2013年9月7日土曜日

麻布氷川神社祭礼の謎

今月14日に例祭を迎える麻布氷川神社ですが、この神社の江戸期の祭礼について調べていると、
天保三年 麻布氷川大明神
御祭禮番付①
年代によって祭りの有り様などが現在とはだいぶ違うものであったことがわかりました。 そしてそのありさまは現在本村町会に保存されている二体の山車人形と獅子頭に込められた製作意図にも反映されているものであることがわかってきました。

天保三(1832)年に描かれた「麻布氷川明神御祭禮番付」にはたくさんの山車が描かれていますが、神輿は宮神輿と思われるものが最後列にあるだけです。
これについて「江戸神輿」(小沢宏著)という書籍の中で麻布氷川神社宮神輿を作成した「宮惣」の五代目村田桂一氏が「江戸神輿の歴史」と題した文中、
~略~東京で祭りといえばすぐに神輿を連想するほど、祭りと神輿をきり離しては考えられない。~中略~しかしかつて江戸の祭りの主役は山車によってしめられていた。 ~中略~山車は神輿よりもはるかに大きく、構造上の制約がないので工夫の余地もあり、奇抜な趣向をもりこむことも自由で、作るほうの立場から見ても好適な素材 といえる。~略~
などと記しており、江戸期における祭りの主役が山車であったことを伝えています。そして同時に山車の豪華さと自由な発想が時には幕府の禁忌に触れたとされており、 さらに明治初期に山車から
天保三年 麻布氷川大明神
御祭禮番付②
神輿へと祭りの主役が変遷した事情を、
・国家神道設立に向けた法令等の変更
・電灯線敷設
・市電開通
など首都ならではの「近代化」という事情をあげており、またこの主役交代は東京以外にはあまり見られないと、神輿主役への変遷を東京独自のものとしていいます。

また、江戸期の祭りについて、
~江戸時代の祭礼で隔年毎に行われていたのは、山王、神田の両社だけで、その(他の)神社の祭礼は必ずしも定期的に行われていたとはかぎらない。
深川八幡では寛政7(1795)年から文化4(1807)年の12年間、浅草三社では天明元(1781)年から文政6(1823)年の四十三年もの長い間祭りが途絶えていたとは、 今日の両社の祭りの盛況を知るものにとってはまさに驚異的な事実である。
このように天下祭偏重の中にあって、江戸の各神社は何年かに一度の祭礼をそれぞれの慣習と世情にあわせてとり行ってきたが、すべての神社に神輿が 整備されているという状態ではなかった。~
と記しており、享保二十(1735)年の記録で「麻布氷川毎年例祭」と記録されているのも、祭礼が毎年行われていたことの特異性を訴えたかった事によるのかも知れません。 しかし麻布氷川神社の
本村町会所蔵獅子頭と山車人形
祭礼も、上記村田桂一氏文章にもある事情から時々の慣習と世情にあわせてとり行われていたことが想像できます。
麻布氷川神社の祭礼は文政五(822)年から天保3(1832)年まで10年間祭礼が開催されなかったとの記述がありますが、天保三(1832)年の祭礼時には 祭礼番付も発行され、また同年には武内宿弥人形(本村町会に現存)が制作されています。 しかし、この年に発行された「麻布氷川明神御祭禮番付」には何故かこの武内宿弥人形は描かれていません。いづれにせよ当時行われた麻布氷川神社の祭礼は化政文化のまっただ中である氏子や氏子町会らの熱望等の世情の高まりから華美な傾向で行われた様子がうかがえます。

そして30年後の文久二(1862)年には名工後藤三四郎により本村町の獅子頭が作成されます。この時代は武内宿弥人形が制作された30年前とは世相が一変しており、世の中は幕末攘夷運動のまっただ中でした。 獅子頭が作成される四年前の安政6(1859)年にアメリカ公使館が麻布山善福寺に設置されたことによる襲撃事件や暗殺事件が麻布周辺で頻発するに及んで、それまで遠い世界の事であった「攘夷」がごく身近な問題として 麻布氷川神社氏子町会や住民にのしかかってきたことが想像されます。

獅子頭は祭りの山車や神輿の巡行では行列の先頭を進み、魔を払う役割を担っていました。想像の域を出ないのですが、この時期に獅子頭を新調したのは祭礼の神輿・山車の巡行道中の間近にいる夷狄(アメリカ公使館員やその場所を訪れる諸外国外交官など)を打ち払い、 祭礼中に攘夷事件が起こらないようにとの願いが込められたものと思えてなりません。








いずれにせよ、多くの住民の不安と切なる願いが込められて作成されたと想像される本村町の獅子頭は、その願いを現代に伝えています。

この貴重な山車人形と獅子頭は当時のままの姿を現在も本村町会が保存しており、麻布氷川神社祭礼時のみ本村町会神酒所で公開されています。










麻布本村町会所蔵山車人形由緒書














麻布本村町会所蔵獅子頭 由緒書


















麻布氷川神社祭礼と一般的な歴史的事象
西暦年号麻布氷川神社祭礼関係事象一般的事象将軍
1735年享保20年8/17麻布氷川毎年例祭享保の改革・享保の大飢饉(1732年)8代吉宗
1791年寛政3年8/17麻布氷川明神祭礼、出し練物等出る。其の後休寛政の改革(1787~1793年)11代家斉
1822年文政5年8/17麻布一本松氷川明神祭礼再興。産子町々出し練物を出す。其後中絶す。町人文化が爛熟(化政文化)・シーボルト長崎に到着(1823年)
1830年文政13年祭礼番付
1832年天保3年武内宿弥人形制作祭礼番付
8/17麻布一本松氷川明神祭礼。四十年目にて産子の町々よりねり物等出る。(文政5年に記載あり。十年ぶりの誤りか)
1838年天保9年8/17麻布一本松氷川明神祭礼。十五日神輿宮下町の仮屋へ御旅立出あり。今日産子町々廻りて帰輿あり。蛮社の獄(1839年)・天保の大飢饉(1833~37年)・伊勢お陰参り流行 12代家慶
1862年文久2年9月 獅子頭制作ヒュースケン暗殺(1861年)・生麦事件(1862年8月)・清河八郎暗殺(1863年)14代家茂
麻布氷川神社の祭礼期日は「東京、わが町 宮神輿名鑑」(原義郎 著)巻末の江戸東京祭礼神輿年表より抜粋


2013年9月6日金曜日

麻布本村町の山車人形と獅子頭(その2)

