2013年3月31日日曜日

麻布近辺の縁日

江戸期には寺社の多い麻布近辺は多くの寺社の開帳、縁日がありその中で一番有名なのは、有馬の水天宮であったと思われます。そして明治になり水天宮が移転した後も各所で縁日は開かれたようですが私が子供の頃麻布十番では、五の日、九の日に縁日が開かれ、広尾商店街でも毎月決まった日に縁日があったように記憶しています。しかし、昭和初期の港区域ではさらに多くの縁日が毎日のように開かれていたようです。 
以下に港区史に掲載されている昭和初期ころと思われる縁日の日取りを御ご紹介します。






名 称 ( 町 名 ) 
一日金刀毘羅宮(芝琴平町)、烏森神社(芝新橋3丁目)、正伝寺(芝金杉)、大久保寺(白金三光町)、七面天(麻布十番)、浄土地蔵(赤坂一ツ木)
二日汐見地蔵尊(伊皿子大円寺)、日比谷神社(芝口)、新堀不動尊(新堀町)、秋葉神社(麻布飯倉)、種徳寺薬師堂(赤坂台町)
三日久国稲荷(麻布谷町)、梅窓院観音(赤坂青山南町)
四日鬼門除地蔵(芝三田)
五日烏森神社(芝新橋3丁目)、祥雲寺不動(麻布広尾)
六日新堀不動尊(新堀町)、六地蔵(豊岡町)、浄土寺地蔵(赤坂一ツ木)
七日大神宮(神明町)、六本木観音(六本木)、弘法大師(飯倉)、鷲の森地蔵(麻布四ノ橋)
八日愛宕薬師(愛宕)、福昌寺(伊皿子)、鬼子母神(麻布霞町)、善光寺(青山北町)
九日雷神山(白金三光町)、春日神社(三田)、宇田川不動(芝宇田川町)、久国稲荷(麻布谷町)、七面天(麻布十番)、豊川稲荷(赤坂表町)
十日金刀毘羅神社(虎ノ門)
十一日烏森神社(新橋)、浄土寺地蔵(赤坂一ツ木)
十二日大円寺(伊皿子)、愛宕薬師(愛宕)
十三日久国稲荷(谷町)
十四日鬼門除地蔵(三田)、善光寺(青山北町)
十五日烏森神社(新橋)、高野山別院(高輪二本榎)、祥雲寺不動(広尾)
十六日新堀不動(新堀町)、豊岡地蔵(豊岡町)、浄土寺地蔵(赤坂一ツ木)
十七日大神宮(神明町)、六本木観音(六本木)、梅窓院(青山南町)、荒川不動(西久保巴町)
十八日鬼子母神(霞町)
十九日宇田川不動(芝宇田川町)、雷神山(三光町)、久国稲荷(谷町)、七面天(麻布十番)
二十日円山稲荷(二本榎)、金刀毘羅神社(琴平町)
二一日浄土寺地蔵(赤坂一ツ木)、鷲の森神社(四の橋)
二二日大円寺地蔵(伊皿子)、桜田神社(麻布桜田町)、種徳寺薬師堂(赤坂台町)
二三日大久保寺(三光町)、久国稲荷(谷町)、梅窓院観音(青山南町)
二四日鬼門除地蔵(三田)、覚林寺(芝)、愛宕神社(愛宕)
二五日烏森神社(新橋)、広尾稲荷(広尾)、祥雲寺不動(広尾)
二六日新堀不動(新堀)、六地蔵(豊岡町)、浄土寺地蔵(赤坂一ツ木)
二七日大神宮(神明)、六本木観音(六本木)、善光寺(青山北町)
二八日鬼子母神(霞町)、荒川不動(西久保巴町)
二九日久国稲荷(谷町)、梅窓院(青山南町)、雷神山(三光町)
三十日七面天(麻布十番)
子の日宇田川不動(芝宇田川)、清正公(白金)
寅の日大法寺(一本松)
申の日正伝寺(金杉)、天現寺(広尾)
庚申の日常照寺(高輪)












2013年3月30日土曜日

尺八殺人



天保6年(1835年)7月27日、麻布桜田町に住む喜八は嫁の「あき」の実家である品川
 天妙国寺前の煙草屋「近江屋」に夫婦で訪れました。
別格山鳳凰山 天妙国寺
 夫婦で麻布から品川まで籠を連ねてやってきたその日の用件は舅の藤兵衛に借金を申し込むためでした。夫婦は近江屋に着くと 挨拶もそぞろに早速借金の話しを切り出します。しかし、舅の藤兵衛はあまり話も聞かぬうちに乱暴に申し出を断ってしまったそうです。

わざわざ夫婦そろって頭を下げているのに邪険に扱われ頭にきた喜八は、たまたま傍にあった尺八で舅である藤兵衛の頭を強打し、 藤兵衛はその場で気絶してしまいます。

騒ぎを聞きつけた近所の者たちが駆けつけ、喜八を取り押さえ近くの自身番へ連れて行く一方、藤兵衛の手当てをしましたが、 駆けつけた医者も傷の深さにさじを投げてしまったそうです。そして3日後には藤兵衛はとうとう亡くなってしまいます。

当然、舅を殺してしまった 喜八は過ちからとはいえ殺人犯となりますが、嫁の「あき」は親殺しの妻として実家に戻され悲劇は一層拡大してしまい、不憫と思った親類たちは散々相談した結果、「内済」で済ます事に決定します。

補蛇落山 海晏寺
婿と嫁は麻布の家に返し、藤兵衛の遺体は「病死」として 菩提所の南品川海晏寺へ葬る事にすることで早速海晏寺に連絡しました。しかし、事件の噂を聞きつけていた海晏寺は埋葬の許可を出さず、 月末になっても葬式すら行えない状態になってしまいます。再三の親族からの哀願にもかかわらず、この隠蔽に荷担すること恐れた海晏寺の住職は寺社奉行に訴え、その上で埋葬するのが良いと いいつづけたといいます。
しかし、残念なことにこの話の結末は記載されていません。

 この事件が起こった場所は私の住まいからほど近いところにある事がわかり、天妙国寺も海晏寺も現存します。 さらに驚いたことに事件があった当の煙草屋「近江屋」も現存していることが分かりました。

そして調べてみると「近江屋」は品川区内のス-パ-マーケットとして現存していることがわかりました。しかし、この店のご先祖様が身内の殺人という窮地をどのようにして回避できたのかを聞いてみることは、未だに出来ていません。

妙国寺門前
ちなみに、天保6年(1835年)7月27日この事件と同じ日に、にやはり尺八で人を殴って殺害してしまう事件が目白台でも起きています。詳細は麻布に縁が無いので省略しますが この当時の尺八は武器としても役立っていたのでしょうか?そうだとすると、虚無僧が尺八を持っているのは、護身用の武器としても活用したものとも考えられます。




○2010年7月27日追記
嫁の「あき」の実家があった近所の天妙国寺は当時「妙国寺」と呼ばれた古刹で、墓所には麻布と縁が深い昭和初期のアイドル歌手「音丸」こと永井満津子が眠っています。

音丸は麻布十番商店街の下駄屋お内儀でした。しかし当時としては珍しい既婚者・商店のお内儀という立場から流行歌手としてデビューし、1935(昭和10)年には「船頭可愛や」が大ヒットします当時、客席から舞台の音丸に「下駄屋の姉御!」とかけ声が掛かると、「よくご存じ!」っと切り返す 肝の太さも持ち合わせていたという逸話が残されているそうです。


十番稲荷神社 音丸寄進の狛犬
音丸の下駄屋は現在の十番郵便局付近にあり同時期、現在の十番会館あたりには喜劇王エノケンこと榎本健一の実家「武蔵野せんべい」もありました。


これらのことから十番稲荷神社の現在も残されている狛犬は音丸の寄進で、立て替え前の 石華表(鳥居)はエノケンの寄進によるものであった。

鳥居は残念ながら現存しませんが、現在の鳥居の裏面にはエノケン寄進を記念した銅板が埋め込まれており、もう一方の足には同じく前鳥居の寄進者であった 市川産業(後のクラウンガスライター)創業者で十番に本社を構えていた市川要吉の銅板が埋め込まれています。

ちなみにクラウンガスライター社は、1977年・1978年シーズンは福岡野球のメインスポンサーとなり、クラウンライターライオンズ(略称・クラウン)としてプロ野球界に参戦し現在の 西武ライオンズの礎を築きます。

十番稲荷神社 音丸寄進の狛犬

また天妙国寺墓所には落語、講談で有名な元有馬藩士「お祭り佐七」こと飯島佐七郎の墓があり、その他歌舞伎「与話情浮名横櫛」の主人公「斬られ与三郎」と「お富」、桃中軒雲右衛門、伊藤一刀斎などの墓があり、当時から名刹であった寺の勢いが偲ばれます。



★別格山鳳凰山 天妙国寺
住所:東京都品川区南品川2-8-23
宗派:顕本法華宗
創立:弘安8(1285)年













十番稲荷神社 華表銅板
市川要吉

 



十番稲荷神社 華表銅板
榎本健一

2013年3月29日金曜日

ヒュ-スケンとお鶴、お里

おつるとヒュースケンの遺児
 安政6年6月27日、総領事から公使に昇格したハリスはこれを幕府に通告、公使館を麻布山善福寺に置いた。そしてヒュ-スケンのみが幕府に対して「下女の雇い入れ」を要求した。この時の要求と、その結果を外国奉行兼下田奉行村垣淡路守範正の日記に見る事が出来る。

