江戸後期には北半球が小氷河期だった影響から天災、飢饉が日本全国を襲います。
大都市江戸も例外ではなく1773年(安永二年)には隅田川
までが氷結し、消費物資を水運に頼っていた江戸では物価が高騰して、正月の松飾も商いが行われないような状況になりました。
そして翌年も再び隅田川が氷結し、江戸城の堀も凍り付きましたが、しかしこれは天災の始まりでしかありませんでした。
1783年(天明3年)には浅間山が大噴火し、その火山灰や砂礫は江戸にまで到達しました。
噴火以降1787年(天明7年)まで東北地方は凶作になり、奥羽地方だけでも死者数十万人に及ぶ「天明の大飢饉」となりました。大噴火の前年1786年(天明6年)の夏に関東も大洪水に見舞われ、江戸でも神田川、隅田川が増水して新大橋、永代橋に被害を及ぼし堤防の決壊も呼びます。
この被害から消費物資が流入しなくなり江戸の諸物価が高騰し、翌年には米価が前年の5倍に跳ね上がり、たまりかねた町人達が5月20日赤坂の米屋襲撃を手始めに25日までの間、江戸市中の
米屋1000軒あまりで次々と略奪が行われます。いわゆる「天明の打ち壊し」の始まりでした。
打ち壊しの鎮圧後、幕府は打ち壊しに遭った商人達に救済金の給付と穀物の安価売却を進め、商業の復旧をはかりました。そしてその政策の中には、比較的裕福だった商人達も含まれました。そんな裕福な商人の一人に麻布飯倉の小川平八がいました。
小川平八は、柳橋のめくら平八、今戸の瓦師平八と共に三平八として世に知られた分限者で、物価が高騰した折、貧民救済のため飯倉、芝田町、高輪にまで救いの手を差し伸べました。平八は財産家であるばかりでなく、その蔵書も膨大な数に及んだそうで、将軍吉宗が古書を収集した際、専門家に見せても解らないほどの古い記録類を差し出したとあります。
2013年1月20日日曜日
2012年12月14日金曜日
赤穂浪士の麻布通過
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| 泉岳寺義士祭 |
なぜそう思い込んでいたのかというと、もちろん討入り前に麻布を通過するはずはないのは承知していましたが、討入り後、
- 本所吉良邸から泉岳寺に向かう引き上げ道中として主道を避けるための迂回路として暗闇坂を通過 。
- 長府毛利藩に預けられた者が泉岳寺から長府藩邸に向かう過程で暗闇坂を通過 。
- 討入り後の浪士一行はは芝大門あたりから東海道に出て、そのまま泉岳寺まで通行していることがわかり、暗闇坂は通過していない。
- 討入り後、赤穂浪士の諸家預かりは泉岳寺では行われておらず、虎ノ門にある仙石伯耆守屋敷から日ヶ窪までの行程となり、暗闇坂は通過できない。
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| 将監橋 |
討入り後の浪士一行は本所吉良邸から泉岳寺に向かい、汐留あたりで本隊から別れた吉田忠左衛門と富森助右衛門が、大石内蔵助の命により芝明船町(現在の虎ノ門病院付近)の仙石伯耆守邸へ「討入りの口上書」を提出るためにむかいます。
さらに、本隊はそのまま芝大門手前から東海道に出て泉岳寺へと向かいましたが、金杉橋辺で磯貝十郎左衛門は将監橋の義兄の長屋に住む重篤の母親を見舞うように大石内蔵助から勧められ、
「すでに別れは済ませた」
として隊列を乱しての面会を固辞したと伝わります。
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| 御田八幡神社 |
浪士一行の泉岳寺到着は午前8時頃といわれ、大石内蔵助の命を受けた寺坂吉右衛門が一行から離脱したのも泉岳寺到着時とするものが多い。その後の泉岳寺での浪士の様子は省略しますが、吉良の首を浅野内匠頭墓前に供えて回向している頃、幕閣も仙石伯耆守の知らせを受けて大混乱となっていました。
そして閣議により、熊本藩細川家・水野家・長府藩毛利家・松平家・の四家への預け入れが決まり、各家に引き取りが申し渡されます。これにより預かりを命じられた各家では浪士引き取りの藩士を差し出しますが、途中から引き渡しが泉岳寺から仙石伯耆守邸へと変更となります。そのときの各家の引き取り護衛人数は総勢で1500人以上と驚くべきものがあります。