以前お伝えした麻布本村町の山車人形と獅子頭(その1)の続編として今回は「その2」をお伝えします。

麻布南部(現在の南麻布1~3丁目付近)の麻布本村町は麻布の中でも早くから人が住み着いたところで、その名が示すとおり 麻布の中心的な集落であったといわれています。江戸中期この周辺が、それまでの江戸郊外の「村」から、正徳三(1713)年に江戸町奉行支配下の「町」に編入され 町域となった後も「本町」とは名乗らず「本村町」であった(同様の町名として「宮町」とはならなかった宮村町があります)。そして港区南麻布という無味乾燥な住居表示となった現在まで本村町の名を町会名として残し、 その由緒を伝えています。さらについ近年まで江戸期に町域を更に分割した「(あざ)」名を一時期町会名として残しており、その字名について 本村町会史(久松安 著)には、
~北東の方を「谷の戸」、北の方を「上之町」、西の方を「西之台」、南を「絶江」、延命院の南隣りの町家を「仲南町」と呼んだ。また、曹渓寺門前を 「大南町」と呼び、西福寺あたりを「川南町」と称した。

寛文元年、仙台の松平陸奥守が巣立野に下屋敷を賜るにおよんで、上之町から四の橋に通じる「海道」が新しくできて、道筋に面した町屋を「新町」と呼んだ。~
また、麻布区史は、

○上之町
北の方を指して呼ぶ。
○谷戸町
東北を云った。
○西之台
西の方を指す。一に御殿新道とも云った。これは地続きに白金御殿があったからである。 西の台は単に西に当たる高台と云う意に外ならない。
○絶江
一に絶口に作る。南の三ヶ町、即ち川南町・大南町・仲南町を呼んだ。この称は此の地の曹渓寺を開いた僧絶江和尚徳の成らしむるところである。
○川南町
新堀端とも称し、新堀川南を指す。
○仲町
新町とも云い、絶江の方面を別称した。
と、本村町における字の成立を伝えています。

さらに本村町を南は四之橋にい至り、北は麻布氷川神社~一本松~暗闇坂~鳥居坂を通る往還の尾根道と新たに作られた道筋である「新道」について「御府内備考」を引用して、
往古本村往還は同所東の方町裏に有之、奥州海道と申候。寛文元年丑年中松平陸奥守様御屋敷に相成候節右古道は御同人様御預り地に相成、新に道筋出来致候故新町と唱候 尤其砌は不残百姓商売家に御座候。~  
と、伝えています。


現在港区内で最大の管理区域を有する本村町会には、江戸期から伝わる麻布氷川神社の祭礼に使用された町神輿・山車の装飾品が残されており、その代表的なものが 毎年、麻布氷川神社例大祭時のみ本村町会神酒所に展示される、江戸後期の獅子頭一対と山車人形二体です。



○素盞鳴尊・武内宿弥の山車人形  
      
山車人形と獅子頭
本村町会神酒所の山車人形と獅子頭
   
「素盞鳴尊」山車人形
「素盞鳴尊」山車人形
   
「武内宿弥」山車人形
「武内宿弥」山車人形
      
武内宿弥山車人形の由緒書
本村町会神酒所の山車人形と獅子頭
山車人形の素材は「素盞鳴尊すさのおのみこと」と「武内宿弥たけのうちのすくね(別名:高良大神こうらおおかみ)」で素盞鳴尊は氷川神社のご祭神、武内宿弥は天皇を補佐した忠臣として、どちらも山車人形の素材として比較的多く使われています。 この武内宿弥を素材とする場合、神功皇后と対になっていたり、武内宿弥が幼い応神天皇を抱いているものもよく見かけることがあります。 この応神天皇は大宮氷川神社を勧進したという伝説もあり、氷川社とのつながりも浅からぬものがありますが、残念ながら本村町や他町会に応神天皇の山車人形があったのかは確認できていません。 また応神天皇の別称:誉田別尊命ほむたわけのみことは一般的に八幡神社の祭神であり、御田八幡神社においても主祭神として祀られている神様です。 

そして、同じく本村町会に保存されている昭和45(1970)年に書かれた武内宿弥人形の由緒書には不思議な文言が残されています。 天保3(1832)年に武内宿弥人形が作成された事と共に記されている武内宿弥の経歴は、明らかに御田八幡神社の由緒書きと同一の文章です。

御田八幡神社の遷座遍歴を見ると武蔵牧岡で勧進されたことが記されており、武蔵牧岡は現在の白金・三田周辺と いわれていることから、本村町の一部も牧岡であったとしても不思議ではありません。(麻布御殿が別称:白金御殿と呼ばれていたのと同義) そして本村町の一部の「字」が御田八幡神社の氏子であった可能性も、確証はないが否定もできないと思われます。 

そこで「武内宿弥人形の由緒書」を港区郷土資料館の学芸員にお見せしたところ、前半の御田八幡由緒部分と中盤以降の山車人形作成にまつわる部分は元々違う文章を、昭和45年に一つにまとめたものではないかという見解を示されました。 しかし、私にはこの由緒書は御田八幡と本村町の「いにしえ」のつながりを伝える文言に思えてなりません。

武内宿弥人形は近年、顔の塗り直し・衣装の一部を修復しており、素盞鳴尊人形も胴部の破損により展示が控えられていましたが、現在は修復した上で再び展示が行われています。 この二体の山車人形を修復保存するために昨年、「NPO法人 麻布氷川江戸型山車保存会」が立ち上がったそうで、将来は山車部分まで含めた完全復刻をするための活動が開始されるとのこと、今後の活動が楽しみです。 



○獅子頭
山車人形と共に本村町会には江戸期の獅子頭も保存されています。この獅子頭は雌雄1対の二体あり、由緒書によると文久2(1862)年作成とされています。 これは前述した山車人形が作成されてからちょうど30年後のことで、当時は主に氷川神社の宮神輿渡御の際の行列の先頭を進み、 巡幸路を清め祓うために使用されていたといわれています。時代は下りますが昭和10(1935)年に現在の千貫神輿が新調されたおりの巡行絵図が本村町会会館に残されており、その時の巡行にも先頭付近にこの獅子頭を見ることが出来ます。 そして、それ以来二度と行われなかった麻布氷川神社の宮神輿である千貫神輿巡行に変わって、つい最近までこの獅子頭を神輿に仕立てて本村町内を巡行していたそうです。

なを、この獅子頭の脇に展示されているのは四神の「青龍」と「朱雀」ですが、本来存在したと思われる「玄武」と「白虎」の行方は不明とのことです。  
   
獅子頭(雄獅子)
獅子頭(雄獅子)

   
獅子頭(雌獅子)
獅子頭(雌獅子)
   