「一、善福寺詰栗原啓太郎、夜来る。魯コンシュル外一人、同寺へ来る由申し聞き候。ヒ-ス(ヒュ-スケン)女一条云々、申し聞き候。(7月18日の条)」

「一、ヒ-スケン下女抱入れの儀、伺の通りあい済み、清五郎を以って御渡し。(10月27日の条)」

これにより雇われたのが麻布坂下町にある清蔵店久次郎の娘で横浜の遊女屋に年季奉公中の「つる」という18歳の娘であった。給金は下田の時とほぼ同額の一月7両2分といわれ、彼女が勤めていた遊女屋の6倍半以上の給金であった。ヒュ-スケンはよほどつるを気に入ったと見えて、彼が切られて運び込まれた時も善福寺の宿坊である善行寺で彼の「死に水」をとったといわれる。また宮永孝著「幕末異人殺傷録」流浪の果てに-アメリカ公使館通訳ヒュ-スケンの暗殺の100ペ-ジに、アムステルダム海事博物館に所蔵されているポルスブルック伯のアルバムの写真が掲載されていて、そこには子供を膝に乗せた日本人女性が写されている。その写真の下には「Madame Heusken」と書かれている事から著者はこの写真が「つる」と彼らの子供だと推定している。

ヒュ-スケンは、このつるの他にも気になる女性がいたようで、芝浦に停泊した外国の軍艦の見物人を相手にした「掛け茶屋」の一つで、最も繁盛していた「万清」で働く「お里」という娘に、恋をしていたと思われる。お里は芝浦の船頭の娘で、父は松蔵と言った。ヒュ-スケンは沖の船に用事がある時は度々松蔵の小船を使って行ったので、その内に松蔵とヒュ-スケンは懇意になり、松蔵は娘の働く万清でヒュ-スケンをもてなした。そんな中でヒュ-スケンはお里に心を動かされ、やがて松蔵ぬきで一人で現れるようになった。最初は彼を恐れていたお里もやがて酌や話し相手もするようになる。しかし、ヒュ-スケンが三日と明けずに通うようになると、地元の若い衆らが嫉妬と怒りからお里を「ラシャめん」と呼び罵声を浴びせた。そのために父親の松蔵は地元の若い衆らと大立ち回りを演じたと言う。がその後ヒュ-スケンは暗殺されてしまい、二人はプラトニックなままだったと言われる。中里機庵「幕末開港綿羊娘情史」には、ヒュ-スケンの死後、墓を訪ね密かに香華をたむけて涙するお里の姿が見うけられたとある。

以前に書いたヒュ-スケン事件では知らなかった事を少し補足させて頂くと、
ヒュ-スケン暗殺に憤慨した各国出先機関は江戸からの退去を決め実行に移した。しかしアメリカ領事ハリスだけは、事件を私情から起こったとして江戸に残留し、幕府に対して損害賠償を請求した。これにより幕府はヒュ-スケンの母親に対する慰謝料として4,000ドル、扶助料6,000ドルの10,000ドルを洋銀(メキシコドル)で支払い和解した。これは当時でも大金であったと言われ、その総てが母親に支払われた。ヒュ-スケンの母親は当時アムステルダムに住んでいて、不思議な事に彼が殺された三日後に、在日オランダ副領事のポルスブルック伯がヒュ-スケンの母親から受け取った手紙には、彼が殺されたらこの老母に知らせてほしいと言う内容が記されていたという。また息子の死を知らされ、賠償金を受け取った後にはハリス宛の手紙を書き、息子を失い悲嘆に暮れている様子と、賠償金、息子への供養に対する懇ろな礼を述べている。

この項の主題である異国人とその侍妾について、本人の日記を含めて外国側の資料は全く無いと言われるが、皮肉にも日本側の公式文章には頻繁に女性たちの名前が登場する。



ハリスと唐人お吉

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2013年3月28日木曜日

ヒュ-スケン事件-その2


前回アメリカ公使通訳の暗殺、ヒュースケン事件をお伝えしましたが、今回はその続編をお伝えします。

慈眼山光林寺
事件があった万延元年十二月四日(西暦:1861年1月14日)、 ヒュースケンはアメリカ公使の通訳の他に、1860(安政7)年7月23日から芝赤羽接遇所に滞在中のプロシア使節オイレンブルグ と幕府との折衝の通訳・案内・相談役として多忙な日を送っていました。

当日のヒュースケンは、江戸城の周りを馬で廻って午後6時頃接遇所に到着し、プロシア使節らと夕食を摂ります。その後8時半頃まで雑談に興じた後、3名の騎馬役人、従僕ら4人、馬丁2名と共に善福寺への岐路につき、中の橋辺で襲撃にあいました。

幕末異人殺傷録(宮永孝著) にはその襲撃場所が確定されており、襲撃地点は中の橋戸沢上総頭取組合辻番所でそこには「多数の血溜りあり」と記されて います。また「200ヤードばかり走ったところで落馬」とあり京極佐渡守中屋敷前には複数の血溜りが記されています。翌6日午前 0時半頃に死亡し、死因は襲撃時に受けた腸を切断するほどの深手による失血死であったそうです。

事件を聞いて真っ先に駆けつけたのは外国奉行小栗豊後守(のちに上野介)忠順で、ハリスに弔辞を述べると検死を行い 刀傷などを調査した後、深く心を動かされた様子で犯人逮捕を確約しました。 また、その朝には外国奉行ら4名(村垣淡路守・竹本図書守・高井丹波守・滝川播磨守)もハリスを弔問し、犯人逮捕を確約します。 これに対しハリスは犯人逮捕を促す措置として、犯人を訴えた者には250両の賞金を出す事を表明しました。
ヒュースケンの葬列

12月8日午後1時麻布光林寺において、幕府から再度の襲撃を予想してのハリス欠席要請を拒否してヒュースケンの葬儀が行われました。 亡骸はアメリカ国旗で包まれ、オイレンブルグがティーティス号船上で造らせた棺に納められて、善福寺に安置された。そして 8名のオランダ水兵(ヒュースケンはオランダ生まれであるため)に担がれて光林寺へと向かいます。
葬列は、

  • 外国奉行(新見豊前守・村垣淡路守・小栗豊後守・高井丹波守・滝川播磨守)各自に長い供周りと護衛  
  • 米国・英国・フランス・オランダ・プロセインの弔旗。プロセイン水兵が捧載し、プロセイン海兵隊員6名が護衛   
  • プロセイン・フリゲート艦アルコナ号軍楽隊
  • オランダ、プロセイン海兵隊護衛
  • 日本教区長ジラール神父、外科医シルウス 
  • 遺体(オランダ海兵隊員8名で担う) 
  • 喪主オランダ総領事デ・ウィット、米国総領事ハリス 
  • 英国公使オールコック、フランス総領事ベルクール、プロシア全権大使オイレンブルグら各国公使 
  • 各国領事 
  • 各国代表部随員 
  • オランダ軍、プロセイン軍士官  

と、荘厳な列となり光林寺へと向かいます。
沿道は好奇の目を持った群集であふれましたが警戒していた浪士の襲撃は行われず 、棺は無事に光林寺へ到着します。
山門から墓地に到着した棺はジラール神父の祈祷の後にプロシア軍楽隊の「イエスはわが信」 に送られて会葬者が各自一握りの土を穴に投げ入れます。その後光林寺住職により和式の葬儀も行われ葬儀は無事に終了しました。

葬儀翌日の12月9日にはイギリス公使館のある高輪東禅寺にハリス(米国総領事)、オールコック(英国公使)、ベルクール(フランス総領事)、オイレンブルグ(プロシア全権大使) 、デ・ウィット(オランダ総領事)らが集まり、幕府への抗議の意味から事件解決と賠償が確定するまでの間、各国公使館を横浜に移転 する事が決められました。しかしハリスはこの決議に反対で、ヒュースケン殺害事件は個人的な恨みによるもので外交問題とは 無縁であるとして江戸退去を拒否し、善福寺から星条旗が下ろされることはありませんでした。(オイレンブルグも条約締結中であった ため、江戸滞在を続けました。)

襲撃犯については幕府の必死の探索にもかかわらず迷宮入りとなりましたが、幕府の報告書には「武家方侍四、五人」、ハリスは本国への 報告書で「7名」としています。そして襲撃犯について現在では攘夷派の薩摩藩士伊牟田尚平、樋渡清明、神田橋直助らの犯行というの が定説のようですが、伊牟田尚平は清河八郎が主宰した「虎尾ノ会」発起人にも名を連ねており、現在は清河八郎がこの暗殺を主導したと考えられています。 また事件の首謀者については、事件から半年後にシーボルトと共に江戸に来た長男のアレクサンダーは、

 私は2、3年後に聞いたのだが、下手人は一人の名の通った浪人だったが、この男もほとんど同じ場所で別の浪人の手に かかって殺されたというのは不思議な事である。

と、後年「ジーボルト最後の日本旅行」に書き残しています。(アレクサンダーは父フィリップ・フォン・シーボルトが離日した後も 英国公使館通訳官として江戸に滞在します。)これは明らかに赤羽橋付近における「清河八郎 殺害事件」をさしていると思われます。
父フィリップ・フォン・シーボルトはヒュースケンが殺害された事を当時滞在していた長崎で事件の 詳細を聞き知っており、江戸に到着するとすぐに頻繁にアメリカ公使館にハリスを訪問しています。そして5月22日には麻布山善福寺のハリスを訪問後に光林寺の ヒュースケンの墓・英国通訳官伝吉の墓参をしています。