| 家 名 | 藩 主 | 領 地 | 藩 邸 | 現 在 | 石 高 | 護 送 藩 士 | お 預 浪 士 | 主な浪士 | 備 考 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 細 川 | 越中守綱利 | 肥後熊本 | 高輪下屋敷 | 高松中学 | 54万石 | 847人 | 17名 | 大石内蔵助 | 最厚遇 |
| 水 野 | 監物忠之 | 三河岡崎 | 芝中屋敷 | 慶應仲通り | 5万石 | 153人 | 9名 | 間重次郎光興 | 細川家に続いて厚遇 |
| 毛 利 | 甲斐守綱元 | 長門長府 | 日ヶ窪上屋敷 | 六本木ヒルズ | 6万石 | 200余人 | 10名 | 岡島八十右衛門 | 冷遇後改善 |
| 松 平 | 隠岐守定直 | 伊予松山 | 愛宕上屋敷 | 慈恵医大 | 15万石 | 304人 | 10名 | 堀部安兵衛 | 1泊のみ滞在 |
| 三田中屋敷 | イタリア大使館 | やや冷遇 |
|
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この大人数の警護の元での引き取りは、明らかに吉良上野介実子である藩主綱憲を擁する上杉家の仇討ちを警戒してのことであったと考えられますが、実際に上杉家では、麻布屋敷と上屋敷で藩主の命により赤穂浪士討ち取りの準備をしていました。この上杉家の報復を映画やドラマでは家老千坂兵部に諫言され、やむなく断念したことになっていますが、実際には幕府の命を受けた縁戚の高家畠山義寧が押しとどめたといわれています。
一方の泉岳寺では、途中から引き渡しが泉岳寺から仙石伯耆守邸へと変更となったことからすでに泉岳寺に参集してしまっている各家引き取り人でごったがえしていました。そして夕方6時頃、浪士はようやく泉岳寺から仙石邸へとむかうこととなります。けが人を6挺の駕籠に乗せ、その周りを警護するように進んだ浪士一行ですが、この時の道行きが、
泉岳寺→東海道→札の辻→三田通り→赤羽橋→飯倉交差点→芝西久保→芝明船町(現在虎ノ門病院付近)の 仙石伯耆守邸
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また飯倉熊野神社脇の「熊野横町」は、麻布区史によると堀部安兵衛が居住していたとされており、顔見知りが沿道で挨拶を交わしたと想像されます。そして飯倉交差点にあった老舗「萬屋」には堀部安兵衛直筆の討入り直前の書状が残されており、当主とは昵懇であったと考えられるので、当然当主家人が沿道で見送ったと想像されます。
この萬屋は麻布七不思議の一つに数えられる「我善坊の猫又」の当事者であり、書籍では、 島崎藤村が「大東京繁昌記-飯倉付近」で、
~この界隈には安政の大地震にすらびくともしなかったというような、江戸時代からの古い商家の建物もある。紙屋兼葉茶屋としての万屋(深山)、同じ屋号の糸屋、畳表屋~(P10~11)と記しています。
また文政江戸町方書上では万屋について、
延宝の頃より当町家持ちにて罷りあり、両替太物商い致し候ところ~同人妻は伊兵衛の姉にこれあり、万屋一統と唱え、いづれも深山氏に御座候。として深山一族を記しています。さらに「麻布区史」では元禄期の萬屋当主・深山伊兵衛堀は部安兵衛と親交があり、討ち入り直前に安兵衛からの手紙を受け取っていると記しており、その内容を掲載しています。
亡主内匠頭志を達し継べきため
同氏弥兵衛我等この
たび亡命致し候、母・妻ならびに
文五郎儀、貴様相替らず
御懇意、別て頼み入り存じ候、
御内儀様・仁兵衛殿へも、
右の段、よくよく仰せ伝えられ
御心得下さるべく候、頼み存じ候 巳上
一二月十四日 堀部安兵衛
深山伊兵衛様
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しかし....実際には上杉家の襲撃はありませんでした。(出来なかった?)