獅子頭由緒書
獅子頭由緒書




獅子頭の由緒書で目を引くのは製作者「後藤三四良(郎) 橘恒俊」です。この彫刻師は山車彫刻・寺社彫刻でかなり有名であるようです。天保元(1830)年生まれとの ことなのでこの獅子頭を 作成したのは、恒俊が32歳のときとなり、また千葉を中心として寺社彫刻や山車への彫刻を手がけた彫刻師後藤義光の兄弟弟子であったようで、 父の「三次郎 橘恒俊」は京橋在住。恒俊の名は世襲であったと思われ、明治8(1875)年生まれの三四郎恒俊の子供である3代目恒俊も三四郎恒俊を名乗っています。 

また制作世話役の最上段に書かれている「氷川徳乗院現在栄運」とは、江戸時代すべての神社は別当寺に所属しており、 その寺の住職を別当(社僧)と呼びました。この別当は神事も行っていたので「栄運」という別当が麻布氷川神社の社務も執り行っていたものと考えられます。
★徳乗寺(徳乗院)
真言宗 (古義真言宗 冥松山 徳乗院  芝愛宕 真福寺末寺)
元文5(1740)年開基寂 氷川及び朝日稲荷別当 享保20(1735)年北日ヶ窪より本村に移り維新後廃絶(麻布区史)



○郷土資料館調査  
 





天保三年 麻布氷川大明神 御祭禮番付①

天保三年 麻布氷川大明神御祭禮番付①



天保三年 麻布氷川大明神 御祭禮番付②

天保三年 麻布氷川大明神御祭禮番付②








平成20年から平成21(2009)年にかけてこれらの祭礼用具について港区郷土資料館の調査が行われた。 その結果を「麻布氷川神社祭礼関係資料調査概要報告」として報告書が作成されその成果を、

★調査成果

  1. 山車人形2点  文久二(1862)年
  2. 獅子頭1対(2点)
  3. 幕5点
  4. 屏風1点
  5. 置物(鳳凰・龍)各1点
  6. 御神銘軸物1点
  7. 「氷川社」扁額1点
  8. 「麻布上之町」扁額1点
  9. 昭和41年銘扁額1点
  10. 神酒徳利4点(供箱) 文政十(1827)年
  11. 祭礼絵額1点 昭和10(1935)年

と、記しています。また調査の結語として、

★結語

麻布氷川神社祭礼は、記録によれば天保3(1832)年に山車の巡行を伴う大規模な祭礼が行われなくなったとされますが、その30年後に 一対の獅子頭が奉納(または制作)されていることは、祭礼の変化を考える上で重要です。現在判明している文政13(1830)年・天保3(1832)年 のいずれの祭礼番付にも獅子頭は描かれておらず、文久2年以降に何らかの理由があって祭礼に獅子頭が登場するようになったと考えられますが、 その理由や祭礼での位置付けは今後の課題といわねばなりません。麻布本村町会が管理しているこれらの祭礼用具は保存状態が良好で、 しかも複数の関連資料が周辺に存在します。今後は現地での聞き取り調査を深め、祭礼用具個々の詳細な記録化を行う予定です。
末筆になりますが、この調査に多大なご理解とご助力を惜しまなかった麻布本村町会各位に、深甚の謝意を表します。
などと報告されました。 



これらの貴重な江戸期麻布氷川神社の祭礼用品が本村町に残されているのは、幕末の動乱や震災、戦災そして、バブル期のなんでも金銭化してしまう発想から地元住民が全力で守ったことに 由来していると考えられます。つまり歴史的な資産が残されているのは単なる偶然ではなく、地域住民・町会関係者などの大変な努力の末に現在も引き継がれていると考えるのが妥当であると思われます。 

そして、麻布氷川神社の祭例時、本村町神酒所で年に一度のみ公開されるこの貴重な獅子頭・山車人形を、一人でも多くの方がご覧頂くことを願ってやみません。

◎ 2013年麻布氷川神社例大祭 : 9/14()・9/15(






○関連項目

むかし、むかし1-8 氷川神社
むかし、むかし12-199 本村町獅子頭の彫工 後藤三四郎橘恒俊 
釜無し横丁
むかし、むかし1-17 三田小山町
むかし、むかし4-65 徳川さんのクリスマス~麻布本村町(荒 潤三著)より
二つの東福寺の謎



○参考書籍・資料

・本村町会保存資料集
・麻布区史
・本村町会史
・江戸木彫史
・江戸神輿
・麻布氷川神社祭礼関係資料調査概要報告

2013年9月2日月曜日

シーボルトの見た麻布

「赤羽接遇所」跡の飯倉公園

1859(安政6)年7月6日、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと長男のアレクサンダーはイギリス客船イングランド号で長崎に入港した。来日は2度目となるシーボルトは、前回来日時に妻となった滝、娘のイネと1830(天保元)年12月7日以来29年ぶりの再会を果たした。そして、前回27歳の時に来日し34歳でいわゆる「シーボルト事件」で国外退去を申し渡されるまで日本に滞在したシーボルトも63歳となっていた。

前回の来日はオランダ軍医としての来日で秘密裏に諜報活動もその任務として与えられていた(一介の軍医としては不相応の大金を所持し、それにより日本にちなんだ物品・情報を大量に収集していた)が、今回は政府の公式な肩書きはなく、民間の和蘭商事会社(国営の出島商館を解体して民営化されたものだが)顧問としての来日で、日蘭通商条約改正案の持参とコレクションの収集という目的もあった。そして目的を達し和蘭商事会社との契約を終了したシーボルトは長崎滞在中に幕府の外交顧問を依頼され、江戸出府を促された。これにより1861年3月3日シーボルト父子・三瀬周三一行は長崎港をあとに横浜へと向かった。


父子は1861(文久元)年3月10日横浜へ入港し外国人居留地で幕府からの指示を待つ。その間に多くの外国人商人や外交官と親交を深め、特にフランス公使ベルクールとは頻繁に付き合うようになった。
幕府から江戸行きの許可が下りたのは5月になってからで、5月10日の朝、船で神奈川まで行きその先は駕篭に乗って江戸入りを果す。そして一行は夕方、幕府から宿舎に定められた芝の赤羽接遇所に到着した。 (駕籠はフランス公使ベルクールの好意により自身のものを貸し出されたといわれる。) その時の様子を、


~海岸に通じる街道を通り、辻々には木戸や矢来があって閉じられるようになっていて、傍らに火の番小屋のある所を通り過ぎると、赤く塗った門のある有馬候の屋敷の向い側にある、黒い塀で囲まれた玄関前の庭を通って、私たちの宿舎、赤羽接遇所に着いた。~

とアレクサンダーは、書き残している。


赤羽接遇所に着くと役人、日本側通訳、目付などに出迎えられ、その後外国奉行新見伊勢守の来訪により将軍からの贈り物を拝領した。赤羽接遇所には条約締結のため直前までプロシア使節団が滞在しており、建物の柱や壁にはプロシア兵たちの落書きやジョークなどが掘り込まれていたという。

