2012年10月14日日曜日

小言幸兵衛の古川町

落語に「小言幸兵衛」という噺があります。
御府内沿革図書の古川町
口やかましい大家の幸兵衛さんは一日中長屋を廻って小言ばかり。新しく店子になろうと訪ねた者にまで小言を言って追い返す始末。
という筋立ての噺ですが、この口やかましい大家の長屋があったのは古川町という設定で、演じる落語家によっていくつかのパターンがあり、「麻布の古川町」としているものと「麻布古川町」としているものがあります。両者の違いはピンポイントで「麻布古川町」の町域を指しているか、「麻布にある古川町」というやや広義な意味でとらえているかの差になるのかと思いますが、実は麻布古川町は大変に狭い町域の町でした。

江戸期に成立した麻布古川町は、もともと麻布本村町内にあったといわれますが、元禄11(1698)年その場所が麻布御殿用地として召し上げられ、三田村のうち古川端の一角を代地としたのがはじまりです。元禄12(1699)年古川が堀割化の改修工事により新堀と呼ばれるようになりましたが、町名は旧川名から麻布古川町となりました。

また麻布古川町には隣接する「三田古川町」「麻布龍土町代地古川町」があり、このなかで麻布古川町の町域が一番狭かったようです。

古川町で最大の町域を誇る「三田古川町」は寛文年間(1661~1672年)ころ成立したといわれていますので、麻布古川町より古い起立となります。
「麻布龍土町代地古川町」は元禄12(1699)年に元地の龍土町で道路の拡張整備が行われたさいに代地となったて下賜された場所で正徳3(1713)年元地の龍土町が町方支配となると同時に町域となりました。

この三田古川町が麻布域にもかかわらず最大の町域を持っている理由を推測すると、
延宝年間図

古川の改修工事中と思われる延宝年間図などには三の橋辺で古川が
人為的にクランクしており、元の川の蛇行を矯正しているようにみえることから、改修前の古川が麻布側に大きく蛇行しており、古川町の位置は
古川対岸の三田であったと推測できます。これと同様の推測は広尾辺にもみられ、現在港区と渋谷区を分けているのは笄川の蛇行を再現しており、
天現寺の墓所あたりの一角が外苑西通りの東側まで渋谷区が入り込み、また逆に外苑西通りの西側に港区が入り込んでいる部分があります。

このように麻布古川町と麻布龍土町代地古川町の町域が三田古川町の町域の1/8程度しかなく、町域の家作も二、三軒分ほどしかないことを考えると
この噺の場所設定は三田古川町であるほうが自然かと思います。

またこの噺の時代背景を大正時代と設定しているものもありますが、これには無理があります。
これら三田、麻布、龍土町代地の古川町は明治初期に麻布東町と麻布新堀町に吸収または合併されており、大正期にはその名前を完全に失っていました。
おそらく、うるさ型の幸兵衛さんが生きていたら、さぞや小言をいわれたことでしょう。
















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