このように浪士一行は赤羽橋~飯倉と麻布最東部を通過しながら仙石邸へと向かっていますが、その人数は、仙石邸に口上書を届けた吉田忠左衛門と富森助右衛門の2名と泉岳寺門前で大石内蔵助から暇を出された寺坂吉右衛門を除く44名が同時に通過したものと思われます。そしてこの時の麻布通過に参加していない寺坂吉右衛門は、後に曹渓寺のつとめを短期間果たした後に土佐藩支藩である土佐新田藩(麻布藩と呼ばれ、唯一の麻布を冠する藩名を持つ小藩で藩邸は曹渓寺直前の麻布新堀町付近) に仕官し、麻布とのかかわりを終生持つこととなります。
|
麻布と赤穂事件のかかわりはこの他にも吉良上野介が麻布一本松に屋敷を持っており、本所松坂町屋敷の改築時には一般的に言われている上杉家高輪屋敷ではなくこの一本松邸で過ごしたのでは?と「麻布区史」は疑問を投げかけています。
また、赤穂浪士討入りが成功した理由の一つに吉良上野介の本所松坂町屋敷における確実な在邸が確認された事が考えられますが、 12月14日に吉良邸で茶会があることを赤穂浪士に告げたのは京都から下向中であった荷田 春満 といわれています。そして大高源吾が吉良家情報入手のため山田宗偏へ入門したのも荷田春満の紹介であるといわれており、荷田春満が討入り成功にはたした役割は決して小さくありません。
この荷田春満は大石内蔵助の旧知の友人であったといわれており、麻布氷川神社社家の先祖とされているようです。さらに麻布氷川神社の江戸期の別当寺で社の境内にあった「徳乗寺」が所属していた芝愛宕の「真言宗智山派 真福寺」は、大石内蔵助が主家再興を遠林寺住職祐海を通じ真福寺第七世性偏をして幕府に働きかけていたといわれ、麻布氷川神社と忠臣蔵との因縁は浅くありません。
その他、現在の有栖川公園は江戸期南部盛岡藩邸でしたが、相対替え(等価交換)で屋敷が赤坂に移転するまでは浅野家の屋敷(赤穂に転封前の笠間藩浅野家下屋敷)であったことも付記とします(詳細はむかしむかしでどうぞ)。
このように麻布と赤穂浪士は数々の因縁があることが判明しましたが、冒頭の「暗闇坂通過」を確認することは出来ませんでした。しかし、幕末期に父に手を引かれ、暗闇坂から四之橋を抜けて(暗闇坂通過は筆者の私見ですが、古川橋が無かった江戸期には日ヶ窪から泉岳寺に行くには四之橋を渡らなければならなかったと筆者は考えています)最低でも月に一度は泉岳寺に赤穂義士を参詣していた少年がいた。その子供の名前を......乃木希典といいます。
<元禄期庶民に詠まれた落首>
- 細川の 水の(水野)流れは清けれど
- ただ大海(毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる
- 置き(松平隠岐守)に甲斐(毛利甲斐守)ある大石を
- 細川水の(水野)堰き止めよかし
2012年12月13日木曜日
麻布の吉良上野介
盛岡町の町名の元になる盛岡藩南部家が有栖川公園の敷地に屋敷を持っていました。この土地は相対替え(等価交換)をする前は、笠間藩(のちに赤穂藩)浅野家の下屋敷であったことは以前お伝えしましたが、実は吉良上野介も麻布に屋敷を持っていました。
刃傷事件当時、吉良上野介は鍛治橋に上屋敷を、麻布一本松に下屋敷を拝領していました。刃傷事件後、上野介は家督を養嗣子吉良義周(妻の実家である米沢藩上杉家の養嗣子となった上野介の実子綱憲の子を吉良家の養子とします。つまり上野介の孫が吉良家を継ぎました。)に譲り隠居となり、元禄14年8月19日に本所松坂町の元近藤登之助野屋敷に移転することとなります。
しかし、この屋敷が荒れ果てていて手入れが必要だったために、その改装中に上野介は飯倉にあった米沢藩上杉家の下屋敷または白金の下屋敷に滞在していたといわれています。しかし、これを上杉家の屋敷ではなく、自邸である吉良家麻布一本松屋敷であったのでは?との説を「麻布区史」は披露しています。
もしほんの少し歴史か違っていたら、有栖川公園で雪の別れを行い、そして討ち入りが麻布一本松?...なんてこともあったのかもしれません。
★追記
<追記>
より大きな地図で 赤穂浪士関連史跡 を表示
