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2012年10月16日火曜日

飯倉片町の「おかめ団子」

おかめと言う名の器量よしな娘を持つ団子屋に、太助と言う親孝行な大根屋が団子を求めて来ると.....。
おかめ団子跡

こちらもほのぼのとした人情噺で、落ちも好きです。

この団子屋は文政年間(1818~1829年).から1897(明治30)年まで飯倉片町の「永坂角」に実在しました。創業者は、諏訪治太夫という釣り好きの浪人で、治太夫はある日品川沖で「耳のある亀」を釣りました。

その亀を持ち帰り、自宅の池で飼う事にしましたが、やがて噂を聞きつけた多くの人が「耳のある亀」見に来るようになりました。すると女房は、自宅の庭池のほとりに茶店を出し、珍しい亀の見物人に”亀団子”と名づけた団子を売ると、これが大繁盛となります。

二代目の女房は、”おかめ”に似ていたので”お”を付けておかめ団子としました。やがて、おかめ団子は江戸の評判となり川柳にも「鶴は餅、亀は団子で名が高し」と読まれ、また、東京のわらべ歌にも「お尻の用心小用心、今日は二十八日、明日はお亀の団子の日」などと唄われました。そしてお亀団子は以前ご紹介した「黄金餅」の噺の中にも登場します。

  ~飯倉六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前を
   まっすぐに、麻布の永坂を降りまして~

旧永坂

このおかめ団子は黄粉をまぶしてある団子で、一皿十六文でしたが明治になる五十文ほどになったと記録にあります。
おかめ団子があった場所(六本木5-18-1)は、現在「朝日屋」という文具店となっていますが、店主に聞いてみましたたが「明治期に移転してきたが、有名な団子屋の場所であったことは知らない」とのことで残念です。



○麻布区史-昭和16(1941)年

飯倉片町にあつて江戸時代には更科と並び称される程有名であつた
が、維新後なくなってしまった。尤も同名の店が明治十五年から同四十一年迄あつたが、
これは昔の店とは何等関係もない。おかめ団子は一盆の値、並は十二文、上等十六文で
あつたが、大抵の者はその何れかで満腹したと云ふ。間口三間、奥行十一間の総二階は常に
人を以て溢れ、傍の上杉駿河守、岩瀬内記などの武家屋敷の石垣には何本も薪雑棒(まきざ
っぽう)を突込んで馬方が持馬を繋いでゐたと云ふから、兎に角その繁盛は素晴らしかつたに
違ひない。



○鶏鳴旧跡志(けいめいきゅうせきし)-文化十三(1816)年
江戸期の飯倉片町

麻布飯倉に水野家の浪人諏訪治郎太夫と云ふもの爰(ここ)に
借宅してゐたりしが生来釣を好み秋に至れば品川の沖を家とし
て日を暮らす。或る日小さき亀一つを釣る。其亀常の亀と異り
尾先髪筋の如くふつさりとして青く如何にも小さき耳を生じたり。
治郎太夫大いに喜び持ち帰りて之を飼ふ。聞及びし人々来り見
ること布を引くが如し。治郎太夫大の妻は神奈川の百姓の娘と
て志堅く賢き者なれば、親里より米を取り寄せ団子を製して之を
売る。亀を見物に来し人々茶店に休んで団子を買ふ。夫れより
流行して亀団子といふ。治郎太夫大此団子に利を得て、女房の
親里神奈川の在に空地を求め朝暮の煙細からず暮らして今に
在り。治郎太夫大が跡へ近所の町人入り替わりて団子を製す。
此の女頬高く鼻低き女なれば、世の人亀団子を改めておかめ団子と呼びぬ。
宝暦のことなり、今は三河屋平八とて益々繁盛せり。治郎太夫大より何代目か知らず。


この鶏鳴旧跡志の後を麻布区史は、「斯程(かほど)の団子屋も七度強盗に見舞われたのがケチのつきはじめで、とうとう明治に入って間もなくつぶれてしまった。」としており、出来心の孝行息子の泥棒という噺の筋はそのあたりをなぞらせたものかも知れませんね。




