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2013年3月20日水曜日

イギリス公使館通弁、伝吉刺殺(其の二)漂流から帰国

漂流を始めてから53日目の嘉永3年12月21日(1851年1月22日)、賄方の安太郎は朝日を拝もうと船端に行くと西遠方に船を発見し、驚いて皆を呼んで手を振り救助を求めました。
しばらくすると、向こうの船でも栄力丸に気が付き、やがて近づいてボ-トをおろして17名全員が救助されました。

彼らを救助したのはアメリカの帆船「オ-クランド号(乗員11名)」で、43日かけて嘉永4年2月3日(1851年3月5日)サンフランシスコに入港します。その後、栄力丸乗組員たちは税関用船ポ-ク号の作業員となり約1年間を過します。その間生活必需品はすべて供与され、健康のためサンフランシスコへの上陸、市内見物も許可されます。しかし望郷の念から帰国の希望を役人に伝え善処を約束されたが、当時日本は鎖国中でアメリカと国交を結んでいませんでした。

 嘉永5年2月21日(1852年3月31日)、遂に念願がかない帰国の許可が合衆国政府からおりた一行17名は、軍艦「セントメリ-号」で帰国の途につきます。合衆国政府の意向では一行をまず香港に送り、そこでペリ-の日本遠征艦隊に同行させるつもりであったようです。

嘉永5年閏2月14日(1982年4月3日)補給のためハワイ島ヒロ湾に投錨し、入港直前かねてから診療を受けていた船頭の万蔵が病死したので「南無阿弥陀仏日本万蔵」と記した板を墓標にハワイ島の共同墓地に葬ります。投錨後9日目に再び出港したセントメリ-号が香港入港したのは嘉永5年4月2日(1852年5月20日)であったそうです。
嘉永5年4月2日(1852年5月20日)香港に到着し、アメリカ東インド艦隊の旗艦「サスケハナ号」(2,450トン、乗員300名)に移乗した一行16名はその船で約半年を過ごしましたが、次作、彦太郎(彦蔵)、亀蔵の3人はアメリカに戻る事になります。これ以降の3人については作家の吉村 昭氏の「アメリカ彦蔵」を参照してください。余談ですが、サスケハナ号は後年黒船艦隊ペリー提督の乗船する旗艦として浦賀に来港します。

13人になった一行は中国内を何度か往復し、その間山賊に遭ったり他の日本人漂流者(乙吉、力松)らと出会ったりしましたが、生活の場は サスケハナ号でした。しかし一行はアメリカ軍艦で帰国すると、アメリカの手先になり軍艦を日本に導いたと幕府に思われる事を恐れ、嘉永6年3月1日(1853年4月8日)、元炊方の仙太郎を残し、12名が艦長から暇を取りつけ下船しました。

 下船した12名は、上海にあるデント商会の番頭格で日本人の乙吉の家に身を落ち着けます。そして乙吉の好意でデント商会に職を得ましたが、アメリカの日本遠征艦隊のミシシッピ号が上海に入港し再び彼らを連れ戻そうとしたので、嘉永6年4月21日(1853年5月27日)一行は約100キロ離れた乍浦(チ-フ-)に向かいます。
乍浦到着後に現地の役人から通訳・付き添いなどが付けられ生活を始めましたが、外出は自由ではなかったようです。ここからは長崎へ往復する船が出ているため一行はチャンスを待ちました。

年が変わって嘉永7年2月21日(1854年3月20日)、伝吉は置き手紙をして突然一行の前から姿を消してしまいます。理由は一向に帰国の許可が下りず、食事も合わないのでこのままでは病気になると思い、どこでもよいから安住の地を見つけるためと書き置きにあったそうです。
しかし、皮肉な事に6月になると役所から帰国の許可がおり、嘉永7年7月10日(1854年8月3日)伝吉を残した一行11名は中国船源宝号で帰国の途に就きました。そして27日(8月20日)念願の長崎に到着します。

 一行と別れてからの伝吉の事は、あまり判っていないようです。上海に戻ったのち那覇をへて再びホンコンに行き、ここでペリ-の率いるアメリカ軍艦に乗船を請い許されます。船員達からDan-Ketchと呼ばれた伝吉は非常な才能と熱心な知識欲を見せ、ペリ-からも保護を受け可愛がられました。

アメリカ到着後の行動はまったく分からないようですが、その後再び香港に渡りそこでオ-ルコックと知り合って駐日イギリス公使館付け通訳官という英国外交官随行員の地位を得ます。そして安政6年6月26日(1859年5月26日)、イギリス公使オ-ルコックを乗せた軍艦サンプソン号が江戸に到着すると、その随員の一人として英国籍を手に入れた伝吉が乗船していました。

攘夷の嵐が吹き荒れる日本を約10年ぶりに見た彼はどう思ったでしょう。江戸到着からわずか7ヶ月で刺殺された彼は、その短い間にすっかり日本人から嫌われたそうです。これは驕慢な性格(永い放浪生活で培われた?)からといわれるようですが、もう一つ外国役人に素人娘のラシャメンを斡旋する仲介を行ったため日本人女性を夷狄に売り渡す売国奴として嫌われたともいわれています。