刃傷事件当時、吉良上野介は鍛治橋に上屋敷を、麻布一本松に下屋敷を拝領していました。刃傷事件後、上野介は家督を養嗣子吉良義周(妻の実家である米沢藩上杉家の養嗣子となった上野介の実子綱憲の子を吉良家の養子とします。つまり上野介の孫が吉良家を継ぎました。)に譲り隠居となり、元禄14年8月19日に本所松坂町の元近藤登之助野屋敷に移転することとなります。
しかし、この屋敷が荒れ果てていて手入れが必要だったために、その改装中に上野介は飯倉にあった米沢藩上杉家の下屋敷または白金の下屋敷に滞在していたといわれています。しかし、これを上杉家の屋敷ではなく、自邸である吉良家麻布一本松屋敷であったのでは?との説を「麻布区史」は披露しています。
もしほんの少し歴史か違っていたら、有栖川公園で雪の別れを行い、そして討ち入りが麻布一本松?...なんてこともあったのかもしれません。
★追記
「麻布区史」では麻布屋敷の場所を、
~吉良氏の麻布下邸に就いては多くの義士伝中に全く之を伝えて居ないのであるが、其の元禄七年より同一六年(1694~1703年)に亘り、善福寺の北方本善寺徳正寺及大法寺に囲まれたる東西に長さ一廓の地に之を存したことは「府内往還沿革図書」の明示する處で尚此の邸は寛永元年(1624年)七月、其の内八百坪を有馬隼人に給し、残りの八百四十五坪を内藤主膳に預けられている。~
とし記しています。
さらに吉良上野介の妻は上杉氏であり、これにより上野介の子息「綱憲」は上杉家を継ぎ、逆に綱憲の子息が上野介の養子となって (実際は孫に当たる)嫡子として世襲することなります。
この関係により上野介は本所ではなく上杉家麻布屋敷(飯倉)に永住するとの噂が流れ、これが本当ならば上杉家邸に討ち入ることとなるかもしれないので上野介の情報を収集していた赤穂義士を慌てさせたと「義士伝」は伝えています。しかし、これは上杉家麻布屋敷ではなく吉良家麻布屋敷の間違いではないかと「麻布区史」は記載しています。
そして、その理由を四位の少将で高家筆頭の吉良家前当主が隠居後とはいえ、そして大大名たる上杉家に実子が当主とはいえそこに仮寓するのは、当時の制度からもあり得ない事としています。余談ですが、この吉良上野介の実子であった上杉家第四代藩主「綱憲」のさらに後、九代藩主となった「治憲」は後年、号を「鷹山」としていましたが、この治憲は現在の麻布高校敷地にあった高鍋藩秋月家からの養子で、治憲はこの敷地で産まれたことにより幼名を「直松、松三郎」などとつけられます。この「松」は明らかに「秋月の羽衣松」ともいわれた麻布一本松から命名されたと想像され、麻布との因縁をその幼名につけられていたこととなります。そして、10歳で上杉家養子なるまで麻布に住んでいたものと思われています。
三大名邸(細川越中守・松平隠岐守・毛利甲斐守・水野監物)で赤穂浪士が切腹をした元禄16(1703)年2月3日、幕府評定所の仙石伯耆守久尚は、吉良家当主の吉良義周を呼び出し、吉良家改易と義周の信州諏訪藩高島への配流の処分を下します。
しかし、翌年宝永1(1704)年には上杉家当主で実父の実父・綱憲が死去し、これまでの心労からか翌宝永2(1705)年10月に義周は寝たきりとなり、さらに、配流3年目の宝永3(1706)年1月20日享年21歳で死去することとなります。
<追記>
★麻布一本松吉良邸
ついにみつけちゃった正確な場所(
)/
十年以上前「麻布区史」を延長貸し出しを繰り返して約1年間精読していました。(現在港区立図書館は館内閲覧のみ)
この書籍は戦前の皇紀二千六百年を記念して麻布区により作られた地誌ですが、この皇紀を記念しての地誌作成は全国規模で行われていたようです。
そしてこの麻布区史は一般販売は行われず、麻布区議や区関係者と高額納税者にしか配布されませんでした。
そして戦後GHQの指導により「軍事」の部分の削除が命じられ、配布したときの資料に基づいてページの切り取りが行われました。
しかし、つい近年、切り取られていない麻布区史が発見され、その部分が復旧されています。
その中で「赤穂義士」と題された項目に真っ先に筆者が取り上げているのが吉良上野介麻布邸の記述です。
この記述により吉良上野介が麻布に屋敷を構えた(麻布区史では下邸:下屋敷としています)ことは理解しましたが、それを担保する「府内往還沿革図書」に麻布吉良邸を見つけることは出来ませんでした。
しかし...昨日数年ぶりに根気よく「御府内場末往還其外沿革圖書」を探してみると......ありました!!
