2013年9月7日土曜日

麻布氷川神社祭礼の謎

今月14日に例祭を迎える麻布氷川神社ですが、この神社の江戸期の祭礼について調べていると、
天保三年 麻布氷川大明神
御祭禮番付①
年代によって祭りの有り様などが現在とはだいぶ違うものであったことがわかりました。 そしてそのありさまは現在本村町会に保存されている二体の山車人形と獅子頭に込められた製作意図にも反映されているものであることがわかってきました。

天保三(1832)年に描かれた「麻布氷川明神御祭禮番付」にはたくさんの山車が描かれていますが、神輿は宮神輿と思われるものが最後列にあるだけです。
これについて「江戸神輿」(小沢宏著)という書籍の中で麻布氷川神社宮神輿を作成した「宮惣」の五代目村田桂一氏が「江戸神輿の歴史」と題した文中、
~略~東京で祭りといえばすぐに神輿を連想するほど、祭りと神輿をきり離しては考えられない。~中略~しかしかつて江戸の祭りの主役は山車によってしめられていた。 ~中略~山車は神輿よりもはるかに大きく、構造上の制約がないので工夫の余地もあり、奇抜な趣向をもりこむことも自由で、作るほうの立場から見ても好適な素材 といえる。~略~
などと記しており、江戸期における祭りの主役が山車であったことを伝えています。そして同時に山車の豪華さと自由な発想が時には幕府の禁忌に触れたとされており、 さらに明治初期に山車から
天保三年 麻布氷川大明神
御祭禮番付②
神輿へと祭りの主役が変遷した事情を、
・国家神道設立に向けた法令等の変更
・電灯線敷設
・市電開通
など首都ならではの「近代化」という事情をあげており、またこの主役交代は東京以外にはあまり見られないと、神輿主役への変遷を東京独自のものとしていいます。

また、江戸期の祭りについて、
~江戸時代の祭礼で隔年毎に行われていたのは、山王、神田の両社だけで、その(他の)神社の祭礼は必ずしも定期的に行われていたとはかぎらない。
深川八幡では寛政7(1795)年から文化4(1807)年の12年間、浅草三社では天明元(1781)年から文政6(1823)年の四十三年もの長い間祭りが途絶えていたとは、 今日の両社の祭りの盛況を知るものにとってはまさに驚異的な事実である。
このように天下祭偏重の中にあって、江戸の各神社は何年かに一度の祭礼をそれぞれの慣習と世情にあわせてとり行ってきたが、すべての神社に神輿が 整備されているという状態ではなかった。~
と記しており、享保二十(1735)年の記録で「麻布氷川毎年例祭」と記録されているのも、祭礼が毎年行われていたことの特異性を訴えたかった事によるのかも知れません。 しかし麻布氷川神社の
本村町会所蔵獅子頭と山車人形
祭礼も、上記村田桂一氏文章にもある事情から時々の慣習と世情にあわせてとり行われていたことが想像できます。
麻布氷川神社の祭礼は文政五(822)年から天保3(1832)年まで10年間祭礼が開催されなかったとの記述がありますが、天保三(1832)年の祭礼時には 祭礼番付も発行され、また同年には武内宿弥人形(本村町会に現存)が制作されています。 しかし、この年に発行された「麻布氷川明神御祭禮番付」には何故かこの武内宿弥人形は描かれていません。いづれにせよ当時行われた麻布氷川神社の祭礼は化政文化のまっただ中である氏子や氏子町会らの熱望等の世情の高まりから華美な傾向で行われた様子がうかがえます。

そして30年後の文久二(1862)年には名工後藤三四郎により本村町の獅子頭が作成されます。この時代は武内宿弥人形が制作された30年前とは世相が一変しており、世の中は幕末攘夷運動のまっただ中でした。 獅子頭が作成される四年前の安政6(1859)年にアメリカ公使館が麻布山善福寺に設置されたことによる襲撃事件や暗殺事件が麻布周辺で頻発するに及んで、それまで遠い世界の事であった「攘夷」がごく身近な問題として 麻布氷川神社氏子町会や住民にのしかかってきたことが想像されます。

