2013年5月31日金曜日

圓生の見た麻布

終戦で満州から引き上げてきた六代目三遊亭圓生は、すぐさま落語界に復帰して神田「立花」で独宴会を催しました。ですが客の入りはあまりぱっとせず、その後しばらく独宴会を中止していたそうです。そして昭和28(1953)年12月、麻布十番の「十番倶楽部」で催した独宴会が復帰後初めて大盛況となり、その後の独宴会の布石となりました。この記念すべき独宴会の出し物は「三十石」「文七元結」「百川」の三題であったそうです。
大正時代の麻布十番商店街
稲垣利吉「十番わがふるさと」

圓生は戦前から麻布の寄席に出演していた様で、現在の「魚可津」さんあたりにあった「福槌亭」は、もと学校?だった建物を使ったひどく頑丈な2階席で、古くて掃除のゆき届いていない薄汚れた席であったといい、現十番稲荷神社の正面あたりにあった「十番倶楽部」は圓生が三語桜協会の頃よく出演し繁盛していた席で、1階が酒屋2階が寄席で、席主の酒屋(十番わがふるさとによると屋号は「鶴屋酒店」)から、当時発売していた「新進」と言う名の合成酒の宣伝を噺のまくらの中に取り入れることを頼まれたと著書に書き残しています。
一の橋の「一ノ亭」はもと講釈師の神田山陽が席主で元は講釈の席でしたが、落語色物席になった時に、圓生は席主の神田山陽と共に麻布山元町の花柳界に挨拶回りをしたといわれています。
六本木の「第二金沢」は京橋金沢亭の席主が経営した支店で、だだっぴろい席であったそうです。普段は客もまばらな端席(はせき)でしたが、関東大震災で残ったため、震災直後は満員になったそうです。
その他にも、圓生は笄町の「麻布演芸館」、森元町「高砂」、新広尾町「広尾亭」などに出演していました。

また麻布近辺では、白金志田町の「白金演芸館」、愛宕下「恵知十」「琴平亭」、芝宇田川町「川桝亭(三光亭)」、浜松町「小金井亭」、金杉橋「七福亭」、三田「七大黒(春日亭)」、伊皿子「伊皿子亭」などにも出演していました。しかし大部分の寄席はあまり客の入りが良くない端席(はせき)であったといい、圓生の著書「江戸散歩」の中で、麻布は屋敷ばかりで寂しい道が多く、暗くなると行くのが嫌だったと書いています。また同書で噺のまくらに使ったと思われる言い回しをいくつか披露しているので、御紹介します。


「弔いを山谷と聞いて親父ゆき」「弔いを麻布と聞いて人だのみ」

・下町の住人にとっては、麻布は大変に遠い所であった様に思えたので面倒くさいため人頼みにした。
と言う表向きの解釈の他に、山谷は吉原に近いため親父は喜んで出かけて行った。という説もある。




「繁盛さ狸の穴に人が住み」

・??



「麻布の祭りを本所で見る」

・”手も足も出ない”の意味。








また、「麻布で黄が知れぬ」(むかし、むかし4の55を参照)の亜流では、

「一本は松だが6本きが知れず」

「から木だか知れず麻布の六本木」

「火事は麻布で木が知れぬ」

「ねっから麻布で気が知れぬ」

「火事は麻布で火が知れぬ」なんてのもあります。

そろそろ、おあとが、よろしいようで..........。











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2013年5月30日木曜日

墓石磨き魔の横行

文政の頃、寺に忍び込み、見ず知らずの墓石や石塔を勝手に磨いたり、洗ったりして廻るという何とも不可解な犯罪が続発していました。

この怪事件?は文政10(1827)年9月18日の夜から始まり、9月いっぱい続いたといいます。麻布、赤坂、芝などを中心に三十ヶ寺が被害にあい、宗旨も無関係で、多い寺では一度に三十本もの墓が磨かれてしまった。しかし、有名人の墓を磨くとかではなく、磨きやすそうなものをランダムに磨いたようで、その手口に一貫性は全く無いようです。
庶民の墓は2尺程で1人でも磨けたでしょうが、4尺もある大名の墓も磨くため、押し倒されるなどの被害に遭っており、とても1人の仕業とは考えにくく、奉行所も隠した者は名主、家主まで罰すると触れを出し厳しく詮議を始めたが、一向に犯人は上がらなかったそうです。その後風聞を聞きつけて模倣犯が続出し、9月末には浅草、十条、滝野川などにも飛び火し江戸中の墓石が磨かれたといいます。

しばらくして騒ぎは一旦収まりますが、天保元年(1830年)7月、今度は武州岩槻、越谷、草加、土浦、などで再び流行り、9月には江戸で再び再燃し、江戸市中だけでも286本もの被害が出たそうです。今度は前回よりも手が込んでいて、墓に彫ってある文字に朱や金を入れたり、戒名のうち一つだけを洗ったり、年号のみを磨く、前面のみを洗うなどであったそうです。噂は噂を呼び、願をかけた者が行ってる、切支丹の仕業、狐狸の仕業などといわれましたが、今回も結局判らず終いで、中には、夜に墓を洗っている者を見かけたので、男が5人で追いかけたが、賊は足が速く中々追いつけず、やっと追いつくと賊は女で捕まえようとしたが格闘の末、逆に追っ手が捕まって5人の内3人が髪を切られてザンギリ頭になってしまったといいます。

しかし、何度考えても不可解な事件で、事件というよりは流行りのようなものだったのでしょうかか?何か現代の犯罪にも通じる不条理感が漂う事件です。  っていうか、これホントに事件なのでしょうか?

また関連事項としてほぼ同様の事件?が広尾祥雲寺でおこった「奇妙な癖のある人」という話として残されています。








2013年5月29日水曜日

東禅寺襲撃事件<高輪>

東禅寺山門
高輪の仏日山東禅寺(正式名称は海上禅林佛日山東禅興聖禅寺)は臨済宗妙心寺派の別格本山で 江戸四箇寺の一つとされています。
慶長1十五(1610)年、赤坂に建てられ、その後寛永十三(1636)年現在の地高輪に移転し、15,000坪に及ぶ広大な寺領を有していました。
幕末の安政六(1859)年、イギリス初代公使オ-ルコックが江戸に入ると東禅寺は幕府からイギリス公使館と定められました。この東禅寺の他にも候補となった寺院が三田などにありましたが、イギリス側は、非常事にすぐに軍艦に乗船できる東禅寺を選んだといわれています。

東禅寺が英国公使館となることが決まると、攘夷思想による 当時の不穏な情勢を反映して寺院内には10余りの番所をつくり、公使館のまわりを竹矢来で囲み常時150名ほどの武士が護衛として配置されました。そんな厳重な警戒の間を縫って安政7年1月7日(1860年1月29日)日本人通訳の伝吉が寺の門前で白昼に殺害されてしまいます。そして約1年後には寺内の英国公使館そのものが襲撃を受けることとなります。

文久元(1861)年5月28日の夜11時頃、水戸藩士有賀半弥ら14名の浪士が表門の垣根を破って乱入し イギリス人2名を負傷させ、警備の武士、浪士ともに数名の即死者と多数の負傷者を出しました。しかし、最大の目的の英国公使オ-ルコックを殺害する事は出来ませんでしたが、これは彼の部屋が一番奥にあったためであるといわれています。もし、襲撃が裏手の山側から始まっていたら、真っ先に彼は殺害されていたと思われています。 
東禅寺境内
翌29日の明け方、赤羽接遇所に滞在していたシーボルトが事件を聞きつけ、警護の武士に守られて来館し負傷者の治療に当たります。 このときの様子をシーボルトは、
~6日(西暦では五月二九日は7/6)の朝3時半 ,わたしは早馬で来た日本の役人により次のような知らせを受けました。~略~ この知らせを受けて私は護衛の25名に対し、夜が明けるとわたしの共をして、ここから(赤羽接遇所)から約一里離れている公使の住居に行くように命じました。五時頃わたしと息子のアレキサンダーは十分に武装をし、二十五名の選り抜きの護衛と共にそこ(東禅寺英国公使館)にむかいました。~

