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2019年3月18日月曜日

★ 白金今里探索-まとめ










①高輪台駅・猿町

②三田用水猿町橋・日本家畜市場

③三田用水南里橋・今里地蔵

④三田用水遺構

⑤白金台3丁目遊び場

⑥今里橋の欄干

⑦常光寺・福沢諭吉埋葬地

⑧上今里橋

⑨伝染病研究所(伝研)→
東京大学医科学研究所(医科研)
近代医科学記念館

⑩国立公衆衛生院~ゆかしの杜
   港区郷土歴史館

⑪自然教育園と白金長者柳下氏(解説のみ)

⑫八芳園(解説のみ)

聖心女子学院正門

⑭服部ハウス(戦後史)

⑮三光坂

⑯西光寺・几号水準点

⑰梅が茶屋

⑱白金氷川神社(三氷川直列)

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A.四の橋・狐しるこ
 (麻布七不思議)

B.夏土用丑の日考
  (狐鰻の由来)

C. 麻布の橋-その2-3 字雷神下とその周辺

D.麻布の橋-その2-2 狸橋とその周辺 三田用水白金分水と梅屋敷の福沢諭吉水車

E. 麻布の橋-その2-1 狸橋とその周辺 狸橋と狸蕎麦



 
F.慈眼山光林寺
ヒュースケン・伝吉墓所

ヒュ-スケン事件


ヒュ-スケン事件-その2


伝吉刺殺事件

G.富士見町グラバー邸

★トーマス・グラバーと港区(その-1)






2013年5月19日日曜日

麻布の野生動物-その1

ハクビシン
今から4年ほど前の2009(平成21)年春、以前高輪支所でハクビシンが捕獲されたという情報を偶然目にしました。
それまでも麻布周辺の野生動物には興味があり、少し調べると麻布域にも野生動物の目撃例が少なくないことがわかりました。 
これまでお伝えしてきたように麻布と動物の関係は深く、狸穴、狸坂、狸橋、狸蕎麦、狐坂、鼬坂、鼠穴(三田)など動物を元にした地名も多くありました。
また、江戸の間近な郊外として多くの樹木を有する藩邸(多くは隠居所などと使用されることが多かった下屋敷)がありさらに農耕地も多かった麻布には多くの野生動物が住み着いていたものと思われます。
明治になってもしばらくは東京の郊外という位置づけはあまり変化せず、藩邸は桑茶政策の畑地を経て再び明治の元勲などの屋敷となります。さらに、明治末期から大正時代にかけてそれまで郊外という位置づけであった麻布にも都市化の波が押し寄せ、大手デベロッパーの
開発が始まります。そして第一次世界大戦が始まると好景気により古川端の町工場に大量の労働者が流れ込み、その労働者の住まいとして、今まであまり活用されなかったような土地までもが宅地化されていきます。

この麻布開発を行っていた大手デベロッパーによりがま池周囲の整地と宅地化、西町周辺の分譲、仙台山と呼ばれた竹谷町域の分譲などが行われ、その頃から都市化が急速に進んで、狸坂からも狸が姿を消したといわれています。また関東大震災で破損した東京天文台が麻布台に再建されなかったのは、この宅地造営などによる麻布の都市化(夜間の光害)も一因とされているようです。
それでも、江戸、明治と受け継がれてきた大きな邸宅の庭にある屋敷林は多く残され、戦後も昭和40年代前半頃まではこの風情が残されていました。
しかし、その後邸宅のマンション化が始まると野生動物を目撃することも皆無となり、これまでお伝えしてきたように麻布における野生動物を扱う新聞記事もペット化された野生動物のみとなりました。

そして、野生動物が忘れ去られた頃に麻布に隣接する高輪支所でのハクビシン捕獲は私にとっては大きな驚きでした。さらにその後麻布中央部でもハクビシンが捕獲されることとなります。 
次回は麻布周辺でのハクビシン目撃をお伝えします。




