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2013年3月19日火曜日

イギリス公使館通弁、伝吉刺殺(其の一)


1863年の東禅寺門前
幕末イギリスの公使館となった高輪の東禅寺門前で、安政七(1860)年正月7日、イギリス国籍の日本人からイギリス国籍を取得した帰化人であるイギリス公使館付け通訳官の「伝吉」が殺害されました。

その日の午後、イギリス公使オルコックはアメリカ公使ハリスを見舞い、公使館のある高輪東禅寺の自室に戻るとロ-バック号艦長マ-チン大佐が、

「通訳が重傷を負って運ばれてくる」

と告げます。
戸板で運ばれてきた伝吉は虫の息で、傷を調べようと服を脱がした時息を引き取ったそうです。
この日は日曜日『陽暦1860年1月29日(日)』で伝吉は、公使館前の家の戸口に寄りかかり子供などが遊ぶのを見ていました。その時背後から2人の編み笠をかぶった武士が近づき、伝吉の背中に短刀を突き刺します。伝吉は突き刺されたまま門番の所までよろよろ歩くと、驚いた門番はすぐに短刀を引き抜きました。しかし伝吉の傷は深く、切っ先が胸から突き出すほど深く刺さり、伝吉はそのまま倒れます。

現在の東禅寺
この事件をオルコックは本国のラッセル外相に急送公文書で、事件の経緯と殺害は私怨によるものと書いています。この私怨とは、短気、高慢の上自らをイギリス人と称した事と市中で度々問題をおこし、解雇された元イギリス公使館調理長なども常々その高慢さから、

「彼は誰かに殺されるだろう」

といっていました。また副業でラシャメン(外人の妾)を斡旋していたともいわれ、これらの事により日本人にたいそう怨まれていたそうです。

このように日本人に恨まれたあげく殺害されてしまった伝吉の葬儀は、一月十日麻布光林寺で各国公使館員、外国奉行2名らの会葬で行われ、同寺に埋葬されました。そして彼が埋葬されてから1年後、同じ墓地にヒュ-スケンも埋葬される事にまります。

そもそも、10年近く外国を流浪してやっと帰国した日本でその後七ヶ月で暗殺されてしまった伝吉は、摂津国大石村松屋八三郎の持船「栄力丸」(1,600石)の賄方でした。
この船は嘉永三(1850)年に酒、砂糖、荒物などを江戸に運び、帰途浦賀で大豆、あずき、小麦、くるみ、鰯粕などを積み入れ志摩国大王崎に達します。
しかし、10月29日の夜半から風雨が激しくなり西方に流されたため、船中の物は相談の上帆柱を切り捨て、乗員は全員髪を切り神仏にすがります。
11月1日風が西風に変わり、船は12月4日まで東南の方向に漂流します。積み荷が米穀であったため食糧の心配は当分ありありませんでしたが、薪、水 味噌、醤油などが残り少なくなってきました。そしてこの船は、アメリカ帆船オ-クランド号に発見されるまでの53日間に9回の暴風雨に遭い その内3回は大暴風雨であったそうです。この「栄力丸」乗員17名の詳細は以下。








「栄力丸」乗員17名の詳細
No.名 前年 齢生 国そ の 後
1船頭万蔵60歳播州加古郡
宮西村
サンフランシスコからハワイ島に向かう船中で病死。同島に埋葬。
2舵取長助49歳摂州八部郡
神戸
帰国。
3賄方浅五郎34歳播州西本庄帰国。
4甚八36歳帰国。
5幾松37歳摂州八部郡
神戸
帰国。
6喜代蔵32歳播州東本庄帰国。
7清太郎28歳播州西本庄帰国。
8徳兵衛29歳備中浅口郡
勇崎村
帰国。
9京助31歳讃州安治浜長崎到着後揚り屋にて病死。
10次作27歳播州西本庄広東の金星門からアメリカ蒸気艦サスケハナ号でアメリカへ。
11安太郎26歳播州加古郡
宮西村
浙江省平湖の乍浦より帰国の途次、薩州樺島沖にて病死し、長崎大音寺に埋葬。
12民蔵26歳伊予国岩木浦帰国。
13亀蔵22歳芸州因之島
むくみ浦
広東の金星門からアメリカ蒸気艦サスケハナ号でアメリカへ。
14伝吉22歳紀州加茂郡塩津浙江省平湖の乍浦より出奔。のちイギリス公使館通弁。
15炊方仙太郎18歳芸州瀬戸田上海にてサスケハナ号に一人とどまる。のちの「サム・パッチ」
16茶汲彦太郎15歳播州東本庄広東の金星門からアメリカ蒸気艦サスケハナ号でアメリカへ。のちの「ジョセフ・ヒコ」(浜田 彦蔵)。
17表方利七27歳伯州長瀬村帰国。




この船には後にジョセフ・ヒコと呼ばれることとなる浜田 彦蔵も茶汲みとして乗船しており、やがて共に苦難を経験をすることとなります。





伝吉、ヒュースケンなどが眠る慈眼山 光林寺













伝吉墓碑 正面







墓碑正面文面(英語)


 

墓碑裏面 戒名



 
墓碑裏面の戒名

 







伝吉と同じ栄力丸で遭難し苦難の末帰国した
ジョセフ・ヒコこと浜田 彦蔵の墓
(青山墓地内・外人墓地)
 















より大きな地図で 幕末外国公使館・施設 を表示











2017年5月28日日曜日

★第一次東禅寺襲撃事件...外伝


英国公使館が設置された
佛日山東禅寺
文久元(1861)年の今日五月二十八日夜、高輪東禅寺に設置されていた英国公使館が攘夷派浪士により襲撃され多数の死傷者を出しました。
これは安政五(1858)年六月にアメリカと通商条約を締結して以来諸外国とも条約を結んだ事により、攘夷思想を持つものたちから強い反発を招き、外国人への殺傷事件が頻発し始めた頃の事件であり、前年安政七(1860)年1月には漂流漁民からイギリスに帰化し、苦労のすえオールコックと来日した英国通訳官の「伝吉」が東禅寺門前で刺殺され、その二ヶ月後には桜田門外の変で井伊大老が暗殺、さらに東禅寺が襲撃される半年ほど前には麻布中ノ橋で米国公使館の書記兼通訳官、ヒュースケンが赤羽接遇所からアメリカ公使館への帰途に殺害されています。

襲撃事件の詳細は当サイトでご覧頂くとして、今回はあまり知られていない裏話を二つご紹介します。

◆シーボルトの治療

この事件の一週間ほど前の文久元年五月二十一日、二度目の来日で長崎に滞在していたシーボルト父子が江戸に到着し赤羽接遇所に入ります。そして事件当日(夜半過ぎなので現代では二十九日となりますが、江戸時代は日が変わるのは日の出時刻)、英国公使館襲撃を聞きつけ、自身の警護役人からの制止も聞かずに英国公使館に馬で赴き、負傷者の治療に当たっています。

シーボルトはこの時の様子を日記に書き残しています。

~6日(西暦では五月二九日は7/6)の朝3時半 ,わたしは早馬で来た日本の役人により次のような知らせを受けました。~略~ この知らせを受けて私は護衛の25名に対し、夜が明けるとわたしの共をして、ここから(赤羽接遇所)から約一里離れている公使の住居に行くように命じました。五時頃わたしと息子のアレキサンダーは十分に武装をし、二十五名の選り抜きの護衛と共にそこ(東禅寺英国公使館)にむかいました。~


フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
wikipediaより引用
また事件後も、

5/30 高輪東禅寺の英国公使館にイギリス公使オールコックを訪問
6/03 安藤対馬守屋敷にて会談。東禅寺襲撃事件の話など
6/05 外国奉行鳥居越前守、イギリス公使オールコックが赤羽接遇所を来訪
6/15 子息アレクサンダーが父シーボルトの書簡を持ち善福寺を訪問
6/17 善福寺にハリスを訪問、イギリス公使との調停を斡旋
6/20 外国奉行津田近江守と会談。赤羽接遇所に新たに警護所が設けられ警備が強化される

など事件解決に向けてシーボルトが関与していたと思われる事象が残されています。



◆「お花」と「お香乃」

この東禅寺が襲撃された際、二人の女性の死者があったことはあまり知られていません。
この女性たちは公使館で外国人の身の回りの世話をするために奉公していたいわゆる「ラシャメン」さんで、名を「お花」と「お香乃」と言いました。

東禅寺門前で襲撃事件の一年半前に刺殺された「伝吉」は、漂流から帰国までの過酷な生活のためか日本人を下等に見なすようになっており、帰国後(正確に言う伝吉は英国籍を取得していたので、生れ故郷である日本への公使館の通訳官としての赴任)は周辺の日本人からは蛇蝎のごとく嫌われる存在となっていたようです。