獅子頭は祭りの山車や神輿の巡行では行列の先頭を進み、魔を払う役割を担っていました。想像の域を出ないのですが、この時期に獅子頭を新調したのは祭礼の神輿・山車の巡行道中の間近にいる夷狄(アメリカ公使館員やその場所を訪れる諸外国外交官など)を打ち払い、 祭礼中に攘夷事件が起こらないようにとの願いが込められたものと思えてなりません。








いずれにせよ、多くの住民の不安と切なる願いが込められて作成されたと想像される本村町の獅子頭は、その願いを現代に伝えています。

この貴重な山車人形と獅子頭は当時のままの姿を現在も本村町会が保存しており、麻布氷川神社祭礼時のみ本村町会神酒所で公開されています。










麻布本村町会所蔵山車人形由緒書














麻布本村町会所蔵獅子頭 由緒書


















麻布氷川神社祭礼と一般的な歴史的事象
西暦年号麻布氷川神社祭礼関係事象一般的事象将軍
1735年享保20年8/17麻布氷川毎年例祭享保の改革・享保の大飢饉(1732年)8代吉宗
1791年寛政3年8/17麻布氷川明神祭礼、出し練物等出る。其の後休寛政の改革(1787~1793年)11代家斉
1822年文政5年8/17麻布一本松氷川明神祭礼再興。産子町々出し練物を出す。其後中絶す。町人文化が爛熟(化政文化)・シーボルト長崎に到着(1823年)
1830年文政13年祭礼番付
1832年天保3年武内宿弥人形制作祭礼番付
8/17麻布一本松氷川明神祭礼。四十年目にて産子の町々よりねり物等出る。(文政5年に記載あり。十年ぶりの誤りか)
1838年天保9年8/17麻布一本松氷川明神祭礼。十五日神輿宮下町の仮屋へ御旅立出あり。今日産子町々廻りて帰輿あり。蛮社の獄(1839年)・天保の大飢饉(1833~37年)・伊勢お陰参り流行 12代家慶
1862年文久2年9月 獅子頭制作ヒュースケン暗殺(1861年)・生麦事件(1862年8月)・清河八郎暗殺(1863年)14代家茂
麻布氷川神社の祭礼期日は「東京、わが町 宮神輿名鑑」(原義郎 著)巻末の江戸東京祭礼神輿年表より抜粋


2013年9月6日金曜日

麻布本村町の山車人形と獅子頭(その2)

以前お伝えした麻布本村町の山車人形と獅子頭(その1)の続編として今回は「その2」をお伝えします。

麻布南部(現在の南麻布1~3丁目付近)の麻布本村町は麻布の中でも早くから人が住み着いたところで、その名が示すとおり 麻布の中心的な集落であったといわれています。江戸中期この周辺が、それまでの江戸郊外の「村」から、正徳三(1713)年に江戸町奉行支配下の「町」に編入され 町域となった後も「本町」とは名乗らず「本村町」であった(同様の町名として「宮町」とはならなかった宮村町があります)。そして港区南麻布という無味乾燥な住居表示となった現在まで本村町の名を町会名として残し、 その由緒を伝えています。さらについ近年まで江戸期に町域を更に分割した「(あざ)」名を一時期町会名として残しており、その字名について 本村町会史(久松安 著)には、
~北東の方を「谷の戸」、北の方を「上之町」、西の方を「西之台」、南を「絶江」、延命院の南隣りの町家を「仲南町」と呼んだ。また、曹渓寺門前を 「大南町」と呼び、西福寺あたりを「川南町」と称した。

寛文元年、仙台の松平陸奥守が巣立野に下屋敷を賜るにおよんで、上之町から四の橋に通じる「海道」が新しくできて、道筋に面した町屋を「新町」と呼んだ。~
また、麻布区史は、