伝吉は三田の口入れ屋「三田屋」、「田原屋」、「町田屋」などに異人館に奉公する娘を探す事を依頼し、三田の蕎麦屋「鶴寿菴」の娘お花、本芝妙法院の娘お香乃の2人を見つけ出します。
2人とも道楽娘のうわさがあり又両家とも金銭的に窮乏していたので、話はすぐにまとまります。しかし、ラシャメンになる事を愚痴ったお花の言葉が、彼女に恋心を抱いていた野州浪人桑島三郎の耳に入り、激怒した桑島三郎が伝吉に天誅を加える目的で殺害したといわれています。

伝吉の死後(文久元年5月28日、1861年7月5日)水戸の浪士らがイギリス公使館を襲撃した際(第一次東禅寺襲撃事件)、若い娘の斬殺された死体が二つ見つかります。そして、この死体はおそらくお花とお香乃ではないかといわれています。







幕末の攘夷事件
西 暦和 暦事 件場 所備 考
1858年7月29日安政五年
六月十九日
日米修好通商条約締結
1859年7月4日安政六年
六月五日
神奈川開港
1859年7月7日安政六年
六月八日
アメリカ公使館が麻布山善福寺に開設
1859年8月4日安政六年
七月六日
シーボルトが二度目の来日。長男アレクサンダーと共に長崎に到着
1859年8月25日安政六年
七月二七日
ロシア海軍軍人殺害横浜波止場海軍少尉ロマン・モフェトと水兵イワン・ソコロフおよび1人のまかない係が水戸天狗党に襲撃される。外国人殺害事件の始まり
1859年11月5日安政六年
十月十一日
フランス領事館従僕殺害横浜外国人居留地フランス副領事ジョゼ・ルーレイロの中国人従僕が洋服を着ていたため西洋人と間違われ殺害
1860年1月29日安政七年
一月七日
伝吉刺殺東禅寺英国公使館漂流漁民からイギリスに帰化し、オールコックと来日した通訳の伝吉が公使館門前で刺殺
1860年3月24日安政七年
三月三日
桜田門外の変江戸城桜田門外大老井伊直弼暗殺
1861年1月14日万延元年
十二月四日
ヒュースケン暗殺麻布中の橋際馬上で襲撃される
1861年6月18日文久元年
五月二十一日
シーボルトが長男アレクサンダーと共に江戸に到着し赤羽接遇所に滞在
1861年6月19日文久元年
五月二十二日
シーボルトが麻布山善福寺アメリカ公使館のハリスを訪問後に光林寺でヒュースケン、伝吉の墓参り
1861年7月5日文久元年
五月二十八日
第1次東禅寺事件東禅寺英国公使館水戸浪士14名が江戸高輪東禅寺のイギリス公使館を襲撃
1862年2月13日文久二年
一月十五日
坂下門外の変江戸城坂下門尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正を襲撃し負傷
1862年6月26日文久二年
五月二十九日
第二次東禅寺事件東禅寺英国公使館東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺した事件
1862年9月14日文久二年
八月二十一日
生麦事件横浜近くの生麦村島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人4人に対し、供回りの藩士が斬りつけ、チャールス・リチャードソンが死亡、ウッドソープ・クラークとウィリアム・マーシャルの2名が重傷を負った。この賠償交渉がもつれ、薩英戦争が勃発した。
1863年1月31日文久二年
十二月十二日
英国公使館焼き討ち御殿山隊長:高杉晋作、副将:久坂玄瑞、火付け役:井上聞多、伊藤俊輔、寺島忠三郎、護衛役:品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵、斬捨役:赤根武人、白井小助など
1863年5月23日文久三年
四月六日
麻布山善福寺で不審火麻布山善福寺攘夷派浪士の付け火とおもわれる火事が発生。庫裡、書院などが焼失するも公使館員に被害なし。
1863年5月30日文久三年
四月十三日
清河八郎暗殺麻布一の橋際幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名により暗殺
1863年6月25日文久三年
五月十日
馬関海峡封鎖砲撃馬関海峡幕府が調停に対して設定した攘夷期限。長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中の米仏蘭艦船に対して無通告で砲撃を加えた
1863年8月文久三年
七月
F.ベアトがスイス使節団の臨時随行員として江戸市中を撮影し、麻布辺も撮影する。
1863年8月15日文久三年
七月二日
薩英戦争勃発















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2013年3月19日火曜日

イギリス公使館通弁、伝吉刺殺(其の一)


1863年の東禅寺門前
幕末イギリスの公使館となった高輪の東禅寺門前で、安政七(1860)年正月7日、イギリス国籍の日本人からイギリス国籍を取得した帰化人であるイギリス公使館付け通訳官の「伝吉」が殺害されました。

