1890(明治23)年4月4日夜11時ころ、麻布区東鳥居坂町13番地(港区六本木5丁目12-11)の東洋英和女学校に賊が侵入し、日本刀のような物で、校長でカナダ籍のスペンサ-・ラ-ジ(当時30歳)が切りつけられ重症を負い、夫であるT.A・ラ-ジが斬殺されました。
賊は学校台所脇の物置から侵入し、小使の瀬川喜兵衛を脅して金のありかを詰問しましたが、瀬川は知らなかったので縛り上げて、2階の校長居室に侵入します。物音に気付いて「だれだ!」と声をかけたT.Aラージ氏に「用事がある」と近寄った賊は、氏を14ヶ所も切りつけて即死させてしまいます。
その際に夫を助けようとした妻のスペンサ-も顔を切られ、指を切り落とされるなど重傷を負いますが、騒動に気づいた寄宿生が騒ぎ出し賊は何も取らずに逃走しました。
賊は逃げ出す時に、洋銀製の煙管(キセル)が入った印伝(インデン)の煙草入れを落として行ったので、警察の調査で賊は「知識階級」の者であると推測されました。また瀬川は賊が股引足袋装束であったと陳述し重症を負ったスペンサ-の口からも賊は身にしっくりした衣装で白い帯をし、うわっぱりも巡査が用いる物に違いなく、賊は警察官であったと固執し、この原因はキリスト教の迫害が目的であろうと陳述したので、時の政府はたいそう狼狽しました。
麻布鳥居坂警察署誌によると、
「~本署は之より犯人は強盗と見込みを付けたが当時の下谷警察署に於ても大捜査を開始した。此犯行は非常に巧妙で何等の痕跡なく犯人は検挙せられず迷宮事件の一つになって終わった。当時未だ治外法権も撤廃されず外国人は内地人より優越的な待遇を受けていた時代なので、外国人等より批判多く相当興論を沸騰せしめた事件であつた。」
とあり、世間でも大騒ぎした様子がうかがえます。
事件後、警察も犯人の手がかりはまったくつかめずにいましたが、犯行から11日目の山梨日々新聞に突如「練絲痕」という小説の連載が開始されます。内容は日本人青年大森安雄と金髪令嬢レニスとのよくある恋愛小説だったが、2回目の連載「無惨」の内容はレニス嬢の父親が殺害される場面がラ-ジ殺人事件と酷似しており3回目の「疑惑」ではその犯人の追及を行うというリアルな内容であったため、警察も事件の内部事情に詳しい者が執筆している可能性があると調査を開始しました。
著者は靄渓山人というペンネ-ムを持つ18歳の小林一三という学生で、早速取り調べたが事件の新聞記事を基に小説を執筆していた事が分り、犯人ではないことがわかりました。しかし、この小説の連載は警察の取り調べ後、9回をもって打ち切りとなります。
犯人の割り出しに躍起になった警察は、田中光顕警視総監の下で鬼と呼ばれた武藤警部を導入し嫌疑者を多数取り調べますが、十分な証拠も無く、すべての嫌疑者が釈放されてしまいます。
当初、小使の瀬川喜兵衛も事件当時の行動に不信をいだかれ、厳しい取り調べを受けます。また事件当時の学校は前年の校舎新築工事の代金未払いで下請業者と係争中でもありその線も調べられました。しかし結果はすべて”白”で捜査は振り出しに戻り、困り果てた警察も田中警視総監の名で300円の懸賞金をかけますが、結局有力な情報はもたらされず、事件は迷宮入りしてしまいます。
事件が解決されたのは事件現場であり東洋英和女学校が創立地でもある鳥居坂町14番地から現在の地に移転した2年後の、1902(明治35)年12月で、その間武藤警部と配下の兼子刑事は何と12年に渡って執拗に事件を追い続けていました。
犯人は明治25年強盗犯として新宿署に逮捕され服役していた馬場恒八、士族の小笠原重季の両名で、その事件の手口がラ-ジ殺人事件の犯痕と共通するものが多くある事を付きとめ、小笠原重季を幾度となく取り調べた結果、遂に自供に至り事件は12年ぶりに全面解決します。
しかしこの時、馬場恒八は網走監獄ですでに獄死しており、また小笠原も明治25年の強盗事件で13年の刑期に処せられ東京集治監に服役中でしたがラ-ジ殺人事件は時効が成立していたため不問とされ、明治31年の英照皇太后の恩赦で9年9ヶ月に刑期を短縮されていたため、小笠原重季はラ-ジ殺人事件が解決した直後の1902(明治35)年12月17日に満期出獄します。
(余談その1)
「幕末明治女百話」という本のなかで、事件当夜に寄宿生徒であった女性の回顧談が「78.英和女学校のラ-ジ殺し」として掲載されていて、事件の際に壁一枚隔てただけの寄宿舎で見聞した事件の真相を克明に描写しています。
(余談その2)
