2013年6月20日木曜日

桜田町に過ぎたるもの(その-1)

麻布区史桜田町の項に、
明治初期の一本松と火の見半鐘(参考画像)

櫻田に過ぎたるものが二つあり火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

とあります。これは昔から良くあるの言い廻しの一つで、分不相応な持ち物を揶揄して
いった言葉、またはそれを羨んでいった言葉ですが、一つ目の「火ノ見半鐘」とは、「火の見やぐら」最上部にかかっていて火事を知らせるために打ち鳴らす半鐘のことです。

文政のまちのようす・江戸町方書上(三)麻布編」麻布桜田町の項(401p)には、
自身番屋前に梯子火の見建て置き、半鐘の儀は宝永二年(1705年)二世案楽のためと彫り付け有り、右梯子火の見建て始め、願い済み年代相知れ申さず候


とあり、麻布桜田町の火の見やぐら創建の詳細は江戸町方書上が書かれた文政年間(1818~1829年)の当時から不明となっていたようです。
しかし、「過ぎたるもの」とまでうたわれたのは、町域のほとんどが高台の尾根づたいであった桜田町にある「火の見やぐら」は、他の谷底の町々に比べてはるかに見通しが良く、その火の見やぐらに設置された半鐘は遠くまで響きひときわ目だった音で、人々から羨望されたためだと思われます。

麻布桜田町(材木町交差点付近)の標高は31.09mで、六本木交差点・旧防衛庁前(30.00m)、本村町(28.00m)、一本松(23.78m)、北条坂上(28.27m)、鳥居坂上(26.00m)など比較的海抜の高い他の地域に比べても最標高です。ちなみに低地だと中の橋商店街入り口付近(4.87m)、十番通り付近(6~7m)、二の橋付近(5~6m)と桜田町とは20メートル以上の標高差があり、高台の桜田町のさらに高い火の見やぐらの上から打ち鳴らす半鐘が遠くまで鳴り響き、有名になったのもうなずける話です。以前、三田にある久留米藩有馬家上屋敷の火の見やぐらは、
田台地に高さ三丈(9.09m)の火の見櫓を組んだ。
他家のものは二丈五尺(7.5m)以内であったため日本一と称され、
「湯も水も火の見も有馬名が高し」
「火の見より今は名高き尼御前」などと詠まれた。
明治初期解体中の有馬家火の見櫓
とお伝えしました。しかし、この有馬家の火の見やぐら自身の高さは日本一かもしれませんが、藩邸内最標高(15~20mくらい)に建っていて、やぐらが9mあったとしても標高29mで、桜田町のやぐらは標高31m+やぐらが5m(と仮定しても)=標高36mとなり、標高も加味すると文句なしに麻布桜田町に設置された火の見やぐらのほうが高かったことになります。

ちなみに現在の「港区最高地」は、赤坂台地の北青山3丁目3番で標高34m、最低地はJR浜松町駅前付近で標高0.08mとのことで、桜田町は残念ながら僅差で「旧麻布区」としての最高地となります。

最後に「~に過ぎたるものが」という言い回しの中で比較的良く耳にするものを下記にご紹介します。


「永坂に過ぎたる物が二つあり、岡の桜と永坂の蕎麦」

保科には過ぎたるものが二つあり 表御門に森の要蔵

「家康に過ぎたるものが二つあり。唐の頭に本多平八」

「三成に過ぎたるものが二つあり島の左近と佐和山の城」

「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」

「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽大名炭屋塩原」



現在の麻布桜田町(麻布税務署前)

★麻布桜田町とは

桜田の地名は、もとは霞ヶ関のうちにあり、慶長七(1602)年頃に上地となり、溜池移転の後、寛永元(1624)年、にさらに麻布への替地が与えられた。その頃、このあたりは阿佐布新宿と呼ばれ、宿場町的な集落を形成していたが、替地に伴い麻布桜田町の名が定着した。治承年間(1177~1180)年源頼朝が奥州征伐の際、鎮守の霞山稲荷に神領を寄進し、神領の印に田の畝に桜を植えたのが地名の由来といわれている。霞山稲荷は現在の櫻田神社のことで霞ヶ関から町と共に現在の場所に移転してきた。町内は北から「上町」「中町」「下町」の俗称で呼ばれた。 
明治2(1869)年、麻布妙祝寺門前、麻布妙善寺門前、麻布正光院門前、麻布観明院門前を合併し、同5年には付近の武家地と寺社地を合併した。麻布の冠称は1911(明治44)年までだが港区成立時の1947(昭和22)年、旧区名の冠称により再び麻布桜田町と改称。1966(昭和41)年、東南部が新住居表示により元麻布三丁目となり翌42年東北部が六本木六丁目、西部が西麻布三丁目のそれぞれ一部となる。


