2019年4月8日月曜日

⑨東京大学医科学研究所(伝染病研究所)


 伝染病研究所(伝研)
 東京大学医科学研究所(医科研)
 近代医科学記念館


◎近代医科学記念館
 http://www.ims.u-tokyo.ac.jp/imsut/jp/about/memorialhall/
東京大学医科学研究所

東京大学医科学研究所の門をくぐると、左手に見えるのが東京大学医科学研究所「近代医科学記念館」です。

東京大学医科学研究所(医科研)の前身、伝染病研究所(伝研)は北里柴三郎のドイツ留学からの帰国に合わせ、その受け皿として福沢諭吉が中心となって私財を投じ、1892(明治25)年に設立し、北里柴三郎は初代研究所長に就任します。

この伝染病研究所創立にあたってはその名称から周辺住民の反対運動が起こります。

しかし、当時内務省衛生局長だった後藤新平の決断により完成します。
この伝染病研究所は芝公園(現在の港区芝公園1-1-2:パナソニックビル1号館)で創立し、1894(明治27)年には愛宕山に移転、そして1906(明治39)年に現在の白金台に移転します。

この地には「傳染病研究所発祥の地」碑が残されています。

北里柴三郎は福沢諭吉はじめ民間の援助を受け明治25年11月30日この地に開設された大日本私立衛生会附属伝染病研究所において細菌学の研究を開始し伝染病の撲滅に多大の貢献をした 爾来伝染病研究所は幾度かの変遷を経て現在に至っている 創立百年にあたりゆかりの地に碑を建て先人の偉業を顕彰するものである

平成4年11月吉日

東京大学医科学研究所
社団法人 北里研究所


1893(明治26)年北里柴三郎は結核治療のための施設「土筆ヶ岡養生園」を設立しますが、この後年北里研究所病院となるこの研究機関敷地も福沢諭吉の所有地でした。

そして1914(大正3)年に内務省から文部省管轄に移管されることに反対した北里柴三郎は全職員を連れて退職(伝研騒動)し、「土筆ヶ岡養生園」に北里研究所を設立します。またこの翌年1915(大正4)年12月には芝三田に「恩賜財団済生会芝病院」が開され、北里柴三郎初代院長は初代院長に就任します。

少し話が本題から外れますが、北里が伝研騒動の渦中にあった1914(大正3)年、開院前の「恩賜財団済生会芝病院」から病院と隣接する隣の敷地に忍び込んだ者がいました。この者の名前は永井荷風。当時慶応大学教授でった彼は当時慶応大学の教授で35歳の荷風は友人から「有馬の屋敷跡に名高い猫騒動の古塚がいまだに残っている」事を聞きつけ、学校帰りに造兵廠跡の閑地へと友人と共に日和下駄を進めます。
続きはこちらからどうぞ。

◎Blog DEEP AZABU
 続・猫塚-荷風の見た猫塚
 https://deepazabu.blogspot.com/2012/12/blog-post_6.html

◎青空文庫-日和下駄(永井荷風)
 一名 東京散策記
 第八 閑地
 https://www.aozora.gr.jp/cards/001341/files/49658_37661.html

何度目かとなるこの東京大学医科学研究所「近代医科学記念館」訪問がこの日の散歩の最大の目的で、シーボルトの娘楠本いねが晩年に麻布飯倉片町周辺で生活し死去しましたが、その楠本いねの住まいの周辺はまるでいねを守護するかのように福沢諭吉、北里柴三郎、高木 兼寛など医学関係者の屋敷がありました。

この謎を長年調べていますが、この「近代医科学記念館」には北里柴三郎関係の資料が大変豊富に保存されています。
実は北里柴三郎は伝研騒動により国立伝染病研究所を去る際にはビーカーなど総ての職員と備品を持ち去っていたのですが、この「近代医科学記念館」が造られるにあたって寄贈されたようです。

解説員の方のお話によると、現在も展示品以外にも大量のフィルムも残されておりいつか公開できればと仰っていました。

残念ながら本題の楠本いねと医学者たちの関係についての情報は今回見つけることが出来ませんでしたが、池の痕跡や敷地内の様子、港区郷土歴史館の工事中の様子、展示品の詳細な説明など長時間にわたり大変貴重な数々のお話をお伺い致しました。