江戸滞在時におけるシーボルトは「幕府の外交顧問」、「西洋文明の伝達者」として講義・面会・助言など多忙を極めた。
また、各国公使、幕府外国担当の要人などに意見具申を重ねたが、滞在直後の5月28日深夜、東禅寺襲撃事件がおこるとその事後処理に忙殺される。そして、シーボルトはオランダの公式な外交員ではなく幕府に雇われた外交顧問という立場から各国代表の反感を買い、横浜で静養し再び江戸に戻った8月15日以降、特にオランダ公使デ・ウィットとの関係は冷ややかであったという。そして9月にはデ・ウィットから頻発する外国人襲撃から身を守るためと称して江戸退去を迫られる。しかしシーボルトはオランダの警護は求めずとして退去要請を無視すると、デ・ウィットは各国代表らと幕府にシーボルトの解雇を求め、無理やりに認めさせてしまう。失意のシーボルトは10月15日ついに江戸を離れ、横浜へと向かった。ここで長男のフィリップは英国公使館の通訳官として正式に任官し江戸へと戻ることになり(父シーボルトは息子がロシア海軍の士官になる道を設定していたが、フィリップの意向を尊重してのイギリス公使館勤務となったという)、これが父子の永遠の別れとなった。その後、横浜から船で長崎に戻ったシーボルトは妻のたき、娘のいね、門弟などに送られて1862年4月30日午前10時、シーボルトを乗せた船は出港し日本を後にした。

以上がシーボルト2回目来日時江戸滞在のアウトラインだが、この期間のシーボルトと麻布の関連キーワードは「善福寺」である。

麻布山善福寺さかさ公孫樹
麻布山善福寺さかさ公孫樹





シーボルトは江戸に到着した直後の5/20・5/21・5/22をはじめとして江戸滞在中、日記に記載されたものだけでも合計9回もハリスを善福寺に訪問している。当時江戸には、アメリカ公使館が麻布山善福寺、イギリス公使館が高輪東禅寺、フランス公使館が三田済海寺、オランダ公館が伊皿子長応寺などにあるが、その中でアメリカ公使館は最初に江戸進出したことから持つ豊富な情報、ヒュースケン事件(シーボルトはヒュースケンが殺害された事を当時滞在していた長崎で事件の詳細を聞き知っていた。)の真相と進捗などを聞き、イギリス公使館は高輪東禅襲撃事件関連での訪問が続いたと考えられる。

そして特筆すべきは5月22日善福寺にハリスを訪問したさいに「逆さいちょう」の観察とヒュースケン・伝吉の墓参を行ったことである。

5月22日、善福寺のアメリカ公使館にハリスを訪れ「逆さ銀杏」を見たシーボルトは、

正午、ハリス邸へ。ヒュースケン、伝吉の墓参り。ハリス邸の寺院の境内に周囲30フィートの太さのイチョウがある。この巨大な樹は、枝分かれの下、高さ12から18フィートあたりの幹から、太さ3から5インチの太い根{気根}が出ている。東ロシアのヴァリンピの樹に似た形である。

私はイチョウの一本を江戸の近くの寺で観察した。その寺は、アメリカ公使館に譲ったものであるが、木は周囲7m、高さがおよそ30mもある

   
ハリスによって造られた ヒュースケンの墓標
ハリスによって造られたヒュースケンの墓標
   
ヒュースケン墓の正面にある伝吉(DAN KUT)墓
ヒュースケン墓の正面にある伝吉(DAN KUT)墓
   
伝吉(DAN KUT)墓の 碑文表面(英文)
伝吉(DAN KUT)墓の碑文表面(英文)
   
伝吉(DAN KUT)墓 の碑文裏面 (和文戒名)
伝吉(DAN KUT)墓の碑文-裏面(和文戒名)


と、帰国後「1886年ライデン気候馴化園の日本植物。説明付き目録の要約と価格表」に記しているが、シーボルトが「逆さ銀杏」を観察し記録した事実はほとんど知られていないという。(シーボルト波瀾の生涯より)

その後、同じ日に麻布光林寺で中の橋近辺で襲撃され命を落とした「ヒュースケン」の墓とその傍らにある イギリス公使館通訳伝吉の墓を参拝した。そして両者の墓碑銘を比較して「静と動の不思議な対比である」と覚書に記している。


(ヒュースケン墓碑銘)

      日本駐在アメリカ公使館付通訳ヘンリック・ヒュースケンの御霊に献ぐ。
      1832年1月20日アムステルダムに生まれ、1861年1月16日江戸にて死去


(伝吉墓碑銘)

      伝吉Dan kutchiイギリス使節団付日本人通訳は、1860年1月29日、
      日本の暗殺者たちによって殺害された


















1861(文久元)年シーボルトの江戸滞在
出 来 事
5月 10日 横浜から神奈川を経由して陸路赤羽接遇所に夕方到着
11日 赤羽接遇所員の勤務名簿を受け取る
20日 善福寺にハリスを訪問
21日 善福寺にハリスを訪問
22日 正午再び善福寺にハリスを訪問し「逆さ銀杏」を見る。その後光林寺にヒュースケン、伝吉の墓参。
29日 早朝3時半高輪東禅寺襲撃の知らせがあり、5時過ぎに25人の護衛に守られて東禅寺を訪問し負傷者を治療。
帰路善福寺にハリスを訪問。接遇所も厳重警備となる
30日 高輪東禅寺の英国公使館にイギリス公使オールコックを訪問
6月 3日 安藤対馬守屋敷にて会談。東禅寺襲撃事件の話など
5日 外国奉行鳥居越前守、イギリス公使オールコックが赤羽接遇所を来訪
6日 外国奉行新見伊勢守来訪、水野筑前守らが来訪
15日 子息アレクサンダーが父シーボルトの書簡を持ち善福寺を訪問
17日 善福寺にハリスを訪問、イギリス公使との調停を斡旋
20日 外国奉行津田近江守と会談。赤羽接遇所に新たに警護所が設けられ警備が強化される
7月 1日 冶金学の講義
3日 外国奉行野々山丹後守来訪
10日 遣欧使節団の計画案を作成
11日 子息アレクサンダー誕生日。父シーボルトはマホガニーの箱に入った2連銃を贈る
12日 将軍侍医団が来訪。その中の一人、伊藤玄朴は鳴滝塾出身でシーボルトの門弟
13日 前日善福寺で暴動(発砲事件)が起こり、赤羽接遇所も厳重警備となる
15日 善福寺にハリスを訪問
16日 将軍侍医戸塚静海来訪。静海は鳴滝塾出身でシーボルトの門弟。仏公使ベルクール来訪
22日 船で江戸から横浜へ出立。途中鈴ケ森で20歳の娘が放火犯として火あぶりの刑に処せられるのを
偶然見る。※この処刑は八百屋お七ではない(お七の処刑は天和3年(1683)3月29日