と日記に書き残しています。

この襲撃の直接的な原因は、オールコックがモース事件の処理により赴いていた長崎からの帰路を長崎奉行などの反対を押し切って陸路とし、京都見物(市内には幕吏に阻まれたため、入りませんでしたが)や霊峰である富士山に登山をするなど神州の地を汚されたと水戸の攘夷派が激怒したためといわれています。ちなみにこの襲撃事件が起こったのはオールコック一行が東禅寺に到着した翌日のことでした。この襲撃事件は後に第一次東禅寺襲撃事件と呼ばれることとなります。
ちなみに水戸藩士有賀半弥ら14名(別説には18名とも)の浪士は5月24日水戸を船で出発し、東禅寺の門前河岸で上陸し品川宿の妓楼「虎屋」で決別の祝宴をしたのち、28日に襲撃事件を引き起こしたそうです。


そしてちょうどその一年後、オ-ルコックが英国に帰国中の文久二(1862)年5月29日、再び襲撃事件がおこります。この夜は前年東禅寺に乱入して死亡した浪士の一周忌が行われていましたが、寺の警備の松本藩士伊藤軍兵衛が長槍を持って公使の庭に忍び入り、見張りのイギリス人を殺害します。そして混乱した現場から逃れた彼は自宅に戻り自害して果てました。この襲撃は彼が、日本人同士が傷つけ合うのは外人が居るためと思いつめ、暴挙に走ったと考えられました。
東禅寺本堂
 
この襲撃事件は第二次東禅寺襲撃事件と呼ばれています。

これら二度の襲撃事件により英国公使館は一時横浜に退去し、新たに品川御殿山に公使館の建設が始まります。しかしこの御殿山公使館も完成間近、長州藩の高杉晋作井上聞太(井上馨)、伊藤俊輔(伊藤博文)らによりにより襲撃され、焼失してしまいます。しかし公使館が横浜にあることに不便を感じていたオールコックの後任公使パークスの強い希望により泉岳寺に英国公使館が建設されます。この泉岳寺の公使館は攘夷派の襲撃を逃れるため「高輪接遇所」と偽っていました。その後明治になると公使館は旧沼田藩三田邸(現在の亀塚公園あたり)の地に移転し、さらに明治5(1872)年には皇居に近い現在の地(千代田区一番町)に移転します。

余談ですが、作家の岡本綺堂は父親が英国公使館に勤務していたため、高輪で生まれています。そして英国公使館の移転に伴い家族と共に麹町に居を移し、その家で長じたのちに綺堂は関東大震災で罹災し麻布に仮寓することとなります。

その後、東禅寺は幕府の滅亡により寺領は上地となり、檀家の武家も故国に帰ったことや、廃仏毀釈の影響を受け自然と寂れます。しかし今も名刹であり、玄関の鴨居や柱に1回目の襲撃時の刀きずや弾痕を見る事ができ、当時の面影を色濃く残している貴重な寺院です。










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2013年5月27日月曜日

鼬(いたち)坂の島崎藤村


島崎藤村宅跡と鼬坂
1916(大正5)年7月8日、55日間の船旅を経て三年ぶりにパリから帰った島崎藤村は芝区二本榎西町3の留守宅に入りました。しかし帰国してみると次兄夫妻に預けてあった2児とその留守宅の窮状は目も当てられぬほどだったといいます。
藤村はまず次兄夫妻を下谷の根津宮永町に移し、小諸で揮毫領布会を催して金策に走り、早稲田、慶応の講師となって近代フランス文学を講じ、また「故国にかえりて」、「海へ」、童話77編からなる「幼きものに」を刊行、外遊の負債と次兄の儀侠的行動から起きた経済的破綻の改善に努めました。

1917(大正6)年6月1日、藤村は芝区西久保桜川町2番地の高等下宿「風流館」に移ります。ここで藤村は奥の離れ二間を借りてパリのマンション生活を偲びつつ「海へ」の続編と「桜の実の熟する時」を執筆しました。そして大正7年10月27日藤村は、麻布区飯倉片町33に再び転居します。

ここは、天文台近くに住んでいたパリでの生活を偲んで、東京天文台の傍の住居を「風流館」若林又市などに依頼して、探し当ててもらった住まいであった。鼬坂を下りかけたあたりにあった貸家で、藤村いわく、
島崎藤村碑

「どこへ用達に出掛けるにも坂を上がつたり下がつたりしなければならばい」谷間のような所であった。さらに「郵便局へ2町。湯屋へ2町。行きつけの床屋へも56町ある」

と書き残しています。また後に大作の「夜明け前」、地名を冠した「飯倉だより」、童話集「ふるさと おさなものがたり」、「大東京繁盛記」の中で「飯倉付近」を書いてこの地への愛着を披露しました。そしてこの地で藤村は47歳から65歳の18年間を過ごし、生涯の中で最も長く住むことになる家であったそうです。

表題の鼬坂とは「近代沿革図集」によると植木坂鼠(ねずみ)坂の別名。または鼠坂の坂上部分ともいわれています。これは江戸時代から呼ばれていた名で、池波正太郎の小説鬼平犯科帳の「麻布ねずみ坂(三)」にも、ねずみ坂として登場する。





島崎藤村碑 碑文













植木坂




















鼠坂


















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2013年5月25日土曜日

「麻布本村町」のがま池

昭和初期のがま池
前回、前々回に引き続き、麻布に関した書物の中の「がま池」を紹介します。

麻布本村町」は仙台坂上にある麻布本村町のクリ-ニング屋の子息として大正14年に生まれた荒潤三氏が、昭和30年にその地を去るまでの、昭和初期から中期までの麻布を回想する自伝です。登場する項目は、








1.麻布本村町2.庶民の町3.お寺のある風景4.水道の水で産湯
5.本村尋常小学校6.麻布仙台坂7.仙台山8.有栖川記念公園
9.がま池10.南部さん11.徳川さんのクリスマス12.麻布山善福寺
13.歳末とお正月14.氷川様とお祭り15.提灯屋のおじさん16.電気屋のおじさん
17.袋小路18.物売り19.お湯屋20.雑式通り
21.麻布十番通り22.映画館23.麻布十番倶楽部24.大相撲の巡業
25.六大学野球26.ツェッペリン伯号27.麻布三連隊と兵隊さん28.ちんちん電車
29.ぽんぽん蒸気30.両国の川開き31.銀座32.農村動員
33.建物の疎開34.東京大空襲35.風船爆弾36.買出し
37.八月十五日





と非常に多彩で昭和時代の麻布南部をよく表しています。この中でがま池について、
氏が5~6歳の頃、がま池を擁するお屋敷の前を母と共に歩いていると、自動車に轢かれてペチャンコになったカエルがあちこちで見られたといます。そして母からがま池の伝説を聞かされます。この当時のがま池を荒潤三氏は、

荒潤三著 麻布本村町
「昔より縮小整理されひょうたん型の池のまん中に小さな島があり、橋がかけられて、周囲の道路と連絡していた。-中略-この池の工事のとき、おおきながま蛙が出てきたという話を聞いた記憶がある。」

と書いています。そして当時池は一般開放されていて、子供たちの絶好の遊び場所であり、春にはたくさんのオタマジャクシがいたといいます。しかし、池の周囲が分譲地となると同時に縮小された池のそばでは、蛙が轢かれているのを目にする事もなくなったと記しており、その分譲地は当時あまり売れずに空き地が多く、ツクシやノビルを採ったとあります。その後分譲地付近で松竹映画のロケ-ションなども行われ、洋服姿の片岡知恵蔵や上原謙などもみられたと記しています。 最後に荒潤三氏は、


がま池に近い私の家は、関東大震災、B-29の大空襲にも焼かれることがなかった。

昔いたといわれる、大がまの霊がが守ってくれたのかと思うと、感謝の気持ちで一杯だ。
と、結んでいます。


最後に荒潤三氏が「麻布本村町」の前書きで記しているリルケの詩「若き詩人への手紙」をご紹介します。
それでもあなたは、まだあなたの幼年時代というものがあるではありませんか、

あの貴重な、王国にも似た富、あの回想の宝庫が。そこへあなたの注意をお向けなさい........。









★2013年追記

10年ほど前、この項を書くにあたって荒潤三氏に電話で使用許諾を頂いたのですが、その時すでに80際近いご高齢にもかかわらず、いろいろとお話をして下さいました。麻布を離れて大田区にお住まいとのことですが、どうぞお元気でお過ごし下さい。



◎麻布本村町とは?

