先日麻布十番を歩いて内田坂の下(南山小学校・六本木高校の坂下)
までくると、ある看板が目にとまりました。「ようちえん さくひんてん」と書かれた黄色い看板で、南山幼稚園の園児さんがつくったもののようです。「かわいらしいな~」なんて眺めていたのですが、ふとその横に目を移すとよくある住宅地図看板(っていうのでしょうか?)がみえました。何気なくその看板を眺めたのですが、なにか気にくいません。なんだろう、なんか違和感が......。
よく考えると、ふつうこのような看板は昭和の香りがプンプンするサビ
たものが多いのですが、これはとても新しくて綺麗です。まるで昨日設 置されたばかりのような綺麗さで、よく見るとお店の名や建物名も最近のものばかりでした。「へェ~、新しい地図看板なんて珍しいな。」なんて思いながら立ち去ろうとしたのですが、まだ、何か違和感が残ります。そこでさらによく見ると、「あれ?この地図、間違ってる!」っと気がつきました。というより、この地図間違えているのではなく、書いてはならないものが誤って記入されていることに気がつき、うぁぁ~、こ、これは!っと声を上げてしまいました。
左の画像は上の画像の中心部(ストロボが反射しているあたり)を拡大
したものなのですが、この地図には今は存在しない道(って江戸時代の地図を見てもこんな道はありません)が書かれています。安全寺の前から暗闇坂方面に登る道で、こんな道はみたことがありません。
このあたりから一本松方面に向かう道は大昔から「狸坂」と「暗闇坂」しかありえなく、その中間に道(坂)は全くないので本来なら間違いようがないと思うのですが.....。
しかしよく考えると、これってあの麻布山地下壕の宮村町側隧道の位置と完全に重なります。(詳細は
むかし、むかし を参照してください)
もし隧道ならば入り口付近は完全に閉ざされていますが、中は当時(昭和20年)のままである可能性が高く(もちろんビルのパイロンなどが打ち込まれているでしょうが)、この地図は間違えていません。
さらに別の要因を考えると、「新しい大型再開発」により作られる予定の道を誤って描いてしまった事も考えられます。同じ宮村町の大規模再開発をした某企業などもさ◎ら坂、け◎き坂などを造った実績があり、勝手なネーミングはお手の物です。
もう一つ考えられるのは、江戸初期までこの地にあった「麻布氷川神社」の境内参道跡説です。ご存じの通り、この地には江戸初期から幕末まで増上寺の隠居所があったのですが、それ以前は太古の昔の創建時より麻布氷川神社が鎮座していました。ですから「一本松」は麻布氷川神社の御神木ともいわれているのです。江戸氷川七社の一社として崇敬され、付近の町名(宮村・宮下・宮元・坂下)などどれも麻布氷川神社がこの地にあったためについた町名です。また一の鳥居が永坂上に、二の鳥居が鳥居坂上にあったことも同様で、暗闇坂から狸坂を挟む広大なお社であったものと想像されます。しかし1659(万治2)年突然、幕命により麻布氷川神社は現在の狭い土地に移転させられてしまいます。
余談ですがこの移転時に宮村の村域(当時このあたりは江戸郊外で代官支配地でした。麻布の村々が町奉行支配の江戸の「町」になるのはずっと後の1713(正徳3)年です。)も同時に召し上げられています。そしてその代地が広尾近辺(現在の広尾商店街付近)に与えられたので、名刹広尾祥雲寺も麻布領であったため「麻布祥雲寺」と呼ばれました。
しかし、その移転理由については定かではありません。当時広大な畑地も残っていたと思われる宮村で、何故移転しなければならなかったのか大きな疑問が残ります。(興味のある方は
歴史年表 を参照してください。)一般的な理由としては社殿が火事により消滅したことが考えられます。この二年前には明暦の大火(振り袖火事)などもあり、それ以外にも江戸の町は度重なる火事に見舞われました。
またこれ以外には、私説で邪説ではありますが、「怨霊の調伏」が考えられます。
関ヶ原合戦[1600(慶長5)年9月]の前哨戦「岐阜城攻め[同8月]」では東軍は城攻めとしては異例の「逃げ口を閉ざした大量虐殺」を行い、その首級を江戸にいた家康に献上しました。そして首実験後に麻布に埋葬されたと言われます。その様子を「武徳安民記」は、
「
慶長五年八月二十八日岐阜より使節参着して、再び尺素を献じ、首級をささぐ。其の員数福島左衛門大夫四百三十、池田三右衛門四百九十、淺野左京大夫三百八--中略--を大桶に入れて到着す。家康即ち実験し浅布の原に首塚を築き之を埋め、増上寺源誉玉藏院忠義に命じ供養せしむ」
とあり、首実検は家康が三万の兵を率いて関ヶ原に向かう9月1日まで行われました。さらに9月1日江戸城を出発した家康は、続々と到着する首級を見て増上寺で行列を止めて首実検を行ったと記録されています。
これらの首級が埋められた場所は定かではありませんが、麻布区史は「麻布西町6番地辺」、港区史は「元スエ-デン大使館東前あたり」と明記しています。これらの住所は現在の元麻布ヒルズ近辺となり、現在の麻布氷川神社と元増上寺隠居所の地の中間に位置しています。もしこれが、麻布氷川神社だけでは鎮められなかった「怨念」を、増上寺院居所(隠居した増上寺の管主の住まい)の高名な僧の力を借りて、双方から封じ込めたとすると移転の理由も納得できます。
いづれにせよ、地図掲示板の不可解な道は謎に包まれています。