慈眼山光林寺ヒュースケン墓碑
墓碑の碑文













(和訳)
日本駐在アメリカ公使館付通訳ヘンリック・ヒュースケンの御霊に献ぐ。
1832年1月20日アムステルダムに生まれ、1861年1月16日江戸にて死去

※碑の撰文ははハリスが行い日本人の石工が作成した。文中ヒュースケンの名を「HENRYC」 としているが、これは誤りではなくヒュースケンの洗礼名「Henricus」を音訳した名とのこと。

※幕府崩壊の様子を描いた手塚治虫のコミック「陽だまりの樹」はハリス、ヒュースケン、善福寺(主人公が善福寺住職の娘に恋をします)も頻繁に登場します。是非ご一読をお勧めします。




Blog DEEP AZABU-ヒュースケン事件
 https://deepazabu.blogspot.com/2013/03/blog-post_27.html







2013年3月27日水曜日

ヒュ-スケン事件

麻布近辺は江戸末期から外国の施設が多くありました。高輪東禅寺に英国公使館、三田済海寺にフランス公使館、麻布仙台坂の春桃院にプロシア(後のドイツ)公使館、芝西応寺・伊皿子長応寺にオランダ公使館、そして麻布山善福寺にはアメリカ公使館がありました。

万延元年(1860年)3月、前年の安政大獄が原因となる桜田門外の変で、井伊大老が暗殺されると、攘夷の思想が横行して外国人への襲撃、焼き討ちなどが相次きます。
同年12月には、アメリカ公使館通訳ヒュ-スケンが暗殺されました。ヒュ-スケンは、アムステル生まれのオランダ人で、アメリカに帰化し志願しアメリカ公使ハリスの書記兼通訳として来日します。年俸1,500ドル、ハリスの信任が厚く代理も務めたので攘夷派から憎まれることとなります。

万延元年十二月四日(西暦:1861年1月14日)、幕府からの要請で、赤羽橋の接遇所でプロシア使節との交渉通訳を終えたヒュ-スケンは、馬に乗り中の橋の前あたり(東麻布イースト商店街入り口辺)まで来たところ、 物陰から抜刀した武士達が斬りつけてきます。護衛の武士は役に立たず、ヒュ-スケンは斬られて重傷を負います。
近隣の人の知らせを受けた善福寺用人らが戸板に乗せて同寺内の宿舎であり、愛人のお鶴も住む善光寺に運び医師の手当てを施したが、まもなく死亡しました。葬儀は同寺でアメリカ公使ハリスにより行われ、イギリス、フランス、オランダ、プロシャの代表が参列しました。 しかし、善福寺は土葬が禁止されていたため、慈眼山光林寺に埋葬されます。この光林寺には約1年前の安政七年一月七日(西暦:1860年1月29日)にイギリス公使館である高輪東禅寺の門前で刺殺されたイギリス通訳官の「伝吉」が埋葬されています。
 このヒュースケン暗殺事件の犯人は、薩摩藩士牟田尚平とも攘夷派の巨頭清川八郎ともいわれますが、謎のまま清川八郎も、三年後に一の橋の際で暗殺されることとなります。 
そして、この事件前後も襲撃、焼き討ちなどが相次ぎます。
  • 安政6年(1859年)横浜でロシア軍艦乗員2名暗殺。
  • 万延元年(1860年)オランダ商船長デ・ボスら2名、横浜で殺害。
  • 同年5月28日、漂流漁民からイギリスに帰化し、オルコックと来日した通訳の伝吉、刺殺。
  • 文久元年(1861年)4月2日、高輪東禅寺英国公館が水戸浪士により襲撃焼き討。
  • 同2年8月、生麦事件によりイギリス人殺害。
事件後幕府はハリスの請求によりオランダにいるヒュ-スケンの母親に洋銀10,000ドルを支払います。しかし ヒュ-スケン事件を幕府の面子をたて、賠償だけで穏便に解決したハリスも、文久2年(1862年)アメリカの外交方針変更により解任され帰国の途につきます。

次回はヒュースケン事件そのものの詳細をお伝えします。


Blog DEEP AZABU-ヒュ-スケン事件-その2
 https://deepazabu.blogspot.com/2013/03/blog-post_28.html






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2013年3月26日火曜日

ハリスと唐人お吉

19歳の斎藤きち
(wikipediaより引用)

万延元年(1861年)12月5日、中ノ橋近辺で暗殺されたアメリカ公使館通訳ヒュ-スケンは、ハリスに来日以来ずっと従ってきた書記兼通訳でした。
アメリカ領事館員は来日時ハリス、ヒュ-スケンに中国人下僕5人の計7人しかおらず、日本語を全く理解しないハリスに代わってヒュ-スケンは、一時「代理」も勤めていたそうです。これは、当時の日本人が全く英語を理解できず、唯一日本側通訳に通用するのはヒュ-スケンの母国語であるオランダ語だけであったためだと思われます。

一行が日本に上陸して約10ヶ月後の安政4年(1857年)5月19日、ヒュ-スケンはハリスの命を受けて下田奉行所を訪れ、前日に交わしたばかりの「3か条の覚書」をつき返しました。これは、当時病を患っていたハリスが下田奉行に対して病気看護の女性の斡旋を依頼していたが、聞き入れられなかったのでその日本政府(幕府)の不誠実さを怒り、「3か条の覚書」も破談にするとヒュ-スケンに伝えさせたことによります。事実ハリスは当時の日記には、

  • 安政3年12月13日--体がひどく悪い。
  • 同20日--丹毒が回復しかし体重が18キロ落ちた。
  • 安政4年2月20日--体がだるく、大量の血を吐いた。
  • 同3月24日--入港したアメリカフリゲ-ト艦での診察を希望。

などとあり、実際に病気であった事がわかります。

当初、他国の外交官からも同様の申し出をされては困ると考えて答えを引き伸ばしていた幕府側も「3か条の覚書」の破談に驚き、再審議の上ハリスの要求を受け入れる決定をし、また同時にヒュ-スケンにも「看護の名目」で女性を派遣する事を決めました。
これはおそらくヒュ-スケンがハリスの要求は本当の意味での「看護人」を指していたのに対して、彼は「看護人の名目」での船形相手の酌婦を要求したための措置であったと考えられます。またこれは、ヒュ-スケンがハリスの代理として幕府側通訳の森山多吉郎を訪れた際の、職権乱用の結果であるとも推測ともいえるのかもしれません。

5月22日、ハリス、ヒュ-スケンのもとに看護人の下田芸者の女性らがが顔見せに現れた。それらの女性の名は「きち」「ふく」と言い、17歳のお吉(斎藤きち)と、15歳のお福でした。
お吉は早速その日からハリスの看病を始めたが、わずか3日でハリスのもとに通うのを辞めています。そして二度とハリスの元に戻る事はありませんでした。これは、お吉自身も腫れ物が出来て自宅療養を余儀なくされたためであり、その後お吉はたった三日の異人への奉公(一説によると60日とも)から「唐人お吉」と呼ばれることとなります。 唐人お吉は、芸者に戻ってからも異国人相手の侍妾であった事から以前の様には売れなかったといわれ、これについて下田市役所に現存しているお吉の母親から下田奉行に宛てた願文には、
「異人と交わったためにそれまでの家業が出来なくなり、暮らし向きにも困っているので、以前に決められた唐人接待の給金を支払ってもらいたい。」

という内容のものでした。

その後お吉は、アメリカ領事館の麻布移転と共に下田の町から姿を消し、明治元年(1868年)から横浜で大工と同棲生活を送り明治4年、下田に戻って髪結いを営みます。しかし酒癖がこうじて三島に移り、再び下田に戻ったのは明治15年でした。そして小料理屋を開いたが、その自暴自棄の酒癖から破産へと追い込まれてしまいます。その頃お吉は、昔同じ侍妾だった「お福」を訪れ度々施しを受けていたといいます。お福はお吉とは対照的に、ラシャメンの勤めを辞した後、「おみや」と改名して進められた縁談から船宿の女房となり、持ち前の器量と客あしらいで店は繁盛し、幸せな生活を送ったといいます。
明治20年(1890年)零落したお吉は病にかかり、明治23年3月23日夕方友人の「おりん」を訪れた帰り道、河内門栗の淵(お吉ヶ淵)に身を投げて50歳の生涯を閉じたそうです。
同時期に異国人の侍妾となった「きち」「ふく」のその後の人生を分けてしまったものは、一体何だったのでしょうか?

その他にも看護の名目で仕えた女性達は、彼女達を含めて以下に(契約期間)


お吉---安政4年5月22日~8月18日
おさよ--安政5年7月16日~安政12年12月15日


お福---安政4年5月27日~安政12年12月15日
おきよ--安政5年2月頃(すぐに暇を出される)
おまつ--安政5年2月29日~安政6年1月31日
おつる--月雇いの囲妾安政6年8月6日~?


