薩摩藩三田藩邸 |
関ヶ原の戦いで西軍(豊臣方)についた島津家は、戦が東軍(徳川方)の勝利に終わると、それまで九州各地に持っていた領土を77万石に削られます。そして徳川幕府が成立すると、江戸城修築、 などで莫大な経費を使わされ、さらに参勤交代の費用も九州から江戸までだと相当な物入りだったといわれ、裕福であった藩財政もひっ迫してしまいます。そして宝暦5年(1755年)に島津重豪が藩主の座に就くと、破天荒な経営を行ったため、とうとう「日本一の貧乏藩」といわれるまでになってしまったそうです。
重豪が時の権力者、老中筆頭の田沼意次の政策に賛同して藩校、医学館、天文学館など教育施設や町の活性化に莫大な資金を投入して鹿児島の近代化を進め、重豪が自らも豪奢な生活を好んだために、その結果借金が500万両に達し、利息だけで年間60万両に及んだとされています。当時、藩の収入は12~18万両とされていますので利息の返済すら出来ない状態に追い込まれてしまいました。さすがの重豪も窮してしまい、財政再建を任せられる家来を模索したそうです。そして白羽の矢がたったのが、調所 笑左衛門 広郷でした。
笑左衛門は安永5年(1776年)御小姓組 川崎家に生まれ天明8年(1788年)、13歳で調所清悦の養子となる。御小姓組は士分の末位の家格であるためやがて、茶坊主となり”笑悦”と称した。藩では簿給藩士の家計を援助するために、藩士の子弟を書役や藩校の助教授に任用する制度をとっており、茶道方もその中の一つに含まれていました。笑悦もたまたま茶道方になっただけで、養家が茶道方だった為ではないといわれています。ちなみに西郷隆盛の弟、従道や有村俊斎、大山綱良も一時、茶道方を勤めており、これは藩で正式なポストに就くための臨時的なものであったと思われます。(つまり茶道方とは藩のエリ-トコ-スであったようです。)
笑悦はしだいに茶道への造詣を深め、23歳で重豪専属の茶道方となり、やがて茶道頭に昇進します。文化10年(1813年)に重豪は、笑悦に茶坊主をやめて武士に戻る事を命じ、名を「調所 笑左衛門 広郷(ずしょ しょうざえもん ひろさと)」と改名させ、お小納戸役として自分の身辺の世話をさせました。文化12年(1815年)にはお小納戸役と御用取り次ぎ見習いの兼務を命ぜられた。お小納戸役は御側役の下役ですが、時には隠居した重豪の意を孫の藩主斉興に伝える役目もあり、重豪の笑左衛門 に対する信頼の度がうかがえます。
続いて笑左衛門は47歳で町奉行に抜擢され、異例のスピ-ドで昇進を重ねます。文政7年(1824年)笑左衛門が49歳のとき、側用人兼隠居の続料掛を命ぜられました。隠居の続料掛とは2人の隠居(重豪と子の 斉宣)の諸費用を預かる役目で、その財源は琉球、中国との貿易に頼っていたそうです。しかし今までの、幕府の制限どうりに行われていた貿易では隠居料を賄う事が出来ず、笑左衛門は巧みな密貿易を始めて、大きな収益を上げることとなります。
この成功を重豪は見逃さず、笑左衛門の経理能力を高く評価して藩政改革の責任者として勝手方重役に昇進させ、藩全体の財政再建を命じます。 しかし笑左衛門は仰天の上、固辞し続けたそうです。これは今まで財政再建を完遂した家老は一人もおらず、その方面で素人の自分が出来るはずがないと思った為でしたが、重豪の矢のような催促からついに屈し、承諾します。
ここまで藩の財政が悪くなる過程で薩摩藩は、何度か藩政の改革を試みましたが、実効を上げたものはほとんどありませんでした。その要因の一つとなったと思われる事件が「秩父くずれ」と呼ばれている事件でした。