その日の午後、イギリス公使オルコックはアメリカ公使ハリスを見舞い、公使館のある高輪東禅寺の自室に戻るとロ-バック号艦長マ-チン大佐が、

「通訳が重傷を負って運ばれてくる」

と告げます。
戸板で運ばれてきた伝吉は虫の息で、傷を調べようと服を脱がした時息を引き取ったそうです。
この日は日曜日『陽暦1860年1月29日(日)』で伝吉は、公使館前の家の戸口に寄りかかり子供などが遊ぶのを見ていました。その時背後から2人の編み笠をかぶった武士が近づき、伝吉の背中に短刀を突き刺します。伝吉は突き刺されたまま門番の所までよろよろ歩くと、驚いた門番はすぐに短刀を引き抜きました。しかし伝吉の傷は深く、切っ先が胸から突き出すほど深く刺さり、伝吉はそのまま倒れます。

現在の東禅寺
この事件をオルコックは本国のラッセル外相に急送公文書で、事件の経緯と殺害は私怨によるものと書いています。この私怨とは、短気、高慢の上自らをイギリス人と称した事と市中で度々問題をおこし、解雇された元イギリス公使館調理長なども常々その高慢さから、

「彼は誰かに殺されるだろう」

といっていました。また副業でラシャメン(外人の妾)を斡旋していたともいわれ、これらの事により日本人にたいそう怨まれていたそうです。

このように日本人に恨まれたあげく殺害されてしまった伝吉の葬儀は、一月十日麻布光林寺で各国公使館員、外国奉行2名らの会葬で行われ、同寺に埋葬されました。そして彼が埋葬されてから1年後、同じ墓地にヒュ-スケンも埋葬される事にまります。

そもそも、10年近く外国を流浪してやっと帰国した日本でその後七ヶ月で暗殺されてしまった伝吉は、摂津国大石村松屋八三郎の持船「栄力丸」(1,600石)の賄方でした。
この船は嘉永三(1850)年に酒、砂糖、荒物などを江戸に運び、帰途浦賀で大豆、あずき、小麦、くるみ、鰯粕などを積み入れ志摩国大王崎に達します。
しかし、10月29日の夜半から風雨が激しくなり西方に流されたため、船中の物は相談の上帆柱を切り捨て、乗員は全員髪を切り神仏にすがります。
11月1日風が西風に変わり、船は12月4日まで東南の方向に漂流します。積み荷が米穀であったため食糧の心配は当分ありありませんでしたが、薪、水 味噌、醤油などが残り少なくなってきました。そしてこの船は、アメリカ帆船オ-クランド号に発見されるまでの53日間に9回の暴風雨に遭い その内3回は大暴風雨であったそうです。この「栄力丸」乗員17名の詳細は以下。








「栄力丸」乗員17名の詳細
No.名 前年 齢生 国そ の 後
1船頭万蔵60歳播州加古郡
宮西村
サンフランシスコからハワイ島に向かう船中で病死。同島に埋葬。
2舵取長助49歳摂州八部郡
神戸
帰国。
3賄方浅五郎34歳播州西本庄帰国。
4甚八36歳帰国。
5幾松37歳摂州八部郡
神戸
帰国。
6喜代蔵32歳播州東本庄帰国。
7清太郎28歳播州西本庄帰国。
8徳兵衛29歳備中浅口郡
勇崎村
帰国。
9京助31歳讃州安治浜長崎到着後揚り屋にて病死。
10次作27歳播州西本庄広東の金星門からアメリカ蒸気艦サスケハナ号でアメリカへ。
11安太郎26歳播州加古郡
宮西村
浙江省平湖の乍浦より帰国の途次、薩州樺島沖にて病死し、長崎大音寺に埋葬。
12民蔵26歳伊予国岩木浦帰国。
13亀蔵22歳芸州因之島
むくみ浦
広東の金星門からアメリカ蒸気艦サスケハナ号でアメリカへ。
14伝吉22歳紀州加茂郡塩津浙江省平湖の乍浦より出奔。のちイギリス公使館通弁。
15炊方仙太郎18歳芸州瀬戸田上海にてサスケハナ号に一人とどまる。のちの「サム・パッチ」
16茶汲彦太郎15歳播州東本庄広東の金星門からアメリカ蒸気艦サスケハナ号でアメリカへ。のちの「ジョセフ・ヒコ」(浜田 彦蔵)。
17表方利七27歳伯州長瀬村帰国。




この船には後にジョセフ・ヒコと呼ばれることとなる浜田 彦蔵も茶汲みとして乗船しており、やがて共に苦難を経験をすることとなります。





伝吉、ヒュースケンなどが眠る慈眼山 光林寺













伝吉墓碑 正面







墓碑正面文面(英語)


 

墓碑裏面 戒名



 
墓碑裏面の戒名

 







伝吉と同じ栄力丸で遭難し苦難の末帰国した
ジョセフ・ヒコこと浜田 彦蔵の墓
(青山墓地内・外人墓地)
 















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