この敷地と新設された港区郷土歴史館辺りには池があり、その池に白衣の研究者が船を浮かべて乗り込んでいる写真が残されているとの情報を伺いましたが、この池から流れ出す水流は白金台を下って五の橋直下で古川と合流していました。

この池の流路について当DEEP AZABUサイトとリンクさせて頂いている東京の水サイトが非常に詳しく解説なされています。

◎古川(渋谷川)白金三光町支流・再訪
 https://tokyoriver.exblog.jp/14890510/

そして解説員さんとの会話は少し方向を変えて、敷地内での野生動物の目撃を尋ねてみました。

すると、

ハクビシン、アライグマ、カエル、アオダイショウなどはよく観ます。そして狸は見たことがありません。

とのことでした。近隣の白金自然教育園では狸のグループ生息が確認されていますので、もしかしたら目撃例が無いだけで餌の捕獲で訪問しているのかもしれません。

また大きなカエルガ多くて気味が悪いとのことでしたが、面白いことが解りました。

「ウシガエルの輸入年および全国分布に関する一考察」という論文において非常に興味深い記載があります。

この伝染病研究所が実は「ウシガエル」養殖の発祥地でこの研究所から日本全国に食用として伝播したことが詳細に記録されています。

◎ウシガエルの輸入年および全国分布に関する一考察
  川口短期大学/梁井 貴史 著
https://saigaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=786&item_no=1&page_id=13&block_id=21

この論文によると、諸説あるもののと前置きしながら初めてウシガエルが輸入されたのを1918(大正7)年5/18としていますので、北里柴三郎はすでに研究所を去った後のお話です。