天明7年(1787年)島津重豪は家督を息子の斉宣に譲り隠退しますが、まだ血気盛んな重豪は藩政への介入を宣言して、事実上の権力者であり続けました。この年、京都で大火があり幕府は薩摩藩に20万両の献金を命じ、これが財政をいっそうひっ迫させました。新藩主になった斉宣は 父重豪と違い、緊縮財政をひき、誠実な人柄で学究肌であったため、質実剛健の気風を好んだそうです。彼は、研究者タイプのブレインを多く登用し、その中の中心的な人物が秩父太郎でした。斉宣は秩父太郎らに抜本的な藩政改革を命じます。秩父太郎は樺山主税と手を組み質素倹約、質実剛健の手引書とも言える「亀鶴問答」という書を著し、藩士たちに配りました。そして藩を上げての倹約方針も、遂に重豪に及び重豪に対して豪奢な生活を捨て質素に倹約するよう諫言します。
しかしこれに激怒した重豪により秩父太郎、樺山主税には切腹を、斉宣には隠居 を命じ、藩主には孫の斉興を据えて自らが後見しました。これ以降質素倹約を唱えるものがいなくなり、重豪の豪奢三昧な生活を改めさせる手段も無くなってしまいました。
「秩父くずれ」の事を知っていた笑左衛門に、重豪への倹約を求める事は出来ず、他の方法を模索するしかありませんでした。そして、思い悩んだ末にまず資金の借入れ先を探します。しかし、藩内の商人は相手にしてくれず、藩と取り引きがあった上方商人にもけんもほろろに扱われてしまいました。思いつめた笑左衛門は何度も自害を思ったが、そんな様子に動かされた上方商人の浜村屋孫兵衛が、他4名の商人を説得して「新藩債」を引き受ける事になり、借入れの件は何とかめどが付いた。(浜村屋孫兵衛には後に、恩賞として黒糖貿易の利権を一部与えています。)
次に藩の財政を再建するために、当時有名な経済学者であった佐藤信淵を顧問に招き、改革案を作らせました。その内容は、
<支出>
1.500万両の借金は、貸し手を説得の上、元金だけを年2万両づつ250年賦で返し利子は一切切り捨てる。
2.藩内の諸費用を予算制度を導入して収支を厳格にする。
<収入>
1.特産品の包装、梱包に問題があり他国へ輸出のさい傷や無駄が多いので直ちに改める。
2.特産品を品質改良し、すべてを藩の専売とする。
3.隠居(重豪)のこずかいを捻出すると言う名目で琉球、中国との貿易の許可を幕府から得る。そして許可が下りたら、決められた制限量を無視し密貿易を行い、それを円滑に行うため幕府の要人に賄賂を贈る。
これらの案を重豪、斉興に披露して了解を得ます。そして今までは酒好きで宴会も頻繁に行い任侠に富み、いかにも薩摩隼人らしかった笑左衛門も質素な生活にあらため、自ら範を示しました。
改革案に重豪、斉興からの許可がおりた笑左衛門は次々と改革を進めていきます。
まず米、その他の特産品の包装を厳重にし、品種の改良と量産の奨励を行い、幕府の許可を得、琉球を通じて中国貿易を始めました。ここで笑左衛門は家老に列せられますが、彼を見出した隠居の重豪が天保4年(1833年)に死去します。重豪の死後も笑左衛門は斉興のもとで家老として引き続き財政再建にあたり、斉興も笑左衛門には全幅の信頼を寄せます。そして斉興と共謀の上、贋金(にせがね)造りもはじめました。そして借金の500万両を事実上踏み倒す事にしました。
藩内の商人には金高に応じて武士の身分を与え、江戸、上方の商人には、借金の証文を騙し取って焼き捨ててしまいます。これにより商人達が騒ぎ始め 、共謀した浜村屋孫兵衛が大阪東町奉行所から詮議をうけましたが、微罪で赦され笑左衛門への嫌疑には及びませんでした。これは、幕閣への賄賂が十分に効いていたためであったといわれています。その後も奄美諸島の特産品「黒糖」を専売にし、現金売買を一切禁止して島での黒糖と他の日用品との交換比率を改悪しました。
