ラベル 麻布山善福寺 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 麻布山善福寺 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2013年5月8日水曜日

麻布山善福寺と善福寺池


徳川三代将軍将軍家光と善福寺を調べていると「麻布山善福寺オフィシャルサイト」の中に、

「杉並の善福寺池は当時の奥の院跡で当時の寺領の広さがわかります。」

麻布山善福寺
との記事がありまた。そこで早速、善福寺池を調べてみると、池は現在、杉並区善福寺3丁目にある都立善福寺公園となっており、面積7万8千平米公園敷地の中で上の池、下の池と分かれ、両方で37,000㎡で公園全体の47%を占める池である事がわかりました。

善福寺池は井の頭公園の井の頭池、石神井公園の三宝寺池と供に武蔵野三大湧水地といわれたほど湧水量が豊富で、江戸時代、神田上水の補助水源として利用されたそうです。

その湧水の一つである遅乃井は1185年、源頼朝が奥州征伐の途上でこの地に宿陣した時に、干ばつのため自らが水を求め、弓筈で土を掘ること七度、「今や遅し」と水の出を待ったことから「遅乃井」と呼ばれるようになったと伝わっています。また池からは「善福寺川」が流れ出し、杉並区の中央を通って中野富士見町辺りで神田川と合流し、やがて隅田川へとそそいでいます。

善福寺池の名称は、昔、この付近にあった寺の名からとったと伝えられますが、現在杉並区善福寺3丁目にある善福寺はそれまで「無量山福寿庵」と呼ばれた庵を昭和17年に寺に昇格した時に改称した寺名であり、麻布山善福寺との関係は無いそうです。

しかし、杉並区史によると「新偏武蔵風土記稿」には、池に面した丘の上に江戸初期まで善福寺という寺がありましたが大地震によって破壊され、寺の宗旨も伝えてませんが、時宗であったと土地の古老は伝えたと書かれています。そこで杉並区郷土博物館に電話で話を伺いましたが、残念ながら麻布山と杉並の善福寺を結びつける手がかりは見つける事が出来ませんでした。

そこで麻布山善福寺に電話で確認すると、800年前ほど前のことなのでよく解らないが、寺にはそのように伝わっているとの事でした。今回はその証となる文献等を発見する事は出来ませんでしたが、杉並の善福寺池が麻布山善福寺の寺領であった事は確証がないものの、私には間違いないように思われます。

なお、麻布山善福寺はこの杉並のほかにも、江戸期の元禄12年(1699年)にそれまでの麻布の寺領が新堀御用地となったので、荏原郡六郷領女塚村(現在の大田区西蒲田あたり)に替地となった寺領があったと「麻布区史」にあります。

そしてさらに、同寺オフィシャルサイトでは、江戸城虎ノ門を、元は麻布山善福寺の山門と記しており、改めて当時の寺の権勢がしのばれます。













より大きな地図で 麻布七不思議・麻布の不思議話 を表示














2013年5月4日土曜日

麻布七不思議-柳の井戸

麻布山善福寺参道の柳の井戸と「うなり柳」
善福寺惣門を入って参道右手にある井戸。境内の「逆さいちょう」と共に麻布七不思議の一つにも数えられています。
柳の井戸は正式には「楊柳水」といい、井戸の脇には「楊柳水銘」と書かれた石碑がある。この石碑は明和二(1765)年に建てられたようで、江戸名所図会によると弘法大師が常陸の鹿島明神に願って得た阿伽井(あかい)であるということで「鹿島清水」ともいわれる。碑文の最後には「葛辰書」とあるのでおそらく麻布東町生まれで服部南郭に学んだ、あの松下君岳(烏石)の揮毫と思われます。

楊柳水銘
毖彼石泉
盈科而流
空海所呪
其霊永留
阿那楊柳
水中影浮
飲者治疾
徳潤千秋
明和二年乙酉歳中秋前一日
藤公縄義篆
藤定福銘
葛辰書

麻布山善福寺 柳の井

ま「柳」とは、井戸の横に「うなり柳」とも呼ばれる柳の木があるため。 「続江戸砂子」は、「うなり柳」について、
麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。うなり柳。古木はかれて若木也と云。清水のかたはらの柳といへり。来歴しれす。
としており、江戸名所図会では、
鹿島の清水。総門と中門との間いあり。往古弘法大師常陸国鹿島明神に乞得給いひし阿伽井なりと。又土人云く。鹿島の地に七井と称する霊泉あれども其一つは空水といへり。昔は其側に柳樹ありしかば。一名を楊柳水とも唱へ侍ると云々。此柳をうなりやなぎという由。来歴詳ならず。
とあります。

弘法大師が、鹿島大明神に祈願して手に持った杖を突き立てたところ、たちまち湧き出したと言われる井戸で常陸の鹿島神社にある七つの井戸は、一つをここによこしたため、空井戸になっているといわれています。 
関東大震災や昭和20年4月、5月の空襲時にはこの井戸が多くの人に水を与えましたが、現在は保健所の指導によりそのまま飲むことは出来ないそうです。