久松安著 麻布本村町会史
この項のテーマである「がま池」は麻布宮村町南部にあるように誤解しがちですが、実は麻布本村町域に属しています。そして現在もがま池は麻布本村町会の管轄地域であり、麻布本村町会は東は麻布氷川神社から仙台坂下北側まで、北はがま池まで、西は麻布高校敷地辺まで南は古川北岸までと広大で、現在港区で一番広い担当区域を有しているそうです。

麻布本村町は麻布南部の中心的地域で、町域内には貝塚などもあり、おそらくこのあたりでは最初に集落が形成された地域で、その名残から「本村」としたと考えられています。
暗闇坂を上り麻布山の尾根道(麻布の台、亀子台とも)を仙台坂上から相模殿橋(四之橋)方面へと抜ける古道(奥州道ともいわれています)が町の中心部を走り、交通の要所でもあったようです。

そして、江戸中期の正徳三(1713)年、代官支配地の「村」から町奉行支配地で都市部となる「町」となった際にも町名の「村」を棄てて「本町」あるいは「元町」とすべきところを「本村町」とあえて村を使用しとたままにした町名には当時の本村町名主などの意気込みが感じられます。なを、同様に「村」を残したまま町名とした「宮村町」があります。宮村は江戸初期まで、本村は現在も麻布氷川神社の鎮座地であるので、何か関連があるのかも知れません。

またそれまで「阿佐布」や「麻生」「浅府」、「安座部」などさまざまに表されてきたアザブの漢字を「麻」に「布」で麻布と統一した経緯について当時幕府公認の地域ガイドブックである「江戸町方書上」において麻布本村町の名主「栄太郎」は、


正徳三(1713)年町御奉行所御支配に相成り候頃より麻布と文字書き改め候。この訳は往古この辺り、一円百姓地にて御代官伊奈半左衛門様御支配所に御座候。その頃、 百姓耕作の助けに麻を作り女子ども手業に布を織り、また、麻苧紙と申すを漉き渡世に致し候由、これにより阿佐布を麻布と文字改め候由申し伝え候

 

麻布申酉会著 麻布本村町
と「麻布」と表記するようになったのは麻布が江戸市中に組み込まれた頃と明記しており、アザブを「麻布」と表記する語源の出典根拠として、さまざまな文章で使用されています。
 
今回ご紹介した荒潤三氏が表した「麻布本村町」の他によく似たタイトルの書籍が存在します。
一つは現本村町会会長の父上が自費出版された「麻布本村町会史」で、町会の由緒や昭和2年に行われた麻布氷川神社の社殿新築工事の様子と共に「蝦蟇ヶ池」としてがま池伝説が記されています。

そして、二つ目は麻布高校昭和13年度の卒業生で麻布申酉会の同窓誌「麻布本村町」で、私はふらりと立ち寄った古書店でこの書籍を手に入れました。内容は戦前の学校内を回想した文章などが掲載されていて非常に興味深いのですが、残念ながら「がま池」に触れている文章を見つけることはできませんでした。









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2013年5月24日金曜日

「麻布新堀竹谷町」のがま池

山口正介氏の著書「麻布新堀竹谷町」は、

  • はげ山
  • 逆さ銀杏
  • 網代公園
  • がま池
  • 麻布映画劇場
  • 麻布プリンスホテル
  • 麻布十番夏まつり
  • 新橋佐久間町
  • 南麻布 
昭和30年代後半のがま池
のタイトルで、山口正介氏自身である東町小学校三年生の主人公「周助」が当時の小学生の目で見た日常生活が主体の自伝的小説です。  その文中に登場する風景は、昭和30年代の麻布中央部を克明に描写していて、私自身の幼年期とシンクロする部分が非常に多い気がします。 その中でも、 
「6月7日からポパイのアニメ-ションがはじまった。~」 
と言う書き出しで始まる「がま池」は特に私の大好きな話です。 
ある日曜日周助は、小学校裏手を仙台坂に抜ける道の手前にある友達「よっくん」の家へやはり友人のシゲルとツトムと共に遊びに行き、 庭でのキャッチボ-ルにあきた4人はがま池を目指す事になります。彼らは仙台坂を上らずに、

手前の崖の隅にあるここから落ちて死んだ猿まわしの猿の墓「猿助の塚」がある急な階段を上ります。頂上は広い自動車道路になっていて、左手には昨年の暮れに出来たばかりの東京タワ-が見える。

そして、この後もがま池までの非常に詳細な道のりが記されています。

壊れた板塀の一角の秘密の入り口から入った周助達の前に、学校のプ-ルの何倍もある池が現れます。ここでのがま池の描写も非常に詳細で、誰かが島に渡ろうとして作られた「沈みかけたイカダ」の事までが記されています。(当時私もこのイカダを見たような気がします。)また、秘密の入り口も「所有者が発見するたびその都度固く閉ざされ~」とあり、私達の頃もやはり池の入り口はコロコロと変わりました。(当時池の前には管理人が住んでおり、見つかると追いかけられました。)

池に入った周助たちは、ボ-ル紙に巻きつけたたこ糸と短冊に切ったイカでつくった仕掛けでザリガニを釣るのですが、「これを池の周囲に何箇所かに仕掛ける」と言う描写には思わずうなずいてしまいます。(当時池のザリガニ釣りはこの仕掛けをいくつ仕掛けられるかが大きなステ-タスで、他所からの初心者や低学年の子供は、地元の高学年やいじめっ子に遠慮して多く仕掛ける事は非常に困難でした。

昭和40年代前半のがま池
そして、文中にもありますが、たまに仕掛けたまま忘れ去られた糸もあり、そっと手繰り寄せてみると先に大きなザリガニが付いている事も多々ありました。)しかし、池に周助たちと同じ学校のいじめっ子兄弟が現れ、仕掛けをとられてしまいます。やっとの思いで逃げ出した周助の足元に忘れ去られた仕掛けがあり、引き上げてみると「赤銅色の大きなアメリカザリガニ」が釣れていました。それはその日みんなの唯一の釣果であり、戦利品でした。そして、そのザリガニを手に家路につく一行。後日、再び池を訪れた周助ですが秘密の抜け穴を発見する事が出来ず、山口正介氏は物語をこう結んでいます。


がま池は少年たちの前でふたたび秘密の扉を閉ざし、深い緑のベ-ルのなかにその姿を隠した。

その日を最後にして、周助たちもがま池に行こうとはしなかった。こうして、がま池はまたしても幻となり、

子供たちの間で伝説として語り継がれるだけの存在となった。





麻布新堀竹谷町」著者山口正介氏は、1950年に東町小学校の近所で作家の山口瞳氏の長男として誕生。その後「オンシアタ-自由劇場」演出部を経て、小説、映画評論、エッセイなどで活躍中です。

数年前に所用で氏と電話で話させて頂きましたが、優しい声の持ち主で「麻布新堀竹谷町」の周助クンと話しているような錯覚を覚えました。






 追記:不思議な「がま池」写真
 
私の少年期にもがま池遊びは小学生まで。という不文律があり、中学生になってがま池で遊ぶのは、子供くさくてとても恥ずかしい行為だったと記憶しています。また、私が育った昭和40年代前半には、小学生は真冬でも半ズボンで過ごすのが一般的で、長ズボンをはいていると友達から「おまえ、病気かっ?」とからかわれました。 しかし中学生になると、まったく半ズボンをはかなくなり、急に大人になったような感覚があったのを、かすかに覚えています。
昭和40年代前半
がま池で遊ぶ私
 右の写真は昭和40年代前半、おそらく私が三年生頃のがま池で遊ぶ姿を写した写真なのですが、私にとって、この写真はとても不思議な写真です。