○上之町
北の方を指して呼ぶ。
○谷戸町
東北を云った。
○西之台
西の方を指す。一に御殿新道とも云った。これは地続きに白金御殿があったからである。 西の台は単に西に当たる高台と云う意に外ならない。
○絶江
一に絶口に作る。南の三ヶ町、即ち川南町・大南町・仲南町を呼んだ。この称は此の地の曹渓寺を開いた僧絶江和尚徳の成らしむるところである。
○川南町
新堀端とも称し、新堀川南を指す。
○仲町
新町とも云い、絶江の方面を別称した。
と、本村町における字の成立を伝えています。

さらに本村町を南は四之橋にい至り、北は麻布氷川神社~一本松~暗闇坂~鳥居坂を通る往還の尾根道と新たに作られた道筋である「新道」について「御府内備考」を引用して、
往古本村往還は同所東の方町裏に有之、奥州海道と申候。寛文元年丑年中松平陸奥守様御屋敷に相成候節右古道は御同人様御預り地に相成、新に道筋出来致候故新町と唱候 尤其砌は不残百姓商売家に御座候。~  
と、伝えています。


現在港区内で最大の管理区域を有する本村町会には、江戸期から伝わる麻布氷川神社の祭礼に使用された町神輿・山車の装飾品が残されており、その代表的なものが 毎年、麻布氷川神社例大祭時のみ本村町会神酒所に展示される、江戸後期の獅子頭一対と山車人形二体です。



○素盞鳴尊・武内宿弥の山車人形  
      
山車人形と獅子頭
本村町会神酒所の山車人形と獅子頭
   
「素盞鳴尊」山車人形
「素盞鳴尊」山車人形
   
「武内宿弥」山車人形
「武内宿弥」山車人形
      
武内宿弥山車人形の由緒書
本村町会神酒所の山車人形と獅子頭
山車人形の素材は「素盞鳴尊すさのおのみこと」と「武内宿弥たけのうちのすくね(別名:高良大神こうらおおかみ)」で素盞鳴尊は氷川神社のご祭神、武内宿弥は天皇を補佐した忠臣として、どちらも山車人形の素材として比較的多く使われています。 この武内宿弥を素材とする場合、神功皇后と対になっていたり、武内宿弥が幼い応神天皇を抱いているものもよく見かけることがあります。 この応神天皇は大宮氷川神社を勧進したという伝説もあり、氷川社とのつながりも浅からぬものがありますが、残念ながら本村町や他町会に応神天皇の山車人形があったのかは確認できていません。 また応神天皇の別称:誉田別尊命ほむたわけのみことは一般的に八幡神社の祭神であり、御田八幡神社においても主祭神として祀られている神様です。 

そして、同じく本村町会に保存されている昭和45(1970)年に書かれた武内宿弥人形の由緒書には不思議な文言が残されています。 天保3(1832)年に武内宿弥人形が作成された事と共に記されている武内宿弥の経歴は、明らかに御田八幡神社の由緒書きと同一の文章です。

御田八幡神社の遷座遍歴を見ると武蔵牧岡で勧進されたことが記されており、武蔵牧岡は現在の白金・三田周辺と いわれていることから、本村町の一部も牧岡であったとしても不思議ではありません。(麻布御殿が別称:白金御殿と呼ばれていたのと同義) そして本村町の一部の「字」が御田八幡神社の氏子であった可能性も、確証はないが否定もできないと思われます。 

そこで「武内宿弥人形の由緒書」を港区郷土資料館の学芸員にお見せしたところ、前半の御田八幡由緒部分と中盤以降の山車人形作成にまつわる部分は元々違う文章を、昭和45年に一つにまとめたものではないかという見解を示されました。 しかし、私にはこの由緒書は御田八幡と本村町の「いにしえ」のつながりを伝える文言に思えてなりません。