ヒュースケンに仕えた「おつる」は麻布十番の造り酒屋「鶴屋」の娘であったといわれています。


◎ヒュ-スケンとお鶴、お里
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2013年3月25日月曜日

麻布山善福寺-(其の弐、ハリスの公使館)

ハリス顕彰碑
安政三(1856)年7月21日、総領事タウンゼント・ハリスを乗せたアメリカの軍艦サン・ゼシント号が突如下田に入港します。 大統領の信任状を示し上陸します。そして、困惑する下田奉行をよそに、同28日に下田郊外柿崎村の玉泉寺に駐留、8月5日には、領事館旗を掲げました。その後8月25日には幕府も渋々、駐留を認めることとなります。

 玉泉寺駐留の翌日にサン・ゼシント号は帰途に就いてしまったので、砲艦外交も出来なくなり通訳のヒュ-スケンと通商条約の締結に奔走しました。しかし、幕府は引き延ばし工作を行い憔悴の日が続きます。

 翌、安政四(1857)年2月16日、下田奉行井上清直との間に長崎の開港、アメリカ人居住権、領事旅行権、犯罪人処分法など9項目にわたる条約を締結します。しかしハリスはこれとは別に、自身が江戸で幕府当局者と、直接新しい条約の交渉をする事を強く希望しました。これは、下田奉行には交渉決定権がなく一々江戸に伺いを立て、交渉の引き延ばしを図ったためで、幕府も苦慮の末8月14日江戸出府の許可を布告しました。 10月21日、ハリスは江戸城に登城、将軍家定に大統領の親任状を提出。翌日、老中堀田正睦に会い通商の必要性を説きます。これにより幕府は、目付の岩瀬忠震、下田奉行の井上清直を委員とし通商条約の審議に入りました。

ハリス顕彰碑
 安政5年1月5日条約の審議が終わりますが、幕府は勅許の必要を理由に調印の2ヶ月延期をハリスに要請、老中堀田正睦を通商条約の勅許を得るために京都に参内させました。しかし、公卿が勅許反対の圧力をかけたため、再度協議せよとの勅諚が下りました。その後も、度重なる調印延期要請にたまりかねたハリスは、江戸沖に軍艦ポ-ハタン号を乗り入れて幕府を脅迫したため、6月19日、勅許のないまま日米修好通商条約が調印されました。 これにより6月24日に前水戸藩主徳川斉昭らが登城の上、井伊大老らを詰問しましたが、7月5日彼らは許可のない登城の罪で処分を受けます。 
そして8月水戸藩への陰謀疑惑をきっかけに、安政の大獄が始まることとなります。この大獄の嵐の中、安政6年6月27日ハリスは、総領事から公使に昇格した事を幕府に通告、公使館を麻布山善福寺に置きました。
貿易商が本職のハリスは幕府の要請で度々、国際法の講演会を善福寺本堂において開催し、その折アメリカから持参した工芸品絵画等を鑑賞させ、幕吏の国際化にも勤めました。

その頃の公使館の様子を「十番わがふるさと」は古老の話として、

護衛の武士に一度ステ-キを振る舞ったところ、味が忘れられなくなり中国人コックに頼んで盗食を繰り返した。これがハリスに発覚。注意されたため代理に犬を食べたが、うまくないので止めた。

と記されています。
文久2年(1862年)、アメリカの外交方針変更により解任されたハリスの帰国後の様子は、歴史のなかに埋もれていました。そして1936(昭和11)年12月19日、ハリス在任時の通訳見習いで、三井財閥関係者でもある益田孝氏が施主になり、善福寺境内に顕彰碑が建てられることとなります。この顕彰碑の除幕式には徳川家達氏、グル-駐日大使などが参列します。 

幕末の麻布山善福寺
しかし太平洋戦争で米国が敵国となったことから顕彰碑は寺により隠匿され、再び建立されたのは、日米修好条約百年祭が行われた1960(昭和35)年5月12日のことでした。
この戦時中の様子を「十番わがふるさと」 の著者稲垣利吉氏は、

~戦時中は排外思想鼓吹が盛んで、その煽りをうけて町会までが敵国人ハリスの碑を邪魔にし、取り払いを要求する始末であった。昭和12年日支事変以来戦災に至るまで、善福寺は近衛四連隊、東部第八部隊及び第六部隊の兵士兵士約三十万人の出入りの宿舎に使用されて、末期には墓石の下まで防空壕を掘るような状況であった。照海師(※当時の善福寺住職)はハリス碑を守るため、或る時は菰をかぶせ、また或る時は箱で覆い、箱に亀山天皇勅願寺善福寺と筆太に書いて、上に土をかぶせ人目につかぬしょうにカモフラージュし、多くの兵隊のいる中を守り通した。~
と記しています。この1960(昭和35)年の日米修好条約百年祭以降、新任の米国大使が着任すると必ず善福寺のハリス顕彰碑に参拝をすることが慣習となったとも記されています。ちなみにこの式典時に訪れたのは、元連合軍最高司令官ダクラス・マッカーサー将軍の甥であるダクラス・マッカーサー2世駐日大使であったそうです。

話は戻りますが、昭和10年にこの日が建立された後、善福寺住職の麻布照海師により幾度となくハリスのその後の消息を照会したそうですが、墓所さえも不明でした。

そして碑の再建立から1年後の1961(昭和36)年、照海師がバチカンを初め世界の宗教団体に仏書を贈呈するイベントに出発のさい、アメリカ大使館からハリスの墓所発見の報が届きます。
麻布照海師は渡米の上ニュ-ヨ-ク、ブルックリン・ウッドの広大な墓所を3時間ほど探して遂に墓石を発見します。その墓石は、麻布山善福寺の顕彰碑よりも少し大きく、墓名の終わりに「フレンド・オブ・ジャパン」と記されているそうです。


★関連項目
 
 ◆麻布山善福寺

 ◆タウンゼント・ハリス

 ◆ヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケン












2013年3月24日日曜日

麻布山善福寺(其の一)


麻布山善福寺の起源はひじょうに古く、東京都内では、浅草寺「推古天皇36年(628年)」、深大寺「天平五年(733年)」に次ぐ古刹で「天長元年(824年)」とされています。

 弘法大師により開かれ、鎌倉時代、了海上人の親鸞上人との出会いにより、真言宗から浄土真宗に改宗されています。 その経緯は、5年間常陸に師(法然上人)と共に流され、放免で京に戻る途中の親鸞上人は、おなじ藤原一門(紀氏ともいわれる)の出身である 青年僧で後に関東六老僧の一人となり麻布山善福寺中興の祖と呼ばれることとなる、了海上人のいる善福寺に立ち寄ります。
この時了海上人は、親鸞を試そうと煮え湯の中に自分の手を入れて、「師もこのような 事ができますか」と言い熱湯の入った手桶を親鸞の前に差し出します。すると親鸞は静かに立って庭の水瓶から水を汲み 手桶にさしぬるま湯としました。そして「宗教とは、修行した者のみが、独占するべきではない、だれもが親しみやすいものであるべきだ。」と言い諭します。この言葉に悟りを開いた了海上人は、ただちに浄土真宗へと改宗したといわれています。
そして親鸞が善福寺を去る時に、手に持っていたイチョウの杖を地に突き立てたのが大きく育ち、麻布七不思議 の一つとして数えられる「逆さいちょう」の起源となったいわれています。

さらに本堂裏山には楊枝杉と呼ばれた杉の木があり、 江戸期の書「続江戸砂子」には、
是は弘法大師廻国の時、やうしをさし給ふに、此杉七株わかれて大木となる。その梢に白き麻布の旗のことくなるもの一流ふりくたる。よって当所を麻布といふと也。そのゝち木奇端多くあるにより、天台の霊場とす。此杉はかれたるよし、一株もなし。▲此麻布の説、甚誤也。麻生の地名は、よく麻の生る地にて、布の事にはあらす。又麻茅生(あさじふ)といひて、草の浅々と生る地をいふとも云。これは浅生(あさふ)也。古来の御図帳には麻生と書しよし、古老申侍也。
麻布山善福寺 勅使門

とあり、「あざぶ」の語源となったと思われる「麻降る山」の伝説を残しています。しかし、この杉の木は残念ながら現存していません。
そして、もう一つの現存する麻布七不思議として柳の井戸も同寺内参道に残されています。

その後、麻布山善福寺は鎌倉後期の蒙古来襲時(文永の役-文永11(1274)年)に亀山天皇の勅使寺となり、それ以来善福寺の中門は「 勅使門」と呼ばれました。(昭和20年焼失1980(昭和55)年再建)。
 時代が下ると織田信長の本願寺攻めの際には本願寺に援軍を送り、 豊臣政権が誕生すると豊臣秀吉から所領を安堵されています。

そして江戸期には将軍家の庇護を受けたといわれ、初代将軍の徳川家康は、麻布山善福寺に天正19(1591)年11月付けで朱印を授け、 寺領の保護を誓約しました。 そして、この時の住職第14世堯海は家康と親しくしており、ある時家康が急に善福寺に立ち寄り銭十貫を求めたので直ちにこれに応じたことを代々伝え、 家康が将軍となった後も善福寺は毎年正月6日に十貫を納め、将軍家からそれに時服を添えて返礼されるのが徳川将軍家の正月正月行事となり慣わしとなります。

勅使門 解説板
その後二代秀忠、三代家光も善福寺を鷹狩りの途中などでたびたび訪問しますが、とりわけ家光と麻布の繋がりは深く、建築頭領の元締めである甲良豊後守に命じて本堂の建立を行わせていまする。 また、家光は善福寺の山号をこの寺のある麻布山の山形が亀に似ていることから 「亀子山」に改めさせ「亀子善福寺」としています。この山号は家光の死後再び「麻布山」に戻されますが、この時の山号変更の痕跡が境内の手水鉢と会館正面の額に残されています。
 そして、家康・秀忠・家光が鷹狩りのさいの休憩・昼食などに使用したといわれる境内の将軍家専用の茶屋は「栖仙亭」と名付けられ服部南郭撰文の「栖仙亭記」 にその名を残しています。

