2012年10月8日月曜日

玉川家の広尾大水車

前回は福沢諭吉の広尾水車をお伝えしましたが、今回はもう少し上流の渋谷川にかかる
山下橋脇にあった玉川家の広尾大水車についてのお話しです。
 
この水車は麻布域からは少し離れますが、江戸期に有名な水車で江戸名所図会にも「広尾大水車」として紹介されています。
玉川家は多摩川の治水、なかでも玉川上水の建設に私財を投じて参加し、その功績を称えられ現在の山下橋脇に屋敷を構えます。そしてその屋敷には付近でも最大級の水車が設置されました。
この水車屋敷について「渋谷区の歴史」は、
江戸名所図会-広尾大水車
~土豪玉川氏が渋谷川をせき止めて水を庭中に導き、水車を用いて多数の杵を動かしたので   名高く一般から「広尾の水車」と呼ばれました。
 今の山下橋はその頃水車橋といって「江戸名所図会」にも描かれましたが、また玉川氏の後裔玉川次致氏(弁護士)が霊泉院に委託した屏風は、
 明治5(1872)年の旧宅を描いたものであるといえます。
 嘗(かつ)て将軍が広尾に鷹狩りの際立寄って休息したことがあり、それ以来同家の赤門を御成門と称しました。同家では八代将軍吉宗と伝えています。~
などとあり玉川家の功績は時代が下っても些かも衰えていなかったと思われ、さらに「ふるさと渋谷の昔がたり第三集」にはこの玉川家の様子を、

  • ~広尾に渋谷川の水を利用した「玉川の水車」がありました。玉川金三郎という人が主人公でしたからこの呼び名が生まれましたが、東京の水車の中でも規模の大きいことでは指折りのものでした。
  • この玉川家には、「御成門」と呼ぶ門がありました。徳川将軍が玉川家を訪れた時に出入りした門というので、たいせつにしていたようです。子供の頃に見たのですが、いつでも固く閉じられていました。
  • 玉川家では後に養子さんを迎えましたが、水車屋は引き継いだものの「御成門」は開かれて、そこから出入りしていました。
  • 子供のころの記憶ですが、「玉川水車」では、渋谷川の水が少なくなると長い時で二時間ほども水を堰き止めて、水をいっぱいにしてから水車を回していました。一日に二、三回はこれを繰り返していたようです。ところが、堰き止めた時には下流では水がなくなりますから、フナやアユがたやすく捕れました。子供たちの楽しい遊びでした。
  • 「玉川水車」は、電力で水車を回すようになって、やめてしまったのでしょう。記憶では、大正の初めごろまではあったようです。~
と記しています。
 
 
 
 
表1-明治期 古川・渋谷川(渋谷駅より下流)に流れ込む水流の水車(支流も含む)
設置
河川
No. 台帳
No.
名 称 水車所在地 目標 用 途 諸 元 備 考
渋谷川筋 6. 734 玉川金三郎
水車
豊多摩郡渋谷町
下渋谷1677番地
山下橋
(水車橋)
精米 水輪2丈4尺幅6尺・下射樋長13間・堰高5尺5寸5分・搗臼11台 享保18(1733)年新設・江戸名所図会の広尾水車

 
渋谷川の水車発祥
No. 名 称 所有者 開 設 目標物 備 考
1. 玉川水車 玉川佐兵衛 享保18(1733)年 山下橋
(水車橋)
江戸名所図会に
掲載された広尾水車
2. 柳沢水車 柳沢嘉兵衛 享保18(1733)年 石田橋 明治40年廃業
3. 鶴田水車 忠左衛門 明和6(1769)年 鶴田橋 葛飾北斎の富嶽三十六景で描かれた穏田の水車
明治20(1887)年鶴田平吉所有
4. 宮益水車 甚五郎 寛政5(1793)年 渋谷駅東口 杵数40本、のちの三井水車?
5. 忠兵衛水車 忠兵衛 享和3(1803)年 千駄ヶ谷 詳細不明
6. 加藤水車 加藤** 文政11(1828)年 庚申橋 明治期まで存続
 
 
 
 



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むかし、むかし11-193.広尾(玉川)水車