まずザリガニ釣りができるのは春から秋にかけてですが、当時真冬でもほとんどはいた記憶がない長ズボンをはき、シャツも長袖です。病み上がり?真冬?謎です。
また、そもそもがま池は私有地であり、池の前には管理人がいました。ですので池で遊ぶのは不法侵入で、管理人に見つかると叱られて池から追い出されました。ですから大人が池に立ち入る姿を見た記憶はほとんどありません。
ですが、この写真は明らかに大人が写していると思われます。不思議です。

嘘だとお思いでしょうが、私にはこの日の記憶がかすかに残されています。それは、この写真に写ったバケツの記憶です。このバケツは妹の遊び道具だったのですが、それを無断で使用していました。そしてわたしがこの日にザリガニをたくさん入れて家に帰ると、妹は激怒し、ザリガニを入れたそのバケツを気味悪がって二度と遊びに使わなくなり、親からこってり怒られた記憶があります。

しかし肝心なところの記憶がありません。なんせ、45年近く前のことですので.....。















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2013年5月23日木曜日

六本木随筆のがま池


1999年のがま池
1967(昭和42)年から大衆文芸誌に連載された「六本木随筆」は作家村上元三が自宅のある六本木付近の変遷を書いた随筆です。文中では麻布近辺についても「麻布七不思議」、「鳥居坂について」、「麻布十番」などが掲載されていて、その中で「蝦蟇池」と題した項が昭和47年5月に書かれているのを見つけました。



この随筆が書かれた当時、がま池では池を削ってマンションを建てる問題が新聞に掲載されていた時期でしたので、随筆はその反対運動の新聞記事を追っています。そして、その経過は現在(2001年頃)のがま池を巡る状況と酷似しています。
作者はその新聞記事からとして保存運動を行ったのが日本人よりも付近に昔からある大使公使館員、駐日新聞記者、商社 らの外国人であると述べています。
1972年(昭和47年)3月4日付毎日新聞朝刊の社会面「問いかける群像」の中で、
「ガマ池が消える、伝承の地にも破壊の波、怒った、立った外人が...」

と題した記事が掲載されていて、池の伝説の紹介や、がま池以外の多くの旧跡名所跡がすでに破壊されている事を伝え、さらに当時池の保存運動を行ってったのがドイツ大使館一等書記官、タイム・ライフ東京総局長、フランクフルター・アルゲマイネ新聞極東特派員、海運会社社長夫人、ボウリング会社日本代表などの外国人らであったことを伝えています。
2001年工事中のがま池
活動は近隣住民への回覧板の巡回、池の歴史的研究、署名運動を行ったようで、当時の環境庁長官、東京都知事への陳情も行い、外国人側の呼びかけにより地元の有志もこれとは別に3,800人の署名を集め、港区議会へ「がま池保存の請願書」を提出します。

その請願は区議会により全会派の賛成で採択され、区や都、環境庁も「善処」「検討」を約束しました。これにより外国人保存運動家たちも安堵し、「がま池はたぶん助かる」と思い込もました。

しかし、当時の区長は自身ががま池で遊んだ体験を語りながらも、財源不足を理由に都、国が用地買取を行って欲しいというお気楽な責任転換でその場をやりすごし都は、

港区が将来公園化するのであれば先行取得も可能だが、区はその気が無いようだ。

とし、環境庁は、

所管外でどうにも出来ない都に善処してもらいたい。


とたらいまわしとなったあげく、当時のガマ池所有者は、

都、区が買い上げてくれるなら手放すが、生活権上(マンションを)建てざるをえない。


1972年のガマ池保存運動を伝える
毎日新聞記事
としてると記述されている。記事はここで終わっていますが、結果的にマンションは建設され、がま池が縮小されたのは周知のことです。この記事で文中で外国人保存運動家たちが言ったとされる言葉が非常に興味深く、現在の状況(2001年頃)にもそのまま当てはまるのでご紹介します。
「もう10年もすると、東京には先祖からうけついだもので、子孫に語りつぐべきものがなにもなくなってしまうのではないか」
この記事からちょうど30年後の現在(2001年頃)、同じ池で同じ問題が起こり、同じ過程を踏んできた保存運動はどのような結末に向かっているのでしょうか?
表題の六本木随筆は「蝦蟇池」の項を新聞記事を元に書いているため、元ネタの記事の内容ばかりとなりましたが、随筆の著者村上元三は最後に、
「ここ十年ほどで、東京の人間は川や池が次第になくなってしまうのを、そう気にしないように、慣れさせられている。~中略~古いものが失われて行くのを、書きとめておく気持ちはありながら、抵抗をする気力もないのは、東京に住んでいる人間のあきらめのようなものであろうか。」

と自嘲気味に記しています。




★1972年の主な出来事

(政治・事件)

・ニクソン米大統領訪中、日中国交正常化


・札幌冬季オリンピック


・沖縄返還


・元日本兵横井さん帰還


・あさま山荘事件


・テルアビブ乱射事件


・作家川端康成自殺



(社会)

・ロマンポルノが映画界に新風


・山陽新幹線開業


・上野動物園パンダ初公開


・オセロゲーム発売


(話題の商品)
・カシオミニ(電卓)


・ソックタッチ


・消える魔球付き野球盤


・オロナインH軟膏


・仮面ライダーカード



(音楽)

・レコード大賞 ちあきなおみ-喝采


(ヒット曲)
・女のみち ぴんからトリオ


・せんせい 森昌子


・旅の宿 吉田拓郎

・どうにもとまらない 山本リンダ


・ひなげしの花 アグネス・チャン


・男の子女の子 郷ひろみ






東京名所図会のがま池

Blg化にあたっての追記


この記事を最初に書いたのは2001年がま池が二度目のマンション工事により縮小保存される工事が始まった頃で、その時のものをBlog化しているのは2013年初夏です。 
二度の保存運動を経て面積が2/3ほどとなった「がま池」は現在も残されています。 しかし2001年頃にデベロッパーである森ビルの子会社 「サンウッド」と「周辺住民、がま池を守る会」と「港区」の三者で締結された、 
マンションが建った後も要望があれば池を公開する。 
という三者協議会での締結事項がマンションの転売によりあっさりと破られ(※1)、現在池は非公開となってしまいました。これについてマンションの管理会社にインタビューしたところ「防犯上の理由」とのことでした。 これは明らかに締結事項に違反しているのではないでしょうか? 
がま池の解説板は池の北西側に港区教育委員会が設置したオフィシャルな解説板の他に、マンション敷地内北東部分に管理会社が設置した「がま池解説板」がありました。この解説板には池の公開を自ら明文化してあったのですが、近隣住民である仙華さんの情報によると、2013年5月現在、マンション側が設置した「がま池解説板」は撤去されてしまったようです。


港区教育委員会設置「がま池解説板」








解説板文面














マンション管理会社が設置した「がま池」解説板
2013年現在撤去されているそうです。











管理会社設置解説文章
公開を明文化しています。







また港区議会で「がま池保存の請願書」が提出され、この誓願には党派を超えた区議の署名がありました。その申請も長い間「継続審議」として塩漬けにされた後に、どこかに消えてしまいました。 

※1  
私もこの三者協議会に出席していましたが、その時点でマンションの転売が決められていたので、転売後も協議内容を反故にしない確約が得られていたと記憶しています。つまり転売されても池を保全、公開するという特記事項が遵守されるという内容であったと思いますが....。 








より大きな地図で 麻布七不思議・麻布の不思議話 を表示
 
 
 
 
 
 
 








2013年5月22日水曜日

がま池アップアップ

現在のがま池周辺
2001(平成13)年頃 「がま池消滅の危機」という噂がありました。これは当時池の畔にあったマンションを取り壊し、池全体を使って新しいマンションを建設するという噂でした。

 この噂により、はらきんの釣堀、ニッカ池に続いてまた一つ麻布の湧き水がなくなってしまうと思い込んでいたので、当時大変悲しい情報でした。そして、1月の半ばに港中学PTA関係者の方から廃校に伴う記念誌に当ペ-ジのがま池画像使用の問い合わせを頂いたばかりで池の消滅を聞いたので、何とも残念な気持ちでいっぱいでしたが、K区議の情報により、現在の池面積より20%ほど削られてしまうが、池自体は埋めないとの事でした。そこで当時現状を確認するため久しぶりにがま池に行ってみました。

