2019年4月9日火曜日

⑫自然教育園と白金長者(柳下氏)

自然教育園入り口
明治坂上あたりの里俗の名称が「狸山」と呼ばれていた事をご紹介しましたが、現在は「国立科学博物館附属自然教育園」となっている敷地は明治期は明治期に海軍弾薬庫、江戸期には高松藩主松平讃岐守の下屋敷でした。
そして、さらに以前の室町時代(1336年~1573年)、この敷地は白金(銀)長者・柳下氏という豪族の居館でした。現在も自然教育園にはこの柳下氏の居館であった当時の土塁が残されています。
この白金という地名について「小田原衆所領役帳」や江戸期の書籍にはには「白金」ではなく「白銀」と記されています。
これは柳下氏が多くの「銀」を保有していたための地名で、本来ならば「プラチナストリート」ではなく「シルバーストリート」と呼ぶべきかと思われます。
しかし、1969(昭和44)年1月1日に白金地区に住居表示が実施された際、港区は「白金:しろかね」を正式町名として採用し現在に至ります。
この白金(銀)長者・柳下氏は麻布笄町の「笄橋伝説」に登場します。現在も自然教育園の西側と青山の地名として残されている「長者丸」は、
土塁
・青山金王丸(渋谷氏?)
・白金(銀)銀王丸(柳下氏)
の居館跡と考えられており、笄橋伝説は渋谷金王丸の姫と白銀長者の息子銀王丸のラブストーリーとなっています。
○黄金、白金長者伝説
鎌倉から室町時代にかけて南青山4丁目付近に黄金長者(一説には渋谷氏)とよばれた長者が住んでいた。
名の由来は幼名を金王丸と言ったためで、現在も長者丸商店街、金王丸塚、渋谷長者塚などが現存する。
また白金長者は、今の白金自然教育園付近に住み、江戸時代には、元和年間に白金村の名主となって幕末まで栄え、 その子孫は横浜市に現存する。この二つの長者は、近隣であったため、交流があったと思われその有名なものが 現在西麻布交差点付近の「笄橋」の由来である。
白金長者の息子銀王丸が目黒不動に参詣した時、不動の彫刻のある笄(髪をかきあげるための道具)を拾った。
その帰り道で黄金長者の姫と偶然出会い、恋に落ちる。2人は度々逢瀬をかさねるようになり、 ある日笄橋のたもとで逢っていると、橋の下から姫に恋焦がれて死んだ男の霊が、鬼となって現れ襲い掛かった。
すると笄が抜け落ち不動となって鬼を追い払い、2人を救った。その後ふたたび笄に戻って橋の下に沈んだ。
のちに長男であった銀王丸は家督を弟に譲り、黄金長者の婿となった。と言われる。
現在は、笄川こうがいがわ (龍川たつかわ) が暗渠になってしまったため橋も存在せず、ただの交差点になってしまったが、笄川(龍川)は暗渠を 通って今でも天現寺で古川に注ぎ込んでいる。
そして上笄町には、黄金長者の姫が長者丸の屋敷から笄橋で待つ銀王丸と逢うために下りた「姫下坂ひ
めおりざか」と呼ぶ坂が現存する。
江戸砂子-鉤匙橋こうがいばしの項には、
~又古き物語に、白銀長者の子銀王丸と云もの、黄金の長者が 娘と愛著の事あり。童蒙の説也~
土塁解説
とある。 また同書「○長者が丸」の項では両長者を、百人町の南。むかし此所に渋谷長者と云者住みけり。代々稚名おさななを金王丸こんのうまる と云。渋谷の末孫なりといへり。その頃白銀村に白金の長者といふあり。それに対して黄金の長者ともいふと也。応安(1368~1375年) ころまでもさかんなりしと云。その子孫、ちかきころまでかすかなる百姓にて、此辺にありつるよし。今にありけんかしらず。
この柳下家は現在も継続している家系のようです。
今日はさらに、この白金長者と呼ばれた柳下氏についての詳細をお伝えして追記とします。
文政年間に書かれた各町の成立や特色を記した「江戸町方書上」が柳下氏について詳しく述べているので引用させて頂きます。
ちなみに柳下氏についての記述があるのは「白金台六丁目」なのですが、これを述べているのは白金台六丁目の名主「甚右衛門」です。
この甚右衛門は柳下氏の末裔で、この白金台六丁目の他にも、
・白金台一丁目~十一丁目
・白金瑞聖寺門前
・白金猿町
・白金猿町妙玄院門前
などの名主も務めていました。
白金長者館跡解説
<引用はじめ>
白金台町六丁目
一 旧家
当町 
  名主 
    甚右衛門
右甚右衛門先祖柳下上総之助と申す者、南北朝の頃南朝禁中雑色(※1)相勤め侯ところ、南朝没落後応永年中当日金村のうち、当時松平讃岐守様御下屋敷に相成りおり侯場所地尻の方へ寄り、唯今畑または茅野に相成りおり候辺りに住居仕り、代々郷士にて里俗白金の長者と唱えし侯由。その後星霜を経て柳下重太夫(元祖より何代目に候や故事記録焼失仕り、その上菩提所の儀も右に申し上げ候わけあいゆえ、卒年月日、法名なども相知れ申さず候)代にいたり、元和年中郷民の進めにまかせ、当村名主役に相成り候については当住居の地へ引き移り候由。
右屋敷跡を字長者丸と唱え申し候。重太夫倅重太郎代にいたり、慶安四卯年中この辺り原地多く、夕七つ時過ぎ候えば