善福寺の本堂は昭和20年の空襲により消失していますが、再建された本堂は徳川家康が慶長12(1607)年に東本願寺八尾別院本堂として建立したもので、 東本願寺の御影堂としても使用されていたものを1960(昭和35)年に大阪から移築したそうです。

また麻布山善福寺オフィシャルサイトによると江戸期には麻布の他に善福寺池(杉並区)を奥の院、さらに江戸城虎ノ門を元は麻布山善福寺の山門としています。 また大田区西蒲田(荏原郡六郷領女塚村)近辺を寺領としていたとあり、当時の権勢が伺えます。

麻布氷川神社の元地(暗闇坂西面)から見た相対的な場所を町名として宮村、宮下、坂下などの各町が起立したのに対して、 東町、西町、山元、の各町は麻布山善福寺の門前町であり、やはり相対的な場所を町名として起立しました。

また、麻布区史によると逆さいちょうの下一帯と寺の背景斜面に貝殻と縄文土器、磨製石斧の出土を記しており、古来から人が住んでいた形跡を残しています。

著名人の墓域も多く麻布区史によると、 戦前は、
・車屋善八-宇喜多秀家の子孫で非人頭
・櫻井宗辿-江戸の儒者
・赤松沙鴎-松山候儒臣
・赤松太痩-沙鴎の子、儒者
・山田慥斎-儒者
・安見元道-幕府儒官
・勝川春英-浮世絵師
・勝川春好-浮世絵師遁世して善福寺に遇する
・松波筑後守-14代江戸南町奉行。弁天小僧を裁断。
・木下道圓-儒者
・木下杏林-道圓の子。儒者
などがあり、後には幕末に善福寺に頻繁に出入りしていた福沢諭吉の墓が移転してきます。 福沢諭吉は1901(明治34)年2月3日臨終を迎え、葬儀を8日に福沢家の菩提寺である善福寺で行ったのちに、諭吉が 生前自ら買い求めていた品川区大崎の本願寺(現在は常光寺)に埋葬されました。 その時の様子を「考証 福澤諭吉 下」では、
二月八日は、前日の末明から降り続き地上に真白に積もった雪も、朝あけとともに一天からりと 晴れ渡り、定刻までにほぼ乾いて、塵埃もおこらず却って好都合であった。

午後零時四十分、普通部生徒七百余名を先頭とし、幼稚舎生徒二百余名がこれに続き、葬送曲 を吹奏するラッパに歩調を整え、次は商業学校生徒三百余名、大学部学生三百五十名、いずれも 四列縦隊を組、これにつづいて大学部学生九名が交代で竹筒に挿んだ尺余の樒三対を持ち、導師 麻布超海以下僧侶五名いずれも黒染の法衣に徒歩で加わり、続いて香炉を捧持した 石川幹明、位牌を捧げた日原昌造、故福澤諭吉之柩と大書した銘旗を大学部学生がこれを捧持 し、次は諭吉の遺骸を納めた檜白木造、長さ七尺三寸・幅三尺一寸の簾輿、その蓮台の長さは四 間一尺、白丁五十人でこれを担ぎ、輿の周囲には小幡篤次郎、荘田平五郎以下塾員の長老がつきそい、 喪主福澤一太郎・捨次郎以下親戚の人々いずれもフロックコートを着用し、行列中一基の生花も造花も なく、また高声で談話する者も喫煙する者もなかったのは、沿道の人々を感動せしめたという。
~中略~
麻布山善福寺に到着したのは午後二時ごろで、葬儀焼香の終わったのは午後三時ごろ。
それか霊柩は埋葬地なる大崎村本願寺の墓地に向かった。幼稚舎生徒は善福寺かぎりで引き取る ことにしたが、その生徒たちは白金台町に達するや道の両側に整列し、哀悼のラッパとともに挙手 注目、脱帽または捧銃の敬礼をする中を、霊柩は粛々と通過し、本願寺の墓地に 埋葬の儀を完了したのは午後五時ごろであった。
と細かく伝えていますが、棺が自邸を出たのが午後12時40分で善福寺の到着が午後2時としているので 三田から麻布まで1時間20分をかけての、かなりゆっくりと進む葬列であったことがわかります。

時は下って1977(昭和52)年、諭吉の墓が常光寺より善福寺墓地に移設された際には、土葬であった事と偶然に水温の低い地下水に浸っていたため遺骸は埋葬時のままのほぼ完全な形で発掘されます。諭吉の遺骸を学術解剖や遺体保存の声もあったそうですが、 遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされました。現在常光寺には慶応義塾により建立された「福沢諭吉永眠の碑」が残されています。

諭吉の命日の2月3日は雪池忌と呼ばれ、現在も塾長以下学生、OBなど多くの慶應義塾関係者が墓参します。
また、同じ墓所入り口付近には越路吹雪のモニュメントもありますが、これは墓ではなく歌碑であり越路吹雪の墓は川崎市宮前区の本遠寺とのことです。

麻布山善福寺 開山堂

墓地内にある「開山堂」は真言宗の蔵王権現として中興の祖「了海上人」が蔵王権現の申し子とされていたために開かれました。そして、 麻布の地名の由来は諸説ありますが、「麻に布」で「あざぶ」と読むのはそれまで代官支配地で江戸郊外あった麻布各村が 町奉行支配となり「町」となって江戸に編入された江戸中期以降と思われます。これは善福寺の山号が その昔麻布山に麻が降ったことがあり、麻布留山(あさふるやま)と言ったのを後に略して麻布山と唱えたのが広まったことや 寺の住職が代々麻布姓を名乗っていることから来ているともいわれていますが、その根拠は明らかとなっていません。

善福寺には太平洋戦争当時の東部軍管区兵站部海軍燃料廠の感謝状が残されており、また宿坊も近衛四連隊・東部八部隊・六部隊の宿舎として徴発さ れたという。さらに寺横の斜面(昭和期に篠崎製菓があった裏手の斜面)から各方面に向けて本土決戦用の巨大な地下壕 が掘削されました。



開山堂 解説板
このように時代の支配者達からも認められた善福寺には、以下の文化財が保管されているといいます。(十番わがふるさとより)
1.鎌倉初期、了海上人の木像
2.北条氏直の文
3.豊臣秀吉の文
4.長尾景虎(上杉謙信)の文
5.弘法大師の名号
6.親鸞上人の名号
7.見真大師、真筆の軸
8.石山本願寺の旗
9.石器時代の斧

その他、善福寺は手塚治虫の「日だまりの樹」などにも登場し、幕末にアメリカ合衆国公使館となることとなりますが、ハリスの公使館については 次項で。












より大きな地図で 麻布の寺社 を表示

2013年3月23日土曜日

黒田清隆の妻殺し疑惑

のちの第2代総理大臣で、当時大久保利通に次ぐ薩摩閥の重鎮であった黒田清隆が陸軍中将を兼務した参議開拓長官だった頃の1878年(明治11年)3月28日、深夜に夫人の「清(きよ)」が逝去しました。葬儀は翌々日の30日に各大臣、皇族の代理なども参列して厳かに行なわれます。しかし、この荘厳な葬儀が終わるとすぐに清夫人は病死ではなく、夫の清隆に殺害されたという流言が飛び始めたそうです。この噂は以前から素面のときは豪快で闊達、しかし情にもろく温厚な一面も持つ清隆が、実は酒乱の癖があることからおこったといわれています。

3月28日の深夜、酩酊して麻布笄町(現港区立高陵中学あたり)の屋敷に戻った清隆は、妻の清から当時清隆が懇意にしていた芝神明の芸者との仲を恨んだ小言を散々聞かされます。そして、しばらくは小言を黙って聞いていたがいつまでたっても尽きない小言に逆上した清隆は、居間から日本刀を取り出すと袈裟懸けに妻を切り倒してしまった(別説には殴り殺したとも、蹴殺したともいわれています)。事の重大さから酔いも一遍に醒めてすぐに我に返った清隆は、妻の亡骸を抱いて号泣したそうです。そして物音に驚いて起き出した家人も凄惨な光景をみて肝をつぶしましたが、その中の家令が事の重大さを察して大警視川路利良に急報し、川路はすぐさま黒田邸にかけつけました。

かけつけた川路大警視は同じ薩摩閥の要人の窮境を救うために、清隆を慰撫すると融通のきく医者に病死の診断をさせ、また家人には厳重な緘口令をしき、清隆自身のアリバイ工作までして事件のもみ消しを図ったそうです。しかし、人の口に戸は立てられず、数日後には広く世間に噂されるようになってしまい顕官の横暴だと黒田批判が強まります。

この時思いがけない助けが入った。三田慶応義塾が発行する新聞「民間雑誌」明治11年4月4日号で、文中では匿名の一医生として福沢諭吉が「婦人養生の事」と題する記事を発表し内容は、日本の婦女子は屋外で活動する機会が少ないため身体の虚弱を招くと言う物で、さらに文中では、黒田夫人もこれが元で病死に至ったと断定し、更に事件当日急行した麻布の医師杉田玄端の子息である武氏の所見まで掲載しています。何故これほどまでして福沢諭吉が黒田清隆をかばったのかについては、確かな理由があったようです。

明治3年函館で榎本武揚が降伏した折、清隆は頭を丸めてまでして榎本の助命を嘆願しました。これは一般的には、榎本武揚率いる旧幕府軍の立て籠もる五稜郭を攻撃した際、榎本は日本の将来の為に黒田に「海律全書」を送り、この貴重な書物の紛失を避けたことで黒田は恩義を感じていたとされています。この返礼に黒田は、榎本に清酒5樽、鮪5本を送ったそうで、その時の使者であった箱館病院長であり適塾では福沢諭吉と同門であった高松凌雲の仲介により榎本は降伏し、五稜郭は開城されます。その後、黒田と榎本は厚い友情に結ばれた為とされますが、現実にはその裏に福沢諭吉から黒田清輝への強い嘆願があったためとされています。つまり榎本助命で清輝から受けた「借り」を福沢諭吉はこの件で返そうとしたと言う見方も出来ます。