★櫻田神社とは

櫻田神社
桜田町、霞町の町名の由来であり、東京(江戸)最古の地名でもあるこの神社は、元々霞ヶ関近辺にあり霞ヶ関、桜田門の名の由来とは同根である。 治承4年(1180年)渋谷重国が狩りをした時、霞ヶ関の霞山を焼き狩しようとすると、白い狐が現われ天に向かって気を吐くと、十一面観音が現れた。 重国は驚き頼朝に乞うて創建した。その後、源頼朝が奥州征伐の際神領を寄進し、
田に印の桜を植えたので「桜田」と呼ばれ太田道灌にも崇敬されたが、 後北条の攻撃で炎上、その後家康入府の後に溜池に移り、寛永元(1624)年ころ現地に移った。この際、元地の百姓も共に移ったので、桜田町を 別名百姓町とも言った。
私の小さい頃この前の通りは、桜田通りと呼ばれたが現在は「テレビ朝日通り」と言うらしい。

江戸期には太田道灌の甲冑が寄進され御神宝とされていたが 弘化二(1845)年1月24日におこった青山火事により惜しいことに焼失した。 幕末には沖田総司、乃木希典将軍の参詣し、乃木将軍の着用した産着は櫻田社に寄進された。(現在は乃木神社に譲渡され社宝となっているという)、また 硫黄島で玉砕したロサンゼルスオリンピック馬術競技の金メダリスト「バロン西」こと西竹一陸軍中佐も櫻田神社の氏子であった。そして、 遷座前の氏子区域である西新橋一帯(芝桜田)は現在も一部区域が櫻田神社の氏子となっており、日本中央競馬会正門にも神社の由緒書が掲示されている。 桜田町そして明治期からは霞町の町名は櫻田神社の別称:霞山稲荷を由緒としている。

JRAビルに展示される櫻田神社神輿

○JRAビル展示神輿に添えられた由緒書
桜田神社 縁起より

古えは、この付近一帯を桜田郷と呼ばれ、桜木八千余本を数えたという。治承五年「一,一八一年」渋谷庄司重国が、 霞山「現在の霞ヶ関」に霞山稲荷「桜田神社」を建立、後に太田道灌が、文明年間「一,四七〇年頃」これを新しく造営した。
江戸時代にい至り、幕府は霞山稲荷を慶長七年「一,六〇二年」赤坂溜池に移し、更に寛永元年「一,六二四年」麻布桜田町「現在の西麻布」 に移された。このような歴史背景から、江戸時代には、桜田八ヶ町としてこの一帯の町名に、芝桜田備前町、芝桜田太左エ門町、芝桜田久保町 などと桜田を冠せられた。当町会の前身であった芝新桜田町の昭和三二年まで残った。

日本中央競馬会本部の前の通りは、江戸城の濠端で、柳の並木を配し、河岸通りと呼ばれ、当時日本橋にあった魚河岸への道として往還の賑わい をみせたという。明治になり文明開化が進むにつれ、お濠が埋められ河岸通りの面影も消えて、次第に芝桜田の界隈は、東京の中心地と変化していった。
戦前の新桜田町は、三二〇世帯、人口約二,〇〇〇人であった。
町名が、昭和三二年に田村町一丁目、昭和四〇年に西新橋一丁目と改められても、桜田郷の鎮守である桜田神社を氏神様として、崇めている所以である。
競馬会玄関前の広場は、戦前戦後とも町の中心で、色々と町会行事が行われたものである。
秋祭りには御神酒所を設け、麻布のお宮からの神輿巡行は、千貫を超す大神輿を牛車によって行う一大イベントであったという。今日では当時の面影はないが、 芝桜田の地に往年の想いをはせ、史実としてこれを後世に伝えることは意義深いものであり、戦後再建された神輿や太鼓を飾ることができたことは、 日本中央競馬会のご尽力によるものと深く謝意を表す次第である。

平成六年九月吉日

西新橋一丁目第一町会

町会長 森野平太郎

氏子総代 本田健次

(JRAビル 港区西新橋1-1-19 )地図








次回は二つめの「箕輪の重兵衛」をお伝えします.......。














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