2016年8月10日水曜日

松頭山 本善寺と末広神社



本善寺と末広神社
先日(2016.08.07)の散歩で訪れた高輪台駅方面からJR五反田駅に向かう坂途中に見つけた(品川区東五反田3-6-17)日蓮宗の寺院「松頭山 本善寺」さん。このお寺さんは慶長十三(1608)年に創建された古刹で、1945(昭和20)年までは創建地である麻布十番にありました。

本善寺は十番稲荷神社の前身で麻布坂下町の鎮守社でもあった末廣神社の南隣にあり、住所は麻布一本松町九番地(現在の麻布十番2丁目4あたり)でした。この寺の名残を示すものとして、十番商店街裏手から大黒坂へと登る小坂「七面坂」がありますが、これは本善寺境内に安置されていた「七面明神坐像」があったためついた坂名です。この「七面明神坐像」は日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神とされており、参詣者も多かったので昭和40年台まで「九の日」には縁日が開催されていました。

本善寺について江戸期のお寺調べのバイブルともいえる「御府内備考続編(通称:寺社備考)」には境内の建物配置図が掲載されており、この「七面明神坐像」は本堂とは別に山門の左手、拝殿奥に安置されていたことがわかります。さらに本善寺の所属は「上総国平賀本土寺末」と記されており本土寺は千葉県松戸市平賀63に現存しています。

そして隣接する末広稲荷神社についてもその関連性を調べるため「御府内備考続編(通称:寺社備考)」を見てみましたが、関連性を調べるため....
としたのはスバリ隣接する末広稲荷神社と本善寺は別当寺の関係ではないかということを調べるためでした。

しかし末廣神社の項目には「別当寺」の記述が見あたらず、これはかなり奇異な事に感じました。
「御府内備考続編(通称:寺社備考)」は江戸文政年間(1818年~1830年)に書かれた「文政町方書上」とほぼ同時に書かれたもので、江戸の寺社の総てが自主的に幕府に提出した寺社の来歴・概要・敷地図などを網羅した書籍なので、その記述の先頭にその寺社の所属と神社の場合にはその社を管理する別当寺が書かれているのが普通です。江戸期の神社は社格で「官幣大社」などの大型神社(神宮・大社など)以外は寺社奉行の管理下、寺院の管理下に入ることが決められおり、管理する寺院には「別当」と呼ばれる社僧(神官を兼務する僧で社僧の長が別当と呼ばれ、別当の寺を別当寺としました。)

江戸期の本善寺と末広神社敷地
一例を挙げると、麻布氷川神社の別当寺は当時麻布氷川神社境内に設置されていた古義真言宗の「冥松山 徳乗寺(院)」という寺院で芝愛宕の真福寺(港区愛宕1−3−8に現存)の末寺でした。そしてこの徳乗寺は享保20(1735)年まで北日ヶ窪にあり、現在の六本木朝日神社の別当寺でもありました。余談ですが、この麻布氷川神社と別当寺であった「冥松山 徳乗寺(院)」の関係を今に伝える物として、麻布本村町が麻布氷川神社例祭で神酒所に展示する「獅子頭」の解説に残されています。この解説板には獅子頭が文久二(1862)年に製作された時の世話人名筆頭に「氷川徳乗院現在栄運」とあり、氷川神社を管理していた社僧(別当かもしれません)栄運の名前が記されています。また、廣尾稲荷神社は明治期まで麻布宮村町狸坂下(旧麻布保育園敷地と隣接空き地)にあった「法隆山 五光院 千蔵寺」が別当寺であったため、別名「千蔵寺稲荷」とも呼ばれていました。

このように神社は別当寺により管理されるのが普通であった江戸期に、別当寺が無い(別当・社僧が神官ではない)神社が末広稲荷神社であったようです。そして「御府内備考続編(通称:寺社備考)」の末広稲荷神社の項には不思議な記述が見えます。


○神主中村日向(吉田家門人)