しかし福沢の援護もむなしく、世評は相変わらず黒田批判一色でした。そしてそれまで言論統制によって沈黙を強いられていた新聞各紙を他所に風刺雑誌の「団団珍聞」4月13日号がポンチ絵で事件を風刺しました。政府はすぐにこの雑誌を発禁処分としますが、もはや世間では清輝の妻殺害は定説となってしまいました。

最後にこの薩摩閥の巨魁を救ったのはやはり川路大警視であったそうです。川路は世間の定説を無視出来なくなり、遂に青山に眠る黒田夫人の墓を発掘し、棺の蓋を少しだけ開けると「これは、病死である。」と断言してまた元どおりに埋めてしまいました。これにより世間の風評も収まり事件は解決しました。そして世間の目を逸らすように警察は府内で大々的に野鳥の捕獲に乗り出し、事件を一層遠い物としました。

しかし、それから2週間後の明治11年5月14日、紀尾井坂で大久保利通が暗殺されるという大事件が起こります。そして犯行後に自首してきた犯人達が持っていた斬奸状には、黒田清隆の妻殺しの一件が大久保利通断罪の一事由として掲げられていたそうです。


以下は黒田清隆の概略
1840年(天保11年)鹿児島城下で薩摩藩士黒田清行の長男として生まれる。
1863年(文久3年)の薩英戦争で初めて実戦に参加。
1868年(明治元年)鳥羽伏見の戦いに参戦。
1868年(明治元年)奥羽征討で、河井継之助の守る長岡城を山県有朋とともに攻略。
1869年(明治2年) 榎本武揚率いる旧幕府軍の立て籠もる五稜郭を攻撃。
1874年(明治10年)の西南戦争に従軍、鹿児島襲撃や熊本城の救援で功を挙げた。
1882年(明治22年) には、伊藤博文の禅譲を受け第2代総理大臣に就任。
1900年(明治33年)61歳で没。「今夜は熟睡しよう」と言って亡くなったという。

2013年3月22日金曜日

乃木希典余話-美人コンテスト

末広ヒロ子
以前、日ヶ窪にある長府毛利藩邸(現六本木ヒルズ)で誕生から幼年期を過ごした乃木将軍についてお知らせしましたが、今回はその続編ではなく余話としてのお話をご紹介します。

日露戦争で旅順要塞を陥落させ、1906年(明治39年)に凱旋帰国して軍事参議官に任ぜられた乃木は、翌1907年(明治40年)1月学習院院長となります。おりしもこの年には、日本で最初の美人コンテストが開かれました。これは、アメリカの新聞「シカゴ・トリビュ-ン」が世界の素人美人コンテストを企画し、日本代表を「時事新報」社に依頼したのがきっかけとなったといわれています。審査員は芸術家、歌舞伎役者、医者など13名で、岡田三郎助、高村光雲、中村芝翫、三島通良などが名を連ねました。

選考結果は翌年3月に発表され1位に輝いたのは、学習院女学部中等科3年の末広ヒロ子という女性でした。応募は本人が知らないうちに義兄がしたものであったといわれ、現代ならばさしずめシンデレラ・スト-リ-としてその後のスタ-への道を約束されたようなものですが、当時、しかも学習院であったことが災いしてしまいます。

コンテストの結果は世間で大評判となり、ほどなく学習院院長の乃木の耳に達します。すると、乃木は激怒したそうです。無骨の権化のような乃木は、学生に対して平素から「男は片仮名を使え、めめしい平仮名は使うな!」「男は弁当の風呂敷に、赤や綺麗な模様のものは使うな!」「学生の分際で腕時計は持つな!」「野球、テニスなど西洋のスポ-ツはするな!」などと言っていたので、美人コンテストなど認めるはずも無く、末広ヒロ子は即刻、退学処分となってしまったそうです。

こうして歴史に残るべき初代ミス日本は、失意のどん底に落とされてしまいます。
一方、2位に入選した金田ケン子(19歳)は末広ヒロ子と正反対に、発表から数日後に200通もの結婚の申し込みを受け、その父は手放しで喜んだといいます。

その後、「時事新報」は不幸なミス日本の入選を取り消そうとせず、末広ヒロ子の写真を「シカゴ・トリビュ-ン」に送りました。結果は、6位になったという説もありますが、実際は写真が届いたのが6番目ということらしく、順位は不明だそうです。

ここまでの話だと、頑固じいさんに葬り去られた悲劇の初代ミス日本という結末になってしまいますが、実はこの話には、後日談があります。

 乃木将軍の日露戦争当時の戦友に、野津道貫という元帥がいました。この元帥は侯爵でもあり、子供に鎮之助という大尉がいました。乃木はこの 鎮之助大尉に末広ヒロ子を娶らせ、自らが媒酌人となって仲介の労をとったそうです。乃木の真意がどこにあったかを示す文献は現存しませんが、この一件から乃木が、退学処分にした末広ヒロ子を気にかけていた事は間違いなく、また末広ヒロ子自身も結果的には「侯爵婦人」と呼ばれる身分になり得たために、「ハッピ-・エンド」といっても良いと思われる結果となりました。


2013年3月21日木曜日

東都新繁昌記の麻布

大正時代に刊行された「東都新繁昌記」を復刻した本を見つけました。その中の「虫聲(ちゅうせい)の麻布」という項に麻布七不思議が掲載されているのですが、大正の七不思議は今と違っていたらしく
  • 狸穴の婚礼
  • 大黒坂の猫股
  • 我善坊の大鼠
  • 谷町の遊女屋敷
  • 二本松の赤子
  • 白金御殿の一本足

など、どれも初耳です。しかし、残念ながら内容が記載されていないので、どのような話であったのかを確認することはできません。また「木賃宿」の項には当時三ノ橋、四ノ橋あたりの古川瑞に「夜鷹」が出没しその女性たちの表の仕事場として谷町の一膳飯屋、三連隊下のすし屋、竜土町の蕎麦屋などが記載されています。商談が成立すると四ノ橋辺の木賃宿に上がったそうです。

その他にも天文台、南部坂、新道路、麻布気分などの項目がありどれも現在進行形で書かれているので、大正期の麻布を満喫できます。
そして、同様の書に昭和3年発行の「大東京繁昌記」がありこちらは(飯倉付近)の項を島崎藤村が執筆し、(芝、麻布)を小山内薫か書いています。










2013年3月20日水曜日

イギリス公使館通弁、伝吉刺殺(其の二)漂流から帰国

漂流を始めてから53日目の嘉永3年12月21日(1851年1月22日)、賄方の安太郎は朝日を拝もうと船端に行くと西遠方に船を発見し、驚いて皆を呼んで手を振り救助を求めました。
しばらくすると、向こうの船でも栄力丸に気が付き、やがて近づいてボ-トをおろして17名全員が救助されました。

彼らを救助したのはアメリカの帆船「オ-クランド号(乗員11名)」で、43日かけて嘉永4年2月3日(1851年3月5日)サンフランシスコに入港します。その後、栄力丸乗組員たちは税関用船ポ-ク号の作業員となり約1年間を過します。その間生活必需品はすべて供与され、健康のためサンフランシスコへの上陸、市内見物も許可されます。しかし望郷の念から帰国の希望を役人に伝え善処を約束されたが、当時日本は鎖国中でアメリカと国交を結んでいませんでした。

 嘉永5年2月21日(1852年3月31日)、遂に念願がかない帰国の許可が合衆国政府からおりた一行17名は、軍艦「セントメリ-号」で帰国の途につきます。合衆国政府の意向では一行をまず香港に送り、そこでペリ-の日本遠征艦隊に同行させるつもりであったようです。

嘉永5年閏2月14日(1982年4月3日)補給のためハワイ島ヒロ湾に投錨し、入港直前かねてから診療を受けていた船頭の万蔵が病死したので「南無阿弥陀仏日本万蔵」と記した板を墓標にハワイ島の共同墓地に葬ります。投錨後9日目に再び出港したセントメリ-号が香港入港したのは嘉永5年4月2日(1852年5月20日)であったそうです。
嘉永5年4月2日(1852年5月20日)香港に到着し、アメリカ東インド艦隊の旗艦「サスケハナ号」(2,450トン、乗員300名)に移乗した一行16名はその船で約半年を過ごしましたが、次作、彦太郎(彦蔵)、亀蔵の3人はアメリカに戻る事になります。これ以降の3人については作家の吉村 昭氏の「アメリカ彦蔵」を参照してください。余談ですが、サスケハナ号は後年黒船艦隊ペリー提督の乗船する旗艦として浦賀に来港します。

13人になった一行は中国内を何度か往復し、その間山賊に遭ったり他の日本人漂流者(乙吉、力松)らと出会ったりしましたが、生活の場は サスケハナ号でした。しかし一行はアメリカ軍艦で帰国すると、アメリカの手先になり軍艦を日本に導いたと幕府に思われる事を恐れ、嘉永6年3月1日(1853年4月8日)、元炊方の仙太郎を残し、12名が艦長から暇を取りつけ下船しました。