7/22-8/14、この間、シーボルト父子は横浜に滞在
8月 14日 朝7時、江戸へと出発
15日 江戸に帰着したことを外国奉行に知らせる。道中で家々の玄関に「月見の祭り(仲秋の名月)」の飾り付けがあるのを見る。
16日 ハリスを訪問
20日 浅草寺へ 芝田町波止場より船で浅草へ浅草寺参拝。浅草では外国掛役人が密かにハリスの警護をした
21日 採鉱学の講義
23日 津和野藩主亀井隠岐守の侍医、池田多仲が来訪
9月 5日 ハリスとクラークが来訪
6日 ハリスとクラークが来訪
7日 善福寺にハリスを訪問
10日 外国奉行水野筑前守来訪。幕府が江戸退去を懇願していることを告げられる
15日 冶金学講義
25日 外国奉行で遣欧使節大使の新見伊勢守、新任の外国奉行、竹本隼人正、根岸肥前守来訪
10月 11日 子息アレクサンダーが横浜に出発
14日 善福寺にハリスを訪問
15日 江戸を出発し横浜に向かう。
(シーボルト日記より抜粋)




1861(文久元)年各国公使館・施設所在地
名 称 公 使 所在地・地図 創設時期 備 考
赤羽接遇所
講武所付属調練所跡 1859(安政六)年8月~ ロシア領事ゴスケビッチ、プロセイン使節オイレンブルグ、シーボルト父子などが滞在
アメリカ公使館 ハリス 麻布山善福寺 1859(安政六)年6月8日~ 子院善光寺はヒュースケン宿舎
イギリス公使館 オールコック 高輪東禅寺 1859(安政六)年6月4日~ 公使館通訳伝吉刺殺事件・2回の高輪東禅寺襲撃事件
フランス公使館 ベルクール 三田済海寺 1859(安政六)年8月29日~ 江戸で3番目の外国公使館。公使館の旗番ナタールが同地にて襲撃され負傷した三田聖坂上にある
オランダ公使館 デ・ウィット 伊皿子長応寺 以前よりカピタン出府時に使用 この時期オランダは長崎出島内に本拠があり公館ではなかったがカピタン出府時などに使用された。この寺は後に写真家ベアトのアトリエが併設される。公館は安政6年に西応寺に設置されたが、慶応3年薩摩藩邸焼き討ちの際西応寺が類焼しここ伊皿子の長応寺が公使館となった。一時期、スイスの公使館員が寄宿していた時期もある。寺は明治期に北海道に移転し現在はマンションとなっている。




      
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板①
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板①
      
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板②
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板②









赤羽接遇所跡

赤羽接遇所は、安政六年(1859)に、これまで講武所付属調練所であった地に設けられた外国人のための宿舎兼応接所である。同年八月に作事奉行関出雲守行篤らによって建設された内部は間口十間、奥行二十間のものと、間口奥行十間のものとの二棟の木造家屋から成っていた。
幕末にわが国を訪れたプロシャの使節オイレンブルグは、上陸後直ちにここを宿舎として日普修好通商条約を結び、またシーボルト父子やロシアの領事ゴシケビチなどもここに滞在し、幕末における外国人応接の舞台となった。

昭和四十八年三月

東京都港区教育委員会









参考文献
・シーボルト日記・再来日時の幕末見聞録-石山禎一・牧幸一訳
・鳴滝紀要-シーボルト記念館
・黄昏のトクガワ・ジャパン-ヨーゼフ・クライナー
・シーボルト波瀾の生涯-ヴェルナー・シーボルト
・歳月-シーボルトの生涯-今村明生
・文政11年のスパイ合戦-秦新二
・ふぉん・しいほるとの娘-吉村昭
・シーボルト父子伝-ハンス・ケルナー
・ジーボルト最後の日本旅行-アレクサンダー・シーボルト
・幕末異人殺傷録-宮永孝
・陽だまりの樹-手塚治虫
・ヒュースケン日本日記-青木枝朗訳
・江戸の外国公使館-港区郷土資料館
・近現代沿革図集--港区郷土資料館






スライドショー

2013年8月28日水曜日

楠本イネの住んだ麻布

① 麻布区我善坊町25番地

以前お伝えしたシーボルトには日本人妻「其扇(そのぎ)(たき)」との 間に、娘の「イネ」がいます。イネはのちに「オランダおイネ」とも呼ばれ女医(正確には医師免許は取得せず、産婆であったそうです。)の草分けとなった人ですが、その晩年を麻布で暮らしたことはあまり知られていません。

イネは1827(文政10)年5月6日長崎出島で生まれました。しかし、2歳の時に父シーボルトは国外追放となり、イネの養育は シーボルトの信頼する弟子の二宮敬作に託されます。長じたイネは二宮敬作、石井宗謙らのもとで産科医としての 修行をはじめます。1852(嘉永5)年、25歳で石井宗謙とのあいだに長女「たか」が出生。その後もポンペ、ボードウィン 、マンスフェルトなどに医学を学び、1859(安政6)年32歳の時にシーボルトの再来日により母滝とともに父への再会を 果たします。その後、1870(明治 3)年には上京し築地で産科医を開業、福沢諭吉らと親交を持ちながら1873(明治 6)年- 宮内省御用掛を拝命し若宮の出生を助けています。しかしその先祖の墓所を守りたいとの念から長崎に帰省し、西南の役が起こる1877(明治10)年、二度目のシーボルト江戸参府に付き添い、娘たかの夫となっていた三瀬周三が急死。これ によりイネとたかは長崎で同居を始めますが、まもなく医学を学ぶためにたかは江戸へとむかいます。


② 麻布区麻布仲ノ町6番地
その後、1879(明治 12)年長崎に戻ったたかは懐妊していました。そしてその子が生まれると亡くなった前夫とおなじ名「周三」をつけました。 周三は生まれるとまもなく池原家に養子に出され、たかは請われて山脇泰介(山脇学園創始家)に嫁ぎます。しかし翌年、イネは池原家 に懇願して周三を自分の養子として貰い受け養育を始めます。そして山脇家に嫁いだたかは二子をもうけるが、幸せは 長く続かず夫の山脇泰介が急死し、たかは再び長崎のイネのもとに戻り、同居を始めます。

