2012年12月27日木曜日

夜窓鬼談の大入道

今回は明治22年に漢学者・南宋画家の石川鴻斎いしかわこうさいによって書かれた漢文の怪談集、「夜窓鬼談やそうきだん」の中の”大入道”という一編をご紹介します。

芝切り通し

麻布のある商人が、ある夜涅槃門の前を通り過ぎると、青黒い顔をし黒衣を着た僧が路傍に佇んでいました。商人が不審そうに見ていると、突然怪しげな気配がして寒気に襲われます。見ると僧が鉢のような頭をし、輝く三つ目の大入道となって首を延ばし、商人を舐めまわしました。驚いた商人は何度も転びながら逃げてやっと家までたどり着きました。

翌日商人は鍛冶屋にこの話をすると、元侠客で度胸のすわった鍛冶屋は商人の仇を討とうと、その日の夜中に手に金槌を持って涅槃門に行きました。そして長い時間待ったが何も現れないので、

「妖怪、出て来い!退屈で困っておる!」

と叫んびました。するとどこからともなく身の丈90cmほどの小僧が姿を現し、3つの目で鍛冶屋をにらみつけ、手招きをします。怒った鍛冶屋は金槌を振り上げて小僧を打とうとしたが、小僧は走って門のひさし に飛び乗り、そこに座って大笑いしました。ますます怒った鍛冶屋は金槌を振り上げましたが庇が高くて届きません。そこで石を投げたが当たっても小僧は平然としています。しかたがないので鍛冶屋はじっと小僧を見つめて下で待ったそうです。



芝切通し
やがて、夜が明け始めると小僧は次第に小さくなり、開けきると姿は無くなってしまいました。
そして、鍛冶屋は庇を見つめているだけでした。

この話の舞台となっている涅槃門は、現在の芝高校付近にあった増上寺の涅槃門で、さらに上がると現在の給水所あたりは広い原っぱであったといいます。

この話の導入部分で作者は、

芝の三緑山(増上寺)の北部一帯は樹木が鬱蒼と生い茂り、僧坊もほとんど無い場所であった。天保の末頃、世間に大入道が出て人を脅すという流言が広まり、日没後は行き来する者も稀であった。そのため大入道を見たものはいなかった。
-夜窓鬼談現代語訳・大入道より抜粋-

としています。また港区近代沿革図集は、涅槃門のあたりを、

~涅槃門は切通坂のなかばにあって、みだりに通り抜けが出来ず、まがりくねった細道であった~

としてこの地の寂しげな様子を表していますが、さらに「切通し」については、港区近代沿革図集には、

明治8年地図に描かれた時鐘
切通しの上は広い原で軍談師、売卜者、浄瑠璃かたり、賭博師、豆蔵、噺師、酒売り、菓子売りなどがあって賑わったが今は増上寺山内に囲い込まれた。(増補改正万世江戸町鑑)

この地は赤羽とともに栄えた地で、見世物・浄瑠璃・芝居・香具師・古着屋等が並び、いまの浅草公園のようであったが、維新後撤去された。(東京案内)

などとあり、坂上の原っぱ付近は栄えていましたが、少し下った涅槃門付近はとても寂しい所であったものと考えられます。

また坂下には時鐘があり、落語「芝浜」で主人公が聞くのは、この時鐘だと思われます。
この鐘は青龍寺脇にありましたが、その前に二代秀忠の元和元(1615)年、西久保八幡山にあったものが壊れたので家光時代の寛文十(1670)年に廃止されます。しかし、四代家網の頃に増上寺の鐘の余材で作り、芝切通しの青龍寺にかけて復活したといわれています。

<夜窓鬼談は明治22年~27年にかけて出版された怪異奇談の短編集で上下巻で86話からなる漢文の著書ですが、多少の例外を除いて日本の怪談・奇談が題材とされています。またこれらを渋沢龍彦や小泉八雲などが底本にしたことでも著名です。
作者の石川鴻斎は清国大使館などにも出入りし、清国官吏などとも交流を深めましたが、1918年(大正7年)9月13日、静岡県磐田市で86歳の生涯を終え、同所省光寺に仮埋葬されました。

三田小山町の龍原寺
そして、その後の同25日には三田小山町の龍原寺(オーストラリア大使館向い)にて本葬が営まれ、同寺の墓所に葬られました。





















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