2010年3月31日水曜日

深じゃなくて「奥」麻布

このサイトを始めた13年ほど前、サイト名をDEEP AZABUとしたのは、私が生まれ育ったのが地図上では麻布地域のほぼ中心部に位置する「麻布宮村町」であったので麻布の最奥部という意味合いで名付けました。
これはChuck Berryの大ヒット曲Jhonny.B.Goodの出だしの、

Deep down in Louisianna close to New Orleans,~♪

という歌詞から思いついたものです。だからニュアンス的には「麻布のずっと奥」「麻布の最奥」なんて訳して頂けると嬉しいのですが。麻布を深く掘り下げたサイトだからDEEP AZABUなんでしょう?などと見当違いの推測をよく言われますが、当方さすがにそんなに面の皮は厚くありません(^^; 

そもそもこの最奥部の宮村町の成り立ちはその名前が示すとおり「お宮」があったからなのですが、私はこのサイトを始めるまで、ずっと「寺」が林立する地域であるのでそれをもって「宮村」としている。っと勘違いしていました。

確かにこの辺りに江戸期には本光寺を始め長玄寺・正念寺・千蔵寺・光隆寺・広称寺
・安全寺・龍澤寺とまさ麻布の中でも屈指の寺町。しかし寺を「お宮」とは呼びません。
それでは宮村町の宮とは何を指すものなのでしょうか?

それはズバリ「麻布氷川神社」を指しています。麻布氷川神社は創建時から江戸初期まで暗闇坂と狸坂を挟む広大な敷地を社地として、二の鳥居が鳥居坂上に(このため鳥居坂となったと言う説もある)、 三の鳥居が永坂にあったとも言われ江戸氷川七社の一つとしての面目を保っていました。そしてこの場所に現在も残されている一本松は 麻布氷川神社の御神木であったといわれています。このため坂下町・宮下町・鳥居坂町そして社のお膝元の宮村町はすべて麻布氷川神社との関わりや位置関係から付けられた地名です。

噂ではこの名誉ある地名を六本木町名に変更したらなどという意見があるようですが、とんでもないことです。
そもそも宮村町が六本木地域にふくまれていたことは江戸以前にも一度もありません。都内各所の町会名が昨今の名前から由緒ある江戸期以来の旧町名にぞくぞくと復古している現在、この町名(住居表示?)改革は改悪の極みであることは間違いありません。そしてこの噂が偽情報であることを願ってやみません。
現在港区の住居表示達成率は97.4%だそうです。100%にならないのは麻布永坂町と麻布狸穴町が地域住民の意志により新町名への変更に反対して現在も旧町名を使用しているから.....なのです。

2010年3月29日月曜日

あの頃....

小学生の頃、遊びの種類により場所はたいてい特定されていた。
ザリガニ(赤くなったものマッカチ、まだ赤くないものをアオタンと呼んでいた)、クチボソ釣りは「がま池」か有栖川公園、というよりがま池で管理人に追い出されると有栖川公園へと向かうのだが、当時都立公園で釣りが禁止されていた有栖川公園でも運が悪いと管理人に追い回された。

爆竹や2B弾などの空き地遊びは宮村公園上の空き地か一本松の「ワンワン原っぱ」、特にアポロ11号が月面着陸を成功させた1969(昭和44)年頃にはロケット花火を立に重ねて3弾式ロケットなどを造り、空き地はその発射基地となった。そんなある日、爆竹遊びをしていると通報か空き地巡回で通りかかったと思われる巡査に見つかり、親の名氏名、学校名などを聞かれたときにはこれで犯罪者の仲間入りをしてしまった!っと次の日の学校はてっきりバレていると思って行くのが嫌だった。

草野球は現在の麻布税務署の場所にあった第一パン工場跡空き地、現在青山公園・米軍ヘリポートになっている空き地で、当時は草ぼうぼうの場所を「三連隊」と呼んでいた。現在グランドとなっている道路に面した空き地から鉄条網が張られて立ち入り禁止になっていた斜面を登ると現在米軍ヘリポートになっている広大な空き地が現れ、子供は草野球、少し大きな高校生くらいたちはラジコン飛行機やUコン飛行機をエンジンをブンブンいわせて飛ばせていた。

たまに遠征してタナゴ釣りは現在ミッドタウンとなっている檜町公園、大物釣りは弁慶橋(赤坂見付)、夏場のハゼ釣りは勝鬨橋を渡って大遠征の東雲などで、もちろん遠征の移動手段はすべてチャリンコだった。ずっと後年、タナゴはある程度水が綺麗な場所にしか生息しないことを知ったが、檜町公園池の水はは見た目にも緑色に澱んでいたので、今でも何であんな所にと不思議である。

宮村公園での遊びは砂場での「ビー玉転がし」が大流行。砂場に芸術的なコースを造ってゴールまでの早さを競い、一位の子供が二位以下のビー玉を総取りすることが出来た。しかしコースアウトしたものや、アイスクリームの棒で出来た橋を渡るのを失敗したものは胴元のコースのオーナーに没収された。これを見込んで仕掛けを随所に設定し参加者のほとんどがゴールまでたどり着けない、まるで「チキチキマシン猛レース」のようなコースが乱立したが、やがて誰もゴールにたどり着けない、最初から貫通していないトンネル・大きく傾斜して渡りきれないアイスクリーム棒橋などのペテンが横行して胴元の総取りという超難関?コースが出現するに及んでやがて子供たちから飽きられた。

そんな遊びも、真冬のどんなに寒いときでも意地で半ズボンしかはかなかった小学生から、真夏でも意地で長ズボンしかはかなくなった中学生になると「もう子供じゃないんだから」っと自分に言い聞かせて、全くやらなくなってからもはや40年の歳月が流れてしまった。