久しぶりに近辺を訪れて見ると、周辺には工事反対の看板が林立しています。そして、その中の一つに池の水を循環させるポンプの電源を云々というものがあり、あれ?と思いました。子供の頃の池には湧いた水を一定の水位で保つために下水道に水を逃がすための大きな排水口(水門と呼んでいた。)が池の北側に設置されていて、いつもジャ-ジャ-と大量の水が流れ落ちていました。
その水門は子供ならば楽に入れるくらいの広さがあり門の中は、水流に流されて落ちてしまったと思われるザリガニの宝庫でした。

解体前の旧マンションとがま池
自宅に戻り調べてみると1991年10月30日の朝日新聞に「がま池アップアップ」と題した記事が掲載されていることがわかりました。記事によると、港区防災課が1976年に確認されたがま池など港区内の湧水地27ヵ所の追跡調査を行ったとの事で、76年~91年の15年間の変化が記載されていて、91年の再調査で湧水が確認されたのは、麻布山善福寺の柳の井戸、三田の成覚寺、高輪東禅寺、白金自然教育園など12ヶ所だけで、なんと15年で65%もの水源が枯れてしまったといいその中には、三田の宝生院と共に残念ながらがま池の名も確認できます(有栖川公園池もポンプによって回遊)。
枯渇の原因として同記事はビル建設などにより地下水を保つ樹林地が減少していて、道路の舗装により雨水が地下に浸透せず下水道に流れてしまっているなどを挙げています。

また、1991年11月10日の読売新聞朝刊にも「大火防いだ大ガマ伝説」との記事があり、こちらはがま池伝説や当時の地権者の話、最後はその頃池の傍にあった金丸信・元副総理宅の火炎瓶襲撃事件も、がまのご利益でボヤ程度であったと結んでいます。

そして今回のマンション立て替え工事に関連した記事が、先週2月25日付けの東京新聞に掲載されています。内容はカラ-写真付きで紹介されており、池の周囲で生息している「ゴイサギ」の幼鳥の写真を見て、一昨年の夏に池を見学させて頂いた時の、東京とは思えないほどの蝉時雨とトンボの群れを、ふと思い出してしまいました。
麻布からの帰り道、一本松方面から麻布十番へ抜けようと歩くと、電信柱と区掲示板にがま池の環境保全を要求するポスタ-が(多分違法的)貼ってあった。あ~!と思ってよく見ると掲載された

画像は私が撮ったがま池写真でした。
解体中の旧がま池マンション

この記事は2001年頃書いたもので、がま池保全運動が起こっていることもまだ知らない時期でした。しかし、その後池周辺の住民が池保護の署名を集めており、当サイトも電子署名や三者(デベロッパーである森ビルの子会社サンウッド・周辺住民・港区)協議会告知に協力していた事を昨日のことのように思い出します。そのときの様子は「麻布七不思議-がま池」に記していますので興味のある方はどうぞ!












がま池保全ポスター




















がま池保全ポスター


















2013年5月21日火曜日

麻布の野生動物-その3

前回は目撃情報や実際のインタビューから得た情報により麻布を含めた港区域にはハクビシンなどの生息が確実視出来るようになった事をお伝えしました。
しかし、それは港区域固有の現象なのか、また他所も同様なのか理解できなかったので、東京の野生動物の著書などを書かれている宮本拓海さんのサイト「東京タヌキ探検隊」にお邪魔させて頂き、またメールで数々のご教示を頂きました。

そのなかで2009年当時、宮本氏の承諾を得て当サイトに掲載させて頂こうと考えていた文面がこちらです。

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(以下宮本氏からのメール)

白金・白金台のタヌキの生息については
私が現在特に注目していることのひとつで、
来年1月に公開予定の報告書では重要なトピックになる予定です。
過去の生息分布図をご覧になるとおわかりのように、
港区にぽつんと孤立した生息があります。
これは偶発的な目撃と考えていたのですが、
最近になって、どうも定住集団がいるのではないか
と推理するようになりました。
集団を維持するには確実に繁殖できる場所が必要です。
その場所は自然教育園と考えられます。
自然教育園ならば複数の家族が定住することは可能で、
そこから外部へ旅立つ若い個体が必ずいるはずです。
この近辺でのタヌキの目撃情報は、
2006年~2008年に3件あります。

2件は南麻布、1件は白金台です。
(白金台の情報は今年になって得られたもので、
今年1月の報告書には反映されていません。)
いずれも自然教育園からは離れていますが、
自然環境から言って自然教育園に生息していないはずがありません。
白金・白金台というと「セレブ」なイメージが強いのですが、
タヌキの生息という観点から見ると
自然教育園、寺、学校、お屋敷(広い庭がある)、庭園など
生活しやすい環境がそろっているように思えます。
残念ながら麻布方面は緑地が少ないので
タヌキには暮らしにくそうです。
(寺が集中している地域を除く。)
書籍「タヌキたちのびっくり東京生活」では、23区のタヌキの分布を
7つのグループに分けています(ホームページには未掲載)。
これらには白金・白金台の集団は含まれていません。
しかし、どうやら定住が確実と思われるため
次の(来年の)報告書にはこの集団を新たなグループとして
紹介することになるでしょう。
名前は「白金グループ」にするつもりです。
セレブなイメージを狙ったわけではなく、
「白金長者」という歴史的な由来のある地名ですし、
最大の拠点が自然教育園=旧白金御料地、白金長者屋敷跡地である
といった理由からです。
この白金グループのタヌキは全体で多くても30頭程度の
小さな集団と思われます。
ぎりぎりで集団を維持しているのではと推測されます。
またこのグループは周囲のタヌキ生息地から孤立していることが
気にかかります。
以上、ご参考になりましたでしょうか。
白金は麻布の領域内ではありませんが、
南麻布では実際にタヌキが目撃されています。
麻布一帯でも目撃できる可能性はあります。

(ここまで)

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このメールによると、麻布でのハクビシン目撃例も多数あり、また南麻布ではタヌキの目撃例もあることなどから当時の宮本氏は麻布域でのタヌキの生息の可能性も否定していません。このあと宮本氏は「白金グループ」を正式に追加し、港区内唯一のタヌキの生息を確定しました。
港区内野生動物生息状況
しかし、このあたりまで調べた時点で、急遽サイトに載せることについて、ためらいが生じました。それは、インタビューの中で場所は非公開という方や、オフレコという方もいらっしゃり、また何よりも恐らく港区南部域の野生動物の中心となっているであろう自然教育園の生態が乱される恐れがあることが懸念され、これま調べた内容をすべて封印してしまいました。

そして四年が過ぎた今年3月、恵比寿駅前でタヌキが捕獲され、その様子がテレビのニュース番組で放送されました。やはりタヌキが生息していたのかと再び野生動物の情報を検索すると自然教育園では、私が学芸員にインタビューし否定的な見解をお聞きしていた2009年頃、園内に仕掛けた自動シャッター定点カメラにはハクビシンとタヌキの姿が写されていました。さらに昨年2012年夏には二匹の子タヌキが生れ、最低でも四匹が園内で確認されたこと、そして池に落ちて身動きがとれなくなっている子狸を救出したことなどが園のスタッフブログに写真付きで掲載されていました。 
このように自然教育園内の情報が発表されたことにより、私が危惧していた場所の判明という根拠を失ったため、四年前の情報を公開することとしました。
さらに最新情報をみなと保健所から再び受領してみると、四年前にもらった情報より目撃、通報は増えていました。
その中でも特筆すべきは麻布の東町小学校前で今年になってからハクビシンが目撃されていることで、四年前の宮村町周辺と並んで麻布中央部での生息が想像されるようになりました。私見ですが、この生息には有栖川公園や、ほぼ有栖川公園と同程度の面積を有する元麻布一丁目の寺院群(麻布山善福寺・興国山賢崇寺・一松山大乗院長伝寺・松本山徳正寺)敷地が大きく関与しているように思えてなりません。