その伝吉は通訳官の他に、裏では外国人の身の回りの世話をする日本人女性「ラシャメン」を斡旋する口利きを行っていたようで、
三田の口入れ屋「三田屋」、「田原屋」、「町田屋」などに異人館に奉公する娘を探す事を依頼し、三田の蕎麦屋「鶴寿菴」の娘お花、本芝妙法院の娘お香乃の二人を見つけ出します。

二人とも道楽娘のうわさがあり又両家とも金銭的に窮乏していたので、話はすぐにまとまります。しかし、ラシャメンになる事を愚痴ったお花の言葉が、彼女に恋心を抱いていた野州浪人桑島三郎の耳に入り、激怒した桑島三郎が伝吉に天誅を加える目的で英国公使館門前で殺害したともいわれています。

このようにしてラシャメンとなった「お花」と「お香乃」にも襲撃者の手が及び「夷狄に与する」卑しきものとして殺害されたことが想像されます。

最後に、漂流者から十年間も流浪を重ね、大変な苦労をして(一時期は奴隷として扱われたことも)英国籍と通訳官の地位を得た伝吉は、帰国後わずか七ヶ月で殺害されることになりますが、元々伝吉は摂津国大石村松屋八三郎の持船「栄力丸」の船員(賄方)でした。この船が志摩国大王崎で嵐により遭難、鳥島沖へと流され、アメリカ帆船オ-クランド号に発見されるまでの53日間に9回の暴風雨に遭うことになります。その船員は伝吉を含めて17名で、同僚で「茶汲み」だった彦太郎はハワイからアメリカに渡り「ジョセフ・ヒコ(アメリカ彦蔵:浜田彦蔵)」として帰国します。








◎Blog DEEP AZABU-東禅寺襲撃事件
 http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E6%9D%B1%E7%A6%85%E5%AF%BA

◎wikipedia-東禅寺事件
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%A6%85%E5%AF%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6

◎Blog DEEP AZABU-シーボルトの見た麻布
 http://deepazabu.blogspot.jp/search?q=%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88

◎DEEP AZABU-イギリス公使館通弁、伝吉刺殺
 http://deepazabu.main.jp/m1/mukasi/ziken.html#6


※画像は一部
wikipediaより引用








































2013年9月2日月曜日

シーボルトの見た麻布

「赤羽接遇所」跡の飯倉公園

1859(安政6)年7月6日、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと長男のアレクサンダーはイギリス客船イングランド号で長崎に入港した。来日は2度目となるシーボルトは、前回来日時に妻となった滝、娘のイネと1830(天保元)年12月7日以来29年ぶりの再会を果たした。そして、前回27歳の時に来日し34歳でいわゆる「シーボルト事件」で国外退去を申し渡されるまで日本に滞在したシーボルトも63歳となっていた。

前回の来日はオランダ軍医としての来日で秘密裏に諜報活動もその任務として与えられていた(一介の軍医としては不相応の大金を所持し、それにより日本にちなんだ物品・情報を大量に収集していた)が、今回は政府の公式な肩書きはなく、民間の和蘭商事会社(国営の出島商館を解体して民営化されたものだが)顧問としての来日で、日蘭通商条約改正案の持参とコレクションの収集という目的もあった。そして目的を達し和蘭商事会社との契約を終了したシーボルトは長崎滞在中に幕府の外交顧問を依頼され、江戸出府を促された。これにより1861年3月3日シーボルト父子・三瀬周三一行は長崎港をあとに横浜へと向かった。


父子は1861(文久元)年3月10日横浜へ入港し外国人居留地で幕府からの指示を待つ。その間に多くの外国人商人や外交官と親交を深め、特にフランス公使ベルクールとは頻繁に付き合うようになった。
幕府から江戸行きの許可が下りたのは5月になってからで、5月10日の朝、船で神奈川まで行きその先は駕篭に乗って江戸入りを果す。そして一行は夕方、幕府から宿舎に定められた芝の赤羽接遇所に到着した。 (駕籠はフランス公使ベルクールの好意により自身のものを貸し出されたといわれる。) その時の様子を、


~海岸に通じる街道を通り、辻々には木戸や矢来があって閉じられるようになっていて、傍らに火の番小屋のある所を通り過ぎると、赤く塗った門のある有馬候の屋敷の向い側にある、黒い塀で囲まれた玄関前の庭を通って、私たちの宿舎、赤羽接遇所に着いた。~

とアレクサンダーは、書き残している。


赤羽接遇所に着くと役人、日本側通訳、目付などに出迎えられ、その後外国奉行新見伊勢守の来訪により将軍からの贈り物を拝領した。赤羽接遇所には条約締結のため直前までプロシア使節団が滞在しており、建物の柱や壁にはプロシア兵たちの落書きやジョークなどが掘り込まれていたという。

江戸滞在時におけるシーボルトは「幕府の外交顧問」、「西洋文明の伝達者」として講義・面会・助言など多忙を極めた。
また、各国公使、幕府外国担当の要人などに意見具申を重ねたが、滞在直後の5月28日深夜、東禅寺襲撃事件がおこるとその事後処理に忙殺される。そして、シーボルトはオランダの公式な外交員ではなく幕府に雇われた外交顧問という立場から各国代表の反感を買い、横浜で静養し再び江戸に戻った8月15日以降、特にオランダ公使デ・ウィットとの関係は冷ややかであったという。そして9月にはデ・ウィットから頻発する外国人襲撃から身を守るためと称して江戸退去を迫られる。しかしシーボルトはオランダの警護は求めずとして退去要請を無視すると、デ・ウィットは各国代表らと幕府にシーボルトの解雇を求め、無理やりに認めさせてしまう。失意のシーボルトは10月15日ついに江戸を離れ、横浜へと向かった。ここで長男のフィリップは英国公使館の通訳官として正式に任官し江戸へと戻ることになり(父シーボルトは息子がロシア海軍の士官になる道を設定していたが、フィリップの意向を尊重してのイギリス公使館勤務となったという)、これが父子の永遠の別れとなった。その後、横浜から船で長崎に戻ったシーボルトは妻のたき、娘のいね、門弟などに送られて1862年4月30日午前10時、シーボルトを乗せた船は出港し日本を後にした。

以上がシーボルト2回目来日時江戸滞在のアウトラインだが、この期間のシーボルトと麻布の関連キーワードは「善福寺」である。

麻布山善福寺さかさ公孫樹
麻布山善福寺さかさ公孫樹





シーボルトは江戸に到着した直後の5/20・5/21・5/22をはじめとして江戸滞在中、日記に記載されたものだけでも合計9回もハリスを善福寺に訪問している。当時江戸には、アメリカ公使館が麻布山善福寺、イギリス公使館が高輪東禅寺、フランス公使館が三田済海寺、オランダ公館が伊皿子長応寺などにあるが、その中でアメリカ公使館は最初に江戸進出したことから持つ豊富な情報、ヒュースケン事件(シーボルトはヒュースケンが殺害された事を当時滞在していた長崎で事件の詳細を聞き知っていた。)の真相と進捗などを聞き、イギリス公使館は高輪東禅襲撃事件関連での訪問が続いたと考えられる。

そして特筆すべきは5月22日善福寺にハリスを訪問したさいに「逆さいちょう」の観察とヒュースケン・伝吉の墓参を行ったことである。

5月22日、善福寺のアメリカ公使館にハリスを訪れ「逆さ銀杏」を見たシーボルトは、

正午、ハリス邸へ。ヒュースケン、伝吉の墓参り。ハリス邸の寺院の境内に周囲30フィートの太さのイチョウがある。この巨大な樹は、枝分かれの下、高さ12から18フィートあたりの幹から、太さ3から5インチの太い根{気根}が出ている。東ロシアのヴァリンピの樹に似た形である。

私はイチョウの一本を江戸の近くの寺で観察した。その寺は、アメリカ公使館に譲ったものであるが、木は周囲7m、高さがおよそ30mもある

   
ハリスによって造られた ヒュースケンの墓標
ハリスによって造られたヒュースケンの墓標
   
ヒュースケン墓の正面にある伝吉(DAN KUT)墓
ヒュースケン墓の正面にある伝吉(DAN KUT)墓
   
伝吉(DAN KUT)墓の 碑文表面(英文)
伝吉(DAN KUT)墓の碑文表面(英文)
   
伝吉(DAN KUT)墓 の碑文裏面 (和文戒名)
伝吉(DAN KUT)墓の碑文-裏面(和文戒名)


