2019年4月12日金曜日

⑭服部ハウス

現在の服部ハウス

1933(昭和8)年、セイコーの創業者、服部金太郎氏の邸宅として建てられた洋館で、
設計者は帝国ホテル新本館などを手がけた高橋貞太郎。
この服部ハウスは敷地面積16,815㎡という大きさで、これは東京ドームの三分の一ほどにもなります。

戦後は連合国軍総司令部(GHQ)に接収され、極東軍事裁判(東京裁判)では連合国側主席検事となるジョセフ・キーナンら10名の検事の宿舎兼オフィスとなりました。
そして機密保持のためこの敷地の門前にはMPが歩哨が立ち通訳官、タイピストなどが、裁判中外出を許されない状態で常駐していました。

ネット上などには「日本国憲法の草案作成地」との情報もありますが、それは明らかな間違いで、日本国憲法草案が審議されたのは現在アーク八木ヒルズ(港区六本木1-8-7)です。

また、服部ハウスに隣接する野村ハウスには検察側証人田中隆吉陸軍少将の保護された二階建て和風屋敷(田中少将はその後代々木・今井ハウスに移転)。
東京裁判中の服部ハウス

野村ハウス敷地その後は竹中工務店の迎賓館である「白金竹友クラブ」を経て現在は
超高層マンション「ザ・パークハウス 白金二丁目タワー」となっています。

この田中隆吉は極東軍事裁判において検事側(連合軍側)の証人として被告に不利な証言をして「売国的言動」といわれました。これによりGHQによる田中隆吉保護のための屋敷でした。

また服部ハウスは、山崎豊子の著書「二つの祖国」によると、洋館には米人言語部長、同言語裁定官、日本人通訳、速記者が詰め、日本家屋には27人の女性タイピストが入っていたと記載されています。

服部ハウスはその後現在の服部ホールディングスに返還されましたが、が2014年10月シンガポールの「シティ・デベロップメント」社に売却されました。


◎wikipedia-服部金太郎
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%8D%E9%83%A8%E9%87%91%E5%A4%AA%E9%83%8E

◎wikipedia-高橋貞太郎
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E8%B2%9E%E5%A4%AA%E9%83%8E

◎wikipedia-ジョセフ・キーナン
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%BB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%83%8A%E3%83%B3

◎wikipedia-田中隆吉
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E9%9A%86%E5%90%89

◎wikipedia-極東国際軍事裁判
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%B5%E6%9D%B1%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E8%BB%8D%E4%BA%8B%E8%A3%81%E5%88%A4

◎FB自己記事
 日本国憲法草案とベアテ・シロタ・ゴードン
 https://www.facebook.com/deepazabu/posts/10218794102427304





MPが警備する服部ハウス正門







ジョセフ・キーナン主席検事





東京裁判におけるキーナン









田中隆吉少将














鉄条網とMP警備により出入りは厳重に管理されていた







外出を禁止されていたタイピスト・法務官ら






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2019年4月10日水曜日

白金氷川神社

★白金氷川神社
 (正式名称は氷川神社)

日本武尊が東征の折に大宮氷川神社を遥拝した当地に、白鳳時代()に創建されたと伝えられている。

江戸時代中期の明和9年(1772年)明和の大火により焼亡し、江戸後期に社殿が再建された。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)空襲によって江戸後期の社殿が焼亡した。
現在の社殿は昭和33年(1958年)に竣工したものである。
(wikipediaより引用)

港区オフィシャルサイトの「雷神山児童遊園」には戦後雷神社のご神体は氷川神社に合祀されたと伝えていますが白金氷川神社は当社ではないと明言しています。

◎港区オフィシャルサイト「雷神山児童遊園」
 https://www.city.minato.tokyo.jp/shisetsu/jidoyuen/takanawa/15.html

◎Blog DEEP AZABU-雷神山
 https://deepazabu.blogspot.com/2019/04/blog-post_10.html








◎三氷川直列
赤坂氷川神社・麻布氷川神社・白金氷川神社

赤坂-麻布-白金の各氷川神社は古道といわれる道(麻布区史では古奥州道としている)沿いの南北にいわくありげに、ほぼ一直線に鎮座している。
【赤坂氷川(創建地:赤坂四丁目一ツ木台地)~麻布氷川(創建地:暗闇坂と狸坂に挟まれた斜面)~白金氷川神社(創建地:現在地)として設定】
大宮氷川神社も中氷川神社・氷川女体神社の三社を結んで一体の氷川神社を形成していたとの伝承、また奥多摩市の奥氷川神社・所沢市の中氷川神社 ・大宮氷川神社もそれぞれ奥社・中社・本社として配置されたとも言われ、当地麻布周辺においても同様の考え方があっあとしても 不思議ではないと思われる。そして創建年代についても白金氷川神社は不明ながら赤坂氷川神社は天暦五(951)年、麻布氷川神社が天慶五年(942)年と 9年ほどの差しかないことから、想像ながら両社に何某かの関連性があったとしても不思議ではない。 港区内氷川神社の配置からすると麻布氷川神社は「中社」の位置づけとなるのであろうか。


