2013年6月3日月曜日

耳袋の中の麻布辺

「耳袋」という江戸中期の書物の中に麻布近辺の話を発見したので、要約をご紹介します。

怪妊(巻の四)

麻布に住んでいた松平を名乗る寄り合い(3千石以上、旗本1万石以下で無役の者)の家臣に年頃の娘を持つ者がいた。いつの頃からかこの娘が懐妊してただならぬ様子であったが、その娘の性質からして隠し男などを作るようにも見えない。父母の傍を朝夕離れず、好意を持った男もいないと思われるので、家族がたいへん不審に思ってその娘にあれこれと尋ねたが、全く身に覚えの無い事と神仏に誓った。寛政8年(1796年)四月に娘は産月となったが、このころから娘の腹の中で、赤ん坊が何かものを言う様子であった。言葉の意味は判らないが、間違い無く娘の腹から音が聞こえた。と、ある人も語っていて人々は、何が産まれてくるのかと怪しんで語ったという。
蘇生した人(巻の五)

寛政6年(1794年)ころ、芝で日雇いなどの仕事をして暮らしていた男が、ふいに病気になり急死してしまった。それを生前懇意にしていた仲間達が集まってねんごろに弔って寺に葬った。ところが二日ほど過ぎた時に、墓の中から唸り声が聞こえて、びっくりした寺の僧が掘り起こしてみると、死んだはずの男は蘇生していた。そこで寺から町奉行の小田切土佐守にしらせが届き、番所で養生させてから事の次第を尋ねると、
自分が死んでいたとは知らなかった。京都に旅をして祇園から大阪道頓堀を歩き、江戸に戻る途中、大井川で旅費が底をついてしまい途方にくれていると、川渡しの者が同情して渡してくれて何とか家にたどり着いた。その時に真っ暗で何もわからなかったので声を立てたことを覚えている。と語った。この話しは、鎮衛が小田切土佐守から聞いたもであると書いてある。


耳袋(耳嚢)」とは、江戸中期に御家人から勘定方となりさらに、勘定組頭、安永5(1776)年には勘定吟味役を経て佐渡奉行、勘定奉行、南町奉行などの奉行職を歴任した根岸鎮衛(ねぎしやすもり)が同僚や古老の話を書き留めた全10巻からなる随筆集で、猫が人に化けた話、安倍川餅の由来、塩漬にされた河童の事、墓から死人が生返った話等々、天明から文化年間までの30年にわたって書き続けた珍談・奇談を満載した世間話の集大成です。しかしこの耳に袋というタイトルはおそらく、

あちこちから聞き込んだ話を書き溜めた集大成

という事からつけられたものと想像しますが、実は「ミミブクロ」と呼ばれていたのか「ジノウ」であったのかはわからないようです。

この根岸鎮衛はまた、第二十六代南町奉行就任中に芝神明の境内で起きた「め組の喧嘩」を取り扱いその際に、庶民からは、御家人という低い身分のから町奉行にまで出世し、下情に通じた好人物とみなされて、大いにもてはやされました。この為に真偽はともかく、いつしか体に入墨をいれたお奉行という奇妙な伝承も生まれたといい、桜吹雪の遠山の金さんのモデルともいわれています。その後の寛政12年(1815年)7月、鎮衛は 79歳で500石を加増され家禄1000石となり、


御加増をうんといただく500石 八十翁の力見給へ
の句を残し得意の頂点となる。その句が世間に知れ渡ると、


500石いただく力なんのその われは1000石さしあげている
と、悪評のあった肥田豊後守左遷のパロディにも使われました。(豊後守は左遷により1000石を幕府に返上)

そんな鎮衛も同年11月、自宅に祀っていた聖天の燈明により屋敷が焼失して自身も皮肉られ、


御太鼓をどんと打つたる御同役 八十(やそ)の翁のやけを見給へ
と詠まれました。さらに11月4日には18年間勤めた町奉行を辞して、12月上旬、冥界へと旅立った(一説には11月4日現職のまま逝去、同9日に奉行職転免とも)。その墓麻布市兵衛町善学寺にあります。(余談だがこの寺の近辺には、1937年ソビエトで行方不明となった松田照子さんの家があった。)しかし、善学寺住職のお話によると遺骨は神奈川県に移されており、現在は供養墓として残されているとのことです。

「耳袋」は永い間その一部しか発見されていなかったが、その100話1000編からなる完本がアメリカのUCLAバ-クレイ校三井文庫から発見されたそうです。