現在の飯倉片町







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http://deepazabu.com/m1/rakugo/rakugo.html#2














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2012年10月15日月曜日

善人ばかりの「井戸の茶碗」

今回も落語のお噺で、井戸の茶碗をお伝えします。

麻布茗荷谷(麻布谷町)の裏長屋に住む正直者の屑屋清兵衛が、とある裏長屋の浪人・千代田卜斎(ぼくさい)から買った仏像を細川家の高木作左衛門という若侍に売り、高木が仏像を磨いていると....落ちは「いや、磨くのはよそう、また小判が出るといけない」。

善人しか登場しない人情話です。清兵衛の住まいが麻布谷町で細川家の屋敷が高輪(現在の高松中学高松中学あたり)、清兵衛が仲間と休憩するのが清正公覚林寺の境内という設定で、裏長屋の浪人千代田卜斎が住んでいたのは芝西応寺の裏長屋。この噺の原型は江戸期、栗原東随舎の随筆「思出草子」の「茶碗屋敷」に細川家足軽の話として掲載されています。

内容はこの噺とほぼ同じですが、細川公に献上された茶碗は殿中で、事の由来を聞きつけた田沼意次に所望され貸し出されました。しかし田沼はなかなか茶碗を返そうとせず、困り果てた細川家では、ある家老が一計を案じ、その茶碗と引き換えに神田橋にある広大な土地を手に入れることとなりました。そして、その屋敷は茶碗と交換に得た屋敷から「茶碗屋敷」と呼ばれたといわれています。

また出典は講談「細川茶碗屋敷の由来」を元にしたものとも言われているようですが、茶碗は実在のもので「細川井戸」と呼ばれ天下三井戸に挙げられるようです。この茶碗は「細川井戸」と呼ばれ、細川三斎(忠興)から伊達家、松平不昧、畠山一清の所有者の手えを経て現在は 畠山記念館が所有しています。噺の時代設定は四代将軍綱吉の頃とされていますので細川家の当主は忠興ではなく綱利で、すでに茶碗は他家に渡っていたと思われます。




○井戸茶碗

  井戸茶碗とは当時珍重された高麗茶碗の一種で「井戸」の名の由来は諸説あるようですが、
  単純に「井戸のように深い茶碗」の意とする説が有力とのことです。

○天下三井戸

  喜左衛門井戸・加賀井戸・細川井戸






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2012年10月14日日曜日

小言幸兵衛の古川町

落語に「小言幸兵衛」という噺があります。
御府内沿革図書の古川町
口やかましい大家の幸兵衛さんは一日中長屋を廻って小言ばかり。新しく店子になろうと訪ねた者にまで小言を言って追い返す始末。
という筋立ての噺ですが、この口やかましい大家の長屋があったのは古川町という設定で、演じる落語家によっていくつかのパターンがあり、「麻布の古川町」としているものと「麻布古川町」としているものがあります。両者の違いはピンポイントで「麻布古川町」の町域を指しているか、「麻布にある古川町」というやや広義な意味でとらえているかの差になるのかと思いますが、実は麻布古川町は大変に狭い町域の町でした。

江戸期に成立した麻布古川町は、もともと麻布本村町内にあったといわれますが、元禄11(1698)年その場所が麻布御殿用地として召し上げられ、三田村のうち古川端の一角を代地としたのがはじまりです。元禄12(1699)年古川が堀割化の改修工事により新堀と呼ばれるようになりましたが、町名は旧川名から麻布古川町となりました。

また麻布古川町には隣接する「三田古川町」「麻布龍土町代地古川町」があり、このなかで麻布古川町の町域が一番狭かったようです。

古川町で最大の町域を誇る「三田古川町」は寛文年間(1661~1672年)ころ成立したといわれていますので、麻布古川町より古い起立となります。
「麻布龍土町代地古川町」は元禄12(1699)年に元地の龍土町で道路の拡張整備が行われたさいに代地となったて下賜された場所で正徳3(1713)年元地の龍土町が町方支配となると同時に町域となりました。