○各地の三社直列
ウィキペディアによると、
大国魂神社(六所宮)の祭神や南北朝時代の『神道集』の記述では、多摩市の小野神社を一宮、あきる野市の二宮神社 (旧称小河大明神)を二宮、氷川神社を三宮としており、~略~

~略~霊峰富士山と筑波山を結んだ線と、浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点にあり、 大宮の氷川神社、三室の氷川女体神社、中川の中氷川神社(現・中山神社)が、浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に並ぶ。 この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある~略~
との記述があり、三社を直線に並ばせて配置する他所の実例を示している。

また奥多摩町の「奥氷川神社」~所沢市の「中氷川神社」~大宮市の「大宮氷川神社」の三社は「武蔵三氷川」とされていて、 それぞれが奥社-中社-本社の関係にあるといわれる。




○江戸七氷川

①赤坂氷川神社
②麻布氷川神社
③渋谷氷川神社
④簸川神社(文京区)
⑤盛徳寺(麻布今井)
⑥羽根田村(新堀近き所の社)-不明
⑦萬年寺山-不明



その他氷川神社情報は下記からどうぞ。

◎DEEP AZABU-麻布氷川神社
 http://deepazabu.net/m1/mukasi/mukasi.html#8



港区内三氷川直列











三氷川直列①











三氷川直列②











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雷神山

★麻布の橋-その2-3
 字雷神下とその周辺
狸蕎麦の梅屋敷とその水車をお伝えしましたが、少し気になることが。
この「狸蕎麦」という里俗の地名は江戸期の古地図にも描かれているのですが、水車の所在地を示す住所は、
「芝区白金三光町字雷神下165番地」
で狸蕎麦という地名は使われていません。
もちろん麻布などの他地域でも住所として使われていない里俗の名称は、内田山、大隅山、薮下、麻布山、鷹石などたくさんありますがこれらは新聞などの用語として頻繁に登場します。
そこで白金地域の字名を調べてみると、上三光、下三光、奥三光、名光、東明名、西名光、松久保、大根原、蜀江台、鷺の森などと並んで「雷神下」がありました。
この雷神下とは近代沿革図集によると
雷神下とは雷神社下の意味で卒古台(蜀江台)へんをさすのである。
とありまた同書の「雷神山」の項には、
雷神社(いかづちじんじゃ)は白金三光町395番地にあり、明治以前は雷電宮と称し神応さん報恩寺においてこれを管せり。
などと記しています。
この報恩寺は白金氷川神社の境内にあった別当で江戸期には僧が神官も兼務する「社僧」が取り仕切っていたようです。
しかし明治初期に廃仏毀釈の影響からか廃寺となったようです。
この報恩寺が雷神社の別当も兼務していたことから、現在この雷神社は白金氷川神社に合祀されているようです。
って書きましたが、もしかしたら雷神社は最初から白金氷川神社の末社であった可能性があります。大宮氷川神社なども
末社に雷神社を祀っています。
余談ですが、白金氷川神社参道脇の茶屋には江戸名所花暦にも掲載された「床梅」と名付けられた名白梅がありました。
この雷神社付近には雷神横町または雷横町があった事が近代沿革図集には記されています。
この雷神社の社地は1950(昭和25)年に「雷神山児童遊園」として整備され近隣住民や北里病院の入院患者などに親しまれているようです。
因みにわたしも父親が北里病院に入院していた時期には、毎日のように休憩でこの公園を利用させて頂き癒やしを受けました。
この公園に設置されたモニュメント脇の碑には、
応徳年間(1084から~1087)疫病流行の折、これ
を鎮めるため雷神を祀った雷(いかずち)神
社が建てられた。以来この土地は雷神山と呼
ばれ、病気平癒を祈願して多くの人々が参拝
するようになったいう。戦後、氷川神社に
合祀され児童遊園として生まれ変わった現在
雷神山の地名と参道の桜並木にその名残を留
めている。
と記されています。
最後にこの雷神社は小祀からか文政町方書上にも、御府内備考続編にも記載がありませんでした。
もしかしたら白金氷川神社の項に記述があったのかと今頃思っています。
※江戸名所図会「氷川明神社」の項に、
雷電宮
同社地より北にあり、相伝ふ、白川院の御字当國疫病疾流す、氷川明神の神託あるによりてここに此御神を勧請すと云ふ、千手観音を本地佛とす
とあり、合祀される以前の遙か昔から氷川神社と末社という関係であったことが解りました。
また前回お伝えした「狸蕎麦」という里俗の地名も文政町方書上には記述が見つかりませんでした。
★麻布の橋-その1
 青山橋と青山八郎右衛門
 https://www.facebook.com/deepazabu/posts/10218882821405223
★麻布の橋-その2-1
 狸橋とその周辺
 狸橋と狸蕎麦
 https://www.facebook.com/deepazabu/posts/10218915819230148
★麻布の橋-その2-2
 狸橋とその周辺
 三田用水白金分水と梅屋敷の福沢諭吉水車
 https://www.facebook.com/deepazabu/posts/10218918185009291

