに残っている」事を聞きつけ、学校帰りに造兵廠跡の閑地へと友人と共に日和下駄を進めます。

猫石(元久留米藩邸
から移設された猫塚上部)
しかし閑地への入り口を探しあぐねた荷風一行はやむなく、恩賜財団済生会(現済生会中央病院)から「用事あり気に」構内に入り、母屋の赤煉瓦を迂回した裏手には二筋の鉄条網があるのみ。そこで荷風が目にしたものは......忽然と現れたパラダイスであったそうです。

広々した閑地は正面に鬱々として老樹の生茂つた辺から一帯に丘陵をなし、その麓には大きな池があつて、男や子供が大勢釣竿を持つてわいわい騒いでゐる意外な景気に興味百倍して

手にもっていた愛用の蝙蝠傘と図書館から借出した重い書物を友人に預け、父親の形見の夏袴をはしょって「図抜けて丈の高い身の有難さ」から何の苦もなく鉄条網を乗り越えます。そして「浅草公園の釣堀も及ばぬほど」に大勢の釣り人が集まっていて「鰌と鮒と時には大きな鰻が釣れるという」古池を廻って崖の方へと足を進めました。

さらに二人は崖に通じる小道をよじ登って行き、大木の根方に腰をかけて釣り道具に駄菓子やパンなどを売っている「機」を見るに敏な爺に敬服しつつ猫塚の所在を尋ねます。

爺さんは既に案内者然たる調子で、崖の彼方なる森蔭の小径を教え、なお猫塚といっても今はわずかにかけた石の台を残すばかり」であることを聞き、さらに奥へと足を進めると爺さんに聞いたのよりも更につまらない「石のかけら」があるのみで、はたしてそれが猫塚の台石かどうかも疑わしいくらいの物であった。荷風は「名所古蹟はいずくに限らず行ってみれば大抵こんなものかと思うようなつまらぬものである


港区立赤羽小学校敷地に
残された猫塚台座部
としています。

しかし塚に来るまでの光景を「私達二人を遺憾なく喜ばしめた」としつつ、いついまでも崖からの情景にたたずんだ荷風は、再び長い情景描写のあと、文は

私達は既に破壊されてしまった有馬の旧苑に対して痛嘆するのではない。一度破壊されたその跡がここに年を経てせっかく荒蕪の詩趣に蔽われた閑地となっている処おば、更になんらかの新しい計画が近いうちにこの森とこの雑草とを取払ってしまうであろう。私達はその事を予想して前もって深く嘆息したのである。

として、やっと見つけたパラダイスの運命を予感して深く嘆いています。

有馬の猫塚は、塚の上部は造兵廠移転と共に恵比寿に移され、台座は赤羽小学校に残されて新たな石碑が乗せられたと考えるのが妥当だと思われます。



猫石・樊獪石解説板


★防衛省防衛研究所-猫石説明文-


この石は、芝赤羽橋の元有馬家(久留米藩主)上屋敷の猫塚に据えられていたものと言われる。
同地は、維新後の明治4年に工部省所管(赤羽製作所、後に赤羽工作分局)、続いて明治16年に海軍省所管(兵器局海軍兵器製作所、後に海軍造兵廠)となったが、明治35年の海軍造兵廠時代に、猫塚から表門正面へこの石が移された。(海軍造兵廠は、大正12年海軍艦型試験所及び海軍航空機試験所と合併し、海軍技術研究所となった)海軍技術研究所は関東大震災によって大損害を受けたので、築地の用地を東京市に中央卸売市場用地として譲渡し、昭和5年9月にこの目黒の地に移転したが、その際猫石も移されたものである。
猫石の由来は、世上有馬の怪猫退治等として流布(黙阿弥作「有松染相撲浴衣」、永井荷風作「日和下駄」、菊池寛作「有馬の猫騒動」等)された猫の塚ということであろうか。この有馬の猫塚の跡と言われるものが、現在、区立赤羽小学校の一隅にある。




★敷地・猫塚の変遷



西 暦年 号変   遷
江戸期~幕末久留米藩有馬家二十一万石上屋敷
1871年明治4年明治政府の命により有馬家上屋敷と水天宮は青山に移転し、水天宮は翌明治5年日本橋蛎殻町の有馬家・中屋敷内(現在地)に移された。そして跡地には工部省所管(赤羽製作所、後に赤羽工作分局)が設置される。
1883年明治16年海軍省所管(兵器局海軍兵器製作所、後に海軍造兵廠)となる。
1902年明治35年海軍造兵廠時代「猫石」が表門内正面に移設される。
1910年明治43年海軍造兵廠が築地海軍用地に移転し「猫石」も築地に移設される。
1923年大正12年海軍造兵廠が海軍技術研究所となるが震災で損害を受けたことから昭和5年東京市に中央卸売市場用地として譲渡し、恵比寿の現地点(現・防衛省防衛研究所前庭)に移転し、猫石も共に恵比寿へと移設される。




















造兵廠跡はその後長らく「有馬っぱら」と呼ばれた空き地となっていましたが、1915(大正4)年
12月1日に北里柴三郎を初代の院長として済生会中央病院が建設され、昭和40年代まで
済生会中央病院および三田警察署が位置していました。

その後、済生会中央病院立て替え費用捻出のため敷地の一部がに三菱地所に売却され
三田国際ビルが建設され現在に至ります。









青空文庫-永井荷風・日和下駄












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