と、帰国後「1886年ライデン気候馴化園の日本植物。説明付き目録の要約と価格表」に記しているが、シーボルトが「逆さ銀杏」を観察し記録した事実はほとんど知られていないという。(シーボルト波瀾の生涯より)

その後、同じ日に麻布光林寺で中の橋近辺で襲撃され命を落とした「ヒュースケン」の墓とその傍らにある イギリス公使館通訳伝吉の墓を参拝した。そして両者の墓碑銘を比較して「静と動の不思議な対比である」と覚書に記している。


(ヒュースケン墓碑銘)

      日本駐在アメリカ公使館付通訳ヘンリック・ヒュースケンの御霊に献ぐ。
      1832年1月20日アムステルダムに生まれ、1861年1月16日江戸にて死去


(伝吉墓碑銘)

      伝吉Dan kutchiイギリス使節団付日本人通訳は、1860年1月29日、
      日本の暗殺者たちによって殺害された


















1861(文久元)年シーボルトの江戸滞在
出 来 事
5月 10日 横浜から神奈川を経由して陸路赤羽接遇所に夕方到着
11日 赤羽接遇所員の勤務名簿を受け取る
20日 善福寺にハリスを訪問
21日 善福寺にハリスを訪問
22日 正午再び善福寺にハリスを訪問し「逆さ銀杏」を見る。その後光林寺にヒュースケン、伝吉の墓参。
29日 早朝3時半高輪東禅寺襲撃の知らせがあり、5時過ぎに25人の護衛に守られて東禅寺を訪問し負傷者を治療。
帰路善福寺にハリスを訪問。接遇所も厳重警備となる
30日 高輪東禅寺の英国公使館にイギリス公使オールコックを訪問
6月 3日 安藤対馬守屋敷にて会談。東禅寺襲撃事件の話など
5日 外国奉行鳥居越前守、イギリス公使オールコックが赤羽接遇所を来訪
6日 外国奉行新見伊勢守来訪、水野筑前守らが来訪
15日 子息アレクサンダーが父シーボルトの書簡を持ち善福寺を訪問
17日 善福寺にハリスを訪問、イギリス公使との調停を斡旋
20日 外国奉行津田近江守と会談。赤羽接遇所に新たに警護所が設けられ警備が強化される
7月 1日 冶金学の講義
3日 外国奉行野々山丹後守来訪
10日 遣欧使節団の計画案を作成
11日 子息アレクサンダー誕生日。父シーボルトはマホガニーの箱に入った2連銃を贈る
12日 将軍侍医団が来訪。その中の一人、伊藤玄朴は鳴滝塾出身でシーボルトの門弟
13日 前日善福寺で暴動(発砲事件)が起こり、赤羽接遇所も厳重警備となる
15日 善福寺にハリスを訪問
16日 将軍侍医戸塚静海来訪。静海は鳴滝塾出身でシーボルトの門弟。仏公使ベルクール来訪
22日 船で江戸から横浜へ出立。途中鈴ケ森で20歳の娘が放火犯として火あぶりの刑に処せられるのを
偶然見る。※この処刑は八百屋お七ではない(お七の処刑は天和3年(1683)3月29日

7/22-8/14、この間、シーボルト父子は横浜に滞在
8月 14日 朝7時、江戸へと出発
15日 江戸に帰着したことを外国奉行に知らせる。道中で家々の玄関に「月見の祭り(仲秋の名月)」の飾り付けがあるのを見る。
16日 ハリスを訪問
20日 浅草寺へ 芝田町波止場より船で浅草へ浅草寺参拝。浅草では外国掛役人が密かにハリスの警護をした
21日 採鉱学の講義
23日 津和野藩主亀井隠岐守の侍医、池田多仲が来訪
9月 5日 ハリスとクラークが来訪
6日 ハリスとクラークが来訪
7日 善福寺にハリスを訪問
10日 外国奉行水野筑前守来訪。幕府が江戸退去を懇願していることを告げられる
15日 冶金学講義
25日 外国奉行で遣欧使節大使の新見伊勢守、新任の外国奉行、竹本隼人正、根岸肥前守来訪
10月 11日 子息アレクサンダーが横浜に出発
14日 善福寺にハリスを訪問
15日 江戸を出発し横浜に向かう。
(シーボルト日記より抜粋)




1861(文久元)年各国公使館・施設所在地
名 称 公 使 所在地・地図 創設時期 備 考
赤羽接遇所
講武所付属調練所跡 1859(安政六)年8月~ ロシア領事ゴスケビッチ、プロセイン使節オイレンブルグ、シーボルト父子などが滞在
アメリカ公使館 ハリス 麻布山善福寺 1859(安政六)年6月8日~ 子院善光寺はヒュースケン宿舎
イギリス公使館 オールコック 高輪東禅寺 1859(安政六)年6月4日~ 公使館通訳伝吉刺殺事件・2回の高輪東禅寺襲撃事件
フランス公使館 ベルクール 三田済海寺 1859(安政六)年8月29日~ 江戸で3番目の外国公使館。公使館の旗番ナタールが同地にて襲撃され負傷した三田聖坂上にある
オランダ公使館 デ・ウィット 伊皿子長応寺 以前よりカピタン出府時に使用 この時期オランダは長崎出島内に本拠があり公館ではなかったがカピタン出府時などに使用された。この寺は後に写真家ベアトのアトリエが併設される。公館は安政6年に西応寺に設置されたが、慶応3年薩摩藩邸焼き討ちの際西応寺が類焼しここ伊皿子の長応寺が公使館となった。一時期、スイスの公使館員が寄宿していた時期もある。寺は明治期に北海道に移転し現在はマンションとなっている。




      
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板①
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板①
      
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板②
赤羽接遇所跡の飯倉公園解説板②









赤羽接遇所跡

赤羽接遇所は、安政六年(1859)に、これまで講武所付属調練所であった地に設けられた外国人のための宿舎兼応接所である。同年八月に作事奉行関出雲守行篤らによって建設された内部は間口十間、奥行二十間のものと、間口奥行十間のものとの二棟の木造家屋から成っていた。
幕末にわが国を訪れたプロシャの使節オイレンブルグは、上陸後直ちにここを宿舎として日普修好通商条約を結び、またシーボルト父子やロシアの領事ゴシケビチなどもここに滞在し、幕末における外国人応接の舞台となった。

昭和四十八年三月

東京都港区教育委員会









参考文献
・シーボルト日記・再来日時の幕末見聞録-石山禎一・牧幸一訳
・鳴滝紀要-シーボルト記念館
・黄昏のトクガワ・ジャパン-ヨーゼフ・クライナー
・シーボルト波瀾の生涯-ヴェルナー・シーボルト
・歳月-シーボルトの生涯-今村明生
・文政11年のスパイ合戦-秦新二
・ふぉん・しいほるとの娘-吉村昭
・シーボルト父子伝-ハンス・ケルナー
・ジーボルト最後の日本旅行-アレクサンダー・シーボルト
・幕末異人殺傷録-宮永孝
・陽だまりの樹-手塚治虫
・ヒュースケン日本日記-青木枝朗訳
・江戸の外国公使館-港区郷土資料館
・近現代沿革図集--港区郷土資料館






スライドショー

2013年3月20日水曜日

イギリス公使館通弁、伝吉刺殺(其の二)漂流から帰国

漂流を始めてから53日目の嘉永3年12月21日(1851年1月22日)、賄方の安太郎は朝日を拝もうと船端に行くと西遠方に船を発見し、驚いて皆を呼んで手を振り救助を求めました。
しばらくすると、向こうの船でも栄力丸に気が付き、やがて近づいてボ-トをおろして17名全員が救助されました。

彼らを救助したのはアメリカの帆船「オ-クランド号(乗員11名)」で、43日かけて嘉永4年2月3日(1851年3月5日)サンフランシスコに入港します。その後、栄力丸乗組員たちは税関用船ポ-ク号の作業員となり約1年間を過します。その間生活必需品はすべて供与され、健康のためサンフランシスコへの上陸、市内見物も許可されます。しかし望郷の念から帰国の希望を役人に伝え善処を約束されたが、当時日本は鎖国中でアメリカと国交を結んでいませんでした。

 嘉永5年2月21日(1852年3月31日)、遂に念願がかない帰国の許可が合衆国政府からおりた一行17名は、軍艦「セントメリ-号」で帰国の途につきます。合衆国政府の意向では一行をまず香港に送り、そこでペリ-の日本遠征艦隊に同行させるつもりであったようです。