辻切・追剥などの変これあり候につき、往還通りすべて商人町屋に致したき旨、先地頭増上寺へ相願い侯ところ、松平伊豆守様願いの通り仰せ付けられ、それより白金台町と唱え町屋起立仕り、草創の家屋敷所々に御座候。重太郎儀は、明暦三酉年九月二十六日死去仕り、法名照専居士と号し申し候。もっとも、菩提寺の儀、古来は雑司ケ谷村日蓮宗法明寺に御座候ところ、万治三子年ゆえありて改宗離檀仕り候。重太夫存生中、浄土真宗にて長円と申す僧を寄依致し、寛永享年中日金村のうち、当時白金台町三丁目にて同宗正蓮寺と申す一寺を開基仕り侯えども、末皆成就行届かず侯うち没し侯や、その身は芝金杉町同宗安楽寺に葬りこれあり侯。倖重右衛門代にいたり正蓮寺満備致し、重右衛門より代々正蓮寺を菩提所と相定め、同寺にても開山長円・開基重右衛門と相唱え申し候。右法明寺離檀砌、墓所などは引き申さず儀と相見え、
安楽寺以前暦代の者墓碑御座なく侯間、俗名はもちろん、法号・卒年なども相知れ申さず。
天然記念物及び史跡碑
重太郎より代々しかと相分かり名主役連綿と相続仕り、正徳年中町方御支配に相成候節より、町方ならびに御料所とも名主役兼務、唯今もって相勤め罷りあり候。先祖上総之助帯し候一文字助定(※2) 長さ一尺五分桁付脇差一腰只今もって家宝として所持仕り侯。もっとも、先年たびたび類焼仕り侯節、系図ならびに巨細記録など焼失仕り侯につき、その余の儀は相知れ申さず候えども、中古先祖重太夫より当代まで九代相続仕り罷りあり侯。
一.往古当家暦代のうちに侯や、または由緒の者にこれあり候や、わけあい相知れ申さず候えども柳下又右衛門と申す者へ伊達正宗様よりの御書翰一通、唯今もって所持伝来仕り候。すなわち、御文言左の通りに御座供。
この中は水戸相公様へ御
成り、翌日拙者も参り、そのほか取り紛れ
銭ども候間、音無し候、御機色いかが
承りたく候、明朝猪内匠所へお出候や
必々御供仕るべく候、薬院参らるる由申し
来たり候間、尋に遣わし候えば障り入る由にて候
恐恐謹言
 二月十三日
 上ッ書
  柳又右様
一.前件申し上げ候柳下上総之助兄同苗若狭之助儀は、その頃武州豊嶋郡雑司ヶ谷村字柳下と申す所に代々住居仕り、当三郎右衛門まで今もって名主役相勤め、相続仕り罷りあり候。両家とも紋所は丸に抱茗荷を相用い、菩提所も同村方明寺に御座候ところ、万治三子(1660)年同様に離檀仕り候。先年本家・分家の申し争いにより暫く中絶仕り候えども近年相互に通路仕り候儀に御座候。
<引用終わり>
ここに書かれた白金長者柳下氏の同族、雑司ヶ谷柳下一族の住んだ雑司が谷について調べると、そもそも雑司ヶ谷の地名は文京区の解説板によると、
◎旧雑司ヶ谷町(昭和41年までの町名)
延享三(1746)年、町名がつけられた。町名の由来にはいろいろある。
昔、小日向金剛寺(法明寺とも)の支配地で物や税を納める雑司料であった。また建武の頃(1334~36)南朝の雑士(雑事をつかさどる)柳下若狭などがここに住んだので、雑司ヶ谷と唱えたという。(新編武蔵風土記)文京区
とあり、「雑司ヶ谷」の地名の発祥は柳下氏で在ることを伝えています。
また江戸三大鬼子母神のひとつである雑司ヶ谷鬼子母神堂がありますが、この鬼子母神を土中から掘り出したのは柳下若狭守の家来、山村丹右衛門だといわれています。
※1雑色 
大別すると品部(しなべ)・雑戸(ざっこ)と称される階層と官僚組織の下部にあった一群の階層に分かれる。ここでは官僚
組織の下部に当たる階層をさす。これには伴部(ともべ)・使部(つかいべ)という雑任クラスの下級職員。日詰司の雑色人。臼中央の王臣家につけられた下級の家務従事者たちをさし、諸家雑色人といった。蔵人所の下級官職。
造宮関係の諸官司や造寺司に勤務した工匠たち。院や御所において雑役に従事したもの。地方の国衙(こくが)・郡衙(ぐんが)に勤務する下級職員などがあった。中世では古代における難色のうち、諸家雑色の系譜を引くといえる。
※2一文字
刀工の一派。後鳥羽院鍛冶の一人則宗を祖として鎌倉時代初期から南北朝時代にかけて備前に栄え、長船派と共に同国の二大流派の一つとなった。名の起こりは作刀の銘を「一」、または「一と個名」を切ることより出る。
<※注も町方書き上げより引用>




◎国立科学博物館
 付属自然教育園
◎黄金、白金長者(笄橋伝説 その1)
 http://deepazabu.net/m1/mukasi/mukasi2.html#32
◎麻布と源氏(笄橋伝説 その 2)
 http://deepazabu.net/m1/mukasi/mukasi2.html#33

◎DEEP AZABU-3Dグリグリマップ
 白金・白金台
 http://deepazabu.net/3D/sirokane/index.html











天然記念物に指定された武蔵野自然林











白金長者柳下氏の家紋








白金長者柳下氏の親戚が地名由来とも伝わる「雑司ヶ谷」





園内に生息するタヌキ





園内に生息するタヌキ







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