 下船した12名は、上海にあるデント商会の番頭格で日本人の乙吉の家に身を落ち着けます。そして乙吉の好意でデント商会に職を得ましたが、アメリカの日本遠征艦隊のミシシッピ号が上海に入港し再び彼らを連れ戻そうとしたので、嘉永6年4月21日(1853年5月27日)一行は約100キロ離れた乍浦(チ-フ-)に向かいます。
乍浦到着後に現地の役人から通訳・付き添いなどが付けられ生活を始めましたが、外出は自由ではなかったようです。ここからは長崎へ往復する船が出ているため一行はチャンスを待ちました。

年が変わって嘉永7年2月21日(1854年3月20日)、伝吉は置き手紙をして突然一行の前から姿を消してしまいます。理由は一向に帰国の許可が下りず、食事も合わないのでこのままでは病気になると思い、どこでもよいから安住の地を見つけるためと書き置きにあったそうです。
しかし、皮肉な事に6月になると役所から帰国の許可がおり、嘉永7年7月10日(1854年8月3日)伝吉を残した一行11名は中国船源宝号で帰国の途に就きました。そして27日(8月20日)念願の長崎に到着します。

 一行と別れてからの伝吉の事は、あまり判っていないようです。上海に戻ったのち那覇をへて再びホンコンに行き、ここでペリ-の率いるアメリカ軍艦に乗船を請い許されます。船員達からDan-Ketchと呼ばれた伝吉は非常な才能と熱心な知識欲を見せ、ペリ-からも保護を受け可愛がられました。

アメリカ到着後の行動はまったく分からないようですが、その後再び香港に渡りそこでオ-ルコックと知り合って駐日イギリス公使館付け通訳官という英国外交官随行員の地位を得ます。そして安政6年6月26日(1859年5月26日)、イギリス公使オ-ルコックを乗せた軍艦サンプソン号が江戸に到着すると、その随員の一人として英国籍を手に入れた伝吉が乗船していました。

攘夷の嵐が吹き荒れる日本を約10年ぶりに見た彼はどう思ったでしょう。江戸到着からわずか7ヶ月で刺殺された彼は、その短い間にすっかり日本人から嫌われたそうです。これは驕慢な性格(永い放浪生活で培われた?)からといわれるようですが、もう一つ外国役人に素人娘のラシャメンを斡旋する仲介を行ったため日本人女性を夷狄に売り渡す売国奴として嫌われたともいわれています。

伝吉は三田の口入れ屋「三田屋」、「田原屋」、「町田屋」などに異人館に奉公する娘を探す事を依頼し、三田の蕎麦屋「鶴寿菴」の娘お花、本芝妙法院の娘お香乃の2人を見つけ出します。
2人とも道楽娘のうわさがあり又両家とも金銭的に窮乏していたので、話はすぐにまとまります。しかし、ラシャメンになる事を愚痴ったお花の言葉が、彼女に恋心を抱いていた野州浪人桑島三郎の耳に入り、激怒した桑島三郎が伝吉に天誅を加える目的で殺害したといわれています。

伝吉の死後(文久元年5月28日、1861年7月5日)水戸の浪士らがイギリス公使館を襲撃した際(第一次東禅寺襲撃事件)、若い娘の斬殺された死体が二つ見つかります。そして、この死体はおそらくお花とお香乃ではないかといわれています。







幕末の攘夷事件
西 暦和 暦事 件場 所備 考
1858年7月29日安政五年
六月十九日
日米修好通商条約締結
1859年7月4日安政六年
六月五日
神奈川開港
1859年7月7日安政六年
六月八日
アメリカ公使館が麻布山善福寺に開設
1859年8月4日安政六年
七月六日
シーボルトが二度目の来日。長男アレクサンダーと共に長崎に到着
1859年8月25日安政六年
七月二七日
ロシア海軍軍人殺害横浜波止場海軍少尉ロマン・モフェトと水兵イワン・ソコロフおよび1人のまかない係が水戸天狗党に襲撃される。外国人殺害事件の始まり
1859年11月5日安政六年
十月十一日
フランス領事館従僕殺害横浜外国人居留地フランス副領事ジョゼ・ルーレイロの中国人従僕が洋服を着ていたため西洋人と間違われ殺害
1860年1月29日安政七年
一月七日
伝吉刺殺東禅寺英国公使館漂流漁民からイギリスに帰化し、オールコックと来日した通訳の伝吉が公使館門前で刺殺
1860年3月24日安政七年
三月三日
桜田門外の変江戸城桜田門外大老井伊直弼暗殺
1861年1月14日万延元年
十二月四日
ヒュースケン暗殺麻布中の橋際馬上で襲撃される
1861年6月18日文久元年
五月二十一日
シーボルトが長男アレクサンダーと共に江戸に到着し赤羽接遇所に滞在
1861年6月19日文久元年
五月二十二日
シーボルトが麻布山善福寺アメリカ公使館のハリスを訪問後に光林寺でヒュースケン、伝吉の墓参り
1861年7月5日文久元年
五月二十八日
第1次東禅寺事件東禅寺英国公使館水戸浪士14名が江戸高輪東禅寺のイギリス公使館を襲撃
1862年2月13日文久二年
一月十五日
坂下門外の変江戸城坂下門尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正を襲撃し負傷
1862年6月26日文久二年
五月二十九日
第二次東禅寺事件東禅寺英国公使館東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺した事件
1862年9月14日文久二年
八月二十一日
生麦事件横浜近くの生麦村島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人4人に対し、供回りの藩士が斬りつけ、チャールス・リチャードソンが死亡、ウッドソープ・クラークとウィリアム・マーシャルの2名が重傷を負った。この賠償交渉がもつれ、薩英戦争が勃発した。
1863年1月31日文久二年
十二月十二日
英国公使館焼き討ち御殿山隊長:高杉晋作、副将:久坂玄瑞、火付け役:井上聞多、伊藤俊輔、寺島忠三郎、護衛役:品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵、斬捨役:赤根武人、白井小助など
1863年5月23日文久三年
四月六日
麻布山善福寺で不審火麻布山善福寺攘夷派浪士の付け火とおもわれる火事が発生。庫裡、書院などが焼失するも公使館員に被害なし。
1863年5月30日文久三年
四月十三日
清河八郎暗殺麻布一の橋際幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名により暗殺
1863年6月25日文久三年
五月十日
馬関海峡封鎖砲撃馬関海峡幕府が調停に対して設定した攘夷期限。長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中の米仏蘭艦船に対して無通告で砲撃を加えた
1863年8月文久三年
七月
F.ベアトがスイス使節団の臨時随行員として江戸市中を撮影し、麻布辺も撮影する。
1863年8月15日文久三年
七月二日
薩英戦争勃発















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2013年3月19日火曜日

イギリス公使館通弁、伝吉刺殺(其の一)


1863年の東禅寺門前
幕末イギリスの公使館となった高輪の東禅寺門前で、安政七(1860)年正月7日、イギリス国籍の日本人からイギリス国籍を取得した帰化人であるイギリス公使館付け通訳官の「伝吉」が殺害されました。

その日の午後、イギリス公使オルコックはアメリカ公使ハリスを見舞い、公使館のある高輪東禅寺の自室に戻るとロ-バック号艦長マ-チン大佐が、

「通訳が重傷を負って運ばれてくる」

と告げます。
戸板で運ばれてきた伝吉は虫の息で、傷を調べようと服を脱がした時息を引き取ったそうです。
この日は日曜日『陽暦1860年1月29日(日)』で伝吉は、公使館前の家の戸口に寄りかかり子供などが遊ぶのを見ていました。その時背後から2人の編み笠をかぶった武士が近づき、伝吉の背中に短刀を突き刺します。伝吉は突き刺されたまま門番の所までよろよろ歩くと、驚いた門番はすぐに短刀を引き抜きました。しかし伝吉の傷は深く、切っ先が胸から突き出すほど深く刺さり、伝吉はそのまま倒れます。

現在の東禅寺
この事件をオルコックは本国のラッセル外相に急送公文書で、事件の経緯と殺害は私怨によるものと書いています。この私怨とは、短気、高慢の上自らをイギリス人と称した事と市中で度々問題をおこし、解雇された元イギリス公使館調理長なども常々その高慢さから、

「彼は誰かに殺されるだろう」

といっていました。また副業でラシャメン(外人の妾)を斡旋していたともいわれ、これらの事により日本人にたいそう怨まれていたそうです。

このように日本人に恨まれたあげく殺害されてしまった伝吉の葬儀は、一月十日麻布光林寺で各国公使館員、外国奉行2名らの会葬で行われ、同寺に埋葬されました。そして彼が埋葬されてから1年後、同じ墓地にヒュ-スケンも埋葬される事にまります。

そもそも、10年近く外国を流浪してやっと帰国した日本でその後七ヶ月で暗殺されてしまった伝吉は、摂津国大石村松屋八三郎の持船「栄力丸」(1,600石)の賄方でした。
この船は嘉永三(1850)年に酒、砂糖、荒物などを江戸に運び、帰途浦賀で大豆、あずき、小麦、くるみ、鰯粕などを積み入れ志摩国大王崎に達します。
しかし、10月29日の夜半から風雨が激しくなり西方に流されたため、船中の物は相談の上帆柱を切り捨て、乗員は全員髪を切り神仏にすがります。
11月1日風が西風に変わり、船は12月4日まで東南の方向に漂流します。積み荷が米穀であったため食糧の心配は当分ありありませんでしたが、薪、水 味噌、醤油などが残り少なくなってきました。そしてこの船は、アメリカ帆船オ-クランド号に発見されるまでの53日間に9回の暴風雨に遭い その内3回は大暴風雨であったそうです。この「栄力丸」乗員17名の詳細は以下。