また、この4年間での状況の変化を宮本氏に教授頂きました。
宮本氏は港区域の最近の傾向として、

・タヌキは減少傾向
・ハクビシンは爆発的とはならないが増加傾向

であるとの見解を述べられています。
また、保健所への通報例もやや増加しているようで、中には目撃をまた聞きしての通報もあるようです。
そして捕獲の依頼をしている通報も増加しており、区では野生動物なので直接駆除は出来ないが、緊急措置として屋内に住み着かれてしまった場合などは駆除業者の紹介などをしているようです。

ハクビシンにおいてはほぼ港区全域での目撃情報があるため、複数のグループの存在が確実視されています。
一例として、

・浜離宮グループ
・大門・芝公園グループ
・愛宕山グループ
・麻布我善坊・狸穴グループ
・麻布中央部(宮村町竹谷町、本村町[元麻布・南麻布]辺)グループ
・西麻布グループ
・高輪グループ
・白金グループ
・赤坂、青山墓地グループ


などがあると想像(グループはDEEP AZABUの個人的な想像で、ハクビシンの行動半径からするともう少し集約されるものと思います。)され、それぞれのグループ間をある程度交流しているものと思われます。
動物はグループ内の近親婚を繰り返すとやがて絶滅の方向に向うそうです。これを避けるには他グループとの交流が必要で、そのためにはグループ間を行き来できるコリドー(回廊)が必要なようで、ハクビシンの場合は電線、線路、河川敷などがコリドーの役目を果たしているようです。
しかしどうしても大通り(外苑西・東通り、明治通りなど)を渡らなければならない場合もあり、その際に多くの目撃情報が発生するものと思われます。

前出、今年3月にJR恵比寿駅付近で野生のタヌキが捕獲されニュースとなったことをご記憶の方も多でしょうが、残念ながら現在港区域でタヌキの生息が確認されているのは自然教育園のみのようです。
ただし、過去には赤坂御所、皇居のタヌキが国会議事堂周辺や赤坂付近で目撃されているようです。そして、宮本氏によると他グループとの交流が希薄となっていると思われる自然教育園のタヌキはやがて減少、絶滅の方向ではないかとの危惧をお持ちのようです。

また保健所では、
ハクビシンなどは、自分から積極的に人間を襲うことはないので、建物等に侵入されない対策など共存の可能性もレクチャーしているようです。
しかし、屋根裏などの建物内に住み着かれてしまった場合、衛生面などから健康被害が出る場合もあるので、駆除業者の斡旋なども行うようですが、その際の経費はすべて依頼人に請求され現在は補助なども適用されないようです。

サイトの管理者である宮本氏は、

都市住民と野生動物とのつき合い方を考えてもらいたく サイトを立ち上げ自身のスタンスを、

実害があれば駆除もやむなし、しかし大半では実害はないので放置

としています。

このあたりの都市部における人間と野生動物の共存についての意見があくまでも私見としながらも杉並タヌキおつきあいガイドライン(私案)として「東京タヌキ探検隊」サイトでに掲載されていますので、是非ご一読をお勧め致します。そして、私たちも野生動物とどう共存していくのかを再度、地域やコミュニティなどで考えてみる必要があると思います。 
またハクビシンとタヌキの特徴を比較したイラストを「東京タヌキ探検隊」のご厚意により転載させて頂きましたので、ご覧いただけますと幸いです。

そして野生動物と思われるものを目撃した場合は、前出「東京タヌキ探検隊」で目撃情報を募集しているようですのでご協力をお願い致します。

 「東京タヌキ探検隊-目撃情報連絡方法 」

また港区内で、住居等に野生動物に侵入されてしまった場合などは、

みなと保健所

に相談することをお勧め致します。

最後にこの項を書くにあたって四年前も今回も多大な情報提供、またご教示を頂いた宮本拓海氏とそのサイト「東京タヌキ探検隊」そして氏の著書、「タヌキたちのびっくり東京生活 都市と野生動物の新しい共存」に多大な謝辞を述べさせて頂きます。宮本さん、ご協力誠にありがとうございました。














タヌキの特徴(成獣、冬毛) 
画像提供:東京タヌキ探検隊!






タヌキの特徴(幼獣、夏毛) 
画像提供:東京タヌキ探検隊!










ハクビシンの特徴
画像提供:東京タヌキ探検隊!



その他アライグマやアナグマの特徴なども掲載された東京タヌキ探検隊!はこちらからどうぞ











 
 
 
 
 
 
 
 
 
 























 
 
 
 
 
 





深夜の東京都心にハクビシン現る!















2013年5月20日月曜日

麻布の野生動物-その2

参考画像 : ハクビシン
(夢見ケ崎動物公園)
前回高輪支所のハクビシン捕獲は大きな驚きでしたとお伝えしましたが、実際にハクビシンが捕獲されたのは高輪支所地下駐車場で2005年7月とのことでした。
当時付近にはタヌキの目撃情報が数件あったそうで、早速私もインタビューに歩きましたが私が聞き込みを開始したのは捕獲から4年後の2009年のことで
当時付近にはタヌキの目撃情報が数件あったそうで、早速私もインタビューに歩きましたが私が聞き込みを開始したのは捕獲から4年後の2009年のことで高輪支所、隣接する高松中学ともにその頃の様子を知っている方はいませんでした。 
そしてネットでの情報を検索してみると高輪から白金台あたりにハクビシンの目撃情報が集中しており、その中心は「自然教育園」と思われました。
そこで自然教育園に足を運び学芸員にインタビューしてみましたが、園内での目撃例や生息を確認できる情報は何もないとのお答えで、園内でもため糞などの現象を確認することは出来ませんでした。しかしこの頃の園内には定点観測カメラが仕掛けられていた事を知ったのはつい最近です。
さらに自然教育園付近の住民数名にインタビューをしてみると、

「自身の体験ではなないが深夜目黒通りを渡っているハクビシンと思われる動物を目撃した友人がいる。」

などの情報を頂きました。
そして、白金台からはやや離れた高輪のさるお寺の住職に話を伺うと驚きのお答えが返ってきました。
「ハクビシンは数年前から複数頭が境内に住み着いており、業者に依頼して駆除してもらうこととした。そして業者が仕掛けた罠に数頭が捕まり処分されることとなったが前夜、急にかわいそうになり檻から逃がした。それらのハクビシンは現在も生息している。また、この付近にはこの家族の他に隣接する場所にも別の家族が存在するようだ。」

麻布宮村町寺院の格子天井
また今世紀に入ってから、やはり同じ港区に隣接するホテル・ニューオータニの入り口植え込み、
また港区内でも神谷町、愛宕山、芝公園、大門などで目撃が相次ぎ、やがて2008年には汐留日本テレビタワーにハクビシンが侵入しテレビカメラに納められました。そしてテレビニュースで狸坂上や麻布十番でのハクビシン出現が報じられた2009年11月には、なんと麻布宮村町(元麻布二丁目)のお寺の庫裏に住み着いたハクビシンが捕獲されます。
(改装したばかりの格子天井を踏み抜いて落ちてきたそうで、私も見学させて頂くと、天井は尿で染みとなっていました。)

さらに広尾、西麻布、南麻布などでもハクビシンなどの目撃があり、麻布域のハクビシン生息は確実なものとして姿を現しました。
そして、生息情報を確実な物にするため、みなと保健所に問い合わせ、近年通報された野生動物情報を書面で頂きました。それによると目撃情報は白金台、高輪、赤坂、六本木、南麻布、虎ノ門など港区んもほぼ全域にわたっており、どこにいてもおかしくない状況であることがわかりました。また飯倉交差点榎坂付近で和菓子店を営む方は、我善坊町方面から狸穴町方面へと外苑東通りを渡るハクビシンを二度も目撃し、その異様に胴体としっぽが長い様子をイラストで残していました。
港区内野生動物生息状況
この麻布我善坊町付近は古い民家が多く、また再開発による立ち退きで空き家が増え始めており、野生動物ハクビシンにとっては格好の住処となったことが想像されます。しかし、この地域は商店や飲食店はほとんどありませんので、食物となる生ゴミがふんだんにある外苑東通りに出没しているものと想像されます。

右の地図は目撃情報を元に港区域での生息状況のおおよその位置をプロットした地図ですが、特にハクビシンについては区内のかなり広範囲に生息しているのがおわかりいただけるかと思います。しかし、一方では目撃情報や保健所への通報がすべて正しいという確証は無く、何割かは差し引いて考えるべきかとも思われます。