武内宿弥人形は近年、顔の塗り直し・衣装の一部を修復しており、素盞鳴尊人形も胴部の破損により展示が控えられていましたが、現在は修復した上で再び展示が行われています。 この二体の山車人形を修復保存するために昨年、「NPO法人 麻布氷川江戸型山車保存会」が立ち上がったそうで、将来は山車部分まで含めた完全復刻をするための活動が開始されるとのこと、今後の活動が楽しみです。 



○獅子頭
山車人形と共に本村町会には江戸期の獅子頭も保存されています。この獅子頭は雌雄1対の二体あり、由緒書によると文久2(1862)年作成とされています。 これは前述した山車人形が作成されてからちょうど30年後のことで、当時は主に氷川神社の宮神輿渡御の際の行列の先頭を進み、 巡幸路を清め祓うために使用されていたといわれています。時代は下りますが昭和10(1935)年に現在の千貫神輿が新調されたおりの巡行絵図が本村町会会館に残されており、その時の巡行にも先頭付近にこの獅子頭を見ることが出来ます。 そして、それ以来二度と行われなかった麻布氷川神社の宮神輿である千貫神輿巡行に変わって、つい最近までこの獅子頭を神輿に仕立てて本村町内を巡行していたそうです。

なを、この獅子頭の脇に展示されているのは四神の「青龍」と「朱雀」ですが、本来存在したと思われる「玄武」と「白虎」の行方は不明とのことです。  
   
獅子頭(雄獅子)
獅子頭(雄獅子)

   
獅子頭(雌獅子)
獅子頭(雌獅子)
   
獅子頭由緒書
獅子頭由緒書




獅子頭の由緒書で目を引くのは製作者「後藤三四良(郎) 橘恒俊」です。この彫刻師は山車彫刻・寺社彫刻でかなり有名であるようです。天保元(1830)年生まれとの ことなのでこの獅子頭を 作成したのは、恒俊が32歳のときとなり、また千葉を中心として寺社彫刻や山車への彫刻を手がけた彫刻師後藤義光の兄弟弟子であったようで、 父の「三次郎 橘恒俊」は京橋在住。恒俊の名は世襲であったと思われ、明治8(1875)年生まれの三四郎恒俊の子供である3代目恒俊も三四郎恒俊を名乗っています。 

また制作世話役の最上段に書かれている「氷川徳乗院現在栄運」とは、江戸時代すべての神社は別当寺に所属しており、 その寺の住職を別当(社僧)と呼びました。この別当は神事も行っていたので「栄運」という別当が麻布氷川神社の社務も執り行っていたものと考えられます。
★徳乗寺(徳乗院)
真言宗 (古義真言宗 冥松山 徳乗院  芝愛宕 真福寺末寺)
元文5(1740)年開基寂 氷川及び朝日稲荷別当 享保20(1735)年北日ヶ窪より本村に移り維新後廃絶(麻布区史)



○郷土資料館調査  
 





天保三年 麻布氷川大明神 御祭禮番付①

天保三年 麻布氷川大明神御祭禮番付①



天保三年 麻布氷川大明神 御祭禮番付②

天保三年 麻布氷川大明神御祭禮番付②








平成20年から平成21(2009)年にかけてこれらの祭礼用具について港区郷土資料館の調査が行われた。 その結果を「麻布氷川神社祭礼関係資料調査概要報告」として報告書が作成されその成果を、

★調査成果

  1. 山車人形2点  文久二(1862)年
  2. 獅子頭1対(2点)
  3. 幕5点
  4. 屏風1点
  5. 置物(鳳凰・龍)各1点
  6. 御神銘軸物1点
  7. 「氷川社」扁額1点
  8. 「麻布上之町」扁額1点
  9. 昭和41年銘扁額1点
  10. 神酒徳利4点(供箱) 文政十(1827)年
  11. 祭礼絵額1点 昭和10(1935)年