「栄力丸」乗員17名の詳細
No.名 前年 齢生 国そ の 後
1船頭万蔵60歳播州加古郡
宮西村
サンフランシスコからハワイ島に向かう船中で病死。同島に埋葬。
2舵取長助49歳摂州八部郡
神戸
帰国。
3賄方浅五郎34歳播州西本庄帰国。
4甚八36歳帰国。
5幾松37歳摂州八部郡
神戸
帰国。
6喜代蔵32歳播州東本庄帰国。
7清太郎28歳播州西本庄帰国。
8徳兵衛29歳備中浅口郡
勇崎村
帰国。
9京助31歳讃州安治浜長崎到着後揚り屋にて病死。
10次作27歳播州西本庄広東の金星門からアメリカ蒸気艦サスケハナ号でアメリカへ。
11安太郎26歳播州加古郡
宮西村
浙江省平湖の乍浦より帰国の途次、薩州樺島沖にて病死し、長崎大音寺に埋葬。
12民蔵26歳伊予国岩木浦帰国。
13亀蔵22歳芸州因之島
むくみ浦
広東の金星門からアメリカ蒸気艦サスケハナ号でアメリカへ。
14伝吉22歳紀州加茂郡塩津浙江省平湖の乍浦より出奔。のちイギリス公使館通弁。
15炊方仙太郎18歳芸州瀬戸田上海にてサスケハナ号に一人とどまる。のちの「サム・パッチ」
16茶汲彦太郎15歳播州東本庄広東の金星門からアメリカ蒸気艦サスケハナ号でアメリカへ。のちの「ジョセフ・ヒコ」(浜田 彦蔵)。
17表方利七27歳伯州長瀬村帰国。




この船には後にジョセフ・ヒコと呼ばれることとなる浜田 彦蔵も茶汲みとして乗船しており、やがて共に苦難を経験をすることとなります。





伝吉、ヒュースケンなどが眠る慈眼山 光林寺













伝吉墓碑 正面







墓碑正面文面(英語)


 

墓碑裏面 戒名



 
墓碑裏面の戒名

 







伝吉と同じ栄力丸で遭難し苦難の末帰国した
ジョセフ・ヒコこと浜田 彦蔵の墓
(青山墓地内・外人墓地)
 















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2013年3月18日月曜日

光福寺の大いちょう

しながわの昔ばなし
前回お伝えした品川区大井の古刹光福寺の大銀杏は、高さ40メ-トル、幹廻り7メ-トルもあり、明治の頃までは出漁した漁師たちの航行の目印として使われていたそうです。つまり、現代の灯台の代わりとして漁師に利用されていました。

この大いちょうにまつわる昔話が残されており、「しながわの昔ばなし」という書籍に掲載されています。今回はその光福寺の大銀杏にまつわる昔話をお伝えします。


むかし、むかし、この寺の庭の手入れをしていた植木職人の親方が、あまりにも伸びすぎたイチョウの枝をおろそうと思い、弟子に声をかけました。


「おい、お前、その仕事が済んだら、あのイチョウの枝をおろせ!」
「親方、それはいけませんや!」
「どうしてだ!」
「私の爺さんが、光福寺の大イチョウは、祟りがあるからさわるな!と良く言ってました。」

光福寺の大いちょう
 「わしも聞いてはいるが、いちいち怖がってたら、植木屋なんかつとまるか。そんなバカな事があるものか!」とどなりました。
「そう言われれば、そうですね。」と言って、
弟子は、その日の夕方、はしごをかけて大イチョウに上りました。南の方に伸びている大きい枝を切ろうとして、
のこぎりを枝の中程に当て差し込んだ時です。
どうしたはずみか、足をすべらせて、ずしんと地面に落ちてしまいました。
親方をはじめ、寺男や小僧たちがかけつけて介抱すると、気を失っていた弟子は、やっと気がついて目を開けました。

「あっ、よかった。気がついて。」
「おい、しっかりしろ!」
「大丈夫か?」
と、口々に声をかけましたが、気がついた弟子は、あたりをきょろきょろと見回しているだけで、一言も言葉を発しません。
「どうした、わかっているのか?」
「しっかりするんだ!」
そのうちに弟子は、「あ-、あ-。」と言い出しました。
いちょうと解説板
「どうしたんだ、何とか言えよ!」
「あ-、あ-。」
弟子は、ただ「あ-、あ-。」と言うだけで、言葉は一言も話せなくなってしまったのです。

その翌日、うらめしそうにイチョウの木を見つめている植木屋の親方に、「親方、仕事が済みましたら、お茶でもいれましょう。」と、寺男の爺さんが声をかけました。
「ありがとう......」
「どうしました、イチョウの木を眺めて。」
「だって、いまいましいじゃないか、昨日は若い者が落ちて、口がきけなくなってしまった。」
「昔から、この大イチョウには、はさみを入れない事になっていますんで........」
「祟りがある。そんなバカな事があるものか、木が切れない植木屋じゃ仕方ない。よし、わしが枝をおろしてやる!」
「親方、危ないからおよしなさい。」
「何が危ないんだ!四十何年、木と言う木を切り、高い所へ登りつけているわしだ。木の上は、地上と同じだ!」
「人の止める事は、やめるもんですぜ。ねっ、親方。」
「言い出したら後へは引かない俺だ。若い者は、修行が足りないんだ。わしの腕前を見せてやる。」

いくら寺男の爺さんが止めても、言う事を聞かず、親方は、はしごを登り始めました。

昨日弟子が登った枝より、もう2つ上の高い枝に登って、長く伸びた枝にのこぎりを立てた時です。
いきなりもんどり打って、マッサカさまに落ちて、庭石に頭を打ち付けたからたまりません。
親方は、そのまま息が絶えてしまいました。


それからは、この大イチョウには、誰一人として刃物を加える者がいないので、思う存分に枝を伸ばし、樹齢をかさねています。 














 
 
 
 
 
 
 
 






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2013年3月17日日曜日

了海上人と大井山光福寺

大井山光福寺
麻布山善福寺の中興の祖といわれる了海上人は、品川区大井で生まれとされていますが、その場所は私の住まいの比較的近くにある事を最近になって知りました。

品川歴史館(品川区大井)の裏手に「光福寺」という寺があります。その寺は延暦元(782)年顕教房栄順律師の開創といわれ、当時は天台宗の寺で「薬王神宮寺」と称していたそうです。しかし元久兵乱で失脚して土地の豪族紀実経の庇護を受けた頭中将光政(東国に流されていた鳥羽院の皇胤左大臣信光の嫡男)と紀実経の娘(一説には滋野井宰相の女とも?)の間に生まれた「松丸」は8歳で剃髪し、長じて比叡山に上り浄栄僧都の門に入って修行し、帰国後親鸞上人の弟子となって「了海」と改めます。
了海は祖父である実経から寄進を受けた土地にある薬王神宮寺を真宗に改め「大井山光福寺」と改称します。この「光福」とは父、頭中将光政も親鸞の門に入って「空範」と号したので、元の名をとって寺号としたそうです。

大井山と書かれた山門をくぐると大きな銀杏の木があります。この木は麻布山善福寺の 逆さ銀杏の枝を了海上人がこの地に植えたものが大木となったといわれ、幹周りが6.25メ-トルもある大樹で品川区の保護樹と指定されています。

この樹には面白いことに樹皮を煎じて飲むと乳の出が良くなる。という言伝えが麻布山善福寺と全く同一であり、また墓地には「開基了海上人産湯井」と書かれた石碑が建っている。了海上人の父、頭中将光政は子が無いために日常蔵王権現に子授けを祈願したところ、妻が身ごもって了海上人を生んだ。この了海出生の際、住持覚律師は夢でこの井戸を知らされ、行ってみると水が自然に湧き出していたという伝説があります。

健保元(1213)年6月15日[史実では延応元年(1239年)とも?]、この井戸水で産湯を使った「松丸」こと了海上人が生まれます。この井戸から近隣の地域を「大井」と呼ぶようになり、山号も「大井山」と称する様になったと伝えられています。そして文永2年(1265年)了海上人はこの寺を浄土真宗に改め、その後同寺を父の空範に託し麻布山善福寺に入りました。後に関東六老僧といわれるまでになったなった了海上人は、再び京都に赴き仏光寺四世となり、元応2年(1320年)正月28日、82歳で没することとなります。
逆さ銀杏の兄弟樹

光福寺門前の狭い道は古東海道と言われ高輪-居木橋から新井宿、矢口に通じていて寺の近辺は、大井の行政の中心であったといわれています。また江戸時代には付近に札場(お触れ、規則を書いた高札場)があったそうです。


この光福寺の井戸からついた「大井」という地名は了海上人が生まれなければ存在しない名称であったともいえます。また大井氏(紀実直の次男実春が大井氏を名乗る。)、品川氏(紀実直の三男清実が品川氏を名乗る。)も共に当然「紀氏」であり、当然了海上人との関わりもあったと思われます。





江戸名所図絵には、
 「この地は麻布山善福寺の中興の了海上人の旧跡なり。当寺に桜の老樹ありて春時奇観たり。了海上人産湯の井、寺の後楽にあり。」とある。

そして、新編武蔵風土記稿には、
「大井跡。客殿の北の方山腹に在り。横に深き穴なり。或書に云。この井は大いなる穴にて臨むもの目くるめくとあり。今はうづもれて穴の径六七尺もあるべし。」とある。 
銀杏解説板














  






大井の語源となる井戸「大井の井」












大井の井解説板










  


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