嘉永5年閏2月14日(1982年4月3日)補給のためハワイ島ヒロ湾に投錨し、入港直前かねてから診療を受けていた船頭の万蔵が病死したので「南無阿弥陀仏日本万蔵」と記した板を墓標にハワイ島の共同墓地に葬ります。投錨後9日目に再び出港したセントメリ-号が香港入港したのは嘉永5年4月2日(1852年5月20日)であったそうです。
嘉永5年4月2日(1852年5月20日)香港に到着し、アメリカ東インド艦隊の旗艦「サスケハナ号」(2,450トン、乗員300名)に移乗した一行16名はその船で約半年を過ごしましたが、次作、彦太郎(彦蔵)、亀蔵の3人はアメリカに戻る事になります。これ以降の3人については作家の吉村 昭氏の「アメリカ彦蔵」を参照してください。余談ですが、サスケハナ号は後年黒船艦隊ペリー提督の乗船する旗艦として浦賀に来港します。

13人になった一行は中国内を何度か往復し、その間山賊に遭ったり他の日本人漂流者(乙吉、力松)らと出会ったりしましたが、生活の場は サスケハナ号でした。しかし一行はアメリカ軍艦で帰国すると、アメリカの手先になり軍艦を日本に導いたと幕府に思われる事を恐れ、嘉永6年3月1日(1853年4月8日)、元炊方の仙太郎を残し、12名が艦長から暇を取りつけ下船しました。

 下船した12名は、上海にあるデント商会の番頭格で日本人の乙吉の家に身を落ち着けます。そして乙吉の好意でデント商会に職を得ましたが、アメリカの日本遠征艦隊のミシシッピ号が上海に入港し再び彼らを連れ戻そうとしたので、嘉永6年4月21日(1853年5月27日)一行は約100キロ離れた乍浦(チ-フ-)に向かいます。
乍浦到着後に現地の役人から通訳・付き添いなどが付けられ生活を始めましたが、外出は自由ではなかったようです。ここからは長崎へ往復する船が出ているため一行はチャンスを待ちました。

年が変わって嘉永7年2月21日(1854年3月20日)、伝吉は置き手紙をして突然一行の前から姿を消してしまいます。理由は一向に帰国の許可が下りず、食事も合わないのでこのままでは病気になると思い、どこでもよいから安住の地を見つけるためと書き置きにあったそうです。
しかし、皮肉な事に6月になると役所から帰国の許可がおり、嘉永7年7月10日(1854年8月3日)伝吉を残した一行11名は中国船源宝号で帰国の途に就きました。そして27日(8月20日)念願の長崎に到着します。

 一行と別れてからの伝吉の事は、あまり判っていないようです。上海に戻ったのち那覇をへて再びホンコンに行き、ここでペリ-の率いるアメリカ軍艦に乗船を請い許されます。船員達からDan-Ketchと呼ばれた伝吉は非常な才能と熱心な知識欲を見せ、ペリ-からも保護を受け可愛がられました。

アメリカ到着後の行動はまったく分からないようですが、その後再び香港に渡りそこでオ-ルコックと知り合って駐日イギリス公使館付け通訳官という英国外交官随行員の地位を得ます。そして安政6年6月26日(1859年5月26日)、イギリス公使オ-ルコックを乗せた軍艦サンプソン号が江戸に到着すると、その随員の一人として英国籍を手に入れた伝吉が乗船していました。

攘夷の嵐が吹き荒れる日本を約10年ぶりに見た彼はどう思ったでしょう。江戸到着からわずか7ヶ月で刺殺された彼は、その短い間にすっかり日本人から嫌われたそうです。これは驕慢な性格(永い放浪生活で培われた?)からといわれるようですが、もう一つ外国役人に素人娘のラシャメンを斡旋する仲介を行ったため日本人女性を夷狄に売り渡す売国奴として嫌われたともいわれています。

伝吉は三田の口入れ屋「三田屋」、「田原屋」、「町田屋」などに異人館に奉公する娘を探す事を依頼し、三田の蕎麦屋「鶴寿菴」の娘お花、本芝妙法院の娘お香乃の2人を見つけ出します。
2人とも道楽娘のうわさがあり又両家とも金銭的に窮乏していたので、話はすぐにまとまります。しかし、ラシャメンになる事を愚痴ったお花の言葉が、彼女に恋心を抱いていた野州浪人桑島三郎の耳に入り、激怒した桑島三郎が伝吉に天誅を加える目的で殺害したといわれています。

伝吉の死後(文久元年5月28日、1861年7月5日)水戸の浪士らがイギリス公使館を襲撃した際(第一次東禅寺襲撃事件)、若い娘の斬殺された死体が二つ見つかります。そして、この死体はおそらくお花とお香乃ではないかといわれています。







幕末の攘夷事件
西 暦和 暦事 件場 所備 考
1858年7月29日安政五年
六月十九日
日米修好通商条約締結
1859年7月4日安政六年
六月五日
神奈川開港
1859年7月7日安政六年
六月八日
アメリカ公使館が麻布山善福寺に開設
1859年8月4日安政六年
七月六日
シーボルトが二度目の来日。長男アレクサンダーと共に長崎に到着
1859年8月25日安政六年
七月二七日
ロシア海軍軍人殺害横浜波止場海軍少尉ロマン・モフェトと水兵イワン・ソコロフおよび1人のまかない係が水戸天狗党に襲撃される。外国人殺害事件の始まり
1859年11月5日安政六年
十月十一日
フランス領事館従僕殺害横浜外国人居留地フランス副領事ジョゼ・ルーレイロの中国人従僕が洋服を着ていたため西洋人と間違われ殺害
1860年1月29日安政七年
一月七日
伝吉刺殺東禅寺英国公使館漂流漁民からイギリスに帰化し、オールコックと来日した通訳の伝吉が公使館門前で刺殺
1860年3月24日安政七年
三月三日
桜田門外の変江戸城桜田門外大老井伊直弼暗殺
1861年1月14日万延元年
十二月四日
ヒュースケン暗殺麻布中の橋際馬上で襲撃される
1861年6月18日文久元年
五月二十一日
シーボルトが長男アレクサンダーと共に江戸に到着し赤羽接遇所に滞在
1861年6月19日文久元年
五月二十二日
シーボルトが麻布山善福寺アメリカ公使館のハリスを訪問後に光林寺でヒュースケン、伝吉の墓参り
1861年7月5日文久元年
五月二十八日
第1次東禅寺事件東禅寺英国公使館水戸浪士14名が江戸高輪東禅寺のイギリス公使館を襲撃
1862年2月13日文久二年
一月十五日
坂下門外の変江戸城坂下門尊攘派の水戸浪士6人が老中安藤信正を襲撃し負傷
1862年6月26日文久二年
五月二十九日
第二次東禅寺事件東禅寺英国公使館東禅寺警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺した事件
1862年9月14日文久二年
八月二十一日
生麦事件横浜近くの生麦村島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人4人に対し、供回りの藩士が斬りつけ、チャールス・リチャードソンが死亡、ウッドソープ・クラークとウィリアム・マーシャルの2名が重傷を負った。この賠償交渉がもつれ、薩英戦争が勃発した。
1863年1月31日文久二年
十二月十二日
英国公使館焼き討ち御殿山隊長:高杉晋作、副将:久坂玄瑞、火付け役:井上聞多、伊藤俊輔、寺島忠三郎、護衛役:品川弥二郎、堀真五郎、松島剛蔵、斬捨役:赤根武人、白井小助など
1863年5月23日文久三年
四月六日
麻布山善福寺で不審火麻布山善福寺攘夷派浪士の付け火とおもわれる火事が発生。庫裡、書院などが焼失するも公使館員に被害なし。
1863年5月30日文久三年
四月十三日
清河八郎暗殺麻布一の橋際幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名により暗殺
1863年6月25日文久三年
五月十日
馬関海峡封鎖砲撃馬関海峡幕府が調停に対して設定した攘夷期限。長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中の米仏蘭艦船に対して無通告で砲撃を加えた
1863年8月文久三年
七月
F.ベアトがスイス使節団の臨時随行員として江戸市中を撮影し、麻布辺も撮影する。
1863年8月15日文久三年
七月二日
薩英戦争勃発















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2013年1月7日月曜日

シュリーマンの善福寺滞在


幕末期にアメリカ公使館が設置された事から、たびたび歴史に顔を出すこととなる麻布山善福寺ですが、再来日したシーボルトが江戸滞在中に赤埴接遇所からこの麻布山善福寺に設けられたアメリカ公使館に毎日のようにハリスを訪問していたことを以前ご紹介しましたが、あのトロイの木馬の発掘者であるハインリッヒ・シュリーマンもこの麻布山善福寺に短期間滞在していたことが「シュリーマン旅行記 清国・日本」という書籍に記載されています。シーボルト、ハリス、ヒュースケンなどが滞在・訪問した事は比較的よく知られていますが、シュリーマンの麻布山善福寺滞在はほとんど知られていません。よって、今回はその滞在記をご紹介します。

