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参考画像 : ハクビシン
(夢見ケ崎動物公園) |
前回高輪支所のハクビシン捕獲は大きな驚きでしたとお伝えしましたが、実際にハクビシンが捕獲されたのは高輪支所地下駐車場で2005年7月とのことでした。
当時付近にはタヌキの目撃情報が数件あったそうで、早速私もインタビューに歩きましたが私が聞き込みを開始したのは捕獲から4年後の2009年のことで
当時付近にはタヌキの目撃情報が数件あったそうで、早速私もインタビューに歩きましたが私が聞き込みを開始したのは捕獲から4年後の2009年のことで高輪支所、隣接する高松中学ともにその頃の様子を知っている方はいませんでした。
そしてネットでの情報を検索してみると高輪から白金台あたりにハクビシンの目撃情報が集中しており、その中心は「自然教育園」と思われました。
そこで自然教育園に足を運び学芸員にインタビューしてみましたが、園内での目撃例や生息を確認できる情報は何もないとのお答えで、園内でもため糞などの現象を確認することは出来ませんでした。しかしこの頃の園内には定点観測カメラが仕掛けられていた事を知ったのはつい最近です。
さらに自然教育園付近の住民数名にインタビューをしてみると、
「自身の体験ではなないが深夜目黒通りを渡っているハクビシンと思われる動物を目撃した友人がいる。」
などの情報を頂きました。
そして、白金台からはやや離れた高輪のさるお寺の住職に話を伺うと驚きのお答えが返ってきました。
「ハクビシンは数年前から複数頭が境内に住み着いており、業者に依頼して駆除してもらうこととした。そして業者が仕掛けた罠に数頭が捕まり処分されることとなったが前夜、急にかわいそうになり檻から逃がした。それらのハクビシンは現在も生息している。また、この付近にはこの家族の他に隣接する場所にも別の家族が存在するようだ。」
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| 麻布宮村町寺院の格子天井 |
また今世紀に入ってから、やはり同じ港区に隣接するホテル・ニューオータニの入り口植え込み、
また港区内でも神谷町、愛宕山、芝公園、大門などで目撃が相次ぎ、やがて2008年には汐留日本テレビタワーにハクビシンが侵入しテレビカメラに納められました。そしてテレビニュースで狸坂上や麻布十番でのハクビシン出現が報じられた2009年11月には、なんと麻布宮村町(元麻布二丁目)のお寺の庫裏に住み着いたハクビシンが捕獲されます。
(改装したばかりの格子天井を踏み抜いて落ちてきたそうで、私も見学させて頂くと、天井は尿で染みとなっていました。)
さらに広尾、西麻布、南麻布などでもハクビシンなどの目撃があり、麻布域のハクビシン生息は確実なものとして姿を現しました。
そして、生息情報を確実な物にするため、みなと保健所に問い合わせ、近年通報された野生動物情報を書面で頂きました。それによると目撃情報は白金台、高輪、赤坂、六本木、南麻布、虎ノ門など港区んもほぼ全域にわたっており、どこにいてもおかしくない状況であることがわかりました。また飯倉交差点榎坂付近で和菓子店を営む方は、我善坊町方面から狸穴町方面へと外苑東通りを渡るハクビシンを二度も目撃し、その異様に胴体としっぽが長い様子をイラストで残していました。
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| 港区内野生動物生息状況 |
この麻布我善坊町付近は古い民家が多く、また再開発による立ち退きで空き家が増え始めており、野生動物ハクビシンにとっては格好の住処となったことが想像されます。しかし、この地域は商店や飲食店はほとんどありませんので、食物となる生ゴミがふんだんにある外苑東通りに出没しているものと想像されます。