と、記しています。また調査の結語として、

★結語

麻布氷川神社祭礼は、記録によれば天保3(1832)年に山車の巡行を伴う大規模な祭礼が行われなくなったとされますが、その30年後に 一対の獅子頭が奉納(または制作)されていることは、祭礼の変化を考える上で重要です。現在判明している文政13(1830)年・天保3(1832)年 のいずれの祭礼番付にも獅子頭は描かれておらず、文久2年以降に何らかの理由があって祭礼に獅子頭が登場するようになったと考えられますが、 その理由や祭礼での位置付けは今後の課題といわねばなりません。麻布本村町会が管理しているこれらの祭礼用具は保存状態が良好で、 しかも複数の関連資料が周辺に存在します。今後は現地での聞き取り調査を深め、祭礼用具個々の詳細な記録化を行う予定です。
末筆になりますが、この調査に多大なご理解とご助力を惜しまなかった麻布本村町会各位に、深甚の謝意を表します。
などと報告されました。 



これらの貴重な江戸期麻布氷川神社の祭礼用品が本村町に残されているのは、幕末の動乱や震災、戦災そして、バブル期のなんでも金銭化してしまう発想から地元住民が全力で守ったことに 由来していると考えられます。つまり歴史的な資産が残されているのは単なる偶然ではなく、地域住民・町会関係者などの大変な努力の末に現在も引き継がれていると考えるのが妥当であると思われます。 

そして、麻布氷川神社の祭例時、本村町神酒所で年に一度のみ公開されるこの貴重な獅子頭・山車人形を、一人でも多くの方がご覧頂くことを願ってやみません。

◎ 2013年麻布氷川神社例大祭 : 9/14()・9/15(






○関連項目

むかし、むかし1-8 氷川神社
むかし、むかし12-199 本村町獅子頭の彫工 後藤三四郎橘恒俊 
釜無し横丁
むかし、むかし1-17 三田小山町
むかし、むかし4-65 徳川さんのクリスマス~麻布本村町(荒 潤三著)より
二つの東福寺の謎



○参考書籍・資料

・本村町会保存資料集
・麻布区史
・本村町会史
・江戸木彫史
・江戸神輿
・麻布氷川神社祭礼関係資料調査概要報告

2013年9月2日月曜日

シーボルトの見た麻布

「赤羽接遇所」跡の飯倉公園

1859(安政6)年7月6日、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと長男のアレクサンダーはイギリス客船イングランド号で長崎に入港した。来日は2度目となるシーボルトは、前回来日時に妻となった滝、娘のイネと1830(天保元)年12月7日以来29年ぶりの再会を果たした。そして、前回27歳の時に来日し34歳でいわゆる「シーボルト事件」で国外退去を申し渡されるまで日本に滞在したシーボルトも63歳となっていた。

前回の来日はオランダ軍医としての来日で秘密裏に諜報活動もその任務として与えられていた(一介の軍医としては不相応の大金を所持し、それにより日本にちなんだ物品・情報を大量に収集していた)が、今回は政府の公式な肩書きはなく、民間の和蘭商事会社(国営の出島商館を解体して民営化されたものだが)顧問としての来日で、日蘭通商条約改正案の持参とコレクションの収集という目的もあった。そして目的を達し和蘭商事会社との契約を終了したシーボルトは長崎滞在中に幕府の外交顧問を依頼され、江戸出府を促された。これにより1861年3月3日シーボルト父子・三瀬周三一行は長崎港をあとに横浜へと向かった。


父子は1861(文久元)年3月10日横浜へ入港し外国人居留地で幕府からの指示を待つ。その間に多くの外国人商人や外交官と親交を深め、特にフランス公使ベルクールとは頻繁に付き合うようになった。
幕府から江戸行きの許可が下りたのは5月になってからで、5月10日の朝、船で神奈川まで行きその先は駕篭に乗って江戸入りを果す。そして一行は夕方、幕府から宿舎に定められた芝の赤羽接遇所に到着した。 (駕籠はフランス公使ベルクールの好意により自身のものを貸し出されたといわれる。) その時の様子を、