麻布区史に書かれたとおり、元禄七(1694)年の麻布中央部大黒天、暗闇坂辺りの風景が姿を現しました。
そしてその古地図には、吉良上野介邸がはっきりと記載されています。
この「御府内場末往還其外沿革圖書」は年代ごとの同じ地点を描いていますので、少なくても延宝(1673年-1681年)には吉良邸は存在せず、元禄十七(1704)年の地図にも吉良邸は描かれていません。
元禄十七地図に描かれていないのは、赤穂浪士らの切腹が行われた元禄十六(1703)年二月四日、吉良義周に信濃諏訪藩へのお預けとなり吉良家は断絶、義周はそこで生涯を閉じます。
恐らくはこの時に一本松吉良屋敷は取り壊されたものと思われます。
でも何故麻布暗闇坂に吉良上野介が屋敷を必要としたのでしょうか?
私見ながら、暗闇坂の北西側は増上寺隠居所があり
・禄14年(1701年)9月3日
綱吉の実母本庄氏お玉(桂昌院殿)、
宮村町増上寺隠居所を訪問。
・元禄15年(1702年)5月2日
綱吉宮村町増上寺隠居所を訪問。
・元禄16年(1703年)9月8日
桂昌院殿、宮村町増上寺隠居所を訪問。
・元禄16年(1703年)10月18日
綱吉、宮村町増上寺隠居所を訪問。
これ以外にも綱吉は度々増上寺隠居所を訪問しています。
このように、というか頻繁に将軍家は麻布暗闇坂の増上寺隠居所を訪れています。
そして綱吉は元禄十一(1698)年四月十四日に完成した麻布(白金)御殿に江戸城から古川経由で船を仕立て、浅野内匠頭切腹後の世論による心労を癒やしたと言われます。
この他にも今回は歩けない赤穂浪士と麻布野関連はたくさんあります。
有栖川公園西脇「木下坂」の由来は木下肥後守の屋敷があったことに由来します。
この家系は中足守城主木下肥後守公定二万三千石の上屋敷で木下の氏が示すとおり、この家に養子入りした木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)というより豊臣秀吉の正室ねね(高台院)の家系です。
浅野長恒の妻は、木下肥後守公定の娘です。浅野長恒は、父は大石頼母良重(大石内蔵助良雄の大叔父)で、母は赤穂藩主浅野長直の娘です。
また、赤穂城開城の時の幕府の受け取り目付である荒木十左衛門(1500石)の上屋敷は現在の天現寺橋ニューサンノーホテルの敷地とされています。
お伝えした吉良上野介麻布一本松ですが、麻布区史は定説である吉良が本所松坂町の隠居邸を修復する間、上野介は実子が藩主となった上杉家の白金下屋敷で過ごしていたという説を覆し、麻布一本松屋敷で過ごしていたのでは?という自説を披露しています。
いづれにしても、赤穂の間者はこの屋敷を監視していたのかもしれません。
そして赤穂事件の五十年以上前の正保二(1645)年までは、現在の有栖川公園の敷地は浅野家の下屋敷でした。
この年浅野家は常陸笠間から播州赤穂への領地変えが行われています。
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2012年11月18日日曜日
亥之吉の災難
明治の世になっても江戸の辺境であった麻布には、多くの不思議話が残されていますが、
今回は、1879(明治12)年4月25日付の東京曙新聞に掲載された麻布で起こった不思議な事件をご紹介します。
掲載される2~3日前の雨の夜遅く、麻布飯倉町30番地にある人力車の車夫を生業とする亥之吉の家の門を叩く者がありました。
その者は門をたたきながら狸穴まで大急ぎでお願いしたいと女性の声でいったそうです。
しかし亥之吉は雨が降っているし、夜も遅いのでもうお終いにしましたと伝えたが、
「車代は幾らでもお望み通り払うから、行って欲しい」
と、いわれ欲が出た亥之吉が雨戸を開けて客を確かめてみると17、8歳くらいの美人でした。
そこで亥之吉は、大急ぎで仕度を整えその女性を乗せ、これはきっと色恋沙汰で男の跡でも追いかけていくのだろうと考えながら狸穴坂の下まで行くと、
「この辺で結構です」
と言われたので車にかけてあった雨覆いを上げてみると、どうしたことか人力車は空っぽで、
びっくりした亥之吉は腰を抜かしてしまいました。
そしてしばらくすると狐狸の仕業と気がついて、仕方なしに家に戻ろうと車を引き始めましたが、不思議な事に同じ場所を何度も廻ってさまよってしまったそうです。そして夜が白々と明けてきてようやく薄明かりで家にたどり着いた亥之吉でしたが、その日は気が抜けたようになり商売に出る事が出来なかったといいます。