また近隣ホテルに宿泊する外国医科学関係者の訪問があるとのことでしたが、その中で圧倒的に質問が多い二項目をお教え頂きました。

一つ目は目黒寄生虫館への行き方で、このような博物館は珍しくおそらく世界でも目黒寄生虫館だけとのこと。

◎公益財団法人目黒寄生虫館
 https://www.kiseichu.org/

そして二つ目は、東大征医研が所有する人体標本の閲覧だそうです。内容は恐ろしくて書けませんが、この二つは必ずと言って良いほど外国人から所望されるようです。

思わず吉村昭の短編小説「透明標本」を思い出してしまいました。

その他、郷土歴史館の見所や見方をお聞きし、再訪をお約束して記念館を後にしました。


★3D檄坂Map-品川区・港区境界編
 http://deepazabu.net/3D/kitasina-taka/index.html








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★医科研再訪-1
 近代医科学記念館1
以前「散歩の続き.....⑩」でご紹介した東京大学医科学研究所(医科研)ですが、町歩きが決まったので近代医科学記念館へ再度の訪問をしてきました。
前回お話をお伺いした近代医科学記念館解説員さんがいらしたので、再び長時間の親切丁寧な情報を頂きました。
まずは医科研が創立した頃の池の写真のことを前回お伺いしたのですが、その実物をご提供頂きました。
写真には3名の男性がちいさなボートに乗って(内二人は白衣姿)、池の畔には白衣を着た看護婦さん7名ほどが写っています。
当初この写真の話をお聞きしたときには学術研究のための調査かと思いましたが、違うことが解りました。
この写真のタイトルはズバリ「船遊び」です。
休憩時間に先生?学生?が看護婦さんと集団デートをしているような情景にも見えます。
また別アングルで人物が写っていない写真には池と池の畔の建物の名称がと思われる「池と昆虫室1921(大正10)年」というタイトルがつけられています。
また近代医科学記念館の建物は当時の厩舎をモチーフとしているとのことで、1985(昭和60)年頃にまだ保存されていた
実物の厩舎写真を拝見。
この厩舎は実験用の馬の飼育を行っていたのですが、戦前はもう一つの役割があったようです。
陸軍に招集されると、教育の一環として新兵は馬とのコミュニケーションを教育されたそうで、当初これを「輜重兵(兵站業務)」のみが行われた教育かと思いましたが、解説員さんの話では全ての陸軍新兵に施された教育とのことでご自身の父君の逸話などを混ぜてお聞きしました。
そしてこれら実験用動物たちの霊を慰める慰霊塔の所在をお聞きし、早速拝見しました。
またその傍らにはつい近年まで御稲荷さんがあり、社殿が残されていたそうです。しかし、現在は撤去されてしまったそうで見当たりませんでした。
解説員さんの説明をお聞きした際にはこのお社を「コッホ北里神社」を分祀した元社かと思いましたが、そうではなく全く別の御稲荷さんとのことで、社が健在だった頃の写真もご提供頂きました。
◎麻布の橋-狸橋その2-5
 字雷神下とその周辺(コッホ・北里神社)
https://www.facebook.com/deepazabu/posts/10218930955768552
この記念館の展示物はその多くが現在の北里研究所からの提供品のようですが、これは医科研初代所長北里柴三郎がこの医科研を去るときに研究員全員と備品もビーカーや試験管に至るまで北里研究所に移転していたためとのこと。
展示品には北里柴三郎が使用していたのかもしれない当時の顕微鏡(解説員さんはこの顕微鏡の指紋からDNA検査をして見たいと語っておられました。)、北里柴三郎の医科研入所時に提出した履歴書、同所員だった野口英世の履歴書が展示されていますが、この履歴書を提出した当時の現住所を
北里は、麻布区麻布仲ノ町十九番地
野口は、芝区伊皿子町七十番地
と記しており、どちらも現在の港区域にお住まいだったことが解ります。
★散歩の続き.....⑩
 東京大学医科学研究所
 近代医科学記念館
https://www.facebook.com/deepazabu/posts/10218881863781283














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★医科研再訪-2
 近代医科学記念館2
 北里博士の憔悴
前回お伝えした近代医科学記念には多くの展示物がありますが、その中でも私の目を引いたのは北里博士がドイツに留学したおりの恩師コッホ博士夫妻を日本に招聘した折作成された絵はがきで、キャプションには北里博士がコッホを「孝子の慈父に仕えるごとくであった」と記されて来日時の北里博士のコッホに対する熱いもてなしを伝えています。
そして北里博士を撮したもう一枚の写真、おそらく医科研の自室で撮されたものと思われますが、この写真にはドラマティックなものが映り込んでいます。
北里博士が顕微鏡をのぞき込んでいる画像の後ろに「September」と題したカレンダーが映り込んでいます。
この画像ではよくわからないのですが、このカレンダーの実物が北里研究所病院に保存されており、その写真がこの医科研に展示されています。
このカレンダーは1910(明治43)年のカレンダーですが九月(September)のページには予定が全く書き込まれていない白紙状態です。
しかし同年1月~4月頃までの同一カレンダーにはびっしりと予定が書き込まれています。
実はこの年、 1910(明治43)年5月27日、恩師で「孝子の慈父に仕えるごとくであった」と来日時のあまりの北里博士の献身的な接待から言われたロベルト・コッホ博士がドイツで死去しました。
北里博士はその報に接してから、激しい落胆により、医科研内に来日時のコッホが残した「髪の毛」を遺髪としてコッホ神社を創設します。
そしてコッホの死から4ヶ月が経とうとする9月のカレンダーにも予定を書き入れる余裕もないほどの憔悴が続いていたことをこのカレンダーは伝えています。
このことからも北里博士のコッホへの崇敬がいかに強かったのかを物語る大変貴重な1枚の写真です。
◎麻布の橋-狸橋その2-5
 字雷神下とその周辺(コッホ・北里神社)
https://www.facebook.com/deepazabu/posts/10218930955768552
◎散歩の続き.....⑩
 東京大学医科学研究所
 近代医科学記念館
https://www.facebook.com/deepazabu/posts/10218881863781283
◎散歩の続き.....⑪
 国立公衆衛生院(ゆかしの杜・港区郷土歴史館)
 港区白金台4丁目6-2
https://www.facebook.com/deepazabu/posts/10218910686381830






















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