~海岸に通じる街道を通り、辻々には木戸や矢来があって閉じられるようになっていて、傍らに火の番小屋のある所を通り過ぎると、赤く塗った門のある有馬候の屋敷の向い側にある、黒い塀で囲まれた玄関前の庭を通って、私たちの宿舎、赤羽接遇所に着いた。~

とアレクサンダーは、書き残している。


赤羽接遇所に着くと役人、日本側通訳、目付などに出迎えられ、その後外国奉行新見伊勢守の来訪により将軍からの贈り物を拝領した。赤羽接遇所には条約締結のため直前までプロシア使節団が滞在しており、建物の柱や壁にはプロシア兵たちの落書きやジョークなどが掘り込まれていたという。

江戸滞在時におけるシーボルトは「幕府の外交顧問」、「西洋文明の伝達者」として講義・面会・助言など多忙を極めた。
また、各国公使、幕府外国担当の要人などに意見具申を重ねたが、滞在直後の5月28日深夜、東禅寺襲撃事件がおこるとその事後処理に忙殺される。そして、シーボルトはオランダの公式な外交員ではなく幕府に雇われた外交顧問という立場から各国代表の反感を買い、横浜で静養し再び江戸に戻った8月15日以降、特にオランダ公使デ・ウィットとの関係は冷ややかであったという。そして9月にはデ・ウィットから頻発する外国人襲撃から身を守るためと称して江戸退去を迫られる。しかしシーボルトはオランダの警護は求めずとして退去要請を無視すると、デ・ウィットは各国代表らと幕府にシーボルトの解雇を求め、無理やりに認めさせてしまう。失意のシーボルトは10月15日ついに江戸を離れ、横浜へと向かった。ここで長男のフィリップは英国公使館の通訳官として正式に任官し江戸へと戻ることになり(父シーボルトは息子がロシア海軍の士官になる道を設定していたが、フィリップの意向を尊重してのイギリス公使館勤務となったという)、これが父子の永遠の別れとなった。その後、横浜から船で長崎に戻ったシーボルトは妻のたき、娘のいね、門弟などに送られて1862年4月30日午前10時、シーボルトを乗せた船は出港し日本を後にした。

以上がシーボルト2回目来日時江戸滞在のアウトラインだが、この期間のシーボルトと麻布の関連キーワードは「善福寺」である。

麻布山善福寺さかさ公孫樹
麻布山善福寺さかさ公孫樹





シーボルトは江戸に到着した直後の5/20・5/21・5/22をはじめとして江戸滞在中、日記に記載されたものだけでも合計9回もハリスを善福寺に訪問している。当時江戸には、アメリカ公使館が麻布山善福寺、イギリス公使館が高輪東禅寺、フランス公使館が三田済海寺、オランダ公館が伊皿子長応寺などにあるが、その中でアメリカ公使館は最初に江戸進出したことから持つ豊富な情報、ヒュースケン事件(シーボルトはヒュースケンが殺害された事を当時滞在していた長崎で事件の詳細を聞き知っていた。)の真相と進捗などを聞き、イギリス公使館は高輪東禅襲撃事件関連での訪問が続いたと考えられる。

そして特筆すべきは5月22日善福寺にハリスを訪問したさいに「逆さいちょう」の観察とヒュースケン・伝吉の墓参を行ったことである。

5月22日、善福寺のアメリカ公使館にハリスを訪れ「逆さ銀杏」を見たシーボルトは、

正午、ハリス邸へ。ヒュースケン、伝吉の墓参り。ハリス邸の寺院の境内に周囲30フィートの太さのイチョウがある。この巨大な樹は、枝分かれの下、高さ12から18フィートあたりの幹から、太さ3から5インチの太い根{気根}が出ている。東ロシアのヴァリンピの樹に似た形である。