山梨日々新聞に「練絲痕」を執筆した靄渓山人というペンネ-ムを持つ18歳の小林一三(1873~1957年)という人騒がせな学生は、その後有力者の紹介で三井銀行に採用されたが、小説家への夢が捨てきれず1月からの出社を4月まで延ばし、その間には伊豆で女性と恋に落ちた。しかし温泉で別の女性の入浴を覗き見したことが発覚しその女性に振られて、一人寂しく帰京した。その後、銀行からの矢のような出社の催促と友人からの意見により小説家をあきらめ、4月4日からやむなく出勤を始めます。
時は流れて明治40年。彼は箕面電車を設立し、宝塚少女歌劇団、タ-ミナル・デパ-トを創始。そして昭和8年(1933年)東京に進出して東宝映画を設立。その後政界入りして商工大臣、国務相などを歴任した。しかし戦後政界を追放され東宝社長、宝塚音楽学校長をつとめました。
同 年 代 の 関 連 年 表 西 暦 年 号 事 象 1875年 明治 8年 1月麻布市兵衛町の静寛院宮(皇女和宮)邸に明治天皇・皇后が行幸
5月麻布市兵衛町の静寛院宮邸に明治天皇・皇后が再び行幸1881年 明治14年 明治天皇が公爵島津忠義麻布本村町邸に岩倉右大臣、西郷参議、河村海軍卿を供奉して行幸。古式の犬追い物、相撲を天覧 1882年 明治15年 川村純義狸穴邸がジョサイア・コンドル設計により建設される。戦後この建物は取り壊され東京アメリカンクラブとなる。 1883年 明治16年 築地居留地のカナダ・メソジスト・ミッションにより東鳥居坂町に麻布教会(現在の鳥居坂教会)」が設立される。 1884年 明治17年 カナダ・メソジスト・ミッションが同派「麻布教会(現在の鳥居坂教会)」牧師を設立者として東洋英和学校会社を設立。
10月東鳥居坂町14番地400坪弱のビール工場跡地に東洋英和女学校創立。創立時の生徒数は2名。次年度は170名。
11月東鳥居坂町13番地、元駐仏公使鮫島尚信邸跡地2,200坪に東洋英和学校(男子)が創立。普通科・神学科を併設。1885年 明治18年 Ms.スペンサーが来日。東洋英和女学校の教師(家事・英語・唱歌担当)を経て同校の第二代校長に就任。 1886年 明治19年 一致英和学校、英和予備校、東京一致神学校の3校が合併して「明治学院」が開校する。 1887年 明治20年 Ms.スペンサーが東洋英和学校教師のT.A.ラージ氏と結婚。娘ケートが生まれる。
4月井上馨邸(現・国際文化会館)に天皇が行幸して天覧歌舞伎
麻布本村町津田 仙(津田梅子の父)邸の仮校舎で普連土女学校が開校1888年 明治21年 麻布区永坂町1番地の島津忠亮子爵邸の一部を借り受けて香蘭女学校が創立 1889年 明治22年 2月大日本帝国憲法発布祝賀のため東洋英和女学校生徒が井上馨邸(現・国際文化会館)を訪問
5月明治天皇が麻布新竜土町の通称:麻布三連隊(陸軍第一師団第三連隊)を閲兵
7月シーボルトの娘楠本イネが長崎から麻布我善坊町25番地に転居(62歳)
江原素六が沼津から上京し東洋英和学校(男子)の幹事となる。1890年 明治23年 4月東洋英和女学校で強盗事件(ラージ殺人事件)。第二代校長の夫T.A.ラージ氏が殺害され、婦人の校長Mrs.ラージも指を2本失う重傷。事件後恩賜休暇によりカナダに帰国して休養、義指作成。
7月第一回衆議院議員選挙
江原素六が衆議院議員となり東洋英和学校幹事を辞任する。1891年 明治24年 2月明治天皇が麻布市兵衛町の内大臣三条実美を見舞うために行幸
4月明治天皇が麻布狸穴町の伯爵、川村純義邸(ジョサイア・コンドル設計、現在の東京アメリカンクラブ敷地)に行幸
5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町6番地に転居(64歳)
Mrs.ラージが再来日し東洋英和女学校英語教師となる。1892年 明治25年 5月楠本いねが麻布区麻布仲ノ町11番地に転居(65歳) 1893年 明治26年 山梨県甲府市の安中逸平・てつ夫妻の長女として「安中はな(後の村岡花子)」が生まれる。
6月江原素六が東洋英和学校の校長となり校舎内に居住。1894年 明治27年 麻布十番に住む貧しい三人の子のうち一人が売られようとしているのを知った東洋英和女学校の生徒が、有志をつのり、その子と他の一人を引取り麻布教会(現・鳥居坂教会)が孤児院を設置。 1895年 明治28年 5月楠本いねが麻布区麻布飯倉片町32番地に転居(68歳)