柳の井戸 説明板

★説明板
柳の井戸

自然に地下から湧き出る清水である。
東京の市街地ではこのような泉が比較的少ないためか、
古くから有名で、弘法大師が鹿島の神に祈願をこめ、手
に持っていた錫杖を地面に突きたてたところ、たちまち
噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて堀った
ものであるとか、信仰的な伝説が語りつがれてきた。
とくに現在のわれわれとしては、大正十二年の関東大
震災や昭和二十年の空襲による大火災の際に、この良質
な水がどれほど一般区民の困苦を救ったかを心にとどめ、
保存と利用にいっそうの関心をはらうべきものと思われ
る。

昭和四十九年1月

東京都港区教育委員会

楊柳水 湧水
楊柳水 湧水

























より大きな地図で 麻布七不思議・麻布の不思議話 を表示













           ★追記:湧水が味わえる場所
 現在この井戸の水はそのままでは飲むことが出来ませんが、この水と同じく武蔵野台地を流れてきた湧水を味わうことが出来る場所があります。それは、麻布山善福寺からもほど近い、仙台坂下にあるCAFE KARIZさんです。このカフェの地下に湧水井戸があり、床の一角をガラス張りにした店内からもその湧水を確認することが出来ます。さらにその湧水を加熱せずNASAが開発した特殊な浸透膜で濾過したまるやかな湧水で入れたコーヒーが味わえます。また店で出される水もこの湧水が提供されています。




CAFE KARIZ








CAFE KARIZ
地下の湧水井戸







CAFE KARIZ
店内



















2013年4月24日水曜日

麻布七不思議-逆さ いちょう


逆さ いちょう
東京で二番目に古いとされる(一番は金龍山浅草寺麻布山善福寺にある推定樹齢770年、高さ35m、幹周り15mの大イチョウ。親鸞上人が立てた杖が、 そのまま地に生えてやがて大木となり、その形から逆さ銀杏とも、その成り立ちから御杖銀杏とも呼ばれました。このイチョウは都内最大幅で国の天然記念物に指定されています。

昭和20年5月25日の空襲(山の手空襲)で本堂と共に罹災し、銀杏は完全な焼亡は免れましたが現在もその焼け跡が残っています。戦災の前は現在の3倍位の高さがあったという説もあります。
「江戸砂子」には乳の出が悪い母親が、この銀杏の皮で治療すると乳の出が良くなると噂され皮を剥ぐ者が後をたたなかったので、周囲に垣根を作って禁止したとあります。 また、江戸名所図鑑には親鸞上人が寺を去る際に持っていた杖を地上に刺し、

「念仏の求法、凡夫の往生もかくの如ききか」

というと杖が根付いたと伝わっているそうです。「逆さ」名の由来は、乳根(気根)が下のほうにさかさに伸びているように見えることからきているともいわれますが、 親鸞上人
が地面に差した折に杖が逆さまであったとの説もあります。樹横の説明板には、

国指定天然記念物
善福寺のイチョウ
所在地 港区元麻布一丁目6番21号 麻布山善福寺境内
指定  大正15年10月20日
 イチョウ(銀杏・公孫樹)は、イチョウ科の落葉高木で、中国原産といわれている。雌雄異株で、神社や寺院の境内樹、公園樹、庭園樹、街路樹として広く植栽されている。4月に開花し、10月には種子(イチョウノ実)は成熟して独特の臭気を放ち、黄葉する。  この木は雄株で、幹の上部が既に損なわれているが、幹周りは10.4mあり、都内のイチョウの中で最大の巨樹である。樹齢は750年以上と推定される。  善福寺は、昭和20年の東京大空襲によって本堂が全焼した際、このイチョウの木にもかなり被害があったが、いまなお往時の偉観をうかがうことができる。  根がせり上がって、枝先が下に伸びているところから「逆さイチョウ」ともいわれ、また、親鸞聖人が地に差した杖から成長したとの伝説から「杖イチョウ」の別名もある。
 平成2年12月27日 建設    東京都教育委員会

光福寺の大銀杏




とあります。また麻布山善福寺中興の祖といわれる了海上人誕生の地である大井山 光福寺(品川区大井6-9-19)には了海上人手植えの逆さ銀杏の兄弟樹があり、 光福寺の大銀杏と呼ばれて昔から猟師の目印として活用されていました。幹周6.4m、樹高30m、樹齢は推定800年。この樹も品川区の天然記念物に指定されており、逆さイチョウが都内最大樹種別幹周最大であるのに対してこちらの光福寺の大銀杏も都内9番目といわれています。



★杖銀杏-続江戸砂子
麻布山善福寺。西派、寺領十石、雑色町。杖銀杏本堂の左の方にあり。親鸞上人の杖也。祖師当所に来り給ふ時、此法さかんになるへくは此杖に枝葉をむすふへしと、庭上さしおかれし所の木なり。 今大木となりて、枝葉しけりたり。乳なき婦人、此木以治療すれば奇端ありとて、樹を裂事おひたゝしくして、枝葉いたむにより、垣をしてその事をいましむ。今は祖師の御供をいたゝくに、乳なきもの、そのしるしありとそ。右の方、開山堂の前にあり。親鸞上人杖を逆にさし置かれし所の木也。よって逆銀杏ともいふ。
光福寺解説板
★杖いてう-江戸鹿子
あさぶに有。親鸞上人関東下向の時、誓ていわく、もし我宗旨広らば此杖枝葉あれと言て、杖をたてゝ皈りたまふ。其杖枝葉しけりて今に此地に有。婦人の乳の出ざる者、此木にて療すれは奇端ありと云。