シーボルトの総領事ハリス訪問から4年後の慶応元(1865)年6月24日、シュリーマンは清国経由で日本に寄港、横浜で船を下ります。しかし、当時の江戸は攘夷の風が吹き荒れ、アメリカを除く各国公使なども江戸を退去して横浜などに滞在していたので、江戸市街は外国人にとって非常に危険に満ちたものであったそうです。
そこでシュリーマンは苦労の末にグラバー商会の仲介でアメリカ代理公使ポートマンの招待状を手に入れ、江戸を訪れることとなりました。
1865(慶応1)年6月25日、強雨の中8:45分頃に5人の警備の武士を従えて横浜を馬で出発、茶屋で食事・休憩後、品川浦から御台場をながめつつ 一行は14:00頃善福寺のアメリカ公使館に到着します。そして、雨で濡れた体を温めるため入浴した後、再び警護の武士を従えて愛宕山に登り周囲を展望しました。そして江戸城外周を1周して19時頃、アメリカ領事館に帰着しました。旅行記では善福寺の様子を、
~午後2時頃アメリカ合衆国公使館へ着いた。善福寺という大きな寺でその名は永遠の浄福を意味する。花崗岩の巨大な山門をくぐると、大きな石を埋め込んだ道が広大な前庭横切って大寺院まで続いている。~
と紹介し、続けて公使館の様子を、
~建物は二階建てで回廊がぐるりと巡らされている。外壁と内壁はすべて白い紙を貼った引戸障子である。~
と書いています。さらにその建物は昼間200人、夜は300人以上の武装した役人により警備され、毎夜合言葉を決めて敵味方を識別しているとの記述があり、ちなみに到着した25日の合言葉は「誰→風」だったそうです。

翌26日は晴天となり、早朝に他国公使館を訪問するため警護武士と共に出立します。済海寺(フランス公使館)※旅行記にはヒュースケン暗殺現場と誤記-長応寺(オランダ公使館)-東善寺(イギリス公使館)と廻って、アメリカ領事館に戻り昼食。
午後からは浅草を訪れ、浅草寺を見た後に境内の見せ物を見物し、独楽の曲芸に驚嘆しています。その後警護の猛反対を押し切って大きな芝居小屋で芝居見物。日本語を理解しないシュリーマンにも芝居の筋は十分に理解できた模様。19:30アメリカ公使館に帰着。その晩の公使館警護武士の合言葉は、 「誰→大」と記しています。

○6月27日 晴れ
早朝出立
団子坂で盆栽を見学-王子権現見学
有名な茶屋(王子扇屋?)で昼食
再び浅草見物
アメリカ領事館に帰着
領使館警護武士合言葉 「誰→娘」


○6月28日? 29日?

4:30 鐘の音で目を覚まし、善福寺の朝の勤行を見学
7:30 6人の護衛武士を伴い、深川(富岡)八幡見物に出立
永代橋-深川八幡-須崎弁天-両国橋
アメリカ領事館に戻り昼食
午後、赤羽の寺(光林寺)を訪問しヒュースケン、伝吉墓に墓参
この日の光林寺訪問では、
~ ヒュースケンは江戸に埋葬された、ただ一人のキリスト教徒であるばかりなく、日本語を正確に読み書きすることができるようになった唯一の外国人であるそしてそれがその死の原因となった。彼があまりにも日本の生活になじんだので、自分たちの統治機構の秘密を洩らすのではないかと恐れたのである。 ~
などとあり、ヒュースケンの死因を追求している様子が記されています。そして、これはただの憶測ではなく、江戸で訪問した各国公使館員たちの情報によるものと思われます。 26日に訪問したフランス公使館・済海寺では万延1(1860)年9月、イタリア人警備官が襲撃された事を聞いたであろうし、オランダ公使館・伊皿子長応寺は数年前のシーボルト来日や写真家のベアトが江戸での常宿としていたことから、時事情報が豊富であったと思われ、さらにイギリス公使館東善寺では通訳官「伝吉」刺殺事件、2度にわたる公使館襲撃事件などをシュリーマンは聞き知っていたと考えるのが妥当かと思われます。

旅行記に記された「江戸」の項は6/24~6/29となっていますが、前述したように江戸への到着は25日であることから、29日には横浜に向けて旅立ち、さらにサンフランシスコへと向かう船に乗ったようなので、実質4~5日間の善福寺滞在ではなかったかと想像されます。
さらに5年後の1870年からシュリーマンはトロイアの発掘を開始し、数年後にはトロイの木馬の話で有名なトロイア遺跡を発見することとなります。







幕末の麻布周辺事象
西暦年号麻布辺の事象一般事象
1859年安政六年6/27麻布山善福寺にアメリカ公使館が設置。その後英国、仏国、和蘭なども公使館を続けて江戸に設置7/6シーボルト父子長崎に到着
1860年万延元年1/7イギリス通訳官伝吉刺殺
9/17フランス公使従僕傷害事件
12/4ヒュースケン暗殺
咸臨丸がアメリカに向けて浦賀を出港
ヒュースケン事件により米国を除く各国公使が横浜に退去
1861年文久元年5/10~10/15シーボルト父子赤羽接遇所滞在
5/28第一次東禅寺事件(高輪)
4/12米国南北戦争開戦
11/15皇女和宮御降嫁、江戸清水邸御着
1862年文久二年麻布氷川神社例祭で使用される獅子頭が本村町で作製される。
5/29第二次東禅寺事件(高輪)
12/12御殿山英国公使館焼打ち
8/21生麦事件
4/12アメリカ公使ハリス米国へ帰国
4/23寺田屋騒動
1863年文久三年4/13清河八郎が一の橋で暗殺される
4/6麻布山善福寺が攘夷派浪士の襲撃を受け本堂が焼失
7月F.ベアトがスイス使節団の臨時随行員として江戸市中を撮影、麻布も多数撮影する
5/10馬関戦争
5/12長州五傑英国へ密航
7/2薩英戦争
1864年元治元年長州征伐で長州本藩である麻布竜土町の長州萩藩邸(現東京ミッドタウン)、麻布日ヶ窪の長州藩の支藩である長府藩邸(現六本木ヒルズ)が幕府により取り壊される禁門の変~第一次長州征伐
1865年慶応元年6/25~6/29シュリーマンが麻布山善福寺に滞在7/18英国駐日公使パークス着任
第二次長州征伐
4/3米国南北戦争集結
1866年慶応二年米価高騰により麻布、芝、赤坂でも打ちこわし(5/28)。
白金清正公門前に牝ライオンの見世物(1月)
薩長同盟成立、福沢諭吉、慶応義塾を創設
1867年慶応三年薩摩藩三田屋敷幕府軍により焼き討ち 坂本竜馬暗殺
将軍徳川慶喜が大政奉還
王制復古の大号令
天皇による新政府樹立の宣言
ええじゃないか』 大流行
1868年明治元年勝、西郷会見(3/14、3/15) 鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の始まり)
明治維新、天皇、東京に到着(10/13)
スエズ運河開通(1869年)






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2019年3月18日月曜日

★ 白金今里探索-まとめ










①高輪台駅・猿町

②三田用水猿町橋・日本家畜市場

③三田用水南里橋・今里地蔵

④三田用水遺構

⑤白金台3丁目遊び場

⑥今里橋の欄干

⑦常光寺・福沢諭吉埋葬地

⑧上今里橋

⑨伝染病研究所(伝研)→
東京大学医科学研究所(医科研)
近代医科学記念館

⑩国立公衆衛生院~ゆかしの杜
   港区郷土歴史館

⑪自然教育園と白金長者柳下氏(解説のみ)

⑫八芳園(解説のみ)

聖心女子学院正門

⑭服部ハウス(戦後史)

⑮三光坂

⑯西光寺・几号水準点

⑰梅が茶屋

⑱白金氷川神社(三氷川直列)

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A.四の橋・狐しるこ
 (麻布七不思議)

B.夏土用丑の日考
  (狐鰻の由来)

C. 麻布の橋-その2-3 字雷神下とその周辺

D.麻布の橋-その2-2 狸橋とその周辺 三田用水白金分水と梅屋敷の福沢諭吉水車

E. 麻布の橋-その2-1 狸橋とその周辺 狸橋と狸蕎麦



 
F.慈眼山光林寺
ヒュースケン・伝吉墓所

ヒュ-スケン事件


ヒュ-スケン事件-その2


伝吉刺殺事件

G.富士見町グラバー邸

★トーマス・グラバーと港区(その-1)






