2012年12月31日月曜日

清河八郎暗殺ーその2(麻布宮村町の正念寺)

前回お伝えした清河八郎暗殺事件ですが、その胴体は柳沢家の菩提寺であった宮村町正念寺に埋葬したとお伝えしました。そしてその寺があった場所に造られたのが 「ビオトープ・宮村池(正式な名称は「元麻布三丁目緑地」)」と呼ばれる小さな池です。

ビオトープ宮村池
この池は港区が自然回復事業の一環として取組んだ、身近な野生動植物のための生息空間。とのことで池の創設時期とちょうど同じ頃に「がま池」のマンション改築工事が行われていて池の保全が問題視されていたことから「ミニがま池」とも呼ばれています。

このビオトープ・宮村池のある場所は、明治期までは「正念寺」という寺院がありました。浄土真宗・本願寺派の勝田山・正念寺は、元地の築都郡勝田村(現横浜市都筑区勝田)から1752(宝暦2)年宮村町に移転してきますが、幕末の1863(文久3)年、清河八郎暗殺事件に関わりをもつこととなります。

一の橋際で暗殺された清河八郎の同志、石坂周造が遺体から首を刎ね、山岡鉄舟のもとに届けました。そして山岡は密かに首を伝通院で埋葬してもらうこととなりますが、胴体は路上に打棄てられたままでした。
そこで、柳沢家により無縁者を葬る宮村町の正念寺に葬られることとなります。これは当時の決まりで武家門前の死骸はその屋敷主が責任を持って葬るものとされていたためで、これにより暗殺された清河八郎の胴体は柳沢家の菩提寺であったこの正念寺に葬られることとなりました。

柳沢家は第五代将軍綱吉の贔屓で小姓から大老格にまで出世した柳沢吉保が起こした家で、この時の功により松平の姓を許され幕末期の地図にも吉保の末裔を「松平甲斐守」と記しています。余談ですが、ヒュースケン暗殺事件に関与したといわれている清河八郎が、ヒュースケン襲撃地点である中の橋北詰先(現在の東麻布商店街入り口付近)からほど近い一之橋際で暗殺されたのも、何か不思議な縁を感じます。

そして、維新後に廃寺となった正念寺は、一時期近くの市谷山長玄寺に吸収され、その後寺号のみが茨城県へと移転し、清河八郎の胴体である無縁仏の所在も不明となります。移転策先は、1903(明治36)年5月14日茨城県久慈郡金砂郷村久米(現在の茨城県常陸太田市久米町20-1)の「願入寺」が寺号のみとなっていた「正念寺」を東京市の許可を得て移転し、以降正念寺と名乗ることになります。

この頃の寺の跡地の様子を明治27年の警視庁起案の東京市参事会では、

共葬墓地ノ儀ハ無縁ノ死屍ヲ埋葬セシ者多ク、近来荒廃ニ属シ無数ノ白骨暴露シテ難擱状況ナルモ、元関係寺院正念寺ハ去ル明治十七年九月中、暴風ノ為メ堂宇悉ク省潰シ、現今殆ント廃寺ノ姿ニテ其管理者タル住職ハ貧困ニシテ到底管理行届カサルニ依リ本案ノ金額ヲ以テ他ノ墓地ヘ改葬セシメントス

と廃寺となった正念時跡の惨憺たる様子から、露出した遺骨の移転を警視庁の公費により執り行ったことを記しています。

そして歴史から忘れ去られた清河八郎の胴体の行方が、1912(明治45)年浅草伝法院で正四位を追贈された清河八郎の五十年祭を営んだ時、祭典に列座した一老人の談話により その後が 判明することとなります。


老人は麻布霞町の柴田吉五郎で、十一歳のときに八郎暗殺の現場を見た一人でした。 その時には、遭難者の首は未だ着いていたとのことで、幾月か経ってから吉五郎は、遭難者が 清河八郎という偉い人であるという事、並びに屍骸は 柳沢家の手で 麻布宮村町正念寺に葬られたという事を聞き知りました。

その後、正念寺は 明治二六年十月に廃寺となり、その寺籍は同町長玄寺に合併されます。その時に柴田老人は檀家総代として万事を処理し、無縁の白骨凡そ三万を、下渋谷羽根沢の吸江寺に移葬して無縁塚を建てます。そして八郎の遺骨もその一部分となっているので、この話を聴いて八郎の遺族斉藤治兵衛は、四月二十日に吸江寺を訪れ、その塚の土を掘って甕に納め、之を伝通院境内の墓石の下に葬ったといわれています。

つまり 正念寺に埋葬された清河八郎の胴体は寺の移転により一時的に 近所の宮村町長玄寺に移され、さらに渋谷吸江寺に無縁塚として埋葬されます。その後清河八郎の遺族斉藤治兵衛が同寺の埋葬地点の土を持ち帰り、首が埋葬されていた小石川伝通院に納めたそうです。



正念寺跡










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