余談となりますが、麻布山善福寺にはこの逆さイチョウの他にもう一つ銘木がありました。本堂裏山には楊枝杉と呼ばれた杉の木があり、 江戸期の書「続江戸砂子」には、
是は弘法大師廻国の時、やうしをさし給ふに、此杉七株わかれて大木となる。その梢に白き麻布の旗のことくなるもの一流ふりくたる。よって当所を麻布といふと也。そのゝち木奇端多くあるにより、天台の霊場とす。此杉はかれたるよし、一株もなし。▲此麻布の説、甚誤也。麻生の地名は、よく麻の生る地にて、布の事にはあらす。又麻茅生(あさじふ)といひて、草の浅々と生る地をいふとも云。これは浅生(あさふ)也。古来の御図帳には麻生と書しよし、古老申侍也。
とあり、「あざぶ」の語源となったと思われる「麻降る山」の伝説を残しています。しかしこの続江戸砂子に、
       此杉はかれたるよし、一株もなし。
とあるように同書が書かれた享保十七(1732)年にはすでに枯死していたようで、残念ながらこの杉の木は現存していません。











より大きな地図で 麻布七不思議・麻布の不思議話 を表示

2013年3月29日金曜日

ヒュ-スケンとお鶴、お里

おつるとヒュースケンの遺児
 安政6年6月27日、総領事から公使に昇格したハリスはこれを幕府に通告、公使館を麻布山善福寺に置いた。そしてヒュ-スケンのみが幕府に対して「下女の雇い入れ」を要求した。この時の要求と、その結果を外国奉行兼下田奉行村垣淡路守範正の日記に見る事が出来る。

「一、善福寺詰栗原啓太郎、夜来る。魯コンシュル外一人、同寺へ来る由申し聞き候。ヒ-ス(ヒュ-スケン)女一条云々、申し聞き候。(7月18日の条)」

「一、ヒ-スケン下女抱入れの儀、伺の通りあい済み、清五郎を以って御渡し。(10月27日の条)」

これにより雇われたのが麻布坂下町にある清蔵店久次郎の娘で横浜の遊女屋に年季奉公中の「つる」という18歳の娘であった。給金は下田の時とほぼ同額の一月7両2分といわれ、彼女が勤めていた遊女屋の6倍半以上の給金であった。ヒュ-スケンはよほどつるを気に入ったと見えて、彼が切られて運び込まれた時も善福寺の宿坊である善行寺で彼の「死に水」をとったといわれる。また宮永孝著「幕末異人殺傷録」流浪の果てに-アメリカ公使館通訳ヒュ-スケンの暗殺の100ペ-ジに、アムステルダム海事博物館に所蔵されているポルスブルック伯のアルバムの写真が掲載されていて、そこには子供を膝に乗せた日本人女性が写されている。その写真の下には「Madame Heusken」と書かれている事から著者はこの写真が「つる」と彼らの子供だと推定している。

ヒュ-スケンは、このつるの他にも気になる女性がいたようで、芝浦に停泊した外国の軍艦の見物人を相手にした「掛け茶屋」の一つで、最も繁盛していた「万清」で働く「お里」という娘に、恋をしていたと思われる。お里は芝浦の船頭の娘で、父は松蔵と言った。ヒュ-スケンは沖の船に用事がある時は度々松蔵の小船を使って行ったので、その内に松蔵とヒュ-スケンは懇意になり、松蔵は娘の働く万清でヒュ-スケンをもてなした。そんな中でヒュ-スケンはお里に心を動かされ、やがて松蔵ぬきで一人で現れるようになった。最初は彼を恐れていたお里もやがて酌や話し相手もするようになる。しかし、ヒュ-スケンが三日と明けずに通うようになると、地元の若い衆らが嫉妬と怒りからお里を「ラシャめん」と呼び罵声を浴びせた。そのために父親の松蔵は地元の若い衆らと大立ち回りを演じたと言う。がその後ヒュ-スケンは暗殺されてしまい、二人はプラトニックなままだったと言われる。中里機庵「幕末開港綿羊娘情史」には、ヒュ-スケンの死後、墓を訪ね密かに香華をたむけて涙するお里の姿が見うけられたとある。

以前に書いたヒュ-スケン事件では知らなかった事を少し補足させて頂くと、
ヒュ-スケン暗殺に憤慨した各国出先機関は江戸からの退去を決め実行に移した。しかしアメリカ領事ハリスだけは、事件を私情から起こったとして江戸に残留し、幕府に対して損害賠償を請求した。これにより幕府はヒュ-スケンの母親に対する慰謝料として4,000ドル、扶助料6,000ドルの10,000ドルを洋銀(メキシコドル)で支払い和解した。これは当時でも大金であったと言われ、その総てが母親に支払われた。ヒュ-スケンの母親は当時アムステルダムに住んでいて、不思議な事に彼が殺された三日後に、在日オランダ副領事のポルスブルック伯がヒュ-スケンの母親から受け取った手紙には、彼が殺されたらこの老母に知らせてほしいと言う内容が記されていたという。また息子の死を知らされ、賠償金を受け取った後にはハリス宛の手紙を書き、息子を失い悲嘆に暮れている様子と、賠償金、息子への供養に対する懇ろな礼を述べている。