◎麻布の野生動物-その2
 https://deepazabu.blogspot.com/2013/05/blog-post_20.html

◎麻布の野生動物-その3
 https://deepazabu.blogspot.com/2013/05/blog-post_21.html

◎麻布サル騒動
 https://deepazabu.blogspot.com/2012/11/blog-post_3.html

◎麻布七不思議-古川の狸ばやし
 https://deepazabu.blogspot.com/2013/04/blog-post_29.html

◎麻布を騒がせた動物たち
 https://deepazabu.blogspot.com/2012/11/blog-post.html












2013年3月3日日曜日

中川屋嘉兵衛<白金>

牛肉販売の元祖中川屋嘉兵衛は三河の人で、幕末に異人相手の商売を志して英語を修め、慶応元年に横浜に出ました。 
最初は横浜で塵芥処理の人夫などをしていたが、アメリカ人医師のシモンズに認められて、その雇人となりました。シモンズとの交流の中で、嘉兵衛は「牛乳」の需要に目をつけて横浜の洲干弁天付近で搾乳業を始め、壜詰の上シモンズを通して外国人に供給します。 
明治2年の白金・高輪辺
ところが搾乳業がようやく軌道に乗りかけたとき、不幸にも火災のため搾乳場と乳牛2頭を焼失してしまいました。火災の報を聞いたシモンズは、馬で駆けつけ、焼死した乳牛をみて、「中川は牛の丸焼きをつくった」と冗談をとばして、悲嘆に暮れる彼を元気づけます。

嘉兵衛はこの災厄に屈せず、北方村の天沼に移り、通称トワンテ山(イギリス狙撃兵第21連隊が駐屯していたために、ついた名)のイギリス軍の食料用達商となり、野菜果実を納入しながらイギリス兵と懇意になってパンの製造を伝授され、パン製造にも乗り出しました。そして兵士達と交流している内に牛肉の美味と栄養価を知り、これの販売に乗り出しました。
慶応二年(1866年)、嘉兵衛は小港屠牛場の牛肉を販売し始め、翌年三年には江戸荏原郡白金村(現在の品川区上大崎一丁目辺))で支店も開業しました。支店の開店にあたって、嘉兵衛は横浜から牛肉を運ぶより江戸に屠牛場を設けたほうが便利であると考え、土地を物色しましたが旧弊人の多い江戸では誰も土地を貸そうとしなかったそうです。しかし、やっと白金村の堀越藤吉という名主が、畑の一部を貸与してくれたので屠牛場と牛肉販売店を作り、江戸における牛肉販売が確立します。  
この白金村の名主、堀越藤吉はその後に嘉兵衛が製氷業に転ずるさい、公使館の肉納人の株を惜しんであとを引き継がぬかと相談したところ喜んで引き継ぎ、名義人「中川」のまま営業して後に牛肉販売だけでなく、牛鍋屋も開業して、東京で牛鍋屋の元祖となる「中川」の経営者となりました。幕末から明治初期に有名だった牛鍋屋は三河屋久兵衛が外神田に開店した「三河屋」、四谷の老舗ももんじ屋「三河屋」(神田三河屋とは無関係)、そして芝露月町のこの中川が有名でした。これらの店は店先に「商家高旗」と呼ばれる旗をかかげており、三河屋の旗には「Mikawaya」、中川の旗は「御養生牛肉」と書かれていたそうです。

この牛鍋屋中川を経営した堀越藤吉は嘉兵衛の祖父という説もあります。また嘉兵衛が製氷業に転ずる際に指導を受けたのはジェームス・カーティス・ヘボンとされています。そして彼が函館五稜郭の外壕でつくった氷は後に内国勧業博覧会に出品して賞牌を受けます。その賞牌の表面に龍の紋章を附したことから嘉兵衛の氷は「龍紋氷」と呼ばれ、函館名産に成長します。

余談ですが、先見の明がある嘉兵衛は慶応三年十月版の「万国新聞紙」第7集の広告に、

   パン、ビスケット、ホットル
   此品私店に御座候。御求め願い奉り候
   横浜元町一丁目、中川屋嘉兵衛

と掲載しており、パン製造の他に、ビスケットなども製造していた事が知れます。
このパン製造はイギリス公使館が設置されていた高輪東禅寺の近傍であったとされていますが、正確な場所を特定する資料を見つけることは出来ませんでした。また白金村の屠牛場についても現在の品川区上大崎一丁目付近としかわからず、場所を特定することは出来ませんでした。