2013年5月19日日曜日

麻布の野生動物-その1

ハクビシン
今から4年ほど前の2009(平成21)年春、以前高輪支所でハクビシンが捕獲されたという情報を偶然目にしました。
それまでも麻布周辺の野生動物には興味があり、少し調べると麻布域にも野生動物の目撃例が少なくないことがわかりました。 
これまでお伝えしてきたように麻布と動物の関係は深く、狸穴、狸坂、狸橋、狸蕎麦、狐坂、鼬坂、鼠穴(三田)など動物を元にした地名も多くありました。
また、江戸の間近な郊外として多くの樹木を有する藩邸(多くは隠居所などと使用されることが多かった下屋敷)がありさらに農耕地も多かった麻布には多くの野生動物が住み着いていたものと思われます。
明治になってもしばらくは東京の郊外という位置づけはあまり変化せず、藩邸は桑茶政策の畑地を経て再び明治の元勲などの屋敷となります。さらに、明治末期から大正時代にかけてそれまで郊外という位置づけであった麻布にも都市化の波が押し寄せ、大手デベロッパーの
開発が始まります。そして第一次世界大戦が始まると好景気により古川端の町工場に大量の労働者が流れ込み、その労働者の住まいとして、今まであまり活用されなかったような土地までもが宅地化されていきます。

この麻布開発を行っていた大手デベロッパーによりがま池周囲の整地と宅地化、西町周辺の分譲、仙台山と呼ばれた竹谷町域の分譲などが行われ、その頃から都市化が急速に進んで、狸坂からも狸が姿を消したといわれています。また関東大震災で破損した東京天文台が麻布台に再建されなかったのは、この宅地造営などによる麻布の都市化(夜間の光害)も一因とされているようです。
それでも、江戸、明治と受け継がれてきた大きな邸宅の庭にある屋敷林は多く残され、戦後も昭和40年代前半頃まではこの風情が残されていました。
しかし、その後邸宅のマンション化が始まると野生動物を目撃することも皆無となり、これまでお伝えしてきたように麻布における野生動物を扱う新聞記事もペット化された野生動物のみとなりました。

そして、野生動物が忘れ去られた頃に麻布に隣接する高輪支所でのハクビシン捕獲は私にとっては大きな驚きでした。さらにその後麻布中央部でもハクビシンが捕獲されることとなります。 
次回は麻布周辺でのハクビシン目撃をお伝えします。




◎麻布の野生動物-その2
 https://deepazabu.blogspot.com/2013/05/blog-post_20.html

◎麻布の野生動物-その3
 https://deepazabu.blogspot.com/2013/05/blog-post_21.html

◎麻布サル騒動
 https://deepazabu.blogspot.com/2012/11/blog-post_3.html

◎麻布七不思議-古川の狸ばやし
 https://deepazabu.blogspot.com/2013/04/blog-post_29.html

◎麻布を騒がせた動物たち
 https://deepazabu.blogspot.com/2012/11/blog-post.html












2013年5月16日木曜日

三の橋のバンビ


子鹿(参考画像)
1956(昭和31)年も押し詰まった12/7朝七時半頃、三の橋都電停留所前でピョンピョン跳ね回っている生後八ヶ月くらいの鹿の子供を通行人が見つけ、高輪署に届け出ました。

この様子は読売新聞12/7付夕刊で「麻布に迷子のバンビ」と題して取り上げられており、遺失物として届けられた子鹿が婦警さんとともに写真に収まっています。そして仮設の檻を作ったり、当時ミニ動物園でもあったのでしょうか、京浜デパートの動物飼育係を呼んで飼育方法を聞くなど高輪署が翻弄された様子が記されています。
そしてクリスマス近い師走の珍事件から、

トナカイなら師走の暮にジングルベルを聞いてのこのこ出かけて来たともうけとれるのだが....

と記事はシャレで結んでいます。

そして、翌12/8朝刊には早くも持ち主が引き取りに来たことが記され、麻布新堀町の工場主が庭で放し飼いしていたものが逃げ出した事がわかったと報じています。
昭和37年都電路線図
この記事の背景として考えられるのは、高度経済成長が始まり、町工場の経営者が庭で鹿を飼える環境を手に入れる事が出来るほどの好景気と、さらに1951(昭和26)年原語のまま公開されたディズニー映画「バンビ」がこの事件の前年1955(昭和30)年に、子供にもわかる日本語吹き替え版として再上映さてたことが大きく関係しているように思えます。 
麻布十番の理容エンドウ店主、遠藤幸雄著「麻布十番を湧かせた映画たち」 によるとこの「バンビ」は本国アメリカでは戦争中の1942年に公開されており、麻布での上映は昭和27年1/4~1/10まで、昭和33年2月(おそらく吹き替え版)の2回ようでともに麻布中央劇場で上映されているそうです。
この吹き替え版ディズニー映画の「バンビ」を見た娘から子鹿をねだられ、買い与えたお父さんという幸せそうな家庭の構図が想像されます。(あくまでも想像ですが)
しかし私には、子供じゃなくなった鹿がその後どのような運命をたどったのか、少々気になる所です。前回お伝えしたキツネ同様、動物園で飼育されていれば良いのですが、あわや......鹿肉?
(鹿だけにシカたがないというシャレは封印しておきます)
いいえ、この想像は夢が壊れてしまうのでやめておきましょう。

これまでも度々麻布の動物ネタをお届けしてきましたが、調べるたびに新しい記事が見つかり、この他、1882(明治15)年6/3付け読売新聞には、

麻布宮村町の民家で狸が住み着いたのですが、やさしい家主は大入道や小娘に化けて悪さをすることもない狸をそのまま住まわせていました。しかし、雌とつがいになり子供を産んで大所帯となって台所などを荒らし始めたので、しかたなく狸の家族を追い出してしまいました。すると畜生の浅ましさから恩義を忘れ、追い出されたことを恨んで毎晩小石を家の中に投げ入れることが続き、家主も困り果てた。

と伝えています。













より大きな地図で 麻布の旧町名(昭和31年) を表示















2013年5月15日水曜日

化けそこねた泥棒キツネ

1999年の夏に麻布でサルが逃げ回っていたのをご記憶の方も多いと思いますが、それ以前にも明治時代?竹谷町で起きた猿助騒動、大正時代ころまで実際に住んでいたといわれる狸坂のたぬきなど麻布と動物は縁が深いようです。今回はそんな麻布にキツネが出たというお話です。

1966(昭和41)年1/29付朝日新聞朝刊に、
化けそこねた"泥棒キツネ~麻布で野犬捕獲器にかかる
きつねイラスト(参考)
と題した記事が掲載されているのをみつけました。

記事によると麻布宮村町72番地(旧麻布保健所近辺)専売公社宮村寮近辺で、前年の夏ころから頻繁に各家庭で飼っていたニワトリが襲わるようになりました。寮の被害はシャモ5羽、またある家では十数羽全滅と襲われ続け、ついに近隣住民より麻布保健所に捕獲が依頼されることになりました。
当初野犬の仕業だと思った保健所は牛肉をぶら下げた捕獲器を設置したが、なにもかからず捕獲に失敗します。そして事件ははこのまま迷宮入りかと思われたころ、近所の子供が「キツネを見た」と言い出しました。だが周囲の大人たちはいくら何でも、こんな都会の真ん中でキツネなどいるはずがないと、まるで信じようとしなかったそうです。しかし保健所の技師の一人が「襲い方が犬とは違う」、「ニワトリばかりが狙われる」「骨まできれいに食べられている」と野犬説に疑問をいだき、生の鶏肉を捕獲器にセットしてある日の夕方裏の斜面に仕掛けました。すると早速、その日の夜8時ころに捕獲器に捕らえられ大暴れしている生き物を発見します。そして技師が近寄ってみるとそこには体長1.5メートルほどのキツネが捕獲されていたそうです。

当時小学校2年生であった私はこの寮のすぐそばに友人が住んでおり、頻繁に家にもお邪魔していましたが、この事件のことはまったく記憶にありません。そして私にとってはキツネがいたということよりも、宮村町の中でも割と高級な住宅街でその餌となったニワトリの飼育をしている家が多かったという事の方に驚きます。