元禄十五(1702)年先祖中村宮内え神主職初而被仰付、夫ゟ(より)七代相続仕候、然ル処先年寺社奉行所ゟ(より)御直触被仰付候、代々致触頭来候、享保六(1721)年類焼、其後度々之類焼ニ而書物等焼失仕、其上私幼年相続ニ而委細之儀相分り不申候処、年々心掛置且申伝抔と申儀承り候節々留置候分、此度相認申候、但社家等も明和五(1768)年類焼後中絶仕候、
上記文章は、中村日向という末広稲荷神社の神官(神主)が元禄十五(1702)年に末広稲荷神社の神官(神主)となった先祖の事を記しており、それ以来中村家が代々末廣神社の神官を務めていたことがわかります。そして、この中村家は「吉田神道」の門人でした。

麻布十番の七面坂と
本善寺があったあたり

吉田神道とは江戸期に隆盛を極めた神道の一派で徳川幕府が寛文五(1665)年に制定した諸社禰宜神主法度で、神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いたいわば幕府御用達の神道で、当時神道界に絶大な権限を持っていたようです。この吉田神道と末廣神社の関係について現在の十番稲荷神社社家に伺ったところ、

  • 隣接していた本善寺は別当寺ではなく、末広稲荷神社は江戸期には珍しい「別当寺の支配を受けない専門の神官(神主)を置く神社」であった。

  • 当時の末広稲荷神社は江戸府内でも有数の吉田神道神社で、数多くの末社を従えていた。

  • 神官であった中村家については代々の記録が残されている。

  • 明治に入ると天皇家を中心とする本来の神道が隆盛したため、幕府の庇護を受けていた吉田神道系の神社であった末広稲荷神社は主流から外れ大変な苦労をした。

七面坂 坂下

七面坂 坂標

とご教示いただきました。

このように敷地が隣接しながらも別当寺と支配下神社という公式から外れた関係であった本善寺と末廣神社も1945(昭和20)年の空襲により焼失し、末広稲荷神社は永坂下にあって戦時中に建物強制疎開により破却された「竹長稲荷神社」と合祀され、現在の十番稲荷神社として遷座します。
また本善寺の「祖師像」と「七面明神坐像」は焼失前に持ち出され、同じ日蓮宗で当時戦災を免れていた麻布宮村町の安全寺に寄宿します。しかし、この安全寺も後の空襲により焼失し現在も坂名に残る「七面明神坐像」も「祖師像」も残念なことに焼失してしまいます。

1947(昭和22)年に麻布十番より現在地(品川区東五反田3-6-17)へ移転再建され現在に至っていますが、実は現在も「七面明神坐像」も「祖師像」が寺に安置されています。これは、小岩本蔵寺住職馬場玄諦師の好意により、本蔵寺二体の祖師像の内の一体をゆずられたのが現在の祖師像とのことで、さらに「七面明神坐像」は二の橋の寺院からお預かりしているもの(本善寺談)とのことです。


麻布本村町所有の獅子頭解説板
に記された麻布氷川神社社僧「栄運」



<麻布区史 末廣神社>

○末廣神社(村社) 坂下町四一
祭神思姫命・市杵島姫命・満津姫命・倉稲魂命・日本武皇子命、大祭九月十七・十八日。

慶長年中の創建に係り往古は社前に柳の樹ありし為め青柳稲荷の稱(称)があった。
又その枝葉さかへ梢の繁茂しでゐ(うぃ)るところより末廣の木と呼び、これが社号の起源となったと云ふことである(再考江戸砂子)。
明治六年七月五日村社に指定され、明治二十年四月末廣稲荷神社の社号を現稱(称)に改めた。社殿は権現造、氏子は坂下町と網代町に亘り七百戸を有してゐる。




<麻布区史 本善寺>

◎松頭山本善寺 一本松九 下総平本土寺末

一書正東山に作る。慶長十三年三月草創、本善院日東聖人(慶長十五年二月十五日寂)の開山である。境内に七面社がある。
七面天女を安じ俗に麻布十番の七面天と呼び、一・九・十九・二十九の縁日には賽者が多い。