2012年10月4日木曜日

シーボルトと善福寺逆さ公孫樹


前々回までシーボルト関係のネタをお伝えしましたが、書き漏れがあったので
今回は追記としてお届けします。
逆さ公孫樹

シーボルトは江戸滞在中頻繁にハリスと会っていたと書きましたが、時には宿泊先の赤羽接遇所で、またあるときは麻布山善福寺に設置されたアメリカ公使館での面会となりました。
そのなかで、度々訪れた善福寺で逆さ公孫樹を観察し記録ていたことは、あまり知られていません。
シーボルト1661年5/22の日記には、

正午、ハリス邸へ。ヒュースケン、伝吉の墓参り。
ハリス邸の寺院の境内に周囲30フィートの太さのイチョウがある。
この巨大な樹は、枝分かれの下、高さ12から18フィートあたりの幹から、
太さ3から5インチの太い根{気根}が出ている。東ロシアのヴァリンピの樹に似た形である。
私はイチョウの一本を江戸の近くの寺で観察した。
その寺は、アメリカ公使館に譲ったものであるが、木は周囲7m、高さがおよそ30mもある

   
と、帰国後「1886年ライデン気候馴化園の日本植物。説明付き目録の要約と価格表」
赤羽接遇所
に記していますが、シーボルトが「逆さ銀杏」を
観察し記録した事実はほとんど知られていないといわれています。(シーボルト波瀾の生涯より)
その後、同じ日に麻布光林寺で中の橋近辺で襲撃され命を落とした「ヒュースケン」の墓とその傍らにある イギリス公使館通訳伝吉の墓を参拝したたのちに、両者の墓碑銘を比較して
静と動の不思議な対比である」と覚書に記しています。






DEEP AZABU関連記事
    むかし、むかし11-175シーボルトの見た麻布
       http://deepazabu.com/m1/mukasi/mukasi11.html#175











2013年3月27日水曜日

ヒュ-スケン事件

麻布近辺は江戸末期から外国の施設が多くありました。高輪東禅寺に英国公使館、三田済海寺にフランス公使館、麻布仙台坂の春桃院にプロシア(後のドイツ)公使館、芝西応寺・伊皿子長応寺にオランダ公使館、そして麻布山善福寺にはアメリカ公使館がありました。

万延元年(1860年)3月、前年の安政大獄が原因となる桜田門外の変で、井伊大老が暗殺されると、攘夷の思想が横行して外国人への襲撃、焼き討ちなどが相次きます。
同年12月には、アメリカ公使館通訳ヒュ-スケンが暗殺されました。ヒュ-スケンは、アムステル生まれのオランダ人で、アメリカに帰化し志願しアメリカ公使ハリスの書記兼通訳として来日します。年俸1,500ドル、ハリスの信任が厚く代理も務めたので攘夷派から憎まれることとなります。

万延元年十二月四日(西暦:1861年1月14日)、幕府からの要請で、赤羽橋の接遇所でプロシア使節との交渉通訳を終えたヒュ-スケンは、馬に乗り中の橋の前あたり(東麻布イースト商店街入り口辺)まで来たところ、 物陰から抜刀した武士達が斬りつけてきます。護衛の武士は役に立たず、ヒュ-スケンは斬られて重傷を負います。
近隣の人の知らせを受けた善福寺用人らが戸板に乗せて同寺内の宿舎であり、愛人のお鶴も住む善光寺に運び医師の手当てを施したが、まもなく死亡しました。葬儀は同寺でアメリカ公使ハリスにより行われ、イギリス、フランス、オランダ、プロシャの代表が参列しました。 しかし、善福寺は土葬が禁止されていたため、慈眼山光林寺に埋葬されます。この光林寺には約1年前の安政七年一月七日(西暦:1860年1月29日)にイギリス公使館である高輪東禅寺の門前で刺殺されたイギリス通訳官の「伝吉」が埋葬されています。
 このヒュースケン暗殺事件の犯人は、薩摩藩士牟田尚平とも攘夷派の巨頭清川八郎ともいわれますが、謎のまま清川八郎も、三年後に一の橋の際で暗殺されることとなります。 
そして、この事件前後も襲撃、焼き討ちなどが相次ぎます。
  • 安政6年(1859年)横浜でロシア軍艦乗員2名暗殺。
  • 万延元年(1860年)オランダ商船長デ・ボスら2名、横浜で殺害。
  • 同年5月28日、漂流漁民からイギリスに帰化し、オルコックと来日した通訳の伝吉、刺殺。
  • 文久元年(1861年)4月2日、高輪東禅寺英国公館が水戸浪士により襲撃焼き討。
  • 同2年8月、生麦事件によりイギリス人殺害。
事件後幕府はハリスの請求によりオランダにいるヒュ-スケンの母親に洋銀10,000ドルを支払います。しかし ヒュ-スケン事件を幕府の面子をたて、賠償だけで穏便に解決したハリスも、文久2年(1862年)アメリカの外交方針変更により解任され帰国の途につきます。

次回はヒュースケン事件そのものの詳細をお伝えします。


Blog DEEP AZABU-ヒュ-スケン事件-その2
 https://deepazabu.blogspot.com/2013/03/blog-post_28.html






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2013年1月24日木曜日

幕末、麻布周辺の外国施設

幕末の麻布周辺(芝、三田も含めて)には外国施設が多くありました。 これは後に「港区」と呼ばれるように、海が近かったため、品川などに停泊している自国の船(軍艦など)に有事の際に移動するために便利であり、なおかつ江戸城にも程近かったためと思われます。 
現在も大使館などが数多く存在しますが、震災・火事などの災害を考え、建物の密集した都心よりやや郊外のおもむきの残る麻布近辺が安全と考えたためとも思われます。以下は幕末における麻布周辺の外国施設。


幕末の外国施設
名称場所所在地 開館 備考
アメリカ公使館麻布
山元町
善福寺 安政6年
1859年
6月8日
公使ハリスが本堂を住居とし公使館を設置。通訳ヒュ-スケンが攘夷派により暗殺される。攘夷派の襲撃により書庫が焼失。
アメリカ代理公使宿舎三田
北寺町
大松寺 慶応2年
6月11日
代理公使ポ-トマンの専用宿舎。
イギリス公使館①芝高輪 東禅寺 安政6年 公使オ-ルコックが滞在。攘夷派の襲撃事件2回。日本人通訳伝吉の殺害。
イギリス公使館②芝高輪 泉岳寺 慶応元年
1865年
公使パ-クスが滞在。攘夷浪士の襲撃回避のため高輪接遇所と称した。
フランス公使館三田台 済海寺 安政6年
8月26日
公使ベルク-ル、全権公使ロッシュが滞在。
フランス付属宿舎三田台 大増寺 安政~ 幕府外国奉行と代理公使ベルク-ルが会談。
フランス副領事宿舎三田台 実相寺 安政6年
12月15日
副領事メルロが居館として使用。
フランス公館三田台 正泉寺 安政6年
11月22日
フランス総領事館通弁ジュ-ルが居住。スイス総領事リンドウ、イギリスのア-ネスト・サトウも使用。明治43年目黒区碑文谷に移転。
オランダ、ロシア、フランス使節の宿館芝愛宕 真福寺 安政5年~ プチャ-チン(ロシア)、グロ-(フランス)、クルチウス(オランダ)などが滞在。
オランダ公使館①
西応寺
西応寺 安政6年
9月
公使クルチウスが滞在。イギリス人エルジン伯も一時滞在。薩摩藩邸焼き討ちで類焼した。
オランダ公使館②
伊皿子
長応寺 慶応3年
1867年
12月
芝西応寺が薩摩藩邸焼き討ちで類焼したのでオランダ公使館は伊皿子長応寺に移転。スイス使節団が滞在。写真家F.ベアトの江戸におけるアトリエが設置されていた。1902(明治35)年寺は北海道に移転した。
プロシア公使館麻布
本村町
春桃院 慶応元年
1865年
4月
神奈川領事フォン・ブラントが江戸滞在に使用。
ロシア使節宿舎 三田
小山町
天暁院
大中寺
安政6年
7月21日
通商条約批准の際、函館領事ゴシケビッチ、ムラビヨフが滞在。イタリア使節も使用。現存せず。
外国人旅宿麻布
飯倉町
赤羽接遇所 安政6年
8月
各国が条約批准などで滞在。シーボルト父子も滞在。詳細はこちらをどうぞ


追記:

オランダ公使館は安政六(1859)年9月1日に芝西応寺に公使宿舎が設置され、初代公使クルチウスらが駐在しました。
しかし、慶応三(1867)年1十二月二十五日に起きた幕府による薩摩藩邸焼き討ちで隣接していた西応寺も類焼。
オランダ公使館は伊皿子長応寺に移転。