私はイチョウの一本を江戸の近くの寺で観察した。その寺は、アメリカ公使館に譲ったものであるが、木は周囲7m、高さがおよそ30mもある

   
ハリスによって造られた ヒュースケンの墓標
ハリスによって造られたヒュースケンの墓標
   
ヒュースケン墓の正面にある伝吉(DAN KUT)墓
ヒュースケン墓の正面にある伝吉(DAN KUT)墓
   
伝吉(DAN KUT)墓の 碑文表面(英文)
伝吉(DAN KUT)墓の碑文表面(英文)
   
伝吉(DAN KUT)墓 の碑文裏面 (和文戒名)
伝吉(DAN KUT)墓の碑文-裏面(和文戒名)


と、帰国後「1886年ライデン気候馴化園の日本植物。説明付き目録の要約と価格表」に記しているが、シーボルトが「逆さ銀杏」を観察し記録した事実はほとんど知られていないという。(シーボルト波瀾の生涯より)

その後、同じ日に麻布光林寺で中の橋近辺で襲撃され命を落とした「ヒュースケン」の墓とその傍らにある イギリス公使館通訳伝吉の墓を参拝した。そして両者の墓碑銘を比較して「静と動の不思議な対比である」と覚書に記している。


(ヒュースケン墓碑銘)

      日本駐在アメリカ公使館付通訳ヘンリック・ヒュースケンの御霊に献ぐ。
      1832年1月20日アムステルダムに生まれ、1861年1月16日江戸にて死去


(伝吉墓碑銘)

      伝吉Dan kutchiイギリス使節団付日本人通訳は、1860年1月29日、
      日本の暗殺者たちによって殺害された


















1861(文久元)年シーボルトの江戸滞在
出 来 事
5月 10日 横浜から神奈川を経由して陸路赤羽接遇所に夕方到着
11日 赤羽接遇所員の勤務名簿を受け取る
20日 善福寺にハリスを訪問
21日 善福寺にハリスを訪問
22日 正午再び善福寺にハリスを訪問し「逆さ銀杏」を見る。その後光林寺にヒュースケン、伝吉の墓参。
29日 早朝3時半高輪東禅寺襲撃の知らせがあり、5時過ぎに25人の護衛に守られて東禅寺を訪問し負傷者を治療。
帰路善福寺にハリスを訪問。接遇所も厳重警備となる
30日 高輪東禅寺の英国公使館にイギリス公使オールコックを訪問
6月 3日 安藤対馬守屋敷にて会談。東禅寺襲撃事件の話など
5日 外国奉行鳥居越前守、イギリス公使オールコックが赤羽接遇所を来訪
6日 外国奉行新見伊勢守来訪、水野筑前守らが来訪
15日 子息アレクサンダーが父シーボルトの書簡を持ち善福寺を訪問
17日 善福寺にハリスを訪問、イギリス公使との調停を斡旋
20日 外国奉行津田近江守と会談。赤羽接遇所に新たに警護所が設けられ警備が強化される
7月 1日 冶金学の講義
3日 外国奉行野々山丹後守来訪
10日 遣欧使節団の計画案を作成
11日 子息アレクサンダー誕生日。父シーボルトはマホガニーの箱に入った2連銃を贈る
12日 将軍侍医団が来訪。その中の一人、伊藤玄朴は鳴滝塾出身でシーボルトの門弟
13日 前日善福寺で暴動(発砲事件)が起こり、赤羽接遇所も厳重警備となる
15日 善福寺にハリスを訪問
16日 将軍侍医戸塚静海来訪。静海は鳴滝塾出身でシーボルトの門弟。仏公使ベルクール来訪
22日 船で江戸から横浜へ出立。途中鈴ケ森で20歳の娘が放火犯として火あぶりの刑に処せられるのを
偶然見る。※この処刑は八百屋お七ではない(お七の処刑は天和3年(1683)3月29日