その後、1889(明治22)年秋、シーボルト離日時に英国公使館通訳官として日本に残った異母弟アレクサンダーからの 招聘でイネは再び東京に出ることとなります。そして麻布区仲ノ町11番地アレクサンダーの弟ハインリッヒの持ち家の空き洋館に住居を定め、 娘たか・孫(戸籍上は養子)周三、多き、たねと同居し、楠本医院を開業する(イネは医師免許を取得しなかったため産婆としての開業)。 この時に麻布区役所に提出した「借家寄留届」にはイネ自身の身分関係を「亡佐平孫楠本イ子」として親の名を記していないそうです。ちなみに 1898(明治31)年戸籍法が制定されるとイネは長崎市に親の名を「新兵衛」として届けていますが、これは死亡月日などから 母たきのことだろうと思われます。これらは当時有名人とはいいながらも、異国人を父に持つという現実が世間の目からは相当 厳しくみられていたであろうことを忍ばせる出来事だと考えられています。

③ 麻布区麻布仲ノ町11番地

この我善坊町の屋敷で一年半あまりを過ごしたイネと家族は、明治24年5月10日に麻布区麻布仲ノ町6番地、明治25年5月20日 麻布区麻布仲ノ町11番地と麻布区内に住居を変えることとなります。そして明治28年5月18日(イネ68歳)麻布区飯倉片町32番地にて逝去します。前日の 夕食にイネは好物の鰻を食べ、その後孫たちと西瓜を食べたそうです。その後、夜半に腹痛を訴えて医者が呼ばれましたが、医者の診断は「食傷」とのことでした。しかし明け方には昏睡状態となりその日の夜、家族に見守られながら息を引取ったといわれています。

イネが最晩年を過ごした麻布ですが、


① 明治22年7月11日(イネ62歳)麻布区我善坊町25番地 
② 明治24年5月10日(イネ64歳)麻布区麻布仲ノ町6番地に転居 
③ 明治25年5月20日(イネ65歳)麻布区麻布仲ノ町11番地に転居 
④ 明治28年5月18日(イネ68歳)麻布区飯倉片町32番地に転居 
⑤ 明治36年8月26日(イネ76歳)麻布区飯倉片町28番にて逝去




④ 麻布区飯倉片町32番地
と、現在の飯倉片町交差点を中心としてこの場所への固執がみられるような気がします。これについてシーボルト記念館に質問 してみましたが、その理由を明らかにする
資料は見つかりませんでした。しかし、個人的な推測ですが、この住居選定と養子の周三が 大きく関わっているような気がしてなりません。

これは、イネ一家の上京がイネが養子の周三に医学を志してほしいとの思い から発したもので、吉村昭著「ふぉん・しいほるとの娘」によるとイネは以前から親交のあった石神良策の娘婿である 海軍軍医石神亨に相談し、義父の愛弟子である高木兼寛の創立した慈恵医大への入学を勧められていたようです。そして周三は、その意に答 えてイネの逝去前後に慈恵医大に入学しています。

この入学時期について吉村昭は「ふぉん・しいほるとの娘」でイネの生前で であるとしてこの入学を機に周三に鳴滝の土地の譲渡を行っているとしていますが、慈恵医大データベースにある論文 「髙木兼寛の医学-シーボルトの曾孫・楠本周三-松田誠著」には、イネに慈恵医大を紹介したのは福沢諭吉であり、 周三の入学時期を1904(明治37)年としています。しかし1879(明治12)年生まれの周三は慈恵医大の入学時には25歳であった ことになります。これは当時の慈恵医大の受験は難関であったため浪人期間があるのかもしれないと論文は推測しているのですが、 独協中学への入学も周三の年齢を18歳としていて、小学校の後に2年間の高等小学校に通ったと仮定してもさらに 4年ほどのブランクが生じることとなります。これは当時の一般的な中学の入学年齢の12歳前後からすると大変に遅いものです。

      
⑤ 逝去地
麻布区飯倉片町28番

そして慈恵医大の卒業名簿から周三の卒業を1908(明治41)年29歳としている。これらのことから論文によるとイネの逝去時には まだ周三は慈恵医大には入学していなかった事となりますが、イネが周三に慈恵医大入学を希望していたのは確かなことである と思われ、イネは芝愛宕の慈恵医大の比較的近所であった土地を意識的に選んで転居を繰り返していたのではないかと思われてなりません。

余談となりますが、楠本周三の実母「たか」は江戸末期には宇和島藩主伊達宗城の侍女として使えますが、その当時漫画家の松本零士の六代 前の先祖が三瀬周三の同僚で「たか」と面識があったそうです。松本家の先祖は「たか」の美しさを代々語り継ぎ松本零士にも伝えられたそうです。  この記憶によって松本零士は作品で描く宇宙戦
艦ヤマトのスターシアや銀河鉄道999のメーテルなどの女性像を、「たか」を イメージして作った。と自身が講演会などで語っています。

イネの姓について「ふぉん・しいほるとの娘」で吉村昭は宇和島藩主伊達宗城がイネにそれまでの失本( しいもと)から「楠本(くすもと)」姓を名付け、 名をいね→伊篤(いとく)、としたとしていますが 「鳴滝紀要-楠本・米山家資料にみる楠本いねの足跡-シーボルト記念館発行」によるとシーボルト記念館の収蔵資料に最初に 「楠本」姓がみられるのは明治2年だといわれ、それ以降も書簡などに失本を名乗っているものがあるそうです。 また名もいね、い祢、以祢、イ子(いね)を名乗っていますが「稲」は 相手が宛先に「稲」を使用した書簡が残されています。しかし、これは誤字だとされているようです。最後に父シーボルトは再来日時の書簡では「Oine」と 書いています。

三瀬周三と高






  • 1827(文政10)年-5月6日 長崎出島で誕生
  • 1830(天保元)年-12月7日シーボルト国外追放
  • 1845(弘化 2)年-1851(嘉永4)年まで備前の石井宗謙のもとで産科修業(18歳)
  • 1851(嘉永 4)年-1854(安政 1)年まで長崎の阿部魯庵もとで産科修業(24歳)
  • 1852(嘉永 5)年-2月7日 長女たか誕生(25歳)
  • 1854(安政 1)年-1861(万延2)年まで伊予宇和島の二宮敬作のもとで産科修業(27歳)
  • 1859(安政 6)年-7月6日父シーボルト再来日(32歳)
  • 1859(安政 6)年-7月8日母たきとシーボルトに対面(32歳)
  • 1859(安政 6)年-1862(文久2)年までポンペに産科を習う(32歳)
  • 1862(文久 2)年-4月19日アレクサンダー英国公使館通訳官となる
  • 1862(文久 2)年-4月30日父シーボルト日本を離れる(35歳)
  • 1862(文久 2)年-1866(慶応2)年までボードインに産科を習う(35歳)
  • 1869(明治 2)年-母たきの死亡により家督を相続(42歳)
  • 1870(明治 3)年-アレクサンダー日本政府民部省入省(43歳)
  • 1870(明治 3)年-上京し築地で産科医を開業(43歳)
  • 1873(明治 6)年-宮内省御用掛を拝命(46歳)
  • 1879(明治12)年-孫の「周三」が生まれるが、すぐに養子に出される。(52歳)
  • 1880(明治13)年-孫の周三を養家から引取り養子とする(53歳)
  • 1883(明治16)年-孫の「多き」が生まれる(56歳)
  • 1884(明治17)年-産婆免許願いを長崎県令に申請(57歳)
  • 1887(明治20)年-孫の「多祢」が生まれる(60歳)
  • 1889(明治22)年-7月11日長崎から麻布我善坊町25番地に転居(62歳)
  • 1891(明治24)年-5月10日麻布仲ノ町6番地に転居(64歳)
  • 1892(明治25)年-5月20日麻布仲ノ町11番地に転居(65歳)
  • 1895(明治28)年-5月18日飯倉片町32番地に転居(68歳)
  • 1900(明治33)年-鳴滝の土地を周三に譲渡(73歳)
  • 1901(明治34)年-隠居届を提出、周三戸主となる(74歳)
  • 1903(明治36)年-8月26日麻布区飯倉片町28番にて逝去(76歳)