プロシア公使館は慶応元(1865)四月高輪広岳院に定められますが、翌慶応二(1866)三月麻布仙台坂の春桃院に移転します、



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2013年5月29日水曜日

東禅寺襲撃事件<高輪>

東禅寺山門
高輪の仏日山東禅寺(正式名称は海上禅林佛日山東禅興聖禅寺)は臨済宗妙心寺派の別格本山で 江戸四箇寺の一つとされています。
慶長1十五(1610)年、赤坂に建てられ、その後寛永十三(1636)年現在の地高輪に移転し、15,000坪に及ぶ広大な寺領を有していました。
幕末の安政六(1859)年、イギリス初代公使オ-ルコックが江戸に入ると東禅寺は幕府からイギリス公使館と定められました。この東禅寺の他にも候補となった寺院が三田などにありましたが、イギリス側は、非常事にすぐに軍艦に乗船できる東禅寺を選んだといわれています。

東禅寺が英国公使館となることが決まると、攘夷思想による 当時の不穏な情勢を反映して寺院内には10余りの番所をつくり、公使館のまわりを竹矢来で囲み常時150名ほどの武士が護衛として配置されました。そんな厳重な警戒の間を縫って安政7年1月7日(1860年1月29日)日本人通訳の伝吉が寺の門前で白昼に殺害されてしまいます。そして約1年後には寺内の英国公使館そのものが襲撃を受けることとなります。

文久元(1861)年5月28日の夜11時頃、水戸藩士有賀半弥ら14名の浪士が表門の垣根を破って乱入し イギリス人2名を負傷させ、警備の武士、浪士ともに数名の即死者と多数の負傷者を出しました。しかし、最大の目的の英国公使オ-ルコックを殺害する事は出来ませんでしたが、これは彼の部屋が一番奥にあったためであるといわれています。もし、襲撃が裏手の山側から始まっていたら、真っ先に彼は殺害されていたと思われています。 
東禅寺境内
翌29日の明け方、赤羽接遇所に滞在していたシーボルトが事件を聞きつけ、警護の武士に守られて来館し負傷者の治療に当たります。 このときの様子をシーボルトは、
~6日(西暦では五月二九日は7/6)の朝3時半 ,わたしは早馬で来た日本の役人により次のような知らせを受けました。~略~ この知らせを受けて私は護衛の25名に対し、夜が明けるとわたしの共をして、ここから(赤羽接遇所)から約一里離れている公使の住居に行くように命じました。五時頃わたしと息子のアレキサンダーは十分に武装をし、二十五名の選り抜きの護衛と共にそこ(東禅寺英国公使館)にむかいました。~

と日記に書き残しています。

この襲撃の直接的な原因は、オールコックがモース事件の処理により赴いていた長崎からの帰路を長崎奉行などの反対を押し切って陸路とし、京都見物(市内には幕吏に阻まれたため、入りませんでしたが)や霊峰である富士山に登山をするなど神州の地を汚されたと水戸の攘夷派が激怒したためといわれています。ちなみにこの襲撃事件が起こったのはオールコック一行が東禅寺に到着した翌日のことでした。この襲撃事件は後に第一次東禅寺襲撃事件と呼ばれることとなります。
ちなみに水戸藩士有賀半弥ら14名(別説には18名とも)の浪士は5月24日水戸を船で出発し、東禅寺の門前河岸で上陸し品川宿の妓楼「虎屋」で決別の祝宴をしたのち、28日に襲撃事件を引き起こしたそうです。


そしてちょうどその一年後、オ-ルコックが英国に帰国中の文久二(1862)年5月29日、再び襲撃事件がおこります。この夜は前年東禅寺に乱入して死亡した浪士の一周忌が行われていましたが、寺の警備の松本藩士伊藤軍兵衛が長槍を持って公使の庭に忍び入り、見張りのイギリス人を殺害します。そして混乱した現場から逃れた彼は自宅に戻り自害して果てました。この襲撃は彼が、日本人同士が傷つけ合うのは外人が居るためと思いつめ、暴挙に走ったと考えられました。
東禅寺本堂
 
この襲撃事件は第二次東禅寺襲撃事件と呼ばれています。

これら二度の襲撃事件により英国公使館は一時横浜に退去し、新たに品川御殿山に公使館の建設が始まります。しかしこの御殿山公使館も完成間近、長州藩の高杉晋作井上聞太(井上馨)、伊藤俊輔(伊藤博文)らによりにより襲撃され、焼失してしまいます。しかし公使館が横浜にあることに不便を感じていたオールコックの後任公使パークスの強い希望により泉岳寺に英国公使館が建設されます。この泉岳寺の公使館は攘夷派の襲撃を逃れるため「高輪接遇所」と偽っていました。その後明治になると公使館は旧沼田藩三田邸(現在の亀塚公園あたり)の地に移転し、さらに明治5(1872)年には皇居に近い現在の地(千代田区一番町)に移転します。

余談ですが、作家の岡本綺堂は父親が英国公使館に勤務していたため、高輪で生まれています。そして英国公使館の移転に伴い家族と共に麹町に居を移し、その家で長じたのちに綺堂は関東大震災で罹災し麻布に仮寓することとなります。

その後、東禅寺は幕府の滅亡により寺領は上地となり、檀家の武家も故国に帰ったことや、廃仏毀釈の影響を受け自然と寂れます。しかし今も名刹であり、玄関の鴨居や柱に1回目の襲撃時の刀きずや弾痕を見る事ができ、当時の面影を色濃く残している貴重な寺院です。










より大きな地図で 幕末外国公使館・施設 を表示












2013年6月1日土曜日

ベアトの麻布

Felice_Beato
おもしろい本を発見しました。「写真で見る江戸東京」(新潮社)というタイトルで、幕末から明治初期までの江戸の様子が写された写真が載っています。
その中の多くの写真を撮ったのがベアト、フェリックス(フェリ-チェ)・ベアト、1825年ベネチア生まれの報道写真家です。
クリミア戦争の写真展の成功でイギリス国籍を取得。従軍写真家としてパレスチナ、インド、第二次アヘン戦争に参加後、友人ワ-グマンの招きで来日します。

横浜に会社を設立その後20年あまりを日本で過ごし、銀相場の失敗で離日。その後ス-ダン戦争に従軍後、ロンドンに帰り、晩年はビルマで暮らしました。このベアトが撮った写真の中には麻布の写真も多く残されています。

一つは、赤羽橋から中の橋方面の古川と、久留米藩有馬家上屋敷が写されています。もう一つは、三の橋近辺の写真で清らかな古川と、うっそうとした森が写っています。
これならば、たぬきも棲んでいただろうと思われる風景の写真で、あらためて麻布の緑の深さに納得しました。

麻布とはかけ離れるが、すごい写真があります。焼き討ち直前の薩摩藩邸(現品川パシフィックホテル)を写した写真門番が恐い顔でこちらをにらみ、二人の武士が刀に手をかけている。ベアト達は、撮影の許可を仰いだが屋敷の主人は却下した。主人の名は、事実上の藩主久光。

ベアトのアトリエがあった伊皿子長応寺
生麦事件の当事者であり、薩英戦争の敵であるベアトがここを撮ろうとしたのは、なぜでしょう。
(※のちにこの写真は高輪石榴坂ではなく三田綱坂であることが判明しました)。

じっとにらみつける藩士の隙をついて撮られた一枚の写真。そして薩摩藩邸最初で最後の写真。この直後、藩邸は焼き討ちされました。

生麦事件、鎌倉事件など異国人殺害事件が多発していた危険な江戸を、ベアトは撮り歩きます。中には、江戸城を正確に写し取った写真なども含まれていました。

これらの写真から受ける印象は、趣味や娯楽ではなく、報道写真家として、又大英帝国への忠誠心として写されたものだと想像されます。

ベアトのポ-トレ-トは掲載されていませんが、ロバ-ト・キャパのような人だったのだでしょうか。








★追記 2010.05


現在の伊皿子長応寺跡
上記文章を書いてから10年以上が経過した現在、いくつかの変更点が出てきましたので訂正、追記とします。

まず、フェリックス・ベアト(Felix Beato) の出生地はベネチアとしましたが最近の資料ではギリシャの西方、イオニア海に浮かぶイギリス領コルフ島となっています。これによりイタリア人でクリミア戦争後に英国籍を取得とするのは間違いで、生まれながら英国籍を所持していたこととなります。名前も英国籍取得時にフェリックスと改めたという説も、フェリックス(Felix)は通称で、正式には「フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)」が正しいとされています。
また生年も1825年ではなく1834(天保5)年と訂正され、来日は1863(文久3)年3月とされているので29才前後と思われます。当時の日本は攘夷運動の真っ最中でした。






