新撰組の
沖田総司は幼名を惣次郎といい、麻布桜田町の陸奥白河藩10万石阿部能登守下屋敷で生まれたといわれています。
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大向山三光院専称寺 |
父の勝次郎は、 二十二俵二人扶持の「武家奉公人」と言われる最下級の武士でした。総司が数えで二歳のときに父勝次郎が死亡すると、藩は惣次郎が家督を継ぐことを許さず財政難を理由に沖田家を解雇します。
母親と二人の姉、幼い惣次郎だけになった沖田家は、翌年惣次郎と11歳違う長姉のミツに日野の井上林太郎と言う婿を迎えて沖田家を継がせました。その後、藩下屋敷を追い出された一家の足跡を残したものは一切なく、不明です。しかし林太郎の実家のある日野に住み、農耕などで生計をたてたものかもしれないと記述された本もあります。
その後9歳になった惣次郎は沖田家の「口減らし」のため、市ヶ谷の高良屋敷で試衛館という剣術道場を開く近藤周助の内弟子となります。
試衛館は天然理心流という流派を伝えていましたが、実質本位のそれは江戸市中では「いも剣法」と呼ばれ、試衛館も「いも道場」と呼ばれていました。
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沖田総司墓所 |
しかし、この「いも剣法」には隠れた需要がありました。それは江戸草創期、大久保長安により結成され、中仙道からの江戸攻撃を守るため半士半農の生活をかたくなに守り続けてきた「八王子千人同心」に感化された多摩地域の農民達です。彼らにとっては、形式美の剣術よりも「いも剣法」と呼ばれ、実戦的な天然理心流の方が向いていました。しかし農民であるために、田畑を投げ打って江戸市ヶ谷まで通うことは出来ません。
そこで自然と近藤周助の方が多摩に出向き稽古をつけることが始まったそうです。このため多摩地域の豪農には物置や離れなどに道場を持つものが多かったと伝わります。
試衛館の内弟子となった惣次郎ですが、実質は下男並の扱いだったそうです。あまり好かれなかった近藤周助の妻から朝から晩までびっしりと家事、道場の掃除を言いつけられ、剣術の稽古もままなりません。
あまりの激務に9歳の惣次郎は幾度と無く涙をこぼし、姉家族の暖かさを思い出します。そんな惣次郎の心の支えになったのは、内弟子になって初めての剣術の稽古中に、
「この子供には、剣才があります。」
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江戸期の阿部家下屋敷
と専称寺 |
と近藤周助に助言した男の言葉でした。男は、老いた道場主近藤周助のかわりに普段稽古をつけていた島崎勇である。彼もまた、多摩調布上石原村の豪農の三男でした。口が大きく武骨な顔立ちの島崎は、その印象とは反対に酒も飲まず、大福餅の好きな温厚な性格の男でした。そして彼が後に新撰組隊長になる、近藤勇です。やがて二人は新撰組として京都の町の治安をになうこととなります。
そして明治維新の慶応四(1868)年、沖田総司は近藤勇の板橋での斬首を知らないまま、結核により千駄ヶ谷で死去したと伝わっています。そして享年には、24歳、25歳、27歳の諸説あり、辞世の句は、
「動かねば 闇にへだつや 花と水」
とされています。そして遺骸は沖田家の菩提寺であり、自身が生まれた白河藩下屋敷のすぐ目の前にある大向山三光院専称寺(
港区元麻布3丁目1-37 )に葬られています。
※現在専称寺は墓所内へ入ることを禁じています。しかし、墓所脇の道路からも十分確認すること
が出来、また墓所沿いの壁には参拝のしかた等も記されていますので、これを遵守することを
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参拝方法掲示板 |
お願いします。
★付記
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妙光山真浄寺 |
麻布域にはこの沖田総司の他に、もう一人新撰組隊士の墓があります。それは、飯倉交差点近くにある妙光山真浄寺(
港区麻布台2-3-18)に葬られている
池田七三郎(稗田利八)の墓です。
○最後の新撰組隊士池田七三郎墓
嘉永2(1849)年11月上総山辺郡で商人の三男として生まれた稗田利八は16歳で江戸に出て、天野精一郎の道場で剣術を学び、旗本の家臣となりました。その後18歳で
「池田七三郎」という名前で新選組に入隊し、鳥羽伏見の戦いから会津まで参戦します。
猪苗代では隊長付けとして参戦したが敗戦。その後会津に残留中官軍に襲撃され戦死したと伝えられましたが、逃げ延びて銚子警備の高崎藩兵に投降し、東京に護送されました。
そして1年間の謹慎を経て放免となり、その後の人生を商人として過ごしました。そして時代は下って昭和4(1929)年、東京富ヶ谷(渋谷区)で子母沢寛の取材を受け回顧録「新選組聞書」を口述します。その後も1938(昭和13)年まで天寿を全うし、90歳で逝去しました。
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稗田家・稗田利八墓所 |
真浄寺さんを訪問したとき、参拝させて頂いた
池田七三郎の墓石には多くの傷があったのでご案内頂いた住職にお聞きすると、戦争中艦載機の銃撃を受けた跡とのことでした。
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稗田利八墓 |
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