新聞は、
「全く物の怪に魅せられたのかまたは寝ぼけて惑乱したのか、怪しいことだが嘘ではない。」
と結んでいます。
今回は、1879(明治12)年4月25日付の東京曙新聞に掲載された麻布で起こった不思議な事件をご紹介します。
掲載される2~3日前の雨の夜遅く、麻布飯倉町30番地にある人力車の車夫を生業とする亥之吉の家の門を叩く者がありました。
その者は門をたたきながら狸穴まで大急ぎでお願いしたいと女性の声でいったそうです。
しかし亥之吉は雨が降っているし、夜も遅いのでもうお終いにしましたと伝えたが、
「車代は幾らでもお望み通り払うから、行って欲しい」
と、いわれ欲が出た亥之吉が雨戸を開けて客を確かめてみると17、8歳くらいの美人でした。
そこで亥之吉は、大急ぎで仕度を整えその女性を乗せ、これはきっと色恋沙汰で男の跡でも追いかけていくのだろうと考えながら狸穴坂の下まで行くと、
「この辺で結構です」
と言われたので車にかけてあった雨覆いを上げてみると、どうしたことか人力車は空っぽで、
びっくりした亥之吉は腰を抜かしてしまいました。
そしてしばらくすると狐狸の仕業と気がついて、仕方なしに家に戻ろうと車を引き始めましたが、不思議な事に同じ場所を何度も廻ってさまよってしまったそうです。そして夜が白々と明けてきてようやく薄明かりで家にたどり着いた亥之吉でしたが、その日は気が抜けたようになり商売に出る事が出来なかったといいます。
新聞は、
「全く物の怪に魅せられたのかまたは寝ぼけて惑乱したのか、怪しいことだが嘘ではない。」
と結んでいます。
| ※ | 飯倉町は江戸期から一~六の「丁目」と飯倉片町・飯倉狸穴町・飯倉永坂町・飯倉新町・飯倉的場屋敷・飯倉町続芝永井町代地・飯倉町続芝永井町上納地代地などを持つ大きな町名でしたが、この新聞にはその何丁目かの記載が欠落しています。よって、亥之吉の住居「飯倉町30番地」を特定することは難しいのですが、いづれにせよ飯倉町から狸穴坂下までの、ごく短い距離をこの「幽霊さん」は乗車したものと思われます。 |
![]() |
| 麻布飯倉町明治・現在、今昔 |
★飯倉町-東京35区地名辞典
「飯倉」は、麻布区中央部の広域地名。戦国期から見える古い地名である。
由来には諸説あり、伊勢神宮への貢米御厨を置いた跡に因むとする説、
文武天皇(在位697-707)の頃、貧民救済のための義倉(ぎそう)を置いた
とする説、飯倉山(芝丸山古墳)が飯を器に盛った形で、飯座(イイグラ)
といったことに因むとする説等、定かではない。中世の頃、この地は伊勢神宮の
神領に属し、御厨や義倉が置かれたことに疑いはなさそうだが、そのことと
地名発生とのつながりには確証がなく、穀倉の置かれる前から飯倉の地名が
あったともいわれる。芝の海沿いに街道が整備される以前、この地は往還(奥州道)
沿いの町並として発展し、飯倉町一~六丁目が成立した。
2012年11月8日木曜日
冨永金左衛門の化け物退治
寛文十一年(1671)年頃、榎坂(現在の飯倉交差点付近)に冨永金左衛門と言う名の、兵法の達者な浪人が家を借りて住んでいました。
その借家には、毎日夜がふけると何者かが来て、寝ている金左衛門を悩ませたといいます。
不思議な事と考えた金左衛門は「これは人間ではなく、狐狸か猫またなどの化け物の仕業に違いない」と思いある夜、床をのべるとあたかもその中に自分が寝ている様な形に整えて部屋の片隅で何者かが現れるのをじっと待っていました。
しばらくすると、両目が月日の如く輝き、すさまじい形をした化け物が現れて布団の上を富んだり跳ねたりしはじめたそうです。
この時を待っていた金左衛門は、その化け物めがけて刀で切りつけると確かな手ごたえがありました。そして、深手を負った化け物が竹すのこの下に逃げ込んだところを二の太刀で仕留め、行灯を近づけて化け物を見て見ると大きな古狸であったそうです。
この夜中の大騒ぎを聞きつけた近所の者達が何事かと駆けつけると、金左衛門は事の顛末を語りました。すると人々は「これはお手柄、さすが兵法の達人だ。」と褒め称えたので、金左衛門は気を良くして、夜が明けるとその古狸のを玄関先にぶら下げて往来の人に見せました。
