前回に引き続き「櫻田に過ぎたるものが二つあり火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛」の後半、「箕輪の重兵衛」とはどのような方だったのかを調べてみました。
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櫻田神社 |
そもそも桜田町は麻布区史、文政町方書上などによると源頼朝が奥州征伐に向かう折に霞山稲荷(現櫻田神社の別称で、元は霞ヶ関あたり)に立ち寄り、植えた桜の木があったあたりを「神領」として寄進ことから起こった名といわれています。しかしその後の江戸の拡張整備に伴い大名屋敷(上杉家上屋敷)を建設することとなり百姓衆は霞ヶ関近辺から、
◆慶長七(1602)年
元地桜田郷から溜池坂上に移動、その直後再び溜池坂下に移動。しかしすぐに御用地となり屋敷と共存する。
◆元和元(1615)年
再び溜池坂上に移動。しかしそこも御用地となる。
◆寛永元(1624)年
麻布の原の4丁2反7畝4歩に替地として居住を許され「麻布新宿」と唱える。
と移転し、膨張により田畑から大名屋敷に変遷しゆく江戸市街化計画の生き証人とも言える移動を余儀なくされました。特に元和元年には度重なる替地に業を煮やした百姓衆が土井大炊頭・長井信濃頭・井上主計正など幕府要人に駕籠訴を行い、その結果として寛永元年に願いが聞き届けられたといわれています。
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現在の麻布桜田町(麻布税務署前) |
この桜田町は、寛永元(1624)年の麻布移転時には「麻布新宿」と呼ばれ、市街を遠く離れた小さな宿場町というような位置づけでした。しかし代官木部藤左衛門が「桜田町」と唱え、それ以降「麻布桜田町」と称するようになりました。この麻布桜田町は移転時から「町」であり、麻布の他の地域は正徳年間(1704~1715年)まで「村」であったのに対して麻布の中でも早くから「町」を名乗る地域でした。しかし、その実態は移住者のほとんどが百姓衆であるために別称では「麻布百姓町」と呼ばれるほど江戸市街の辺境で、管轄も町奉行ではなく代官支配であったようで、実質的には麻布の他の地域と同じ「村」であったようです。
さて本題の箕輪重兵衛ですが、麻布区史、文政町方書上などによると、代々重兵衛を名乗る桜田町の名主であり 、その先祖は甲州浪人で 主家武田家の滅亡後に櫻田郷(霞ヶ関)で帰農したものと思われています。その箕輪家の中興といわれる箕輪豊前はやはり櫻田郷の名主を務めましたが天正年間に病死し、 惣領の箕輪伊予が家を継いで名主となりました。しかし伊予も30歳の若さで病死してしまい子供も無かったので、それまで蒲生中務に仕えていた次男の七兵衛が蒲生家を 辞して帰農し、箕輪の家督を継ぎました。
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元地桜田久保町(西新橋)氏子
から奉納された櫻田神社狛犬 |
そして、この七兵衛は兄と同名の「伊予」と名を改め、奥州の陣(関が原の戦い)、大阪夏の陣などに人馬を差し出し徳川家に貢献しました。 特に大阪の陣では七兵衛自身も百姓新左衛門と共に人夫として参戦し、新左衛門を戦で失いつつも首級を3つ上げたそうです。
この功により「七兵衛」に取った首数の三を足して 「十兵衛」という名を褒美として賜り、代々箕輪家の当主は十兵衛を名乗る事となったそうです。これが後に「櫻田に過ぎたるもの~」と唄われる事になる箕輪重兵衛の由来です。 ちなみに麻布区史「第二節明治初年の区制(452ページ)」には明治2年(1869年)麻布櫻田町の中年寄として箕輪重兵衛の名が掲載されており、大阪夏の陣のあった 慶長二十年(1615)以来250年あまり、その名が受け継がれていた事がわかります。 そして、櫻田神社が溜池にあった江戸初期には箕輪重兵衛の住居が櫻田社の付近にあり、その住居に 榎木を植えたのが移転後も残り「箕輪榎」と呼ばれ 現在アメリカ大使館前の「榎坂」の語源となったとの説もあります。
余談となりますが、この箕輪重兵衛の他にも櫻田町の旧家として、
樋田長右衛門
- 同じく元甲州浪人で櫻田郷からの名主の家。麻布に替地後は櫻屋という紺屋(染物屋)を営み、正保年間(1640年代)将軍家光が笄橋で鷹狩をした際に白雁を捕獲して将軍手づから巾着より褒美を頂き代々名主を勤めたと言う。(一説にはその褒美は銭3文とあり、家光はケチであったのかもしれない。)
七蔵
- 先祖は櫻田郷以来の灌左衛門という酒屋を営む代々年寄を勤めた名家。
などがありもしかしたら各家共に、今も大切にその由緒が受け継がれているのかもしれません......。
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