2013年3月2日土曜日

白禅寺の幽霊<白金>

ある日図書館で、雑誌のバックナンバーをパラパラとながめていると「白禅寺境内の亡霊騒ぎ」と題した文章を発見しました。そしてそして、その文章を読んでいくうちにその亡霊騒ぎが江戸時代の話ではなく、戦後との事であったので興味がわき、その文の原型となる昭和26年7月29日(日)の毎日新聞を早速読んでみました。以下はその概略。



白金蜀江坂
港区白金にある聖心女学院裏の白禅寺境内にあるトウモロコシ畑に囲まれた一軒家に住む天谷ちかさんが夕涼みで庭に出ると、白い詰襟に紺の半ズボンをはいた16~7歳の少年が入り口の石段にションボリとたたずんでいた。ちかさんが不審に思って声をかけようとしたが何故か顔と足がぼんやりとしていてそのままス-ッと暗闇の中に消えていったそうです。

また、これより一月ほど前に同家では夜になると戸の隙間から17歳位の少年が家に入ってきて枕元に立つので、隙間に目張りをしたがそれでもおさまらず、毎夜現れて家人を苦しめたといいます。

家人がこの話を付近の人に話したところ、終戦の年(1945年)の7月に同じ所に住んでいた17歳の少年が不発弾の処理中に誤って爆死してしまったので、同地内で荼毘にふした事が判り、その亡霊が現れるのだろうということになったそうです。

それ以来近所でも評判となり、夜は気味悪がって人通りも少なくなってしまったので、7月27日にはとうとう亡霊の供養まで行ったとあります。そして新聞は最後に高輪警察署巡査の、

       「騒ぎは聞いているが、所詮、迷信深い人達ばかりだから騒いでいるのだろう。」

と言うコメントで結んでいます。


興禅寺
この話しを調べるために付近を散策してみましたが、白金三光町に「白禅寺」という寺は見つからず、また近代沿革図集にも昔から白禅寺は見当たりません。そこで私は新聞が「興禅寺」と間違えているのではないかと仮定しました。(もし白金白禅寺さんをご存知のかたはご一報下さい。)

新聞にはトウモロコシ畑と民家の写った写真が掲載されていますが、私が生まれる少し前まで白金に畑があったとは驚いてしまいました。
また、終戦後にこの幽霊話が新聞に掲載されているのは、人々の記憶に戦争の傷跡が生々しく残されていた時代背景があったこと、そして、不思議な話を信じる感覚がまだ残されており一般的であったことを裏付けているものだと思われます。

余談ですが、この記事を掲載した新聞の同ページ下段には映画案内が掲載されていて、高輪映画では「神変美女峠・マンガ」、広尾銀映では「母恋草・牢獄の花嫁」、芝園館では「母を慕いて」が上映中であったことが記されています。
















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2013年3月1日金曜日

狸狐の仕業<白金>

江戸末期の白金辺
江戸の頃、白銀(現在の港区白金辺)に、大御番七番組の石川源之丞という武士が住んでいました。源之丞には一人の娘がいましたが、その娘が13歳のとき、ふと庭に出てそのまま行方がわからなくなってしまったそうです。源之丞は、家内の者を集めて屋敷中隈なく捜しましたが、見つけることが出来なかったそうです。

ところがその翌日、不思議なことに神田木挽町からお嬢様をお預かりしているとの知らせが届きます。驚いた源之丞は早速家来の者を迎えにやり、娘を屋敷につれて帰りました。娘が落ち着いたところで事情を尋ねると、

「見知らぬ人に連れられて、面白い所を方々見物してきました。」

と答えたそうです。
その答えを不信に思った源之丞は、木挽町の者に見つかった時の様子を尋ねてみると、
「どうした訳か芝居茶屋の庭に一人でいたので、色々と訳をたずねたが、言葉も定かでないので、いったん休ませ、正気に戻ってから尋ねると、こちらのご息女だと言うのでお連れした。」
との事だったそうです。
この事件を町の者たちは、狐か狸の仕業であろうと囁きあったといいます。江戸時代には方々でこのような不思議な話が残されていますが、今回の話は江戸時代の不思議話や幽霊話などを集めた「梅翁随筆」に収められています。














2012年12月13日木曜日

麻布の吉良上野介

盛岡町の町名の元になる盛岡藩南部家が有栖川公園の敷地に屋敷を持っていました。この土地は相対替え(等価交換)をする前は、笠間藩(のちに赤穂藩)浅野家の下屋敷であったことは以前お伝えしましたが、実は吉良上野介も麻布に屋敷を持っていました。

