2019年4月6日土曜日

②三田用水 猿町橋・日本家畜市場跡


★三田用水猿町橋
猿町橋あたり

・三田用水の橋
 今里に入ってから4番目の橋、南里橋の下流。

【所属地名】芝区白金猿町・今里町
【構造種別】単桁木橋
【延長】2.00m
【幅員】2.727m
【面積】5.454㎡
【架設年月】昭和4(1929)年2月
【架設経費】111,423円
【川名】三田用水

この猿町橋があったあたりには約200m先の「畠山記念館」の標識が建てられています。

◎荏原製作所・畠山記念館
 http://www.ebara.co.jp/csr/hatakeyama/index.html



畠山記念館が所有する「細川井戸茶碗」は「喜左衛門」、「加賀」とともに「天下三井戸」と称される大井戸茶碗で重要文化財に指定されています。また、 この茶碗は麻布茗荷谷のくず屋正直清兵衛を始め正直者しか出てこない人情落語「井戸の茶碗」に登場します。

◎youtube-井戸の茶碗
古今亭志ん生
 https://youtu.be/5CHy2mfmtgs


町歩きは一番右の路地を進みます。


三田用水今里内の橋



細川井戸(畠山記念館サイトより引用)




★日本家畜市場
 東京初の屠殺場


日本家畜市場
今里に「屠畜場」が設置されたのは明治維新の1年前慶応三(1867)年で東京(江戸)で初めての食肉用の屠畜場が設置されました。
屠畜場が設置される前年の慶応二(1866)年、中川嘉兵衛は横浜から江戸に出てイギリス公使館があった高輪東禅寺付近に牛肉店を開業します。
しかし横浜の屠畜場から江戸間で肉を運ぶより江戸に屠畜場を設けた方が新鮮な肉を供給できるとして場所を探します。
これは交通機関の発達していなかった当時は横浜から牛肉を運んでも夏場などには腐ってしまうためです。
しかし、四つ足の動物を殺して食べるという行為から「土地の汚れ」を理由に貸し主は見つかりませんでした。
しかし、当時は江戸郊外の趣が濃かった白金今里の名主の堀越藤吉が畑の一部を提供することとなり、慶応三(1867)年五月この場所(現在の港区白金台二丁目)に屠畜場が開場します。そして併設して食肉販売二号店も開設します。
しかし、しばらくすると周辺住民から反対運動を起こされ中川嘉兵衛、はやむなく屠畜場を本芝へと移転し堀越藤吉に屠畜、各国公使館への牛肉納入権利、牛肉販売権を、今里の名主の堀越藤吉に譲渡して自らは別の事業に全力を傾けます。この譲渡は中川嘉兵衛と堀越藤吉が縁戚関係にあったからともいわれています。
これにより堀越藤吉が芝露月町に中川嘉兵衛の名前を借りて「牛鍋 中川」を開店し、繁盛店となります。そして屠畜場も再び白金今里に戻ります。
この本芝時代に屠畜場は一時官営化されますがやがて再び私営となります。この官営屠畜場時代に分離したのが麻布本村町の屠畜場でした。
実は中川嘉兵衛が始めた新しい事業とは、牛肉の長期保存を可能とする「製氷業」でした。
また中川嘉兵衛は江戸に出店する前にも横浜で異人向けの商売を展開しており、慶応三(1867)年横浜で発行されていた十月版の「万国新聞紙」第7集の広告に、
パン、ビスケット、ホットル
此品私店に御座候。御求め願い奉り候
横浜元町一丁目、中川屋嘉兵衛
とあり、パン製造の他に、ビスケット、そして牛乳なども製造していた事が知れ、中川(屋)嘉兵が衛時代の最先端を走っていたことがわかります。
また中川嘉兵衛に食品衛生上の製氷業の重要性を説いたのはヘボン式ローマ字の考案者ジェームス・カーティス・ヘボンでした。
眼病を患った中川嘉兵衛が診察を受けたのが医師で宣教師ヘボンでのちに明治学院大学初代総長となります。
そしてヘボンの影響から中川嘉兵衛はキリスト教プロテスタント信者となりますが、その際共に横浜の海岸教会で洗礼を受けたのが写真家の草分けである下岡蓮杖だそうです。
明治期の新聞記事は白金今里のニュースとして、
・1887(明治20)年3/31読売新聞朝刊
 屠獣場が本芝から白金今里に移転
・1892(明治25)年10/30朝日新聞朝刊
 牛疫発生による白金周辺の牛の通行遮断
・1894(明治27)年4/13読売新聞朝刊
(広告)日本家畜市場移転
・1901(明治34)年1/4読売新聞朝刊
 日本における牛肉食用の起源
 
