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2013年4月15日月曜日

十番稲荷神社

十番稲荷神社
○創建:<竹長稲荷神社創建>和銅五(712)年・<末広神社創建>慶長年間(1596~1615年)

○祭神:倉稲魂命うかのみたまのみこと日本武尊やまとたけるのみこと市杵島姫命いちきしまひめのみこと田心姫命たぎりひめのみこと湍津姫命たぎつひめのみこと

○所在地:港区麻布十番1-4-6

○祭礼:9月17日前後の土・日曜日

○公式サイト:http://www.jubaninari.or.jp/


十番稲荷神社は「末広稲荷」と永坂下にあった「竹長稲荷」が戦災により合併して出来た神社です。 「末広稲荷」は慶長年間に創建され戦前は現在のグルメシティ脇にありました。この末広神社の社前に一本の柳の樹があったので、はじめ社号を「青柳神社」と称しました。
再校江戸砂子によると、

「この柳樹枝葉さがりて梢の繁茂しているところより、村民だれ言うとなく末広の木と呼び、末広稲荷と呼ぶようになった。」

とあります。

明治6年7月5日村社に指定され明治24年4月、建物を権現造りに改め、社号を末広稲荷神社としました。氏子は坂下町と網代町で700戸あまりで、祭神は倉稲魂命、市杵島姫命、湍津姫命、日本武尊で大祭は9/17、9/18であったそうです。関東大震災後の復興記念として東郷平八郎が直筆の社号軸を奉納し、昭和21年の空襲で社屋は全焼しますが、この掛け軸は十番稲荷神社に現存するそうです。

一方、戦後の区画整理で永坂下にあった「竹長稲荷」は昭和20年の空襲で焼失し、やはり空襲で焼失した末広稲荷神社に合併して十番稲荷神社と称することとなります。
この竹長稲荷神社は和銅年間に創建され、かつて稗田神社と呼ばれたこともあったそうですが、詳細は不明です。そして後に「竹千代稲荷」と称するようになります。 これは竹千代稲荷が竹千代が丘(現在の鳥居坂上の東洋英和近辺)という地名から付けられた名で、和銅5年(712年)に稲荷を勧請しその場所を「竹千代稲荷」と名づけたともいわれるためです。

弘安2年(1279年) 社殿を再興し、寛永元年(1624年)坂下に移り、社名が徳川将軍家の幼名と同じことから「竹千代」という名が避けられ、似た読みの「竹長(町)稲荷」としたそうです。氏子は永坂町、新網町で、祭神が 「末広稲荷」と同じであったため、昭和20年に合祀されました。 また別説に竹千代稲荷は弘仁13年(822年)に慈覚大師(円仁)ゆかりの神鏡をもって創建したともいわれますが、元稗田神社を称する神社は区内の御田八幡を始め大田区にも三社あり、 特定する事は難しいといわれています。また現在の社殿の改装前の十番稲荷の鳥居には鳥居は、この地で幼少期を過ごしたエノケンこと「榎本健一」が寄進したものとのことです。









★追記2010.05


「榎本健一」銅板
 
●鳥居・狛犬

エノケン(榎本健一)寄進の鳥居は社の建て替えに伴い老朽化により失われてしまったそうですが、現在の石華表(鳥居)左足裏面には寄進を記念した銅板が埋め込まれています。また右足裏面には同じく クラウンガスライター(市川産業株式会社)社長で麻布出身の市川要吉氏の銅板が埋め込まれています。 そして社務所前にある狛犬下部には、寄進者で麻布十番育ちの大正・昭和期のアイドル歌手「音丸おとまる」さん の本名「永井満津子」が刻まれた銅板が埋め込まれています。 


エノケンと音丸は坂下町の住民でエノケンの実家は雑色通り(現在の十番会館付近)で「武蔵野せんべい」、 音丸の実家は網代通り(現在の十番郵便局付近)で「下駄屋」を営んでいまし麻布長谷寺で、音丸は1976(昭和51)年1月に永眠し、品川区 天妙国寺で眠っています。
た。 またこの下駄屋店前の通り(網代通り)が十番通りに突き当たる場所にはかつて十番通り下水に架けられた「網代橋」があり大正期の下水の暗渠化に伴い廃止されます。 この網代橋の欄干が十番稲荷かえる像正面に保存されている。ちなみにエノケン(榎本健一)は1970(昭和45)年1月永眠し