この三田古川町が麻布域にもかかわらず最大の町域を持っている理由を推測すると、
延宝年間図

古川の改修工事中と思われる延宝年間図などには三の橋辺で古川が
人為的にクランクしており、元の川の蛇行を矯正しているようにみえることから、改修前の古川が麻布側に大きく蛇行しており、古川町の位置は
古川対岸の三田であったと推測できます。これと同様の推測は広尾辺にもみられ、現在港区と渋谷区を分けているのは笄川の蛇行を再現しており、
天現寺の墓所あたりの一角が外苑西通りの東側まで渋谷区が入り込み、また逆に外苑西通りの西側に港区が入り込んでいる部分があります。

このように麻布古川町と麻布龍土町代地古川町の町域が三田古川町の町域の1/8程度しかなく、町域の家作も二、三軒分ほどしかないことを考えると
この噺の場所設定は三田古川町であるほうが自然かと思います。

またこの噺の時代背景を大正時代と設定しているものもありますが、これには無理があります。
これら三田、麻布、龍土町代地の古川町は明治初期に麻布東町と麻布新堀町に吸収または合併されており、大正期にはその名前を完全に失っていました。
おそらく、うるさ型の幸兵衛さんが生きていたら、さぞや小言をいわれたことでしょう。
















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2012年10月13日土曜日

圓朝のくたびれない黄金餅

麻布周辺は落語に登場することも多いのですが、その中でも「黄金餅」という噺は特に有名です。
吝嗇から貯めた小銭を餅にくるんで頓死した僧を同じ長屋の住人が見ていたことから、その住人が金を独り占めしようと下谷山崎町(現在の上野駅辺)から
なじみの破壊坊主がいる麻布絶江釜無村の木蓮寺(架空の寺ですが、本村町の曹渓寺がモデルとされています。)まで運ぶ「道中付け」がメインとなる噺です。
この道中付の麻布通過部分は、この噺を得意とした古今亭志ん生によると、
道中付比較
西ノ久保から神谷町、飯倉六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町、そのころ、おかめ団子という団子屋の前をまっすぐに、麻布の永坂を降りまして、十番へ出まして、
大黒坂を上がって一本松から、麻布絶口釜無村の木蓮寺へ来たときには.....

ときて、
「ずいぶんみんなくたびれた。...あたしもくたびれた」
と爆笑を誘います。
この話は明治期にかの大圓朝とよばれた三遊亭圓朝が創作した落語ですが、この初期の黄金餅は現在のものと大きく違っていたようです。
現在の噺では、下谷山崎町(現在の上野駅辺)の長屋から麻布絶江釜無村の木蓮寺までとしていますが、最初に創作した圓朝は、芝将監橋脇の長屋から麻布三軒家町の貧窮山難渋寺までと道中付は格段に短かったようで、更に調べるとこの話は実際にあった事件をモデルにしているようで、芝愛宕辺の長屋に住む吝嗇の僧が金を飲み込んで死んだ話がいくつかの書籍に出てきます。

圓朝創作時の移動距離は直線で2.5kmほどですが現代版は8.5kmもあり、このデフォルメは大正時代といわれ四代目橘家圓蔵が得意とし後に古今亭志ん生に受け継がれたようです。

またこの話にいわゆる「落ち」はなく、死人の腹から取り出した金を元手に目黒で黄金餅という菓子屋を開いて繁盛したと語られますが、この黄金餅は目黒に実在していたそうです。






 
 
 
 
 
むかし、むかし11-185.圓朝のくたびれない黄金餅
 
 
 
 

2012年10月11日木曜日

古川唯一の分流「入間川(いりあいがわ)」

古川と入間川(港区の文化財)
渋谷川が天現寺橋をこえて古川となりますが、その渋谷川・古川へと流れ込む「支流」も多く存在します。
渋谷川域では、宇田川、隠田川、河骨川、いもり川 などがあり、古川域でも玉名川、本村水流、白金水流、吉野川(十番暗渠)、桜川などがあります。