この項の主題である異国人とその侍妾について、本人の日記を含めて外国側の資料は全く無いと言われるが、皮肉にも日本側の公式文章には頻繁に女性たちの名前が登場する。



ハリスと唐人お吉

http://deepazabu.blogspot.com/2013/03/blog-post_26.html
















2013年3月28日木曜日

ヒュ-スケン事件-その2


前回アメリカ公使通訳の暗殺、ヒュースケン事件をお伝えしましたが、今回はその続編をお伝えします。

慈眼山光林寺
事件があった万延元年十二月四日(西暦:1861年1月14日)、 ヒュースケンはアメリカ公使の通訳の他に、1860(安政7)年7月23日から芝赤羽接遇所に滞在中のプロシア使節オイレンブルグ と幕府との折衝の通訳・案内・相談役として多忙な日を送っていました。

当日のヒュースケンは、江戸城の周りを馬で廻って午後6時頃接遇所に到着し、プロシア使節らと夕食を摂ります。その後8時半頃まで雑談に興じた後、3名の騎馬役人、従僕ら4人、馬丁2名と共に善福寺への岐路につき、中の橋辺で襲撃にあいました。

幕末異人殺傷録(宮永孝著) にはその襲撃場所が確定されており、襲撃地点は中の橋戸沢上総頭取組合辻番所でそこには「多数の血溜りあり」と記されて います。また「200ヤードばかり走ったところで落馬」とあり京極佐渡守中屋敷前には複数の血溜りが記されています。翌6日午前 0時半頃に死亡し、死因は襲撃時に受けた腸を切断するほどの深手による失血死であったそうです。

事件を聞いて真っ先に駆けつけたのは外国奉行小栗豊後守(のちに上野介)忠順で、ハリスに弔辞を述べると検死を行い 刀傷などを調査した後、深く心を動かされた様子で犯人逮捕を確約しました。 また、その朝には外国奉行ら4名(村垣淡路守・竹本図書守・高井丹波守・滝川播磨守)もハリスを弔問し、犯人逮捕を確約します。 これに対しハリスは犯人逮捕を促す措置として、犯人を訴えた者には250両の賞金を出す事を表明しました。
ヒュースケンの葬列

12月8日午後1時麻布光林寺において、幕府から再度の襲撃を予想してのハリス欠席要請を拒否してヒュースケンの葬儀が行われました。 亡骸はアメリカ国旗で包まれ、オイレンブルグがティーティス号船上で造らせた棺に納められて、善福寺に安置された。そして 8名のオランダ水兵(ヒュースケンはオランダ生まれであるため)に担がれて光林寺へと向かいます。
葬列は、

  • 外国奉行(新見豊前守・村垣淡路守・小栗豊後守・高井丹波守・滝川播磨守)各自に長い供周りと護衛  
  • 米国・英国・フランス・オランダ・プロセインの弔旗。プロセイン水兵が捧載し、プロセイン海兵隊員6名が護衛   
  • プロセイン・フリゲート艦アルコナ号軍楽隊
  • オランダ、プロセイン海兵隊護衛
  • 日本教区長ジラール神父、外科医シルウス 
  • 遺体(オランダ海兵隊員8名で担う) 
  • 喪主オランダ総領事デ・ウィット、米国総領事ハリス 
  • 英国公使オールコック、フランス総領事ベルクール、プロシア全権大使オイレンブルグら各国公使 
  • 各国領事 
  • 各国代表部随員 
  • オランダ軍、プロセイン軍士官  

と、荘厳な列となり光林寺へと向かいます。
沿道は好奇の目を持った群集であふれましたが警戒していた浪士の襲撃は行われず 、棺は無事に光林寺へ到着します。
山門から墓地に到着した棺はジラール神父の祈祷の後にプロシア軍楽隊の「イエスはわが信」 に送られて会葬者が各自一握りの土を穴に投げ入れます。その後光林寺住職により和式の葬儀も行われ葬儀は無事に終了しました。

葬儀翌日の12月9日にはイギリス公使館のある高輪東禅寺にハリス(米国総領事)、オールコック(英国公使)、ベルクール(フランス総領事)、オイレンブルグ(プロシア全権大使) 、デ・ウィット(オランダ総領事)らが集まり、幕府への抗議の意味から事件解決と賠償が確定するまでの間、各国公使館を横浜に移転 する事が決められました。しかしハリスはこの決議に反対で、ヒュースケン殺害事件は個人的な恨みによるもので外交問題とは 無縁であるとして江戸退去を拒否し、善福寺から星条旗が下ろされることはありませんでした。(オイレンブルグも条約締結中であった ため、江戸滞在を続けました。)

襲撃犯については幕府の必死の探索にもかかわらず迷宮入りとなりましたが、幕府の報告書には「武家方侍四、五人」、ハリスは本国への 報告書で「7名」としています。そして襲撃犯について現在では攘夷派の薩摩藩士伊牟田尚平、樋渡清明、神田橋直助らの犯行というの が定説のようですが、伊牟田尚平は清河八郎が主宰した「虎尾ノ会」発起人にも名を連ねており、現在は清河八郎がこの暗殺を主導したと考えられています。 また事件の首謀者については、事件から半年後にシーボルトと共に江戸に来た長男のアレクサンダーは、