7/22-8/14、この間、シーボルト父子は横浜に滞在
8月 14日 朝7時、江戸へと出発
15日 江戸に帰着したことを外国奉行に知らせる。道中で家々の玄関に「月見の祭り(仲秋の名月)」の飾り付けがあるのを見る。
16日 ハリスを訪問
20日 浅草寺へ 芝田町波止場より船で浅草へ浅草寺参拝。浅草では外国掛役人が密かにハリスの警護をした
21日 採鉱学の講義
23日 津和野藩主亀井隠岐守の侍医、池田多仲が来訪
9月 5日 ハリスとクラークが来訪
6日 ハリスとクラークが来訪
7日 善福寺にハリスを訪問
10日 外国奉行水野筑前守来訪。幕府が江戸退去を懇願していることを告げられる
15日 冶金学講義
25日 外国奉行で遣欧使節大使の新見伊勢守、新任の外国奉行、竹本隼人正、根岸肥前守来訪
10月 11日 子息アレクサンダーが横浜に出発
14日 善福寺にハリスを訪問
15日 江戸を出発し横浜に向かう。
(シーボルト日記より抜粋)




1861(文久元)年各国公使館・施設所在地
名 称 公 使 所在地・地図 創設時期 備 考
赤羽接遇所
講武所付属調練所跡 1859(安政六)年8月~ ロシア領事ゴスケビッチ、プロセイン使節オイレンブルグ、シーボルト父子などが滞在
アメリカ公使館 ハリス 麻布山善福寺 1859(安政六)年6月8日~ 子院善光寺はヒュースケン宿舎
イギリス公使館 オールコック 高輪東禅寺 1859(安政六)年6月4日~ 公使館通訳伝吉刺殺事件・2回の高輪東禅寺襲撃事件
フランス公使館 ベルクール 三田済海寺 1859(安政六)年8月29日~ 江戸で3番目の外国公使館。公使館の旗番ナタールが同地にて襲撃され負傷した三田聖坂上にある
オランダ公使館 デ・ウィット 伊皿子長応寺 以前よりカピタン出府時に使用 この時期オランダは長崎出島内に本拠があり公館ではなかったがカピタン出府時などに使用された。この寺は後に写真家ベアトのアトリエが併設される。公館は安政6年に西応寺に設置されたが、慶応3年薩摩藩邸焼き討ちの際西応寺が類焼しここ伊皿子の長応寺が公使館となった。一時期、スイスの公使館員が寄宿していた時期もある。寺は明治期に北海道に移転し現在はマンションとなっている。




      
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板①
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板①
      
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板②
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板②









赤羽接遇所跡

赤羽接遇所は、安政六年(1859)に、これまで講武所付属調練所であった地に設けられた外国人のための宿舎兼応接所である。同年八月に作事奉行関出雲守行篤らによって建設された内部は間口十間、奥行二十間のものと、間口奥行十間のものとの二棟の木造家屋から成っていた。
幕末にわが国を訪れたプロシャの使節オイレンブルグは、上陸後直ちにここを宿舎として日普修好通商条約を結び、またシーボルト父子やロシアの領事ゴシケビチなどもここに滞在し、幕末における外国人応接の舞台となった。

昭和四十八年三月

東京都港区教育委員会









参考文献
・シーボルト日記・再来日時の幕末見聞録-石山禎一・牧幸一訳
・鳴滝紀要-シーボルト記念館
・黄昏のトクガワ・ジャパン-ヨーゼフ・クライナー
・シーボルト波瀾の生涯-ヴェルナー・シーボルト
・歳月-シーボルトの生涯-今村明生
・文政11年のスパイ合戦-秦新二
・ふぉん・しいほるとの娘-吉村昭
・シーボルト父子伝-ハンス・ケルナー
・ジーボルト最後の日本旅行-アレクサンダー・シーボルト
・幕末異人殺傷録-宮永孝
・陽だまりの樹-手塚治虫
・ヒュースケン日本日記-青木枝朗訳
・江戸の外国公使館-港区郷土資料館
・近現代沿革図集--港区郷土資料館






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