2012年10月25日木曜日

釜なし横丁


日東山曹渓寺
江戸の頃、麻布本村町の絶江坂付近に貧しい長屋がありました。その長屋は、 ごはんを炊く「釜」も長屋中で一つしかないほど貧しかったので「釜なし横丁」と呼ばれていました。
しかし、長屋の住人達はこの名を嫌がり、氷川神社の祭礼の時、無け無しの銭をはたいて張り子の大きな釜が乗った山車を作り、汚名を返上しようとしました。しかし、町内を巡行中に急に雨が降り出して山車が張り子であることがバレてしまい、よりいっそう貧乏が有名になってしまったといわれています。
この話を聞いた時落語かと思いましたが、そうではないようで麻布七不思議のひとつとして数えられることもあるようです。
 


○麻布区史
絶江紹堤墓
今日の市立光明小学校[本村町]の付近にあった。むかし貧民長屋が多く、毎朝一つの釜を共有したので、この呼称は始まったといわれる。もっとも長屋の人たちはこの呼称を残念に思って、ある年の氷川神社祭礼に、とぼしい財布から出しあって大釜の張子を作り、これを山車として町内を曳き廻した。これを見た他町の人々は大いに驚嘆したが、このことがあってからますます釜無し横町の名は高くなったという。
○落語「黄金餅」
五代目志ん生は 十八番 おはこ の落語「黄金餅」でハイライトである「道中付け」の最後に、
~大黒坂を上がって一本松から、麻布絶口釜無村の木蓮寺へ来たときにはずいぶんみんなくたびれた。...あたしもくたびれた。~  

と絶江と絶口と替えて釜無村を入れています。
寺坂吉右衛門碑


また、「絶江」の名が付いた坂「絶江坂」が曹渓寺の西側にあります。
その坂標には、

 ぜっこうさか

   承応2(1654)年坂の東側へ赤坂から曹渓寺が移転してきた。初代
   和尚絶江が名僧で付近の地名となり坂名に変わった。

とあり、また「絶江」について文政町方書上の本村町項では里俗の字として、

上ノ町・仲町(新町)・西ノ台(御殿新道)・川南町(新堀端)・大南町・仲南町などと並んで「絶江」を、

    絶江と申すは、同所曹渓寺と申す寺に名僧これあり、これにより里俗に絶江と申し伝え候


と記しており、曹渓寺については、(注)として、

港区南麻布二丁目九番二二号の地にある臨済宗妙心寺派の寺院。元和九(1623)年酒井
絶江坂
雅楽頭 忠興の内室が創基し、絶江を開山とした。承応二(1653)年
に現地に移転する。赤穂浪士の寺坂吉右衛門が晩年を過ごしている。
境内には南町奉行有馬則篤、儒者藤森天山、寺坂吉右衛門の墓が
ある。

としています。









(DEEP AZABU注:この寺は観光寺ではないため、檀家以外の参拝は認められていません。)









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