<七面坂 坂標>

坂の東側にあった本善寺(戦後五反田へ移転)に七面大明神の木像が安置されていたためにできた名称である。
設置者: 港 区
設置日: 平成九年三月




★参考サイト

現在の本善寺山門

十番稲荷神社オフィシャルサイト

Blog DEEP AZABU-十番稲荷神社

日蓮宗東京都南部宗務所サイト-松頭山 本善寺

Blog DEEP AZABU-十番稲荷神社

Blog DEEP AZABU-末広池

Blog DEEP AZABU-麻布氷川神社

Blog DEEP AZABU-本村町獅子頭

Blog DEEP AZABU-廣尾稲荷神社

・Blog DEEP AZABU-宮村町の千蔵寺

Blog DEEP AZABU-麻布近辺の縁日

wikipedia-吉田神道

wikipedia-別当寺
現在の本善寺

wikipedia-社格

wikipedia-近代社格制度
























現在の本善寺




2016年4月4日月曜日

東洋英和ラ-ジ殺人事件


 


      
事件当時の東洋英和女学校
校舎(創立地)
麻布区東鳥居坂町14番地
(提供:東洋英和女学院)

事件当時の東洋英和女学校校舎(創立地)











      
創立地校舎敷地図面
(鳥居坂町14番地)
(提供:東洋英和女学院)

創立地校舎敷地図面(鳥居坂町14番地)















      
現在の東洋英和女学院創立地
(港区六本木5丁目12-11)

現在の創立地











      
T.Aラージ氏墓碑(青山墓地外人墓地)

T.Aラージ氏墓碑(青山墓地)























































   
殺害されたThomas A. Large
(提供:東洋英和女学院)

殺害されたThomas A. Large









   
Eliza Spencer. Large
東洋英和女学校・第二代校長
(提供:東洋英和女学院)

Eliza Spencer. Large東洋英和女学第二代校長












      
東洋英和の敷地変遷とその周辺

東洋英和の敷地変遷とその周辺















1890(明治23)年4月4日夜11時ころ、麻布区東鳥居坂町13番地(港区六本木5丁目12-11)の東洋英和女学校に賊が侵入し、日本刀のような物で、校長でカナダ籍のスペンサ-・ラ-ジ(当時30歳)が切りつけられ重症を負い、夫であるT.A・ラ-ジが斬殺されました。 
賊は学校台所脇の物置から侵入し、小使の瀬川喜兵衛を脅して金のありかを詰問しましたが、瀬川は知らなかったので縛り上げて、2階の校長居室に侵入します。物音に気付いて「だれだ!」と声をかけたT.Aラージ氏に「用事がある」と近寄った賊は、氏を14ヶ所も切りつけて即死させてしまいます。 
その際に夫を助けようとした妻のスペンサ-も顔を切られ、指を切り落とされるなど重傷を負いますが、騒動に気づいた寄宿生が騒ぎ出し賊は何も取らずに逃走しました。

賊は逃げ出す時に、洋銀製の煙管(キセル)が入った印伝(インデン)の煙草入れを落として行ったので、警察の調査で賊は「知識階級」の者であると推測されました。また瀬川は賊が股引足袋装束であったと陳述し重症を負ったスペンサ-の口からも賊は身にしっくりした衣装で白い帯をし、うわっぱりも巡査が用いる物に違いなく、賊は警察官であったと固執し、この原因はキリスト教の迫害が目的であろうと陳述したので、時の政府はたいそう狼狽しました。

麻布鳥居坂警察署誌によると、


「~本署は之より犯人は強盗と見込みを付けたが当時の下谷警察署に於ても大捜査を開始した。此犯行は非常に巧妙で何等の痕跡なく犯人は検挙せられず迷宮事件の一つになって終わった。当時未だ治外法権も撤廃されず外国人は内地人より優越的な待遇を受けていた時代なので、外国人等より批判多く相当興論を沸騰せしめた事件であつた。」 
とあり、世間でも大騒ぎした様子がうかがえます。