このように晩年の14年間を麻布で過ごした「いね」ですが、何故麻布に住まいを決めたのかを解く鍵は孫の周三にあると思われます。 長崎を終の棲家としていたいねが人生最後の力を振り絞って上京したのは、私見ですが孫周三を医学の道に就かせたいという、希望というよりも 執念に近いものがあったように思えてなりません。

前回の上京時に知己を得た慶應大学の福沢諭吉を通して慈恵医大を知る立場にあり、慶應大学にはまだ医学部がなかった事からも、いねは周三の慈恵医大入学を 熱望したのではないでしょうか?そしてその願いが叶った折にも全寮制の慈恵医大からも近い我善坊、狸穴辺を選んだのかもしれません。いづれにしても麻布内を4回も転居を重ねながらも、位置的には飯倉片町辺からほとんど動かなかった 転居には何がしかの理由があったものと想像されます。






参考文献
・鳴滝紀要-シーボルト記念館
・ふぉん・しいほるとの娘-吉村昭
・シーボルト日記・再来日時の幕末見聞録-石山禎一・牧幸一訳 ・シーボルト、波乱の生涯
・東京市及接続郡部地籍地図-1912(大正1)年発行
・東京市及接続郡部地籍台帳-1912(明治45)年発行
・シーボルト父子伝-ハンス・ケルナー
・ジーボルト最後の日本旅行-アレクサンダー・シーボルト
・近現代沿革図集--港区郷土資料館



レファレンス協力

・シーボルト記念館
・大洲市立博物館











より大きな地図で シーボルト足跡・榎本いね晩年居宅 を表示








2013年8月19日月曜日

永代橋崩落と麻布の町民

現在の永代橋
元禄十一(1698)年に将軍綱吉の五十歳を記念して架けられた永代橋は、度重なる災害による橋の修理費に音を上げた幕府が、享保四(1719)年、橋の取り壊しを決めます。
しかし、その利便性が知れ渡っていた町民から反対運動が起こり、橋は町民管理ということで存続が決定されました。民営化された永代橋は橋銭という通行料を徴収し橋の維持費としていました。しかし、実際には補修や大規模な保全工事が行われる事はなく、時は過ぎて行きました。

そして架橋から109年が経過した文化四(1807)年八月十九日、永代橋は突如崩落します。
当日は江戸三大祭りの一つである富岡八幡宮の祭礼で多くの人が訪れていました。
祭礼時の喧嘩により中止されていた祭りが11年ぶりで行われる事が決まった富岡八幡宮の祭礼ですが、例年の八月一五日には大雨が降り祭りは延期となってしまいます。そして四日後の一九日にやっと行われる事になります。


富岡八幡宮
これにより、荒天に待たされ続けた群衆が当日は日本橋側から深川方面にどっと祭りに押し寄せました。しかし、当日は将軍家斉の父である一橋治斉が永代橋下を船で通過するため、その時間帯永代橋は通行止めとなります。そしてこの通行止めが解除されると群衆が我先にに永代橋を渡りはじめ、その群衆が橋の中程まで来たときに一気に橋の中程から崩落が始まります。しかし、後ろの群衆には崩落がわからなかったので後ろから押されて川に落ちてゆく者が後を絶たなかったといわれています。


この時の犠牲者は死者行方不明者を合わせると1,500人にもなるといわれています。そして、この崩落事故被害者には麻布から富岡八幡宮の祭礼を見物に行く途中の町人も含まれていました。



富岡八幡宮

















夢の憂橋








永代橋危難記






現在目黒区にある海福寺(下目黒3-20)は1910(明治43)年現在地に移転するまでは深川にあり、犠牲者の慰霊のために「永代橋沈溺横死諸亡霊塔」が建てられています。
この供養塔の側面には麻布町民犠牲者4名の戒名が彫り込まれており、哀れを誘います。







黄檗宗 永寿山 海福寺







海福寺 解説板









山門手前の供養塔









永代橋沈溺横死者諸亡霊塔







供養塔解説板










供養塔解説板







供養塔側面に刻まれた麻布町民犠牲者戒名





















より大きな地図で 永代橋崩落 を表示













2013年7月29日月曜日

麻布の句・川柳・地口・言回し・唄

麻布近辺では、昔から色々な句・川柳・地口・言回し・唄などが伝えられてきた。今回はその一部をご紹介

★麻布句・川柳・地口・言回し集・唄

・狸坂くらやみ坂や秋の暮 岡本綺堂

・白菊か夜は麻布の黄が知れぬ 市川団十郎

・うぐいすをたづねたづねて阿佐布まで 松尾芭蕉

・櫻田に過ぎたるものが二つあり火ノ見半鐘に箕輪の重兵衛

・気が知れぬ ところ坂まで 長いなり

・長袖の命短く殺されて、やどにふたりが寝つ起きつ待つ

(107.堀田屋敷の狐狸退治


・三輪くされ定めて場所も藪医者の、はて珍しき狐(くは)たき討ち哉
(107.堀田屋敷の狐狸退治


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以下85.圓生の見た麻布 から

・弔いを山谷と聞いて親父ゆき、麻布と聞いて人だのみ

・繁盛さ狸の穴に人が住み

・麻布の祭りを本所で見る

・一本は松だが六本きが知れず

・から木だか知れず麻布の六本木

・火事は麻布で木が知れぬ

・ねっから麻布で気が知れぬ

・火事は麻布で火が知れぬ
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90.芳川鎌子のその後

・「千葉心中」--- 淡路美月


 ああ春遅き宵なりき
   恋に悩める貴人(あでびと)の
   真白き指に輝ける
   ダイアの指輪憂いあり
   都に浮き名うたわれし
   二人の胸に秘めらるる
   恋の絆のからみ糸
   線路の錆と血を流す……。
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・更科の蕎麦はよけれど高稲荷
        森を眺めて二度とこんこん