Mrs.ラージがカナダに帰国。1897年 明治30年 Mrs.ラージが三度目の来日。 1899年 明治32年 4月Mrs.ラージが強盗事件により死亡した夫T.A.ラージ氏墓所敷地の一部をフルベッキ氏墓地としてエンマ・バーベックに委譲。 1900年 明治33年 東洋英和女学校が創立地である東鳥居坂町14番地から現在地(東鳥居坂町8番地:1,225坪)へ移転。
東鳥居坂町13番地の麻布中学が東洋英和学校(男子)から分離独立し、麻布本村町40番地(現在地)に移転。後に東洋英和学校は廃校となる。1901年 明治34年 Mrs.ラージが帰国し晩年は農場経営に従事する。
7月川村純義狸穴町邸(コンドル設計、現在は東京アメリカンクラブ)で迪宮殿下(後の昭和天皇)の養育が始まる1902年 明治35年 1月日英同盟調印発効
7月静岡県の不二見村で岩崎きみちゃん誕生
12月ラージ殺人事件解決1903年 明治36年 3月久邇宮家の鳥居坂邸で女児が誕生。良子と名づけられたその姫は後に昭和天皇の后(香淳皇后)となる。
安中はな(村岡花子)が東京府荏原郡品川町立城南小学校から東洋英和女学校に編入学(10歳)
8月楠本イネが麻布区飯倉片町28番(東洋英和女学校裏手)にて逝去。享年76歳1904年 明治37年 麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布一本松町から麻布本村町に移転。
川村純義狸穴町邸で養育されていた迪宮殿下(後の昭和天皇)が川村の逝去により皇居に戻る。
ジョサイア・コンドルが麻布三河台町に自邸を建設する。1908年 明治41年 麻布教会(現・鳥居坂教会)孤児院が麻布本村町から麻布永坂町50番地(現在の十番稲荷神社社地)に移転し「永坂孤女院」となる。そして集合写真「永坂孤女院1908(M41)階下は日曜学校」が撮影される
三菱財閥2代目岩崎弥之助の邸宅としてジョサ・イアコンドル設計の高輪開東閣が建設される。1911年 明治44年 岩崎きみちゃんが結核により永坂孤女院で死亡。享年9歳 1913年 大正 2年 安中はな(村岡花子)が東洋英和女学校高等科を卒業。英語教師として山梨英和女学校に赴任。
三田綱町の三井倶楽部が三井財閥の賓客接待用として建設される。(設計はジョサイア・コンドル)1914年 大正 3年 ヴォーリズ(William Merrell Vories)設計による明治学院チャペルが建設される。 1918年 大正 7年 元初代ハワイ総領事の安藤太郎が麻布区西町に安藤記念教会を設立 1921年 大正10年 松方正義の子、正熊の自邸としてヴォーリズ設計による松方ハウス(現西町インターナショナルスクール)が建設される。 1923年 大正12年 ヴォーリズ設計によりフレンズセンター(キリスト友会日本年会)が建設 1933年 昭和 8年 Mrs.ラージがアメリカ・ペンシルバニア州にて逝去。
東洋英和女学校校舎がヴォーリス設計により建設される。
麻布区役所新庁舎が完成。旧庁舎はヴォーリス監修により移築され日本獣医畜産大学(現・日本獣医生命科学大学:三鷹市武蔵境)校舎として現在も使用中。
麻布南部坂教会がヴォーリス設計により建設される。
カナダ婦人宣教師物語
「ミセス・ラージ:娘ケイトと」
(提供:東洋英和女学院)
★20140404追記
先日東洋英和女学校史料室を訪問した際に購入した書籍
「カナダ婦人宣教師物語」にはMrs.ラージの写真が数点掲載されている。その中でも「ミセス・ラージ:娘ケイトと」と題された写真に目がとまりました。
実はその写真は、以前にもこの事件を調べる際に「目で見る東洋英和女学院の110年」という周年誌で目にしていたのですが、改めて見たときに何か違和感を感じて目にとまってしまいました。
その訳はよく見ると不自然に右手を後ろに回し、左手で幼い娘さんを支えているように見えます。この写真に対して東洋英和史料室から悲しい逸話をお話し頂きました。その逸話とは、
この写真は殺人事件のあった頃に写された写真で、事件により指を2本失っていたMrs.ラージは、右手を娘との大切な写真に写したくなかったので、意図的に後ろに隠している。というもので、指を失った姿で写るのを拒否しているMrs.ラージの写真であるそうです。
- 1890(明治23)年 東洋英和女学校で強盗殺人事件発生。
- 1903(明治36)年 十歳の安中はな(後の村岡花子)が東京府荏原郡品川町立城南小学校から東洋英和女学校に編入学。
- 1908(明治41)年永坂孤女院が鳥居坂教会日曜学校と併設で設立され童謡「赤い靴」のモデルとなる「岩崎きみ」ちゃんがこの孤児院で養育される。
★関連項目
○永坂孤女院1908
○赤い靴のきみちゃん
○「花子とアン」の麻布