事件後、警察も犯人の手がかりはまったくつかめずにいましたが、犯行から11日目の山梨日々新聞に突如「練絲痕」という小説の連載が開始されます。内容は日本人青年大森安雄と金髪令嬢レニスとのよくある恋愛小説だったが、2回目の連載「無惨」の内容はレニス嬢の父親が殺害される場面がラ-ジ殺人事件と酷似しており3回目の「疑惑」ではその犯人の追及を行うというリアルな内容であったため、警察も事件の内部事情に詳しい者が執筆している可能性があると調査を開始しました。

著者は靄渓山人というペンネ-ムを持つ18歳の小林一三という学生で、早速取り調べたが事件の新聞記事を基に小説を執筆していた事が分り、犯人ではないことがわかりました。しかし、この小説の連載は警察の取り調べ後、9回をもって打ち切りとなります。
犯人の割り出しに躍起になった警察は、田中光顕警視総監の下で鬼と呼ばれた武藤警部を導入し嫌疑者を多数取り調べますが、十分な証拠も無く、すべての嫌疑者が釈放されてしまいます。

当初、小使の瀬川喜兵衛も事件当時の行動に不信をいだかれ、厳しい取り調べを受けます。また事件当時の学校は前年の校舎新築工事の代金未払いで下請業者と係争中でもありその線も調べられました。しかし結果はすべて”白”で捜査は振り出しに戻り、困り果てた警察も田中警視総監の名で300円の懸賞金をかけますが、結局有力な情報はもたらされず、事件は迷宮入りしてしまいます。


事件が解決されたのは事件現場であり東洋英和女学校が創立地でもある鳥居坂町14番地から現在の地に移転した2年後の、1902(明治35)年12月で、その間武藤警部と配下の兼子刑事は何と12年に渡って執拗に事件を追い続けていました。

犯人は明治25年強盗犯として新宿署に逮捕され服役していた馬場恒八、士族の小笠原重季の両名で、その事件の手口がラ-ジ殺人事件の犯痕と共通するものが多くある事を付きとめ、小笠原重季を幾度となく取り調べた結果、遂に自供に至り事件は12年ぶりに全面解決します。 
しかしこの時、馬場恒八は網走監獄ですでに獄死しており、また小笠原も明治25年の強盗事件で13年の刑期に処せられ東京集治監に服役中でしたがラ-ジ殺人事件は時効が成立していたため不問とされ、明治31年の英照皇太后の恩赦で9年9ヶ月に刑期を短縮されていたため、小笠原重季はラ-ジ殺人事件が解決した直後の1902(明治35)年12月17日に満期出獄します。


(余談その1)


「幕末明治女百話」という本のなかで、事件当夜に寄宿生徒であった女性の回顧談が「78.英和女学校のラ-ジ殺し」として掲載されていて、事件の際に壁一枚隔てただけの寄宿舎で見聞した事件の真相を克明に描写しています。


(余談その2)


山梨日々新聞に「練絲痕」を執筆した靄渓山人というペンネ-ムを持つ18歳の小林一三(1873~1957年)という人騒がせな学生は、その後有力者の紹介で三井銀行に採用されたが、小説家への夢が捨てきれず1月からの出社を4月まで延ばし、その間には伊豆で女性と恋に落ちた。しかし温泉で別の女性の入浴を覗き見したことが発覚しその女性に振られて、一人寂しく帰京した。その後、銀行からの矢のような出社の催促と友人からの意見により小説家をあきらめ、4月4日からやむなく出勤を始めます。 
時は流れて明治40年。彼は箕面電車を設立し、宝塚少女歌劇団、タ-ミナル・デパ-トを創始。そして昭和8年(1933年)東京に進出して東宝映画を設立。その後政界入りして商工大臣、国務相などを歴任した。しかし戦後政界を追放され東宝社長、宝塚音楽学校長をつとめました。


