竹長稲荷敷地
(御府内備考続編)
●竹長稲荷

○御府内寺社備考

古跡除地九十三坪
当社旧地麻布永坂鳥居左京殿屋敷脇ニ有之候処、御用地ニ付延宝六戌牛年四月九日同所石尾意雲殿屋敷跡東之方表間口六間奥行拾六間 道御奉行美濃部一学殿横山半左衛門殿山寺弥太夫殿為替地御渡被成候、則当所ニ御座候、然ル処元禄八亥年織田越中守殿御検地之節裏通三坪 減シ奥行拾五間半坪数九拾三坪ニ相成候、

祭神:倉稲魂命 (御正躰八咫ノ鐘)・前立倉稲魂命
・不動尊 ・飯縄大権現

社宝:翁御面・陰陽鍵・加藤清正書・達磨画像・天満天神軸、他

別当:豊請山永坂寺竜王院






○麻布区史

永坂町四十三 祭神宇迦之魂命、大祭九月十四日・十五日。社伝に依ると弘仁十三年慈覚大師の八咫の神鏡を以て豊島郡竹千代ヶ丘に稲荷社を勧請する処と云ふ。 元地は今の鳥居坂上で其の後弘安二年鳥羽氏が社殿を再建した。
寛永元年三月現在の処に移り、跡地は戸田氏の拝領地となったが、延宝六年四月十九日境内除地 として神社で再び拝領した。
和銅五年の創建に係り往古は大社であったと云ふ説もある。曾て稗田神社と云ひ、又別に竹千代稲荷と呼んだこともある。現稱の竹長は、三代将軍の幼名竹千代を 避けて改めたものであると云ふ。「江戸砂子」は竹町稲荷と書かれている。旧幕時代は龍王院(今廃寺となる)が別当であった。宝物中、翁面と陰陽の鍵壹對は古くより 神宝として珍重されてゐる。殊に鍵は正安三年正月より神霊と共に奉斎してゐると伝へる。

明治四十年九月三十日現社号を許可された。社殿は入母屋造、氏子は永坂町と新網町に二百八十四戸ある。無格社






○社御由緒書

創建は一説に和銅五(712)年あるいは弘仁13(822)年に慈覚大師所縁の八咫の神鏡を以て武蔵国豊島群竹千代丘(今の鳥居坂上) へ稲荷大神を勧請したと伝えられている。延喜式内社の稗田神社と目される古社である。その後、弘安二(1279)年に鳥羽氏が社殿を再建、 そして寛永元(1624)年三月に永坂町に遷座された。現存はしていないが社宝に広重作の宝船の絵があり、戦前は宝船の巡拝所としても 有名であった。











●末広稲荷

末広稲荷敷地
(御府内備考続編)

○御府内寺社備考

元禄四年迄ハ東之方町はつれニ有候処、御用地ニ被召上、同五年当社地被下置、坂下町草分之鎮守ニ付同六年古跡ニ被 仰付候、旦又元禄十五年 ヨリ七十年以前者坂之上ニ社有之候よし申伝得共、右旧地相知不申候
祭神:倉稲魂命 左右二座

神木:神木ハ柳ノ古樹有之候ニ付青柳之社ト号、享保六年焼失、神楽殿社修理之節之建立之処、文政二年類焼ニ而当時中絶、


                  ○氏子:坂下町会


       ○再校江戸砂子
末広稲荷慶長中当初創建の鎮守なり、神前に柳一もとあり、枝葉さかへ梢大ひろこれり、是を扇になそらへて世人末広の木といひならわし 、いつとなく神号のやうになれり、

       ○麻布区史


坂下町四十一 祭神思姫命・市杵島姫命・湍津姫命・倉稲魂命・日本武皇子命、大祭九月十七日・十八日。慶長年中の創建に係り往古は社前に柳の樹ありし為め青柳稲荷の稱があった。又その枝葉さかへ梢の繁茂してゐるところより末廣の木と呼び、これが社号の起源 となったと云ふことである。 明治六(1873)年七月五日村社に指定され、明治二十(1887)年四月末廣稲荷神社の社号を現稱に改めた。社殿は権現造、氏子は坂下町と網代町に亘り七百戸を有してゐる。
社格:村社
慶長年間(1596~1615年)に創建され、元禄四(1691)年には坂下東方雑式に鎮座していたが、同六年永井伊賀守道敏が寺社奉行の時、 坂下町41の社域に遷座さた。往古より境内に多数の柳があり、「青柳稲荷」と称されていたが、後にその中の一樹の枝が繁茂し、扇の形を成していたことから 「末広の柳」とよばれるようになり、社名に冠され末広稲荷と称された。その後、明治二十(1887)年4月に末広神社と改称された。