・麻布長谷寺に清水観音の開帳あり、梅窓院のうしろより田の中の
溝をこゑて来るとて蛙飛ぶ田道あぜ道清水のお開帳へと心はせ寺

・寒山が拾得きたる絵姿は医者でもあらず茶坊主てもなし
 
  ・年礼のかりの一つらかへるなり後なが先にかうがいのはし

  春のはじめ麻布さくら田町霞山いなりの前にて
・やがてさくさくら田町のさくら麻の麻布のほとりまづかすみ山
   蜀山人(大田南畝)
-----------------------------

永坂更科布屋太兵衛 碑

・唐崎も 麻布も今は やもめなり  古川柳

・十番の 流れ 金杉橋に 出る   古川柳

・更科と 月を見おろす 高稲荷   古川柳

・鳥居坂 狐うなぎの 近所也    古川柳

・十番を はいて小栗は 碁盤なり  古川柳

・春麻布 永坂布屋 太兵衛かな   万太郎 (久保田万太郎)

・一筋の 枝も栄へる 麻布山    古川柳

・十番のわきに子捨てるやぶもあり  古川柳
-----------------------------

冬の夜を語る麻布の七不思議  句佛-----------------------------

近隣

・赤羽根の 流れに近き水天宮 うねるようなる 賽銭の波

・商いも 有馬の館の水天宮 ひさぐ5日の風車うり

・人はみな 尋ねくるめの上屋敷 水天宮に賽銭の波

・湯も水も火の見も有馬 名がたかし

・火の見より 今は名高き 尼御前

・名からして江戸っ子らしい源氏綱

・あぶないと 付き添う 姥に幼子も 手をとられたる 三田の綱坂

・江戸っ子に してはと綱は 褒められる

・氏神は八幡と綱申し上げ


 ◆DEEP AZABU 麻布の俳句・川柳・狂歌 ページ










2013年7月28日日曜日

隣接域の麻布

麻布永松町
今日まで納涼フェスティバルが行われている「魚らん商店街」あたりは江戸期には麻布領だったことはあまり知られていません。

このあたりは武蔵国豊島郡と荏原郡の境界であったため時代によりその所属は変遷していましたが、江戸期には麻布永松町が起立し、麻布の領域に編入されていました。



◆文政町方書上(麻布永松町)
~当町の儀は、往古より麻布領麻布村御領所のうちにて、村地にこれあり候砌、当町内北の方に古来松大木これあり、永松町と相唱え候由申し伝え、もっとも、右松いつ頃枯れ候や年代相知れ申さず、右場所も当時家作地に相成り申し候。~



◆近代沿革図集(麻布永松町)
昔から麻布領麻布村のうちであった。村地の北に松の大木があったので麻布永松町と唱えた。宝永六(1709)年十二月十九日に屋敷改めがあって家作を許された。元禄十三(1700)年三月、麻布南日ヶ窪町、麻布北日ヶ窪町の地面4か所が、道路用地となり、代地を当町と入り合いの場所に下された。代地ではあるが麻布永松町と唱えている。正徳三(1713)年五月一六日から町奉行支配となり、町奉行・代官の両支配である。 
~略~
東京市史稿によれば明治3(1870)年6月、山の手武家地の衰疲がひどいため繁華地近くに移転したいとの願いが、三田古川町から出ている。東京府志料には、神田美土里町旧来役屋敷であったが、明治以降鹿児島藩邸となり、また三田古川町、麻布永松町、麻布今井町、鮫橋北町、神田竹町の代地となって新三河町と称し、さらに明治5(1872)年、美土里町と改称したとある。麻布永松町の住民は明治3年中に新三河町に移転し、魚籃坂下の通りの両側にあった町域のうち東側は三田松永町に、西側は白金志田町に明治5年、合併されたと思われる。




同様に四の橋商店街「(白金商店街)がある田島町も麻布田島町として起立し、こちらは住居表示が実施され白金1、
麻布田島町
3、5丁目となる昭和44(1969)年まで麻布域に所属していました。よって、現在も四の橋商店街入り口にある「田島町会館」の田島町は「白金田島町」ではなく「麻布田島町」でした。

また、古川の流域は明治になると青山八郎右衛門により開拓され、当所は「八郎右衛門新田」と呼ばれた農地でしたが、次第に宅地化されて分譲し古川の両岸ともに「麻布新広尾町」として起立することとなります。

同様に赤坂と隣接した檜町域(現在の東京ミッドタウン)も麻布になったり、赤坂になったり、また「中の橋」にある森元町も芝森元町になったり麻布森元町になったり、その隣の新門前町も麻布と芝を時代により冠していました。

さらに「小言幸兵衛」という落語で有名な古川町(現在の東町小学校辺)は本来は麻布域である古川の西側に「麻布古川町」、「麻布龍土代地古川町」、「三田古川町」が隣接していますが、「麻布古川町」と「麻布龍土代地古川町」の町域は家作2~3軒ほどの狭い町域で両方合わせても古川町全体の25%ほどにしかならず、残りの50%は「三田古川町」の町域が占めていました。これはもしかしたら開削工事で古川の流路がかわった事により、本来古川の東側(三田域)であった土地が、西側になってしまったためとも考えられます。いづれにせよ隣接区域に麻布が飛び出した永松町や田島町とは反対に、隣接域が麻布に入り込んでいる事例です。




古川町
 
また本来全く関係ない場所に麻布域が忽然と表れる「宮村町代地」のような地域もあります。この「宮村町代地」は暗闇坂と狸坂を挟んだ地域にあった麻布氷川神社社地が幕命により増上寺隠居所となった際に同地に居住していた住民も移転を余儀なくされ、広尾祥雲寺南側に代地を指定されます。そしてその場所は「宮村町代地」とよばれ本来の麻布領からは少し離れた場所の「麻布領」となりました。そしてこの地域の住民の中には地域本来の広尾稲荷神社氏子、渋谷氷川神社氏子に混ざって、現在も麻布氷川神社の氏子さんがいるようです。





















広尾祥雲寺脇の宮村町代地















◆国立国会図書館デジタル化資料 - 麻布永松町絵図
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542105

◆麻布七不思議-狐しるこ
  http://deepazabu.blogspot.jp/2013/05/blog-post_6.html

◆小言幸兵衛の古川町
  http://deepazabu.blogspot.jp/2012/10/blog-post_14.html

◆麻布氷川神社
  http://deepazabu.blogspot.jp/2012/12/blog-post_2.html

◆麻布七不思議-六本木   
  http://deepazabu.blogspot.jp/2013/04/blog-post_27.html