記事を読んで、このあたりは狐坂からもそう離れていないので、もしかしたら昔から住み続けていたキツネかと一瞬思いましたが、残念ながら記事には、
捕獲されたキツネは首輪をしている
とあり、どこかで飼われていたペットのキツネであることが記されています。そして記事は最後に「捕獲したキツネは動物園に寄贈したい」と締めくくっており、この事件をまったく知らずにいた私も、遠足で上野か多摩の動物園に行った際、出会っていたのかもしれません。

 








より大きな地図で 麻布の旧町名(昭和31年) を表示










2013年5月14日火曜日

大蔵庄衛門の稲荷再建

仙台藩 麻布藩邸
天保八(1837)年の9月初め頃、麻布仙台坂にある伊達藩邸の長屋に大蔵庄衛門という能役者が住んでいたそうです。

ある晩、老翁が大蔵庄衛門の夢枕に立ち、
「私は稲荷の霊である。近年の出火にて祠が焼失し難儀している。そちの尽力で祠を寄進せよ!」

といいました。庄衛門は夢ながらも、

「自分は長屋住まいの身であり祠の建立など、とんでもありません。」

と答えました。すると老翁は、

「それはわかっておる!そちは力を貸せば良いのじゃ。寄進する気があれば出来るものじゃ!」

といい、場所は汐見坂(永坂脇の潮見坂か?)上原であるといい残し消えてしまったそうです。
ここで夢から覚めた庄衛門は、不思議な事もあるものと思いながらも、翌日使用人を汐見坂に行かせることとします。使用人が潮見坂に行ってみると、坂上に俗称「焼け跡」といわれる場所があり、確かに昔「原」と呼ばれていたとの事でした。

報告を受けた早速庄衛門も自身で出かけ、付近の者に話を聞くと、

「火事で焼け跡になる前に確かにここに稲荷があり、その後、焼け跡に小さな祠を建てて祭ったが、子供が遊んでいてひっくり返すなどするために、榎にくくり付けていた。しかし、その祠も最近の大嵐で跡形も無く飛ばされてしまった。」

とわれました。
ここの地主は下町の大家であると聞き、早速その大家を訪ました。そして、霊夢の事を話し土地を借用したいと切り出すと、何とその大家も老翁の霊夢で庄衛門の来訪を待ちわびていたといいます。さらに、あの土地は少しの借金のかたに取った物であるから、未練も無く、空き地総てを寄進しようと言い出します。 
これには庄衛門も驚き、貸してくれるだけで良いと押し問答となったが、とうとう地主に根負けして沽券、証文残らず庄衛門の物となったそうです。この土地に庄衛門が普請し、めでたく稲荷は戻ったのですが、この稲荷が在った場所を示すものは残されておらず、稲荷が流行ったと言う話しも残されていません。
最後に、この本の著者は全く不思議な話しであると結んでいます。


汐見(潮見)坂は現六本木五丁目12番あたりで東洋英和女学院の裏手にありますがその他、三田聖坂脇の潮見坂、そして虎ノ門二丁目にも汐見坂があり、どの坂を指しているのかは判断することができませんでした。


★関連項目

高尾稲荷

笑花園と仙華園









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2013年5月12日日曜日

猿助の塚


猿助の塚
以前DEEP AZABU GuestBookでchacaさんに投稿して頂いた「猿助の塚」を探しに、10年ほど前に行ってみた際の記録をご紹介します。
当時南麻布一丁目あたりを2時間以上かけて探し、韓国大使館警備のお巡りさんをはじめ、10人以上の地元と思われる方々にも「猿助の塚」聞いて廻りましたが結局見つける事が出来ませんでした。そこで一旦お茶を飲みながら作戦を建て直し、港区郷土資料館に電話でレファレンスをお願いしてみました。

レファレンスを受け付けて下さった方はとても親切で、探して折り返し携帯に電話を頂けるとの事で1時間ほどで連絡がありました。しかし、残念ながら資料がまったく無くてわからないとの事でしたのでしぶしぶ諦めて帰宅しました。


まぁ、この手の里俗の伝承はその継承範囲が非常に狭く、新しく住民になられた方などには伝わっていないことも多いので仕方がないと思っていたのですが、実は麻布で猿が逃げ回っていた「麻布猿騒動」当時、テレビニュースの関連事項としてこの「猿助の塚」が取り上げられ、簡単に伝承を紹介していたことがあり、今回はわからなくてもどこかに必ず塚は残されていると確信していました。

探索に失敗し、家に着いても塚が気になって本をめくっていると、たまたま塚の近所であろう仙台藩邸でおきた話が出ていました。その内容は、

塚近景
江戸の頃、仙台坂の中ほどにあった常鎖門(開かずの門)の内側の崖に大きな椎の樹があった。ある夜風も無いのにみしみしとすごい地響きがして樹は他の木も倒しながら根元から抜けてしまった。そしてその跡には底も知れぬ大きな穴があいていた。これを聞いた近隣のものたちは、龍が天に昇ったとか、天狗の仕業かと噂したという。

この本を見て天狗、龍がいるのなら猿もありと、DEEP AZABU掲示板で応援を依頼すると2日ほどで正確な場所と情報を詳しく知っている方を紹介して頂けるという内容の親切なメールを頂戴きました。(このメールが無かったらいまだに場所がわからなかったと思います。)

そこで再び南麻布を訪れ、紹介して頂いた
竹谷町に古くからお住まいのHさんの家を訪ねると、掲示板で教示頂いた方から私の希望をお聞きになっていて家の中に招いていただき、親切にお話下されました。

その内容は、Hさんの祖父が明治時代の話として語ったのは、

この場所は終戦までは高尾稲荷というお稲荷さんがあり、その境内に塚があった。その塚は、明治時代このあたりに悪さをする大猿がいて皆困り果てていた。そしてある人が、その大猿を捕まえて打ち殺してしまった。その猿を埋めた上に塚を置いて、慰霊をした。

そして終戦後、高尾稲荷は進駐軍の指令で麻布氷川神社の境内に移され竹谷町の元地は民間に払い下げられますが、猿の祟りを恐れた人々は塚をそのまま残して供養した。


氷川神社の末社
高尾稲荷
とのことです。しかし、いくら明治時代とはいえ、野生の猿がいたとは考えにくく、飼い猿が逃げたとも考えられますが、以前の麻布サル騒動もあり、また狸坂あたりにも大正時代まで本当に狸が居るのを目撃したという話も残っていますので、あながちペットともいえず、真偽は定かでありません。

Hさんはその他にも、昔の古川の様子、東町小学校、仙台山の分譲、空襲後の十番などの話を聞かせていただき、大変に貴重な情報を頂きました。最後にHさんが「竹谷町はまだ自前で町内神輿がかつげるんですよ」と嬉しそうに語った笑顔がとても印象的でした。Hさんchacaさん本当にありがとうございました。

さらに後年近隣の方にお話を伺うと、


異説その1

明治頃お屋敷の飼猿が逃げ出し、悪さをしたためこのあたりで猟銃で射殺し慰霊のため塚をこしらえた。
高尾稲荷は進駐軍の指令ではなく、持ち主が代替わりの際に氷川さまに移転させてもらった。
異説その2

昭和の5~6年頃、町内で悪さをする猿が出没した。あまりにいたずらが過ぎるので警察に頼んで射殺してもらった。どこで飼われていたかなどは不明。その後町民があわれんで墓を建てた。
お稲荷さんを氷川神社に移設する際、墓も一緒にとの話も出たがたたりを恐れてそのままになっている。
「その2」はいつもお世話になっている仙華氏が土地の古老に伺った話をDEEP AZABUに教えていただきました。仙華さんご協力ありがとうございました。










大正11(1922)年ころの麻布竹谷町辺










※ この猿助の塚は公共の場所ではなく個人の敷地内にあります。
  勝手に敷地内に侵入すると「無断侵入」となる恐れがありますので、
  敷地の持ち主に了解を得てお参りをされることをお願い致します。





◆関連項目  

  ・麻布サル騒動  

  ・高尾稲荷神社

笑花園と仙華園