●かえるさん石像

かえるさん石像
「上の字様」は火傷、防火の御守として、がま池の畔で文政四(1821)年9月より山崎家の執事、清水氏より授与されたものを継承し、1929(昭和4)年から末広神社で授与されました。 戦後一時期中断されていたが1975(昭和50)年8月「かえるの御守」として復活し、現在も授与されています。
境内二体の「がま像」はこれにちなんで1977(昭和52)年に作成され、1982(昭和57)年麻布十番商店街より奉納された。近隣からは「かえるさん」と呼ばれ親しまれているそうです。

がま池・上の字信仰の詳細はこちらからどうぞ

●網代橋の欄干

○十番稲荷神社解説文-網代橋あみしろばしの石柱(明治35年成る)

今では平坦な道である網代通りと麻布十番大通りの交差点には嘗て橋があった。
その網代橋から一の橋まで、通りの左側に幅2メートルもの溝があり、商店は各自板で橋を架けていたが、度々横溢して困り果てていたという。
そこで、昭和3年、大暗渠が作られ、役目を終えた網代橋も取り除かれる事となった。
この石柱はその橋と時代の名残である。






○十番わがふるさと(稲垣利吉著)

~十番通りの左側(北側)は入り口から網代橋(網代通り)十番医院角まで 二米幅に大溝があり各商店は、お客のため自前で橋をかけた。
隣と隣の間はすき間があるのでお金や財布を落とす、結構なもので渫さらい屋がいて 川に入り拾ってくれる。
一番困るのは大雨が降った時だ。周辺の高台の雨水がこの溝だけではさばききれず十番通り全体が大川となる。各商店の橋は 木製だから浮上って流れ出す、逃がすまいと各商店総動員、戦争のように大騒ぎだ。
毎年この騒動をくり返すので昭和三年頃十番通りに大暗渠を作った。~






●港七福神「宝船」


○御由緒書-宝船の石像

戦前の「麻布稲荷七福神詣」では竹長稲荷神社が宝船の巡拝所であった。戦後になり巡拝箇所を再編して「港七福神巡り」が始まり、当社は宝船の巡礼所を引き継いだ。 平成九年、地下鉄開通に伴い社殿が新築されたのを期に新たに石像を制作、奉安された。







戦前の麻布稲荷七福神詣
・巡拝自動車乗車券





○七福神巡りの変遷
麻布稲荷七福神詣(昭和8年~15年) → 港七福神巡り(昭和41年~現在)
No.七福神麻布稲荷
七福神詣
住所No.港 七 福 神
巡 り
住所
1.恵比寿熊野神社港区麻布台
2-2
*← 〃← 〃
2.大黒天六本木朝日神社港区六本木
6-7-14
9.栄久山大法寺港区元麻布
1-1-10
3.毘沙門天麻布氷川神社港区元麻布
1-4-2
*← 〃← 〃
4.弁財天末広神社昭和20年焼失10.宝珠院港区芝公園
4-8-55
5.布袋尊久国神社港区六本木
2-1-16
*← 〃← 〃
6.寿老人櫻田神社港区西麻布
3-2-16
*← 〃← 〃
7.福禄寿天祖神社港区六本木
7-7-7
*← 〃← 〃
8.宝船竹長神社昭和20年焼失11.十番稲荷神社港区麻布十番
1-4-6















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2013年3月13日水曜日

江戸以降麻布辺の災害

明治に入っても麻布を含む港区域での災害は続きます。幕末に外国からもたらされたコレラが度々猛威をふるいますが、この時に特効薬として愛飲されたのがラムネであったそうで、明治34(1901)年創立された麻布宮村町のラムネ製造会社「山水舎」などもこのコレラの猛威と無関係ではないのかもしれません。