そして黒糖その物の品質も改良して、売り上げも1.5倍に伸ばします。これらの改革により500万両の借金があった薩摩藩も改革10年目にして250万両の蓄えを持つまでになったそうです。その資金を活用して笑左衛門は藩内の新田開発や治水工事等、環境開発にも着手して一層の増収を得る事が出来ました。が士族たちも改革の矛先が自分達の方に向かい始めると、反感を募らせる者達が出てきて、笑左衛門の改革にも暗雲が立ち始めます。
丁度そのころ斉興の跡目をめぐって本妻の子、斉彬を支持する勢力と斉興の側室お由良(おゆら)を中心に久光を擁立する勢力が対立していました。このお由良は、江戸三田の町人の娘といわれています。
笑左衛門は曾祖父、重豪の影響を強く受けた斉彬を危惧して、久光の擁立を支持するようになります。跡目相続の抗争が長期化するとやがて斉彬は笑左衛門を憎み、失脚のため身辺を探らせるようになりました。そして笑左衛門が中国との密貿易の指示を出していた事実をつきとめ、幕府の老中筆頭 阿部正弘に密告します。賄賂のためか元々斉彬の支持派であった阿部正弘は久光の失脚につながる笑左衛門への疑惑の追求に喜んで荷担したそうです。
嘉永元年(1848年)の秋、江戸の到着した笑左衛門は直ちに幕府より召喚され、密貿易について厳しい尋問を受けました。笑左衛門は嫌疑が藩主斉興に及ぶ事を恐れ、一切の責任を負って三田にある藩邸内の長屋で毒を仰いで死んでしまいます。
笑左衛門の死は秘密にされ、嫡子の左門は「稲留」と姓を変え、名を数馬と変えて小納戸役を解任されます。さらに屋敷も取り上げられて国許に帰らされるが、これは斉興が幕府の手前を取り繕うためで、まもなく稲留数馬は斉興に番頭に取りたてられ屋敷の買い上げ金600両を下賜されています。しかし、その斉興もお由良騒動から斉彬擁立派を一掃したが、幕府の圧力で隠居せざるを得なくなってしまいます。それは、笑左衛門の死後2年後のことでした。
斉彬が藩主となると薩摩藩は非凡な才能の持ち主の下級家臣である西郷隆盛などを登用して、洋式工業を興し、兵器や軍艦を大量に作り藩を近代化して 討幕へと向かって行きます。そして幕末期には最強の軍隊と呼ばれた「薩摩藩軍」も含めてその基礎となる資金には笑左衛門が藩政改革で備蓄したものが使用されました。おそらく笑左衛門がいなければ、近代工業も、最強の軍隊も薩摩藩は持つ事が出来ず、極論すれば明治維新そのものが、怪しくなっていたと思われ、その偉業は後の日本にとって忘れられない物となっていると思われています。
私の知人、調所(ちょうしょ) 正俊氏は、調所 笑左衛門の子孫であり、氏の許しを得てご先祖の話を掲載させていただきました。調書氏は現在も本家を「ずしょ」、 支流を「ちょうしょ」と呼んでいるとのこと。ちなみに明治初期、一の橋の対岸三田小山町に住んでいた調所笑左衛門の三男で男爵の調所広丈には面白い逸話が残されています。
明治初期、一の橋わきで後に小山橋がかけられる付近には三基のかなり大規模な水車小屋がありました。明治20(1887)年このうちの一基の水車がそれまでの 製紙機器製造から米搗き水車へと用途を転換したい旨の「転業願」が所有者の松本亥平により東京市に提出されます。 これに対して対岸の三田小山町に住む調所広丈男爵より転業を認めないでほしいという嘆願書が東京市に提出されています。 これによると、数十もの臼を搗く振動が家屋を破損させる恐れがあり、その騒音で付近の住民は安眠できないと思われるので許可 しないように。というものであったそうです。これにより同年5月2日には松本亥平は警視庁から度重なる取り調べを受け、実際に騒音公害などが 起こりえるものかを質問されています。そしてその結果、米搗き水車への転業は止めて、活版印刷業に転換することを決定します。この様子は東京府から 警視庁宛に通牒按が提出され、その顛末を報告しています。