同 年 代 の 関 連 年 表
 西 暦 年 号
  事  象
1875年明治 8年1月麻布市兵衛町の静寛院宮(皇女和宮)邸に明治天皇・皇后が行幸
5月麻布市兵衛町の静寛院宮邸に明治天皇・皇后が再び行幸
1881年明治14年明治天皇が公爵島津忠義麻布本村町邸に岩倉右大臣、西郷参議、河村海軍卿を供奉して行幸。古式の犬追い物、相撲を天覧
1882年明治15年川村純義狸穴邸がジョサイア・コンドル設計により建設される。戦後この建物は取り壊され東京アメリカンクラブとなる。
1883年明治16年築地居留地のカナダ・メソジスト・ミッションにより東鳥居坂町に麻布教会(現在の鳥居坂教会)」が設立される。
1884年明治17年カナダ・メソジスト・ミッションが同派「麻布教会(現在の鳥居坂教会)」牧師を設立者として東洋英和学校会社を設立。
10月東鳥居坂町14番地400坪弱のビール工場跡地に東洋英和女学校創立。創立時の生徒数は2名。次年度は170名。
11月東鳥居坂町13番地、元駐仏公使鮫島尚信邸跡地2,200坪に東洋英和学校(男子)が創立。普通科・神学科を併設。
1885年明治18年Ms.スペンサーが来日。東洋英和女学校の教師(家事・英語・唱歌担当)を経て同校の第二代校長に就任。
1886年明治19年一致英和学校、英和予備校、東京一致神学校の3校が合併して「明治学院」が開校する。
1887年明治20年Ms.スペンサーが東洋英和学校教師のT.A.ラージ氏と結婚。娘ケートが生まれる。
4月井上馨邸(現・国際文化会館)に天皇が行幸して天覧歌舞伎
麻布本村町津田 仙(津田梅子の父)邸の仮校舎で普連土女学校が開校
1888年明治21年麻布区永坂町1番地の島津忠亮子爵邸の一部を借り受けて香蘭女学校が創立
1889年明治22年2月大日本帝国憲法発布祝賀のため東洋英和女学校生徒が井上馨邸(現・国際文化会館)を訪問
5月明治天皇が麻布新竜土町の通称:麻布三連隊(陸軍第一師団第三連隊)を閲兵
7月シーボルトの娘楠本イネが長崎から麻布我善坊町25番地に転居(62歳)
江原素六が沼津から上京し東洋英和学校(男子)の幹事となる。
1890年明治23年4月東洋英和女学校で強盗事件(ラージ殺人事件)。第二代校長の夫T.A.ラージ氏が殺害され、婦人の校長Mrs.ラージも指を2本失う重傷。事件後恩賜休暇によりカナダに帰国して休養、義指作成。
7月第一回衆議院議員選挙
江原素六が衆議院議員となり東洋英和学校幹事を辞任する。
1891年明治24年2月明治天皇が麻布市兵衛町の内大臣三条実美を見舞うために行幸
4月明治天皇が麻布狸穴町の伯爵、川村純義邸(ジョサイア・コンドル設計、現在の東京アメリカンクラブ敷地)に行幸
5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町6番地に転居(64歳)
Mrs.ラージが再来日し東洋英和女学校英語教師となる。
1892年明治25年5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町11番地に転居(65歳)
1893年明治26年山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として「安中はな(後の村岡花子)」が生まれる。
6月江原素六が東洋英和学校の校長となり校舎内に居住。