◎★DEEP AZABU-
 3Dグリグリマップ白金・白金台
 http://deepazabu.net/3D/sirokane/index.html












































































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2019年4月9日火曜日

⑰梅が茶屋の床梅

★白金梅ヶ茶屋の床梅
梅ヶ茶屋があった白金氷川神社門前
白金三光坂近くの白金氷川神社別当報恩寺東隣りにあった茶店の白梅の名木。
茶屋の初代オヤジは八右衛門さん、数代を経て忠兵衛さんの時代に枯死したので二本の梅を植え直したとあります。
江戸名所図会はこの梅の名称を、
「白梅にして床梅(とこうめ)と号(なづ)くといふ」
としています。
この梅樹は江戸期の書籍「江戸名所図会」、「江戸名所花暦(江戸遊覧花暦)」にも掲載されており、江戸でも名高い名木であったことがわかりますが、「江戸名所花暦(江戸遊覧花暦)」文中ではその梅樹があった場所を「麻布三子阪」と記しており、白金三光坂を麻布としています。
◆Blog DEEP AZABU-麻布名所花暦
 https://deepazabu.blogspot.com/search…
◆国会図書館近代ライブラリー
◎江戸名所図会-梅か茶屋
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174144/37
◎江戸名所花暦-宇米茶屋
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991544/12
この梅樹を詠んだ遊行上人・他阿一海(たあいっかい)とは、時宗十二派の主流遊行派の五十二世です。
◎江戸名所図会
梅か茶屋
三鈷坂(三光坂)より左の方、白銀(白金)
氷川の社の側にあり、一年
遊行上人五十二世
他阿一海上人此
家やの梅を愛したまひ一種の和
歌を詠せらる 白梅にして床梅(とこうめ)
と号(なづ)くといふ、
二月の芬芳(ぶんほう)
すこふる世に越て高し
◎町方書上 芝編 下
一 梅ヶ茶屋
江戸名所図会に描かれた
梅ヶ茶屋と床梅
右は、白金村鎮守氷川別当報恩寺東隣りにて、元は同村百姓八右衛門と申す者茶見世差し出し、地面内に梅の木一本これあり、年月知れず花咲き候頃遊行上人この華を賞し、一首の詠歌これあり候より、自然梅ヶ茶屋と相唱え申し候。当時は右地所忠兵衛と申す者所持仕り茶見世差し出し、右梅は先年枯れ朽ち候につき、その後、植え継ぎし梅二本これあり候。他阿一海と申すは遊行上人の事にて、端書詠歌左の通りに御座候。
麻布白かねといへる邑(村)に
世に名ある喬木の梅あり
この華色香鮮明にして
また梅の実とこしなへに
梢にみのりて歳をこえ侍る
ゆへに世の人是をとこ梅と
いへるとぞ、即ち今年の秋より
又のとしの弥生まで此里に
旅居せしに彼のあるじ
しばしば来たりて此名を
つげ侍りぬ、このゆへに詩人
墨客の笑をかへり見ず
名木のおもはくふせひを
わすれ侍らずくたくたしき
和歌一首をよすること
しかなり
他阿一海
この花の色は白かね名に高く
千歳をこめてみのるとこ梅
◎近代沿革図集
梅が茶屋
江戸名所図会解説
白金村鎮守氷川神社別当報恩寺東隣で、元は同村の百姓八右衛門という者が茶見世を出し、その地面内に梅の木が1本あった。年月はわからないが、花が咲いた頃に遊行上人(時宗の僧侶。名は他阿一海という)がこの花を賞して一首の歌を詠んだことから、自然と梅ヶ茶屋と唱えたという。今は忠兵衛というものが茶見世を出しており、梅は先年枯れてしまったため、その後、植え継いだ梅が二本ある。
◎江戸名所花暦
宇米茶屋
麻布三子阪(三鈷坂・三光坂と同)にあり、
一重の白梅なり、正月下旬 寒暖によるべし
盛りなり、外よりハ遅し、古木なり、遊行
(遊行上人)他阿一海上人このうめに題し
て歌あり
 この花の色は白かね名に高く
  千歳をこめてみのるとこうめ

※画像の一部は国会図書館デジタルライブラリーから引用











江戸期梅ヶ茶屋周辺





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