 私は2、3年後に聞いたのだが、下手人は一人の名の通った浪人だったが、この男もほとんど同じ場所で別の浪人の手に かかって殺されたというのは不思議な事である。

と、後年「ジーボルト最後の日本旅行」に書き残しています。(アレクサンダーは父フィリップ・フォン・シーボルトが離日した後も 英国公使館通訳官として江戸に滞在します。)これは明らかに赤羽橋付近における「清河八郎 殺害事件」をさしていると思われます。
父フィリップ・フォン・シーボルトはヒュースケンが殺害された事を当時滞在していた長崎で事件の 詳細を聞き知っており、江戸に到着するとすぐに頻繁にアメリカ公使館にハリスを訪問しています。そして5月22日には麻布山善福寺のハリスを訪問後に光林寺の ヒュースケンの墓・英国通訳官伝吉の墓参をしています。






慈眼山光林寺ヒュースケン墓碑
墓碑の碑文













(和訳)
日本駐在アメリカ公使館付通訳ヘンリック・ヒュースケンの御霊に献ぐ。
1832年1月20日アムステルダムに生まれ、1861年1月16日江戸にて死去

※碑の撰文ははハリスが行い日本人の石工が作成した。文中ヒュースケンの名を「HENRYC」 としているが、これは誤りではなくヒュースケンの洗礼名「Henricus」を音訳した名とのこと。

※幕府崩壊の様子を描いた手塚治虫のコミック「陽だまりの樹」はハリス、ヒュースケン、善福寺(主人公が善福寺住職の娘に恋をします)も頻繁に登場します。是非ご一読をお勧めします。




Blog DEEP AZABU-ヒュースケン事件
 https://deepazabu.blogspot.com/2013/03/blog-post_27.html







2013年3月27日水曜日

ヒュ-スケン事件

麻布近辺は江戸末期から外国の施設が多くありました。高輪東禅寺に英国公使館、三田済海寺にフランス公使館、麻布仙台坂の春桃院にプロシア(後のドイツ)公使館、芝西応寺・伊皿子長応寺にオランダ公使館、そして麻布山善福寺にはアメリカ公使館がありました。

万延元年(1860年)3月、前年の安政大獄が原因となる桜田門外の変で、井伊大老が暗殺されると、攘夷の思想が横行して外国人への襲撃、焼き討ちなどが相次きます。
同年12月には、アメリカ公使館通訳ヒュ-スケンが暗殺されました。ヒュ-スケンは、アムステル生まれのオランダ人で、アメリカに帰化し志願しアメリカ公使ハリスの書記兼通訳として来日します。年俸1,500ドル、ハリスの信任が厚く代理も務めたので攘夷派から憎まれることとなります。

万延元年十二月四日(西暦:1861年1月14日)、幕府からの要請で、赤羽橋の接遇所でプロシア使節との交渉通訳を終えたヒュ-スケンは、馬に乗り中の橋の前あたり(東麻布イースト商店街入り口辺)まで来たところ、 物陰から抜刀した武士達が斬りつけてきます。護衛の武士は役に立たず、ヒュ-スケンは斬られて重傷を負います。
近隣の人の知らせを受けた善福寺用人らが戸板に乗せて同寺内の宿舎であり、愛人のお鶴も住む善光寺に運び医師の手当てを施したが、まもなく死亡しました。葬儀は同寺でアメリカ公使ハリスにより行われ、イギリス、フランス、オランダ、プロシャの代表が参列しました。 しかし、善福寺は土葬が禁止されていたため、慈眼山光林寺に埋葬されます。この光林寺には約1年前の安政七年一月七日(西暦:1860年1月29日)にイギリス公使館である高輪東禅寺の門前で刺殺されたイギリス通訳官の「伝吉」が埋葬されています。
 このヒュースケン暗殺事件の犯人は、薩摩藩士牟田尚平とも攘夷派の巨頭清川八郎ともいわれますが、謎のまま清川八郎も、三年後に一の橋の際で暗殺されることとなります。 
そして、この事件前後も襲撃、焼き討ちなどが相次ぎます。
  • 安政6年(1859年)横浜でロシア軍艦乗員2名暗殺。
  • 万延元年(1860年)オランダ商船長デ・ボスら2名、横浜で殺害。
  • 同年5月28日、漂流漁民からイギリスに帰化し、オルコックと来日した通訳の伝吉、刺殺。
  • 文久元年(1861年)4月2日、高輪東禅寺英国公館が水戸浪士により襲撃焼き討。
  • 同2年8月、生麦事件によりイギリス人殺害。
事件後幕府はハリスの請求によりオランダにいるヒュ-スケンの母親に洋銀10,000ドルを支払います。しかし ヒュ-スケン事件を幕府の面子をたて、賠償だけで穏便に解決したハリスも、文久2年(1862年)アメリカの外交方針変更により解任され帰国の途につきます。

次回はヒュースケン事件そのものの詳細をお伝えします。


Blog DEEP AZABU-ヒュ-スケン事件-その2
 https://deepazabu.blogspot.com/2013/03/blog-post_28.html






より大きな地図で 幕末外国公使館・施設 を表示













2013年3月26日火曜日

ハリスと唐人お吉

19歳の斎藤きち
(wikipediaより引用)