江戸以降港区域の災害
西 暦年 号事      象
1879年明治12年6月東京でコレラ大流行、全国の死亡者数 105, 786人。
1880年明治13年10/4暴風雨で東京一帯が家屋破損。芝区で家屋全壊92棟半壊4棟、麻布区で家屋全壊26棟、赤坂区で家屋全壊20棟・半壊1棟。各区内で死傷者
1882年明治15年5/29東京市でコレラ患者発生、秋にかけて大流行。全国で死者33, 784人
1884年明治17年ドイツ人の細菌学者であるR. コッホによってコレラの病原菌が発見される。
1886年明治19年コレラ大流行、全国の死者数108, 405人。
1890年明治23年コレラ大流行、死者35, 277人。
1894年明治27年6/20安政地震以来の強震で明治期最大の地震が発生。芝区で家屋全・半壊345戸煙突倒壊18戸死者8名、赤坂区家屋土蔵破損165戸煙突破損87戸死者18名、麻布区被害不明
1895年明治28年1/18強震により芝区家屋破損112戸死者2名、赤坂区家屋破損144戸死者3名、麻布区被害不明。コレラ大流行、死者40, 154人。
1897年明治30年9/9東京で暴風雨芝区で死傷者3名、家屋全壊4戸・半壊24戸工場全壊4・屋根破損665・神社寺院小学校なども被害。麻布、赤坂区も被害有り。コッホに師事した北里柴三郎によってコレラの血清療法が発見され、コレラによる死者が減少。
1899年明治32年10/5~10/7にかけて暴風雨。芝区全壊4戸、半壊92戸、床上浸水200戸、石垣破損236、電柱、樹木倒壊、電線切断多数。赤坂区、麻布区も被害。
1906年明治39年2/19麻布谷町で火災が発生し数百戸が焼失。8/24暴風雨により赤坂区で浸水500戸
1907年明治40年暴風雨により下水が氾濫し白金三光町、老増町、志田町、金杉浜町などで床下浸水294戸
1918年大正07年12月頃からスペイン風邪が大流行。済生会中央病院では重体患者で満床し死者が続出。各所の焼き場が遅延する。


○関東大震災
そして大正に入ると関東大震災が麻布辺も襲います。

大正12年(1923年)9月1日朝の大地震による東京の被害は、世界でも類をみない規模のものでし」た。これは地震そのものによる被害よりも、その時の火災による被害の方がはるかに大きかった事によります。市内163ヵ所の火元から発した火災の内79ヵ所は消し止めたが、残り84ヵ所から類焼して東京の大半を焼き、150万人の被災者と9万1千人の死者、52億円の損害を出して3日午前10時にようやく鎮火します。
「麻布区の被害はほとんど無かった」といわれているのは火災の類焼をを免れたためでしたが、建物の被害は、全壊721・半壊954・破損6309に上ったそうです。これは麻布が久しく火災をまぬがれて、古い家屋が多かったためと思われ、圧死者の他、重軽傷者も多く出しています。

しかしそれらの被害も他所に比べると著しく少ないとおもわれ、その結果、被害が少なかった十番商店街では喜劇王といわれ十番商店街に実家(現在の十番会館付近にあった「武蔵野せんべい」)があったエノケンこと榎本健一などにより被災した浅草芸人などに炊き出しが行われ、また麹町で自宅が倒壊した岡本綺堂が宮村町に仮寓し、やはり震災により被災した明治座が麻布十番の末広座を一時的に明治座として行った左団次公演などの脚本を執筆しました。この公演は大反響を呼び、現在のグルメシティ麻布店の場所にあった明治座から一の橋まで入場券を買う行列が出来たと伝わります。また、下町の繁華街が壊滅的な打撃を受けたことにより被害が少なかった山の手の麻布十番や神楽坂などは空前の賑わいを見せ、十番商店街では本通りに毎晩路店が出店し大勢の人で賑わったそうです。



震災前の十番商店街(「十番わがふるさと」より)