このように本流に流れ込む支流は多くありますが、古川の本流から流れ出る「分流」は入間川(いりあいがわ)のみとなります。

この入間川の流路については諸説がありますが、基本的には
古川の三の橋あたりで分岐して西進し、三田段丘(慶応大学)と高輪台地(聖坂)
の狭い敷地を流れてさらに一旦北上して再び西に向きを変えて旧薩摩藩邸を西進して
東京港口(芝4丁目交差点)から重箱堀に流れ込みます。
江戸期の入間川
しかし、この入間川は江戸初期までには三の橋~薩摩藩邸間の流路は埋設され、わずかに薩摩藩邸から重箱堀までの流路が残されました。
この残された下流部は大正時代まで存在しましたが、そもそも上流部が埋設されているためこの水流はわずかで、三田用水・細川用水の末流を水源とするどぶ川となっていました。
これにより江戸期には、西応寺橋あたりの住民が入間川浚渫の費用を薩摩藩にも負担を分担してもらえるよう求める嘆願などが
残されています。
この入間川流路最大の疑問は慶応大学正門付近の通過です。このあたりは三田段丘と高輪台地にはさまれた狭い地域で、標高も7mほどあります。この部分をどう超えたのか、郷土資料館学芸員などの間でも見解の相違があり、この部分の地質調査から礫層が見つかっていないことから、流路の存在自体を否定する見解もあります。

この川の最下流部で海に流れ込むあたりは重箱堀として現在も残されていますが、江戸期この場所は俗にいう「芝浜」として漁師たちの集まる網干し場が存在しました。この網干し場で奥さんに早めに起こされたことから財布を拾うこととなる「落語 芝浜」の舞台となる場所でもあります。

現在の入間川河口
重箱堀
近代沿革図集(芝・三田・芝浦)には入間川(いりあいがわ・入合川)の項で、各書からの引用として、


・新編武蔵風土記稿

渋谷川は東流して白金村の地先を流れ三田村に達している。むかしは三田村辺で2派となり[一つは古川]、一つは豊島・荏原界を流れて本芝に至り、いま里俗に入間川(いりあいがわ)と唱える川に通じ、芝橋の東から海にはいった。この流れは正保(1644~1647) 改定の国図にのせているが、寛文年中(1661~1672)の江戸図や、その後のものにはない。いま本芝町の入間川と唱えているのは、松平豊後守の屋敷の溝下水の堀に続き、2・3町で海にはいっている。そのほかは川筋の伝えもなくなっている。





・新編武蔵風土記稿

芝金杉町と本芝町境を通って海に入る。川幅一間ほど。





・文政町方書上

芝金杉通四丁目の南境にある。むかしから入間川と唱えた。川幅は芝橋のあたりで三間。水上は松平豊後守屋敷の下水から出て、北側は芝西応寺町・芝金杉通四丁目・芝金杉町裏五丁目えを経て、芝金杉浜町から海へ流れている。





・文政町方書上

川幅二間ほど。芝金杉通五丁目の南境にある。





・文政町方書上


中世の江戸
東の方二間三尺、中ほど三間三尺、西の方八尺。芝西応寺町町内南通地先を流れる。 入間川いりあいがわとも 入間川いるまがわ とも唱えた由。





・文政町方書上

幅五尺。本芝壱丁目町内北の地先にある。





・文政町方書上

幅一丈。本芝材木町町内の北にある。むかしは入合川と唱え、入間川とも唱えた。





・東京府志料

水源は第二大区八小区三田四国町、鹿児島邸跡の下水から流れ出し、南は芝材木町・本芝一丁目と、北は芝西応寺町・芝金杉町四丁目・芝金杉浜町との間を経て海に入る。延長3町16間、幅10間、深さ3・4尺、潮汐にしたがって芝橋まで船が通じる。





・新選東京名所図会

芝浜の入堀である。三田四国町境で掘留となる。赤羽川の支流の余波であろうか。汐入りの堀で退潮のとき河床が露出し船は泥につく。





・東京案内

いまは半ば埋立地となる。





・東京市域拡張史

大正7(1918)年、本芝一丁目地先の入間川が埋め立てられ、芝区に編入された。坪数1210坪





・芝区史

震災後の区画整理で芝浦から直線に三田四国町に貫通する道路になった。





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むかし、むかし197.古川唯一の分流入間川

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