万延元年(1861年)12月5日、中ノ橋近辺で暗殺されたアメリカ公使館通訳ヒュ-スケンは、ハリスに来日以来ずっと従ってきた書記兼通訳でした。
アメリカ領事館員は来日時ハリス、ヒュ-スケンに中国人下僕5人の計7人しかおらず、日本語を全く理解しないハリスに代わってヒュ-スケンは、一時「代理」も勤めていたそうです。これは、当時の日本人が全く英語を理解できず、唯一日本側通訳に通用するのはヒュ-スケンの母国語であるオランダ語だけであったためだと思われます。

一行が日本に上陸して約10ヶ月後の安政4年(1857年)5月19日、ヒュ-スケンはハリスの命を受けて下田奉行所を訪れ、前日に交わしたばかりの「3か条の覚書」をつき返しました。これは、当時病を患っていたハリスが下田奉行に対して病気看護の女性の斡旋を依頼していたが、聞き入れられなかったのでその日本政府(幕府)の不誠実さを怒り、「3か条の覚書」も破談にするとヒュ-スケンに伝えさせたことによります。事実ハリスは当時の日記には、

  • 安政3年12月13日--体がひどく悪い。
  • 同20日--丹毒が回復しかし体重が18キロ落ちた。
  • 安政4年2月20日--体がだるく、大量の血を吐いた。
  • 同3月24日--入港したアメリカフリゲ-ト艦での診察を希望。

などとあり、実際に病気であった事がわかります。

当初、他国の外交官からも同様の申し出をされては困ると考えて答えを引き伸ばしていた幕府側も「3か条の覚書」の破談に驚き、再審議の上ハリスの要求を受け入れる決定をし、また同時にヒュ-スケンにも「看護の名目」で女性を派遣する事を決めました。
これはおそらくヒュ-スケンがハリスの要求は本当の意味での「看護人」を指していたのに対して、彼は「看護人の名目」での船形相手の酌婦を要求したための措置であったと考えられます。またこれは、ヒュ-スケンがハリスの代理として幕府側通訳の森山多吉郎を訪れた際の、職権乱用の結果であるとも推測ともいえるのかもしれません。

5月22日、ハリス、ヒュ-スケンのもとに看護人の下田芸者の女性らがが顔見せに現れた。それらの女性の名は「きち」「ふく」と言い、17歳のお吉(斎藤きち)と、15歳のお福でした。
お吉は早速その日からハリスの看病を始めたが、わずか3日でハリスのもとに通うのを辞めています。そして二度とハリスの元に戻る事はありませんでした。これは、お吉自身も腫れ物が出来て自宅療養を余儀なくされたためであり、その後お吉はたった三日の異人への奉公(一説によると60日とも)から「唐人お吉」と呼ばれることとなります。 唐人お吉は、芸者に戻ってからも異国人相手の侍妾であった事から以前の様には売れなかったといわれ、これについて下田市役所に現存しているお吉の母親から下田奉行に宛てた願文には、
「異人と交わったためにそれまでの家業が出来なくなり、暮らし向きにも困っているので、以前に決められた唐人接待の給金を支払ってもらいたい。」

という内容のものでした。

その後お吉は、アメリカ領事館の麻布移転と共に下田の町から姿を消し、明治元年(1868年)から横浜で大工と同棲生活を送り明治4年、下田に戻って髪結いを営みます。しかし酒癖がこうじて三島に移り、再び下田に戻ったのは明治15年でした。そして小料理屋を開いたが、その自暴自棄の酒癖から破産へと追い込まれてしまいます。その頃お吉は、昔同じ侍妾だった「お福」を訪れ度々施しを受けていたといいます。お福はお吉とは対照的に、ラシャメンの勤めを辞した後、「おみや」と改名して進められた縁談から船宿の女房となり、持ち前の器量と客あしらいで店は繁盛し、幸せな生活を送ったといいます。
明治20年(1890年)零落したお吉は病にかかり、明治23年3月23日夕方友人の「おりん」を訪れた帰り道、河内門栗の淵(お吉ヶ淵)に身を投げて50歳の生涯を閉じたそうです。
同時期に異国人の侍妾となった「きち」「ふく」のその後の人生を分けてしまったものは、一体何だったのでしょうか?

その他にも看護の名目で仕えた女性達は、彼女達を含めて以下に(契約期間)


お吉---安政4年5月22日~8月18日
おさよ--安政5年7月16日~安政12年12月15日


お福---安政4年5月27日~安政12年12月15日
おきよ--安政5年2月頃(すぐに暇を出される)
おまつ--安政5年2月29日~安政6年1月31日
おつる--月雇いの囲妾安政6年8月6日~?