1894年明治27年麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った東洋英和女学校の生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取り麻布教会(現・鳥居坂教会)が孤児院を設置。
1895年明治28年5月楠本いねが麻布区麻布飯倉片町32番地に転居(68歳)
Mrs.ラージがカナダに帰国。
1897年明治30年Mrs.ラージが三度目の来日。
1899年明治32年4月Mrs.ラージが強盗事件により死亡した夫T.A.ラージ氏墓所敷地の一部をフルベッキ氏墓地としてエンマ・バーベックに委譲。
1900年明治33年洋英和女学校が創立地である東鳥居坂町14番地から現在地(東鳥居坂町8番地:1,225坪)へ移転。
東鳥居坂町13番地の麻布中学が東洋英和学校(男子)から分離独立し、麻布本村町40番地(現在地)に移転。後に東洋英和学校は廃校となる。
1901年明治34年Mrs.ラージが帰国し晩年は農場経営に従事する。
7月川村純義狸穴町邸(コンドル設計、現在は東京アメリカンクラブ)で迪宮殿下(後の昭和天皇)の養育が始まる
1902年明治35年1月日英同盟調印発効
7月静岡県の不二見村で岩崎きみちゃん誕生
12月ラージ殺人事件解決
1903年明治36年3月久邇宮家の鳥居坂邸で女児が誕生。良子と名づけられたその姫は後に昭和天皇の后(香淳皇后)となる。
安中はな(村岡花子)が東京府荏原郡品川町立城南小学校から東洋英和女学校に編入学(10歳)
8月楠本イネが麻布区飯倉片町28番(東洋英和女学校裏手)にて逝去。享年76歳
1904年明治37年麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布一本松町から麻布本村町に移転。
川村純義狸穴町邸で養育されていた迪宮殿下(後の昭和天皇)が川村の逝去により皇居に戻る。
ジョサイア・コンドルが麻布三河台町に自邸を建設する。
1908年明治41年麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布本村町から麻布永坂町50番地(現在の十番稲荷神社社地)に移転し「永坂孤女院」となる。そして集合写真「永坂孤女院1908(M41)階下は日曜学校」が撮影される
三菱財閥2代目岩崎弥之助の邸宅としてジョサ・イアコンドル設計の高輪開東閣が建設される。
1911年明治44年岩崎きみちゃんが結核により永坂孤女院で死亡。享年9歳
1913年大正 2年安中はな(村岡花子)が東洋英和女学校高等科を卒業。英語教師として山梨英和女学校に赴任。
三田綱町の三井倶楽部が三井財閥の賓客接待用として建設される。(設計はジョサイア・コンドル)
1914年大正 3年ヴォーリズ(William Merrell Vories設計による明治学院チャペルが建設される。
1918年大正 7年元初代ハワイ総領事の安藤太郎が麻布区西町に安藤記念教会を設立
1921年大正10年松方正義の子、正熊の自邸としてヴォーリズ設計による松方ハウス(現西町インターナショナルスクール)が建設される。
1923年大正12年ヴォーリズ設計によりフレンズセンター(キリスト友会日本年会)が建設
1933年昭和 8年Mrs.ラージがアメリカ・ペンシルバニア州にて逝去。
東洋英和女学校校舎がヴォーリス設計により建設される。