区名焼失戸数罹災人口
21,546戸42%94,611名45%
赤坂2,365戸15%10,655名15%
麻布15戸60名






2012年10月30日火曜日

エノケンの麻布

大正期の十番商店街
「十番わがふるさと」より
喜劇王と呼ばれたエノケンこと榎本健一は明治37年(1904年)青山に榎本平作の長男として生まれました。
父の平作は、青山南町で、 「入間屋」という鞄店を営んでおり、 その後笄町で新しくせんべい屋「武蔵野せんべい」を開業し、やがて麻布十番の雑色通り(現在の十番会館あたり)に移転しました。笄小学校の在校時から「20日ネズミ の健ちゃん」と言われ、すばしっこいガキ大将だったというエノケンも、店の移転と共に十番に住みましたが、南山、東町、埼玉県川越 の小学校、麻布尋常小学校と転々としたそうです。(一説によるとあまりの”腕白”だったので東町小学校を放校になったとも言われます。)
その腕白はエノケンが先妻の子で、後妻には6人の娘がいたため、寂しさを紛らわすためであったとも言われます。エノケンはこの 後妻にはなつかず、父親病気の時、後妻の作った焼き魚を美味しそうに食べているのを見て、自分はもっと父を喜ばせることが出来ると、 父が大切にしていた鑑賞魚のランチュウを焼き魚にして父に大目玉をくらったという逸話が残されています。そんなエノケンには父親も相当手を焼いたと見え、 死を目前にした父はエノケンを枕元に呼んで「おれの寿命を半分縮めたのは、お前のせいだ。」と言ったそうです。そして当のエノケンも、その時の仕返しと思ってか、死を目前にしたときに父の後妻の顔を見たとたんにむっくり起き上がって「このバカヤロ-!」と怒鳴ったそうです。

あの、「♪おれは村中で一番 モボだと言われた男♪という曲「洒落男」は、白金の叔母ところに手伝いに行った時、夜になると良く物干し台で練習 していたそうです。その時、時計の振り子でリズムをとっていたとわれています。また関東大震災の時は、避難してくる浅草芸人たちを十番で自ら炊き出しをして救援したといわれています。

その後、古川緑波・徳川夢声らと「笑いの王国」、そして「エノケン一座」を結成し喜劇界を席巻してゆくエノケンでしたが、 以外にも本人はこの「エノケン」と呼ばれるのを嫌がったといいます。客やファンがエノケンと呼んでも、何事も無ありませんでしたが、同業者や関係者からそう 呼ばれると返事をしなかったといいます。昭和35年に紫綬褒章を受章し、翌年天皇陛下から園遊会に招待されたエノケンも、昭和45年1月7日肝硬変 で帰らぬ人となりました。享年65歳。墓は榎本家の

長谷寺の榎本健一墓
菩提寺西麻布2丁目の長谷寺にあり戒名は「殿喜王如春大居士」そして、墓碑には 「従五位勲四等喜劇王エノケンここに眠る」と記されています。


<追記>

腕白から近隣小学校を転々としていたとされるエノケンですが、南山小学校第37期生・大正5(1916)年卒業者に榎本健一の名前が記されています。





十番稲荷神社にはエノケン(榎本健一)寄進の鳥居がありました。この鳥居は社の建て替えに伴い老朽化により失われてしまいましたが、現在の石華表(鳥居)左足裏面には寄進を記念した銅板が埋め込まれています。また右足裏面には同じく クラウンガスライター(市川産業株式会社)社長で麻布出身の市川要吉氏の銅板が埋め込まれています。そして社務所前にある狛犬下部には、寄進者で麻布十番育ちの大正・昭和期のアイドル歌手「音丸【おとまる】」さんの本名「永井満津子」が刻まれた銅板が埋め込まれています。エノケンと音丸は坂下町の住民でエノケンの実家は雑色通り(現在の十番会館付近)で「武蔵野せんべい」、音丸の実家は網代通り(現在の十番郵便局付近)で「下駄屋」を営んでいました。またこの下駄屋店前の通り(網代通り)が十番通りに突き当たる場所にはかつて十番通り下水に架けられた「網代橋」があり大正期の下水の暗渠化に伴い廃止されました。

この網代橋の欄干が十番稲荷かえる像正面に保存されています。ちなみにエノケン(榎本健一)は1970(昭和45)年1月永眠し麻布長谷寺で、音丸は1976(昭和51)年1月に永眠し、品川区 天妙国寺で眠っています。










エノケン・市川要吉が寄進した立て替え前の
十番稲荷神社石華表(鳥居)-十番未知案内サイト提供








十番稲荷神社
市川要吉銅板
十番稲荷神社
榎本健一銅板
























十番稲荷神社
音丸寄進狛犬
十番稲荷神社
音丸寄進狛犬





















十番稲荷神社音丸銅板






















品川区天妙国寺「音丸」こと永井海津子墓所














同墓所に設置された「船頭可愛や」歌碑















★関連項目

  ・十番稲荷神社

  ・音丸

  ・市川要吉