刃傷事件当時、吉良上野介は鍛治橋に上屋敷を、麻布一本松に下屋敷を拝領していました。刃傷事件後、上野介は家督を養嗣子吉良義周(妻の実家である米沢藩上杉家の養嗣子となった上野介の実子綱憲の子を吉良家の養子とします。つまり上野介の孫が吉良家を継ぎました。)に譲り隠居となり、元禄14年8月19日に本所松坂町の元近藤登之助野屋敷に移転することとなります。

しかし、この屋敷が荒れ果てていて手入れが必要だったために、その改装中に上野介は飯倉にあった米沢藩上杉家の下屋敷または白金の下屋敷に滞在していたといわれています。しかし、これを上杉家の屋敷ではなく、自邸である吉良家麻布一本松屋敷であったのでは?との説を「麻布区史」は披露しています。
もしほんの少し歴史か違っていたら、有栖川公園で雪の別れを行い、そして討ち入りが麻布一本松?...なんてこともあったのかもしれません。




★追記

「麻布区史」では麻布屋敷の場所を、
~吉良氏の麻布下邸に就いては多くの義士伝中に全く之を伝えて居ないのであるが、其の元禄七年より同一六年(1694~1703年)に亘り、善福寺の北方本善寺徳正寺及大法寺に囲まれたる東西に長さ一廓の地に之を存したことは「府内往還沿革図書」の明示する處で尚此の邸は寛永元年(1624年)七月、其の内八百坪を有馬隼人に給し、残りの八百四十五坪を内藤主膳に預けられている。~  
とし記しています。 
さらに吉良上野介の妻は上杉氏であり、これにより上野介の子息「綱憲」は上杉家を継ぎ、逆に綱憲の子息が上野介の養子となって (実際は孫に当たる)嫡子として世襲することなります。 
この関係により上野介は本所ではなく上杉家麻布屋敷(飯倉)に永住するとの噂が流れ、これが本当ならば上杉家邸に討ち入ることとなるかもしれないので上野介の情報を収集していた赤穂義士を慌てさせたと「義士伝」は伝えています。しかし、これは上杉家麻布屋敷ではなく吉良家麻布屋敷の間違いではないかと「麻布区史」は記載しています。 
そして、その理由を四位の少将で高家筆頭の吉良家前当主が隠居後とはいえ、そして大大名たる上杉家に実子が当主とはいえそこに仮寓するのは、当時の制度からもあり得ない事としています。

三大名邸(細川越中守・松平隠岐守・毛利甲斐守・水野監物)で赤穂浪士が切腹をした元禄16(1703)年2月3日、幕府評定所の仙石伯耆守久尚は、吉良家当主の吉良義周を呼び出し、吉良家改易と義周の信州諏訪藩高島への配流の処分を下します。

しかし、翌年宝永1(1704)年には上杉家当主で実父の実父・綱憲が死去し、これまでの心労からか翌宝永2(1705)年10月に義周は寝たきりとなり、さらに、配流3年目の宝永3(1706)年1月20日享年21歳で死去することとなります。


余談ですが、この吉良上野介の実子であった上杉家第四代藩主「綱憲」のさらに後、九代藩主となった「治憲」は後年、号を「鷹山」としていましたが、この治憲は現在の麻布高校敷地にあった高鍋藩秋月家からの養子で、治憲はこの敷地で産まれたことにより幼名を「直松、松三郎」などとつけられます。この「松」は明らかに「秋月の羽衣松」ともいわれた麻布一本松から命名されたと想像され、麻布との因縁をその幼名につけられていたこととなります。そして、10歳で上杉家養子なるまで麻布に住んでいたものと思われています。