 牛肉屋の開祖
 牛肉屋第二世
 
・1901(明治34)年1/5読売新聞朝刊
 日本における牛肉食用の起源
 初めて牛肉を喰うた人(福沢諭吉の名あり)
 牛鍋屋の光景
 肉食流行の時期
 牛肉屋増加の一因
 
・1903(明治36)年5/19読売新聞朝刊
渡世のいろいろ(29)牛肉商
・1980(昭和55)年11/27朝日新聞朝刊
20世紀の軌跡-すきやき
冒頭でお伝えしたAkiro Suzukiさんのコメント「当時の牛鍋店」の屋号には「今里ブランド」の牛を使用していることを
伝えるために「今」という字を使った屋号が多くあった。とのことでしたが書籍「明治・大正・昭和東京の料理店番附案内集成」
には明治期と思われる「牛料理店番付」が掲載されています。
それによると「今」がつく店だけでも、
東の横綱 神田錦町 今文
  大関 仲見世  今半
  関脇 芝口   今朝
  前頭 蛎殻町  今清
     竹川町  今源
西の関脇 馬喰町  今清
  前頭 東元町  今光
     淡路町  (中川)
     南茅場町 今半
     今川小路 今荘
     上野三橋 今松
行司  三田四国町 今福
勧進元  竹川町  今静
※中川だけは例外です。





と、全部が今里ブランドを唄った店名かはわかりませんが、それでもたくさんの牛料理店が「今」を冠していることがわかりました。
いづれ、この中川牛肉店に福沢諭吉が訪れていた痕跡など、何か見つかればご紹介したいと思っています。
この記事を書くきっかけを作って頂いたAkiro Suzukiには謝辞を述べさせて頂きます。ありがとうございました()/
今回をもって★散歩の続き.....①~⑬は終了とします。


※追記7/20

中川嘉兵衛を調べていたら「木村荘平」という興味深い人物を見つけました。

◎明治の豪傑“いろは”木村荘平
 https://ameblo.jp/yorkshare/entry-11800352281.html

◎Blog DEEP AZABU-三田育種場興農競馬場
    https://deepazabu.blogspot.com/search?q=%E4%B8%89%E7%94%B0%E8%82%B2%E7%A8%AE%E5%A0%B4%E8%88%88%E8%BE%B2%E7%AB%B6%E9%A6%AC%E5%A0%B4















◎国会図書館近デジタルコレクション
 安愚楽鍋 : 牛店雑談 一名・奴論建. 初編
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/882303/1
◎国会図書館近デジタルコレクション
 安愚楽鍋 : 牛店雑談 一名・奴論建. 2編 上,下
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/882304/1
◎国会図書館近デジタルコレクション
 安愚楽鍋 : 牛店雑談 一名・奴論建. 3編 上,下
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/882305/1
◎繰り返された「と場」の「廃止と移転」
https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/…/kus…/hpg000009945.html
◎東京開化繁昌誌. 初編 巻之下
 牛店繁盛 挿絵有り
 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/995163/2
◎芝浦と場発足までの変遷と役割
http://www.city.meguro.tokyo.jp/…/hens…/hensentoyakuwari.pdf
◎<第1回> 中川嘉兵衛と氷業のはじまり
 https://www.nichirei.co.jp/ko…/category/ice_history/001.html
◎wikipedia-ジェームス・カーティス・ヘボン
 https://ja.wikipedia.org/…/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%8…
<その他の参考書籍>
・近代日本食物史
・日本料理史考
・日本畜産史
・100年前の東京
・明治・大正・昭和東京の
 料理店番附案内集成
・読売新聞データベース
 ヨミダス
・朝日新聞データベース
 聞蔵Ⅱ



















日本家畜市場移転広告1894(明治27)年4/13読売新聞朝刊






東京市芝區全圖 : 明治四十(1907)年一月調査に描かれた
日本家畜市場、東京共有屠牛場、玉名池




















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