浄土宗正福常光寺 |
今里の一角に集められたように隣り合う寺院は、元は麻布狸穴にあった増上寺下屋敷内の浄土宗子院八ヶ寺です。
しかし、その寺地に甲府藩主松平綱重(家光第三子、五代将軍徳川綱吉の兄、子は六代将軍家宣)邸地が建てられることになり、幕命により上大崎に移転しました。
余談ですが、同様に狸穴甲府藩邸建設により麻布宮村(港区元麻布)への移転を余儀なくされたのは、
・安全寺(港区元麻布三丁目に現存)
・広隆寺(港区元麻布三丁目に現存)
・広称寺(港区元麻布三丁目に現存)
・千蔵寺(明治期麻布宮村町から川崎に移転)
・本光寺(港区元麻布二丁目に現存)
・広隆寺(港区元麻布三丁目に現存)
・広称寺(港区元麻布三丁目に現存)
・千蔵寺(明治期麻布宮村町から川崎に移転)
・本光寺(港区元麻布二丁目に現存)
などの寺院です。
この麻布宮村へ幕命による移転を余儀なくされた各寺院ですが、移転時幕府との約束により元地狸穴町にあった時の二割増で寺地を拝領するはずでしたが、実際宮村町に移転してみると、敷地は二割減となってしまったそうです。
これについて同時期に同じ狸穴町辺から集団移転してきた広隆寺、広称寺、本光寺などが連署で移転による寺地の縮小を幕府に恐れながら問い合わせている文章が都立公文書館に残されています。
福沢諭吉墓所跡 |
◎Blog DEEP AZABU-宮村町の千蔵寺
https://deepazabu.blogspot.com/2013/06/blog-post_17.html
https://deepazabu.blogspot.com/2013/06/blog-post_17.html
江戸 明治 昭和 平成 寺地変遷
◎ 増上寺下屋敷
一、宝蔵寺 → → 宝蔵寺 芝赤羽→上大崎
二、最上寺 → → 最上寺 溜池→麻布狸穴
→上大崎
三、戒法寺 → → 戒法寺 本芝→麻布狸穴
→上大崎
四、正福寺→ 常光寺 → 常光寺 麻布狸穴→上大崎
(正福寺)
芝金杉→高輪北町
→上大崎(常光寺)
五、光取寺 → → 光取寺 芝西久保→麻布狸穴→上大崎
六、善長寺→ 隆崇院 → 隆崇院 八丁堀→芝金杉→
麻布狸穴→上大崎(善長寺)
芝新銭座→飯倉五丁目
→上大崎(隆崇院)
七、清岸寺 → → 清岸寺 八丁堀→芝金杉
→麻布狸穴→上大崎
八、本願寺 → → 本願寺 ?→麻布狸穴
→上大崎
九、 月窓院 月窓院 芝増上寺内
→上大崎
二、最上寺 → → 最上寺 溜池→麻布狸穴
→上大崎
三、戒法寺 → → 戒法寺 本芝→麻布狸穴
→上大崎
四、正福寺→ 常光寺 → 常光寺 麻布狸穴→上大崎
(正福寺)
芝金杉→高輪北町
→上大崎(常光寺)
五、光取寺 → → 光取寺 芝西久保→麻布狸穴→上大崎
六、善長寺→ 隆崇院 → 隆崇院 八丁堀→芝金杉→
麻布狸穴→上大崎(善長寺)
芝新銭座→飯倉五丁目
→上大崎(隆崇院)
七、清岸寺 → → 清岸寺 八丁堀→芝金杉
→麻布狸穴→上大崎
八、本願寺 → → 本願寺 ?→麻布狸穴
→上大崎
九、 月窓院 月窓院 芝増上寺内
→上大崎
※他に「了福寺」も八ヶ寺に含まれるとの情報がありますが廃寺?詳細不明。
で、これは麻布狸穴の寺地が延宝六(1678)年、甲府藩主松平綱重(後の5代将軍、綱吉の兄)邸地となるため、この地に移されたのが始まりです。
しかし江戸末期に正福寺は本堂が倒壊し本願寺、戒法寺と共に清岸寺に寺務を任せます。
そして、1909(明治42)年には芝金杉で創建し北高輪から移転してきた常光寺とこの正福寺が合併します。
増上寺子院群変遷 |
・常光寺
品川区上大崎1丁目10−30
品川区上大崎1丁目10−30
この寺の墓域には福沢諭吉と妻の墓がありました。
福沢諭吉が逝去し1901(明治34)年2月8日麻布山善福寺での葬儀を終えた後、この寺の墓域に埋葬されましたがその際にはまだ常光寺ではなく「本願寺」でした。
福沢諭吉が逝去し1901(明治34)年2月8日麻布山善福寺での葬儀を終えた後、この寺の墓域に埋葬されましたがその際にはまだ常光寺ではなく「本願寺」でした。
福沢諭吉の日課の散歩の道筋にあり初代幼稚舎長和田義郎の墓のあった市外の目黒村大字上大崎の墓地を購入し、龍源寺にあった母お順の墓、死産の女児の墓、福澤氏記念之碑、そして、重秀寺の墓を、全て上大崎「本願寺」の墓地に移します。
福沢諭吉の死後も、1910(明治43)年には福澤家に奉公した下僕の万蔵が急死。白金の重秀寺に埋葬され、さらに1924(大正13)年には諭吉の妻「お錦」もこの墓所に埋葬されます。
この福沢諭吉は 1891(明治24)年に東京市十五区と八王子市で土葬が禁止されますが荏原郡はその範疇外からか土葬で埋葬されました。
時は下って1977(昭和52)年、諭吉の墓が常光寺より善福寺墓地に移設された際には、土葬であった事と偶然に水温の
低い地下水に浸っていたため遺骸は埋葬時のままのほぼ完全な形(白?化・ミイラ)で発掘されます。
低い地下水に浸っていたため遺骸は埋葬時のままのほぼ完全な形(白?化・ミイラ)で発掘されます。
この諭吉の遺骸を学術解剖や遺体保存の声もあったそうですが、 遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされました。
現在常光寺には慶応義塾により建立された「福沢諭吉永眠の碑」が残されています。
★3Dさんぽ214Map
http://deepazabu.net/3D/sanpo/index.html
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★3D檄坂Map-品川区・港区境界編
http://deepazabu.net/3D/kitasina-taka/index.html
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寛永江戸全図の狸穴増上寺子院群 |
甲府藩屋敷 |
子院群への案内板 |