右の地図は目撃情報を元に港区域での生息状況のおおよその位置をプロットした地図ですが、特にハクビシンについては区内のかなり広範囲に生息しているのがおわかりいただけるかと思います。しかし、一方では目撃情報や保健所への通報がすべて正しいという確証は無く、何割かは差し引いて考えるべきかとも思われます。
牛肉販売の元祖中川屋嘉兵衛は三河の人で、幕末に異人相手の商売を志して英語を修め、慶応元年に横浜に出ました。
最初は横浜で塵芥処理の人夫などをしていたが、アメリカ人医師のシモンズに認められて、その雇人となりました。シモンズとの交流の中で、嘉兵衛は「牛乳」の需要に目をつけて横浜の洲干弁天付近で搾乳業を始め、壜詰の上シモンズを通して外国人に供給します。
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| 明治2年の白金・高輪辺 |
ところが搾乳業がようやく軌道に乗りかけたとき、不幸にも火災のため搾乳場と乳牛2頭を焼失してしまいました。火災の報を聞いたシモンズは、馬で駆けつけ、焼死した乳牛をみて、「中川は牛の丸焼きをつくった」と冗談をとばして、悲嘆に暮れる彼を元気づけます。
嘉兵衛はこの災厄に屈せず、北方村の天沼に移り、通称トワンテ山(イギリス狙撃兵第21連隊が駐屯していたために、ついた名)のイギリス軍の食料用達商となり、野菜果実を納入しながらイギリス兵と懇意になってパンの製造を伝授され、パン製造にも乗り出しました。そして兵士達と交流している内に牛肉の美味と栄養価を知り、これの販売に乗り出しました。
慶応二年(1866年)、嘉兵衛は小港屠牛場の牛肉を販売し始め、翌年三年には江戸荏原郡白金村(現在の品川区上大崎一丁目辺))で支店も開業しました。支店の開店にあたって、嘉兵衛は横浜から牛肉を運ぶより江戸に屠牛場を設けたほうが便利であると考え、土地を物色しましたが旧弊人の多い江戸では誰も土地を貸そうとしなかったそうです。しかし、やっと白金村の堀越藤吉という名主が、畑の一部を貸与してくれたので屠牛場と牛肉販売店を作り、江戸における牛肉販売が確立します。
この白金村の名主、堀越藤吉はその後に嘉兵衛が製氷業に転ずるさい、公使館の肉納人の株を惜しんであとを引き継がぬかと相談したところ喜んで引き継ぎ、名義人「中川」のまま営業して後に牛肉販売だけでなく、牛鍋屋も開業して、東京で牛鍋屋の元祖となる「中川」の経営者となりました。幕末から明治初期に有名だった牛鍋屋は三河屋久兵衛が外神田に開店した「三河屋」、四谷の老舗ももんじ屋「三河屋」(神田三河屋とは無関係)、そして芝露月町のこの中川が有名でした。これらの店は店先に「商家高旗」と呼ばれる旗をかかげており、三河屋の旗には「Mikawaya」、中川の旗は「御養生牛肉」と書かれていたそうです。
この牛鍋屋中川を経営した堀越藤吉は嘉兵衛の祖父という説もあります。また嘉兵衛が製氷業に転ずる際に指導を受けたのはジェームス・カーティス・ヘボンとされています。そして彼が函館五稜郭の外壕でつくった氷は後に内国勧業博覧会に出品して賞牌を受けます。その賞牌の表面に龍の紋章を附したことから嘉兵衛の氷は「龍紋氷」と呼ばれ、函館名産に成長します。
余談ですが、先見の明がある嘉兵衛は慶応三年十月版の「万国新聞紙」第7集の広告に、
パン、ビスケット、ホットル
此品私店に御座候。御求め願い奉り候
横浜元町一丁目、中川屋嘉兵衛
と掲載しており、パン製造の他に、ビスケットなども製造していた事が知れます。
このパン製造はイギリス公使館が設置されていた高輪東禅寺の近傍であったとされていますが、正確な場所を特定する資料を見つけることは出来ませんでした。また白金村の屠牛場についても現在の品川区上大崎一丁目付近としかわからず、場所を特定することは出来ませんでした。