麻布区役所新庁舎が完成。旧庁舎はヴォーリス監修により移築され日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学:三鷹市武蔵境)校舎として現在も使用中。
麻布南部坂教会がヴォーリス設計により建設される。








   
カナダ婦人宣教師物語
「ミセス・ラージ:娘ケイトと」
(提供:東洋英和女学院)

ミセス・ラージ:娘ケイトと







★20140404追記




先日東洋英和女学校史料室を訪問した際に購入した書籍
「カナダ婦人宣教師物語」
にはMrs.ラージの写真が数点掲載されている。その中でも「ミセス・ラージ:娘ケイトと」と題された写真に目がとまりました。
実はその写真は、以前にもこの事件を調べる際に「目で見る東洋英和女学院の110年」という周年誌で目にしていたのですが、改めて見たときに何か違和感を感じて目にとまってしまいました。
その訳はよく見ると不自然に右手を後ろに回し、左手で幼い娘さんを支えているように見えます。この写真に対して東洋英和史料室から悲しい逸話をお話し頂きました。その逸話とは、

この写真は殺人事件のあった頃に写された写真で、事件により指を2本失っていたMrs.ラージは、右手を娘との大切な写真に写したくなかったので、意図的に後ろに隠している。

というもので、指を失った姿で写るのを拒否しているMrs.ラージの写真であるそうです。

  •  1890(明治23)年 東洋英和女学校で強盗殺人事件発生。

  • 1903(明治36)年 十歳の安中はな(後の村岡花子)が東京府荏原郡品川町立城南小学校から東洋英和女学校に編入学。

  • 1908(明治41)年永坂孤女院が鳥居坂教会日曜学校と併設で設立され童謡「赤い靴」のモデルとなる「岩崎きみ」ちゃんがこの孤児院で養育される。





★関連項目



永坂孤女院1908

赤い靴のきみちゃん

「花子とアン」の麻布


























2016年2月28日日曜日

宮村Valley-宮村新道




宮村Valley

宮村Valley




①新道~狐坂(大隅坂) 1862(文久2)年

宮村①新道~狐坂(大隅坂)<BR>1862(文久2)年




②新道~狐坂(大隅坂) 1887(明治20)年

②新道~狐坂(大隅坂)1887(明治20)年





③新道~狐坂(大隅坂) 1933(昭和8)年

③新道~狐坂(大隅坂)1933(昭和8)年



④新道~狐坂(大隅坂)-現在

④新道~狐坂(大隅坂)-現在




夕暮れの狐坂

夕暮れの狐坂



宮村町狸坂下から狐坂(大隅坂)登り口近辺まで(現在の港区元麻布二丁目、三丁目の境界)を里俗に宮村町字宮村新道(または新道)といいました。この地域は正面に大隅山山塊、南に麻布山山塊、北に内田山山塊に囲まれた谷間の道で、まさに「宮村Valley」であるともいえます。



「文政町方書上」は、


町内西の方を里俗に新道とも大隅山とも唱え申し候。この儀は、同所に
お役名知れず渡辺大隅守様お屋敷これあり候。これに右よう相唱え候。
その後、上り地に相成り、貞享三寅年お賄組屋敷に相渡り申し候。



また新道から西に登る坂を、
右同所一か所新道西の方南の通りにこれあり、里俗狐坂と唱え申し候。
と記しています。



近代沿革図集には江戸期~1924(大正13)年までは現在の坂に沿って大隅山側にさらにもう一つの坂がみえます。しかし、1933(昭和8)年の地図ではこの坂は消滅しています。
もしかしたら、この二本の坂は、一方が「大隅坂」、さらに他の一方が「狐坂」であった可能性も否定できません。



・「三」がキーワード?
字域はほぼ宮村で所属も宮村町だが、他町会との接点が

・狸坂に面した南側坂下までは一本松町

・狐坂登り口付近から上は三軒家町
にあり、

①宮村町

②一本松町

③三軒家町


の三町が入り組んでいます。

また、

①内田山

②大隅山

③麻布山

の三山に囲まれ
た谷地(Valley)でもあります。そしてその三山には、


①大隅山と内田山のぶつかる山裾を流れる長玄寺池水流

②麻布山と大隅山のぶつかる山裾を流れるがま池水流

③それらが合流する宮村水流の三水流



狸坂下は長玄寺裏手の池を源とする長玄寺池水流とがま池を水源とするがま池水流の合流点で、ここで一つとなった宮村水流はさらに、竜沢寺の先で十番通りを北に横切り、吉野川(芋洗坂水流)、ニッカ池、原金池方面から流れる細流と合流して十番通り北側を通りに沿って東進し現在の浪速屋付近で右折して本通りを流れる川(十番大暗渠)となって網代橋を越え古川に流れ込みます。

この狸坂下合流点を「文政町方書上」は、


石橋一か所 渡り長さ四尺 巾三尺
町内西の方新道境に横切り下水の上にこれあり

と書いており、宮村町内で唯一の石橋があったことが記されています。



谷道から尾根道へつなぐ坂を歩くと武蔵野台地の最先端部を感じ、「あざぶ」の語源の一つとも考えられる「崖地の辺の意」また、続地名語源辞典による「東京都港区の麻布は麻の布ではなく当て字で意味は不明ですが「日本アイヌ地名考」の山本直文説ではアイヌ語残存地名でasam(奥)の意で東京湾が広尾、恵比寿まで入り込んでいた時代につけられた名との説なども宮村新道付近では納得のいくものに思えます。