しかし、集まってきた人々は「こんな人通りの多い市中に狸などいるものか、おおかた麹町あたりから買ってきた物だろう。」と口々に悪く言い合ったそうです。そしてその悪い噂は一人歩きして瞬く間に近隣に広がり、金左衛門もその家に住み辛くなってついに何処へか引っ越して行ってしまったといいます。
その後永い間その家には借り手がまったくつかず、よくよく考えると金左衛門の狸話は本当であったのだろうと、人々は噂しました。本来、金左衛門は「近代稀に見る剛勇の者」という名誉を受けるべきところ、御政道さえ疑う世の中となったために、身上の妨げとなってしまったというおはなしでした。
この話は「老媼茶話」に書かれていますが、やはり榎坂は狸穴辺なのでできた話なのでしょうか。また、狸退治の日が寛文十一(1671)年亥正月十五日と克明に記されているのが面白いですね。
★榎坂(えのきざか)
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| 榎坂 坂下 |
不思議な事と考えた金左衛門は「これは人間ではなく、狐狸か猫またなどの化け物の仕業に違いない」と思いある夜、床をのべるとあたかもその中に自分が寝ている様な形に整えて部屋の片隅で何者かが現れるのをじっと待っていました。
しばらくすると、両目が月日の如く輝き、すさまじい形をした化け物が現れて布団の上を富んだり跳ねたりしはじめたそうです。
この時を待っていた金左衛門は、その化け物めがけて刀で切りつけると確かな手ごたえがありました。そして、深手を負った化け物が竹すのこの下に逃げ込んだところを二の太刀で仕留め、行灯を近づけて化け物を見て見ると大きな古狸であったそうです。
この夜中の大騒ぎを聞きつけた近所の者達が何事かと駆けつけると、金左衛門は事の顛末を語りました。すると人々は「これはお手柄、さすが兵法の達人だ。」と褒め称えたので、金左衛門は気を良くして、夜が明けるとその古狸のを玄関先にぶら下げて往来の人に見せました。
しかし、集まってきた人々は「こんな人通りの多い市中に狸などいるものか、おおかた麹町あたりから買ってきた物だろう。」と口々に悪く言い合ったそうです。そしてその悪い噂は一人歩きして瞬く間に近隣に広がり、金左衛門もその家に住み辛くなってついに何処へか引っ越して行ってしまったといいます。
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| 榎坂 坂上 |
この話は「老媼茶話」に書かれていますが、やはり榎坂は狸穴辺なのでできた話なのでしょうか。また、狸退治の日が寛文十一(1671)年亥正月十五日と克明に記されているのが面白いですね。
★榎坂(えのきざか)
- ○江戸鹿子
- かわらけ町へ下る所の坂である。榎があるので、そう呼ぶのであろう。この榎は今番小屋の後ろに見える。
- ○文政町方書上
- 登り長さ三十間、飯倉町六丁目の家前の往還で、東は飯倉町二丁目・三丁目、里俗四つ辻から西の方へ上る所である。
町屋とならない以前、大きな榎があったので、里俗に榎坂と呼んできたと伝える。
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2012年10月24日水曜日
旧東京天文台
狸穴にあるロシア大使館裏手には、大正時代まで東京天文台が設置されていました。
1874(明治七)年に海軍水路寮がこの地に観象台を設置した後、1888(明治21)年6月1日、帝国大学の学生用観象台と海軍省観象台と内務省地理局が統合され、帝国大学付属「東京天文台」として東京麻布飯倉に設立されました。
旧東京天文台
その際海軍省が持っていた、日本最大の天文観測施設「観象台」も引き継がれ、「天文台」に改称されました。この時から、天体観測施設の名称として「天文台」が使われることになります。初代台長は東大星学科教授の寺尾寿。創立当時の職員は6名でした。
国策としての当時の職務は、恒星の測定、太陽・彗星の観測、暦の作成などとともに時刻を報せる「報時」があった。陸軍が正午を報せるために鳴らしていた大砲(この音から「ドン」と呼ばれ、”半ドン”の語源となりました。)の時刻合わせから、明治23年以降は有線による「報時」を行ったといわれています。
その後、1923(大正12)年の関東大震災で観測機器に大きな被害を受けた天文台は、周辺の都市化が進んで空が明るくなってきたこともあり、郊外の三鷹へと移転しました。