ヒュースケンに仕えた「おつる」は麻布十番の造り酒屋「鶴屋」の娘であったといわれています。


◎ヒュ-スケンとお鶴、お里
 http://deepazabu.blogspot.com/2013/03/blog-post_29.html











2013年3月25日月曜日

麻布山善福寺-(其の弐、ハリスの公使館)

ハリス顕彰碑
安政三(1856)年7月21日、総領事タウンゼント・ハリスを乗せたアメリカの軍艦サン・ゼシント号が突如下田に入港します。 大統領の信任状を示し上陸します。そして、困惑する下田奉行をよそに、同28日に下田郊外柿崎村の玉泉寺に駐留、8月5日には、領事館旗を掲げました。その後8月25日には幕府も渋々、駐留を認めることとなります。

 玉泉寺駐留の翌日にサン・ゼシント号は帰途に就いてしまったので、砲艦外交も出来なくなり通訳のヒュ-スケンと通商条約の締結に奔走しました。しかし、幕府は引き延ばし工作を行い憔悴の日が続きます。

 翌、安政四(1857)年2月16日、下田奉行井上清直との間に長崎の開港、アメリカ人居住権、領事旅行権、犯罪人処分法など9項目にわたる条約を締結します。しかしハリスはこれとは別に、自身が江戸で幕府当局者と、直接新しい条約の交渉をする事を強く希望しました。これは、下田奉行には交渉決定権がなく一々江戸に伺いを立て、交渉の引き延ばしを図ったためで、幕府も苦慮の末8月14日江戸出府の許可を布告しました。 10月21日、ハリスは江戸城に登城、将軍家定に大統領の親任状を提出。翌日、老中堀田正睦に会い通商の必要性を説きます。これにより幕府は、目付の岩瀬忠震、下田奉行の井上清直を委員とし通商条約の審議に入りました。

ハリス顕彰碑
 安政5年1月5日条約の審議が終わりますが、幕府は勅許の必要を理由に調印の2ヶ月延期をハリスに要請、老中堀田正睦を通商条約の勅許を得るために京都に参内させました。しかし、公卿が勅許反対の圧力をかけたため、再度協議せよとの勅諚が下りました。その後も、度重なる調印延期要請にたまりかねたハリスは、江戸沖に軍艦ポ-ハタン号を乗り入れて幕府を脅迫したため、6月19日、勅許のないまま日米修好通商条約が調印されました。 これにより6月24日に前水戸藩主徳川斉昭らが登城の上、井伊大老らを詰問しましたが、7月5日彼らは許可のない登城の罪で処分を受けます。 
そして8月水戸藩への陰謀疑惑をきっかけに、安政の大獄が始まることとなります。この大獄の嵐の中、安政6年6月27日ハリスは、総領事から公使に昇格した事を幕府に通告、公使館を麻布山善福寺に置きました。
貿易商が本職のハリスは幕府の要請で度々、国際法の講演会を善福寺本堂において開催し、その折アメリカから持参した工芸品絵画等を鑑賞させ、幕吏の国際化にも勤めました。

その頃の公使館の様子を「十番わがふるさと」は古老の話として、

護衛の武士に一度ステ-キを振る舞ったところ、味が忘れられなくなり中国人コックに頼んで盗食を繰り返した。これがハリスに発覚。注意されたため代理に犬を食べたが、うまくないので止めた。

と記されています。
文久2年(1862年)、アメリカの外交方針変更により解任されたハリスの帰国後の様子は、歴史のなかに埋もれていました。そして1936(昭和11)年12月19日、ハリス在任時の通訳見習いで、三井財閥関係者でもある益田孝氏が施主になり、善福寺境内に顕彰碑が建てられることとなります。この顕彰碑の除幕式には徳川家達氏、グル-駐日大使などが参列します。 

幕末の麻布山善福寺
しかし太平洋戦争で米国が敵国となったことから顕彰碑は寺により隠匿され、再び建立されたのは、日米修好条約百年祭が行われた1960(昭和35)年5月12日のことでした。
この戦時中の様子を「十番わがふるさと」 の著者稲垣利吉氏は、

~戦時中は排外思想鼓吹が盛んで、その煽りをうけて町会までが敵国人ハリスの碑を邪魔にし、取り払いを要求する始末であった。昭和12年日支事変以来戦災に至るまで、善福寺は近衛四連隊、東部第八部隊及び第六部隊の兵士兵士約三十万人の出入りの宿舎に使用されて、末期には墓石の下まで防空壕を掘るような状況であった。照海師(※当時の善福寺住職)はハリス碑を守るため、或る時は菰をかぶせ、また或る時は箱で覆い、箱に亀山天皇勅願寺善福寺と筆太に書いて、上に土をかぶせ人目につかぬしょうにカモフラージュし、多くの兵隊のいる中を守り通した。~
と記しています。この1960(昭和35)年の日米修好条約百年祭以降、新任の米国大使が着任すると必ず善福寺のハリス顕彰碑に参拝をすることが慣習となったとも記されています。ちなみにこの式典時に訪れたのは、元連合軍最高司令官ダクラス・マッカーサー将軍の甥であるダクラス・マッカーサー2世駐日大使であったそうです。

話は戻りますが、昭和10年にこの日が建立された後、善福寺住職の麻布照海師により幾度となくハリスのその後の消息を照会したそうですが、墓所さえも不明でした。

そして碑の再建立から1年後の1961(昭和36)年、照海師がバチカンを初め世界の宗教団体に仏書を贈呈するイベントに出発のさい、アメリカ大使館からハリスの墓所発見の報が届きます。
麻布照海師は渡米の上ニュ-ヨ-ク、ブルックリン・ウッドの広大な墓所を3時間ほど探して遂に墓石を発見します。その墓石は、麻布山善福寺の顕彰碑よりも少し大きく、墓名の終わりに「フレンド・オブ・ジャパン」と記されているそうです。


