(正式名称は氷川神社)
日本武尊が東征の折に大宮氷川神社を遥拝した当地に、白鳳時代()に創建されたと伝えられている。
江戸時代中期の明和9年(1772年)明和の大火により焼亡し、江戸後期に社殿が再建された。
太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)空襲によって江戸後期の社殿が焼亡した。
現在の社殿は昭和33年(1958年)に竣工したものである。
(wikipediaより引用)
港区オフィシャルサイトの「雷神山児童遊園」には戦後雷神社のご神体は氷川神社に合祀されたと伝えていますが白金氷川神社は当社ではないと明言しています。
◎港区オフィシャルサイト「雷神山児童遊園」
https://www.city.minato.tokyo.jp/shisetsu/jidoyuen/takanawa/15.html
◎Blog DEEP AZABU-雷神山
https://deepazabu.blogspot.com/2019/04/blog-post_10.html
◎三氷川直列
赤坂氷川神社・麻布氷川神社・白金氷川神社
赤坂-麻布-白金の各氷川神社は古道といわれる道(麻布区史では古奥州道としている)沿いの南北にいわくありげに、ほぼ一直線に鎮座している。
【赤坂氷川(創建地:赤坂四丁目一ツ木台地)~麻布氷川(創建地:暗闇坂と狸坂に挟まれた斜面)~白金氷川神社(創建地:現在地)として設定】
大宮氷川神社も中氷川神社・氷川女体神社の三社を結んで一体の氷川神社を形成していたとの伝承、また奥多摩市の奥氷川神社・所沢市の中氷川神社 ・大宮氷川神社もそれぞれ奥社・中社・本社として配置されたとも言われ、当地麻布周辺においても同様の考え方があっあとしても 不思議ではないと思われる。そして創建年代についても白金氷川神社は不明ながら赤坂氷川神社は天暦五(951)年、麻布氷川神社が天慶五年(942)年と 9年ほどの差しかないことから、想像ながら両社に何某かの関連性があったとしても不思議ではない。 港区内氷川神社の配置からすると麻布氷川神社は「中社」の位置づけとなるのであろうか。
○各地の三社直列
ウィキペディアによると、
大国魂神社(六所宮)の祭神や南北朝時代の『神道集』の記述では、多摩市の小野神社を一宮、あきる野市の二宮神社 (旧称小河大明神)を二宮、氷川神社を三宮としており、~略~
~略~霊峰富士山と筑波山を結んだ線と、浅間山と冬至の日の出を結んだ線の交差地点にあり、 大宮の氷川神社、三室の氷川女体神社、中川の中氷川神社(現・中山神社)が、浅間山と冬至の日の出の線上に一直線に並ぶ。 この三社が男体社・女体社・簸王子社として一体の氷川神社を形成していたという説がある~略~
との記述があり、三社を直線に並ばせて配置する他所の実例を示している。
また奥多摩町の「奥氷川神社」~所沢市の「中氷川神社」~大宮市の「大宮氷川神社」の三社は「武蔵三氷川」とされていて、 それぞれが奥社-中社-本社の関係にあるといわれる。
○江戸七氷川
①赤坂氷川神社
②麻布氷川神社
③渋谷氷川神社
④簸川神社(文京区)
⑤盛徳寺(麻布今井)
⑥羽根田村(新堀近き所の社)-不明
⑦萬年寺山-不明
その他氷川神社情報は下記からどうぞ。
◎DEEP AZABU-麻布氷川神社
http://deepazabu.net/m1/mukasi/mukasi.html#8
港区内三氷川直列 |
三氷川直列① |
三氷川直列② |
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