ベアト来日と攘夷・外国人関連の事件
場 所事 象・事 件
安政六(1859)年7月横 浜横浜でロシア士官・水夫刺殺
10月三田済海寺フランス領事館ボーイが切られる
安政七(1860)年1月高輪東禅寺イギリス公使館通弁「伝吉」刺殺
万延元(1860)年12月麻布中之橋アメリカ公使館通訳官ヒュースケン暗殺
文久元(1861)年5月高輪東禅寺第一次東禅寺事件
文久二(1862)年5月高輪東禅寺第二次東禅寺事件
8月神奈川生麦事件
11月横 浜外国公館焼討未遂
12月品 川御殿山英国公使館番人殺害
12月品 川御殿山英国公使館焼き討ち
文久三(1863)年3月横 浜F.ベアト来日。横浜居留地で開業
麻布一之橋清河八郎暗殺される
麻布善福寺アメリカ公使館が襲撃され焼失、公使館は一時横浜に移転
土 佐山内容堂が土佐勤王党の粛清に乗り出す
京 都幕府が朝廷に対して攘夷期限5月10日を約束
5月下 関長州藩、下関で外国商船を砲撃
7月江 戸F.ベアトがスイス使節団の臨時随行員として江戸市中を撮影
薩 摩薩英戦争
9月井土ヶ谷井土ヶ谷でフランス人士官暗殺
元治元(1864)年4月エジプトA.ベアト「スフィンクスの前に立つ遣欧使節」を撮影
10月鎌 倉鶴岡八幡宮でイギリス軍人ボールドウィン少佐・バード中尉が暗殺される
8月F.ベアト4カ国艦隊の下関砲撃に従軍
11月F.ベアト鎌倉江ノ島を撮影旅行
慶応三(1867)年7月長 崎長崎でイギリス人水夫二名暗殺
8月富士山F.ベアト、オランダ総領事と富士登山撮影
慶応四(1868)年1月神 戸神戸事件で外国兵負傷
2月堺事件でフランス兵殺傷
明治四(1871)年6月韓 国F.ベアトアメリカの朝鮮遠征隊に従軍
明治一七(1884)年11月横浜F.ベアト日本を離れる







③SATUMA’S PLACE-EDO
来日直後の1863(文久三)年7月、ベアトはスイス外交団団長で友人のエメェ・アンベール(Aime Humbert)の助力により外交団の臨時随行員となり、当時は外交使節しか許可されない江戸の町に入っています。スイス外交団は同年5月28日オランダ軍艦「メデューサ」で江戸に上陸し伊皿子長応寺に入りますが、将軍不在の江戸では攘夷の嵐が吹き荒れ、オランダ公使館も襲撃対象となっている事を外国奉行村垣範正から告げられ江戸退去を勧められました。しかし、アンベールは公文書による通達以外は応じられないとして勧告を拒否します。すると幕府側から6/2、6/4の2度にわたり公式の通告文書が発行されたので6/8やむを得ず外交団は幕府軍艦エンペラー(蟠竜丸) で横浜に戻ります。この時には生麦事件が未解決であったため英国軍艦は戦備を整え、フランスは横浜に軍隊を上陸させるなど事態は一触即発となりました。この事態が緩和されたのは幕府が英国に44万ドルの賠償金の支払いを決定する6/24であったそうです。

この短い江戸滞在中に写されたのが下に掲載した写真です。これらの中でも③写真の原題は「SATUMA’S PLACE-EDO」であることから現在の品川駅前石榴坂にあった薩摩藩邸(後年勝海舟・西郷隆盛会談が行われた藩邸)を写したものとされてきましたが、港区立港郷土資料館学芸員の松本健氏の調査で、この場所は現在三田2丁目の「綱坂」であることが確かめられました。よって写真右手坂下は現在慶應大学となっている敷地で同じく右手坂上はイタリア大使館、坂の左手は三井倶楽部となっている場所です。同地は江戸期には右手坂下は備前島原藩松平家中屋敷、坂上は松山藩松平家中屋敷、左手は陸奥会津藩松平家下屋敷・日向佐土原藩の島津淡路守の屋敷となっていて、写真の題はこの佐土原藩からとったものと思われます。

現在の同所(綱坂)
この画像の撮影について一行の団長であるエメェ・アンベールは「絵で見る幕末日本」の中で、
~我々は貴族の家がある地域に入っていった。右側には、薩摩公所有の公園が美しい影を落としており、左側は播磨公の屋敷の塀になっていた。その角を曲がると、建物の正面に出た。

ベアトがこれを撮影しようとすると、突然、二名の将校が飛び出して来て、すぐ撮影を中止するよう要求した。メトマン氏が、彼らに、彼らの主人がほんとうにそのようなことを欲しているのかどうか、聞いてみてくれと頼んだ。将校たちはこの要求を入れて、数分後に戻って来て、「自分の屋敷の撮影は、一切許せない」と伝えた。ベアトは、丁寧にお辞儀をして写真機をしまうと、将校たちは、彼の留守中に、すでに二枚撮っていることに気づかず、満足そうに立ち去っていった。

この場の目撃者である警備の役人たちは、メトマン氏の狡猾な成功に親しい賞賛の言葉を送った。 しかし、タイクンの城や墓地を撮影することには、断固反対した。この反対には、われわれも手の下しようがなかった。~


④The Arima Sama....Yedo
と記しており、写真は主人の返答待ちをしている間に隠し撮りされた様子が克明に描かれています。「絵で見る幕末日本」にはその後一行が、中の橋~赤羽橋~増上寺~浜御殿(現在の浜離宮)~愛宕へと進んでゆく様子が記されていますが④はその過程で撮影されたものと思われます。


④は原題「The Arima Sama....Yedo」とされる画像で、現在の三田小山町付近、左手が筑後久留米藩有馬家上屋敷、中央の森が天祖神社(元神明宮)、左が筑前秋月藩黒
田家上屋敷が写されています。画像には道の中央に3人の立ちはだかるような武士と黒田家門にも一人の武士が写されていますが、拡大するとさらに奥の天祖神社の階段で凝視する武士、社の石垣からこちらに向かう武士が二人写されているのがわかります。これらの武士からは殺気とも思える緊張感が伝わってきますが、これはこの写真が撮られた文久三(1863)年前後には攘夷事件が頻発し、同年屋敷付近では清河八

郎暗殺、善福寺襲撃などが行われ、さらに直前には幕府が朝廷に対して攘夷期限5月10日を約束する一方、幕府は各藩の攘夷実行を幕府忠誠の踏み絵として見ており、また諸外国の動向も生麦事件が未解決であったため英国軍艦は戦備を整え、フランス
現在の同所(元神明宮)
は横浜に軍隊を上陸させるなどの時期で、翻弄される諸藩は大混乱の渦中にあるという非常に緊張した時期であったためと思われます。

これらの画像の他にもベアトは庶民の生活を写した画像を多く残していますが、情景写真は港区内だけでも増上寺、溜池、浜御殿、愛宕などを撮影し、さらに多くの江戸市中も撮影しています。そしてこれらの写真は商業写真であると共に当時の状況から考えると、江戸市中を正確に写し取った「情報活動的」な要素も多分に含まれると見るべきだと思われます。

余談ですが、フェリックス・ベアトが日本で活躍していた文久四(1864)年、エジプトで一枚の写真が撮られます。この写真は日本の武士がスフィンクスの前で記念撮影をするという奇妙なものでタイトルは「スフィンクスの前に立つ遣欧使節」、写真には撮影者「A.Beato」のクレジットが記されています。 

エジプトの日本使節団 A.Beato撮影
この写真は当初下関砲撃に従軍した後のフェリックス・ベアトが撮影したものかとも思われましたが、「A.Beato」がフェリックス・ベアトかどうかは不明でした。 しかしこの疑問はフランスの「モニトゥール・ド・ラ・フォトグフィ」1886年6月1日号に掲載された記事により判明したといいます。写真の撮影者はフェリックスの兄で同じく報道写真を手がけていたアントニオ・ベアトで、池田筑後守長発を団長とする第二次使節団(横浜鎖港談判使節団) がエジプトを訪問した祭に撮影されたものであることがわか、ベアトは兄弟で写真家であったことがわかりました。











①古川橋辺から三の橋方面
②麻布山善福寺

















⑤赤羽橋有馬藩邸
⑥光林寺ヒュースケン墓所














⑦高輪東禅寺

④部分拡大























より大きな地図で ベアト麻布周辺の撮影地点 を表示