<追記>
★麻布一本松吉良邸
 ついにみつけちゃった正確な場所(😊)/
十年以上前「麻布区史」を延長貸し出しを繰り返して約1年間精読していました。(現在港区立図書館は館内閲覧のみ)
この書籍は戦前の皇紀二千六百年を記念して麻布区により作られた地誌ですが、この皇紀を記念しての地誌作成は全国規模で行われていたようです。
そしてこの麻布区史は一般販売は行われず、麻布区議や区関係者と高額納税者にしか配布されませんでした。
そして戦後GHQの指導により「軍事」の部分の削除が命じられ、配布したときの資料に基づいてページの切り取りが行われました。
しかし、つい近年、切り取られていない麻布区史が発見され、その部分が復旧されています。
その中で「赤穂義士」と題された項目に真っ先に筆者が取り上げているのが吉良上野介麻布邸の記述です。
この記述により吉良上野介が麻布に屋敷を構えた(麻布区史では下邸:下屋敷としています)ことは理解しましたが、それを担保する「府内往還沿革図書」に麻布吉良邸を見つけることは出来ませんでした。
しかし...昨日数年ぶりに根気よく「御府内場末往還其外沿革圖書」を探してみると......ありました!!
麻布区史に書かれたとおり、元禄七(1694)年の麻布中央部大黒天、暗闇坂辺りの風景が姿を現しました。
そしてその古地図には、吉良上野介邸がはっきりと記載されています。
この「御府内場末往還其外沿革圖書」は年代ごとの同じ地点を描いていますので、少なくても延宝(1673年-1681年)には吉良邸は存在せず、元禄十七(1704)年の地図にも吉良邸は描かれていません。
元禄十七地図に描かれていないのは、赤穂浪士らの切腹が行われた元禄十六(1703)年二月四日、吉良義周に信濃諏訪藩へのお預けとなり吉良家は断絶、義周はそこで生涯を閉じます。
恐らくはこの時に一本松吉良屋敷は取り壊されたものと思われます。
でも何故麻布暗闇坂に吉良上野介が屋敷を必要としたのでしょうか?
私見ながら、暗闇坂の北西側は増上寺隠居所があり
・禄14年(1701年)9月3日
 綱吉の実母本庄氏お玉(桂昌院殿)、
 宮村町増上寺隠居所を訪問。
・元禄15年(1702年)5月2日
 綱吉宮村町増上寺隠居所を訪問。
・元禄16年(1703年)9月8日
 桂昌院殿、宮村町増上寺隠居所を訪問。
・元禄16年(1703年)10月18日
 綱吉、宮村町増上寺隠居所を訪問。
 これ以外にも綱吉は度々増上寺隠居所を訪問しています。
このように、というか頻繁に将軍家は麻布暗闇坂の増上寺隠居所を訪れています。
そして綱吉は元禄十一(1698)年四月十四日に完成した麻布(白金)御殿に江戸城から古川経由で船を仕立て、浅野内匠頭切腹後の世論による心労を癒やしたと言われます。
この他にも今回は歩けない赤穂浪士と麻布野関連はたくさんあります。
有栖川公園西脇「木下坂」の由来は木下肥後守の屋敷があったことに由来します。
この家系は中足守城主木下肥後守公定二万三千石の上屋敷で木下の氏が示すとおり、この家に養子入りした木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)というより豊臣秀吉の正室ねね(高台院)の家系です。
浅野長恒の妻は、木下肥後守公定の娘です。浅野長恒は、父は大石頼母良重(大石内蔵助良雄の大叔父)で、母は赤穂藩主浅野長直の娘です。
また、赤穂城開城の時の幕府の受け取り目付である荒木十左衛門(1500石)の上屋敷は現在の天現寺橋ニューサンノーホテルの敷地とされています。
お伝えした吉良上野介麻布一本松ですが、麻布区史は定説である吉良が本所松坂町の隠居邸を修復する間、上野介は実子が藩主となった上杉家の白金下屋敷で過ごしていたという説を覆し、麻布一本松屋敷で過ごしていたのでは?という自説を披露しています。
いづれにしても、赤穂の間者はこの屋敷を監視していたのかもしれません。
そして赤穂事件の五十年以上前の正保二(1645)年までは、現在の有栖川公園の敷地は浅野家の下屋敷でした。
この年浅野家は常陸笠間から播州赤穂への領地変えが行われています。
 
 
 
 
 
吉良上野介麻布邸
元禄七戌(1694)年頃之形
 

 
 
 
 
 
 
吉良上野介麻布邸
元禄七戌(1694)年頃之形
現在比較


 
 
 
 
現在 

 
 
 
 
 
 
寛永江戸全図に描かれた
笠間藩(後に赤穂藩)浅野家下屋敷
(現在の有栖川公園)


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 







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