そして時は下り、1988(昭和63)年、東京天文台は水沢の緯度観測所などと統合され、国立天文台となります。さらに国立天文台は文部省、文部科学省の管轄を経て2004(平成16)年4月1日より法人化し、大学共同利用機関法人「自然科学研究機構国立天文台」となり現在に続きます。
※ この東京天文台が麻布に設置されていたことを記念して小惑星に「Azabu」という名前が
付けられました。詳細は「小惑星AZABU(3290) 」をご覧下さい。
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| ゴーチェ子午環 |
関東大震災で受けた観測機器の被害は「子午環」と呼ばれる機
機にも及びました。
これは、メルツ・レプソルド子午環と呼ばれた機機で、天体の位
置を精密に観測できるよう工夫された望遠鏡でした。震災時に
このメルツ・レプソルド子午環は落下により修復不能の大破を
してしまいます。
しかし、当時の東京天文台はこのメルツ・レプソルド子午環の
ほかにゴーチェ子午環という機機も所持していました。この
ゴーチェ子午環は飯倉の敷地が狭かったため、1904(明治37)年
に購入されてから梱包されたまま敷地内に保管されていました。
飯倉にあった頃の東京天文台は2,500坪ほどの敷地を持っていましたが、これは斜面を
含んだものでした。そして、新しく購入されたゴーチェ子午環の使用には南北100mのところ
に子午線標が必要でしたが、飯倉の敷地ではその設置は不可能でした。これにより購入後
もずっと梱包されたまま保管されていた事により震災の被害を免れたゴーチェ子午環はつい
近まで使用され現在も三鷹の地に展示保管されています。
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| 日本経緯度原点碑(旧) |
これまで使われてきた経緯度原点の数値は1918年に告示された「日本測地系」によるものであった。しかし、2002年4月1日に施行された現行の測量法では「地理学的経緯度は、世界測地系に従つて測定しなければならない」と定めているので、原点の位置もこれに基づいて再設定されました。
●経緯度原点(日本測地系基準)
東経139度44分40秒5020、北緯35度39分17秒5148●新しい経緯度(世界測地系基準)
東経139度44分28秒8759、北緯35度39分29秒1572
測量法施行令(昭和二十四年政令第三百二十二号)(抄)
(日本経緯度原点及び日本水準原点)
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| 日本経緯度原点解説板 |
- 一 地点 東京都港区麻布台二丁目十八番一地内日本経緯度原点金属標の十字の交点
- 二 原点数値 次に掲げる値
- イ 経度 東経百三十九度四十四分二十八秒八七五九
- ロ 緯度 北緯三十五度三十九分二十九秒一五七二
- ハ 原点方位角 三十二度二十分四十四秒七五六(前号の地点において真北を基準として右回りに測定した 茨城県つくば市北郷一番地内つくば超長基線電波干渉計観測点金属標の十字の交点の方位角) (平成13年12月28日公布・平成14年4月1日施行)
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| 日本経緯度原点 |
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| 日本経緯度原点碑(新) |
2011年3月の東日本大震災地殻変動により経緯度原点が27cm東へ移動したため、2011(平成23)年10月国土地理院により日本経緯度原点碑が再設置されました。
| 項 目 | 経 度 (東経) | 緯 度 (北緯) | 方 位 角 |
|---|---|---|---|
| 震 災 前 | 139°44′28.8579 | 35°39′29.1572 | 32°20′44.756 |
| 震 災 後 | 139°44′28.8869 | 35°39′29.1572 | 32°20′46.209 |
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