お伝えしてきた狐坂ですが、実はこの坂の中腹にある市谷山長玄寺あたりから見る夕暮れの東京タワーはたいへん美しく、私の気に入った場所でもあります。そして、私が少年であった昭和40年代前半、東京タワーはどこからでも見えていました。しかし、最近は東の方向にはビルが建ち並び、へたをすると坂上からも見ることが出来なくなってきてしまいました。そんな折、数年前に映画「三丁目の夕日」のポスターを目にして以来、宮村町に行くと必ず立ち寄るスポットとなりました。

余談ですが、少年期には、そこここの坂上などで夕暮時に赤くなった富士山も見ることが出来ましたが、こちらはほとんど絶望的な状況となっています。



































2016年1月20日水曜日

胸の記章の鳩さん....がおなじ訳

今から14年ほど前のある日、DEEP AZABUサイトを立ち上げた
ばかりの私の元に、1通のメールが届きました。

昭和18年麻布幼稚園卒業アルバム
メールの送り主は全く面識のない方で、当時私が使用していた
プロバイダー「246net(現イッツコム)」の役員の方でした。

メールの内容は、自分の所属する会社のHPスペースを使用して
生まれ育った麻布についてのサイトが出来たことが嬉しく、
もし良ければ、一度社に遊びに来ないかというものでした。

数日後、早速お言葉に甘えて待ち合わせた駅に着くと、自らお出迎え下さったO氏がニコニコしながら立っていらしたのを、昨日のことのように思い出します。そして社内をご案内頂き、当時出来たばかりのADSL回線を、ニコニコしながらも「どや顔?」でご説明頂き、その後昔の麻布の様子などをお聞かせ頂きました。そして帰り際に大きな封筒を手渡され、
「これをサイトに掲載してほしい」といわれました。それは、1943(昭和18)年度のO氏が通っていた麻布幼稚園の卒園アルバムでした。
実は戦前の麻布周辺の小学校や幼稚園は上流階級の子女が通学することも多かったといわれており、校舎入り口の付近には、通学する子供に付き添う雇人が待機する部屋(召使い部屋)もあったといわれています。


帰宅後にスキャナーで読み込んで早速記事を掲載させて頂きましたが、その卒園アルバムの表紙を眼にしたときにやけに懐かしいような気分になりました。といっても、南山幼稚園出身の私と麻布幼稚園は何の関係もなく、気のせいかとも思ったのですが、しばらく眺めているとあることに気がつきました。
それは、表紙に描かれている向き合った2羽の鳩のマークは、背景の色の違いがあるにせよ、南山幼稚園の記章と全く同じデザインでした。
南山幼稚園

そこで調べてみると、両園の意外な関係が解ってきました。

両園の母体は大正2年4月に設立された東京市麻布幼稚園で、その設置場所は現在解体工事を待っている旧麻布保育園の敷地(元麻布3丁目・麻布いきいきプラザ辺)にあったことがわかりました。
そして昭和9年4月には麻布麻中、南山幼稚園に分割され、それぞれ現在の位置へと別れました。
しかしその際に創立時に同じ幼稚園であったことを記憶に留めるため、バックグランドの配色は青とエンジにして変化させたものの、デザインはそれまでのものを継続して使用する事に決めたのだと思われます。

南山幼稚園ではこの鳩が現在も園歌として歌われており、その創業時の思いを今に伝えています。




♪ 南山幼稚園 園歌 ♪

胸の記章の鳩さんは、お手々つないで通います。
わたくしたちも、元気よくみんな仲良く遊びましょう
楽しい南山幼稚園

胸の記章の鳩さんは、お口そろえて歌います。
わたくしたちも、声高く、みんな仲良く歌いましょ
楽しい南山幼稚園


※南山幼稚園園歌.mp3(唄入り) → こちらをクリックして下さい。

※南山幼稚園園歌.mid(伴奏のみ) → こちらをクリックして下さい。
     (演奏:小野さん)

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  ◆むかし、むかし2-30 麻布幼稚園

      http://deepazabu.main.jp/m1/mukasi/mukasi2.html#30