★関連項目
 
 ◆麻布山善福寺

 ◆タウンゼント・ハリス

 ◆ヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケン












2013年3月24日日曜日

麻布山善福寺(其の一)


麻布山善福寺の起源はひじょうに古く、東京都内では、浅草寺「推古天皇36年(628年)」、深大寺「天平五年(733年)」に次ぐ古刹で「天長元年(824年)」とされています。

 弘法大師により開かれ、鎌倉時代、了海上人の親鸞上人との出会いにより、真言宗から浄土真宗に改宗されています。 その経緯は、5年間常陸に師(法然上人)と共に流され、放免で京に戻る途中の親鸞上人は、おなじ藤原一門(紀氏ともいわれる)の出身である 青年僧で後に関東六老僧の一人となり麻布山善福寺中興の祖と呼ばれることとなる、了海上人のいる善福寺に立ち寄ります。
この時了海上人は、親鸞を試そうと煮え湯の中に自分の手を入れて、「師もこのような 事ができますか」と言い熱湯の入った手桶を親鸞の前に差し出します。すると親鸞は静かに立って庭の水瓶から水を汲み 手桶にさしぬるま湯としました。そして「宗教とは、修行した者のみが、独占するべきではない、だれもが親しみやすいものであるべきだ。」と言い諭します。この言葉に悟りを開いた了海上人は、ただちに浄土真宗へと改宗したといわれています。
そして親鸞が善福寺を去る時に、手に持っていたイチョウの杖を地に突き立てたのが大きく育ち、麻布七不思議 の一つとして数えられる「逆さいちょう」の起源となったいわれています。

さらに本堂裏山には楊枝杉と呼ばれた杉の木があり、 江戸期の書「続江戸砂子」には、
是は弘法大師廻国の時、やうしをさし給ふに、此杉七株わかれて大木となる。その梢に白き麻布の旗のことくなるもの一流ふりくたる。よって当所を麻布といふと也。そのゝち木奇端多くあるにより、天台の霊場とす。此杉はかれたるよし、一株もなし。▲此麻布の説、甚誤也。麻生の地名は、よく麻の生る地にて、布の事にはあらす。又麻茅生(あさじふ)といひて、草の浅々と生る地をいふとも云。これは浅生(あさふ)也。古来の御図帳には麻生と書しよし、古老申侍也。
麻布山善福寺 勅使門

とあり、「あざぶ」の語源となったと思われる「麻降る山」の伝説を残しています。しかし、この杉の木は残念ながら現存していません。
そして、もう一つの現存する麻布七不思議として柳の井戸も同寺内参道に残されています。

その後、麻布山善福寺は鎌倉後期の蒙古来襲時(文永の役-文永11(1274)年)に亀山天皇の勅使寺となり、それ以来善福寺の中門は「 勅使門」と呼ばれました。(昭和20年焼失1980(昭和55)年再建)。
 時代が下ると織田信長の本願寺攻めの際には本願寺に援軍を送り、 豊臣政権が誕生すると豊臣秀吉から所領を安堵されています。

そして江戸期には将軍家の庇護を受けたといわれ、初代将軍の徳川家康は、麻布山善福寺に天正19(1591)年11月付けで朱印を授け、 寺領の保護を誓約しました。 そして、この時の住職第14世堯海は家康と親しくしており、ある時家康が急に善福寺に立ち寄り銭十貫を求めたので直ちにこれに応じたことを代々伝え、 家康が将軍となった後も善福寺は毎年正月6日に十貫を納め、将軍家からそれに時服を添えて返礼されるのが徳川将軍家の正月正月行事となり慣わしとなります。

勅使門 解説板
その後二代秀忠、三代家光も善福寺を鷹狩りの途中などでたびたび訪問しますが、とりわけ家光と麻布の繋がりは深く、建築頭領の元締めである甲良豊後守に命じて本堂の建立を行わせていまする。 また、家光は善福寺の山号をこの寺のある麻布山の山形が亀に似ていることから 「亀子山」に改めさせ「亀子善福寺」としています。この山号は家光の死後再び「麻布山」に戻されますが、この時の山号変更の痕跡が境内の手水鉢と会館正面の額に残されています。
 そして、家康・秀忠・家光が鷹狩りのさいの休憩・昼食などに使用したといわれる境内の将軍家専用の茶屋は「栖仙亭」と名付けられ服部南郭撰文の「栖仙亭記」 にその名を残しています。

善福寺の本堂は昭和20年の空襲により消失していますが、再建された本堂は徳川家康が慶長12(1607)年に東本願寺八尾別院本堂として建立したもので、 東本願寺の御影堂としても使用されていたものを1960(昭和35)年に大阪から移築したそうです。

また麻布山善福寺オフィシャルサイトによると江戸期には麻布の他に善福寺池(杉並区)を奥の院、さらに江戸城虎ノ門を元は麻布山善福寺の山門としています。 また大田区西蒲田(荏原郡六郷領女塚村)近辺を寺領としていたとあり、当時の権勢が伺えます。

麻布氷川神社の元地(暗闇坂西面)から見た相対的な場所を町名として宮村、宮下、坂下などの各町が起立したのに対して、 東町、西町、山元、の各町は麻布山善福寺の門前町であり、やはり相対的な場所を町名として起立しました。

また、麻布区史によると逆さいちょうの下一帯と寺の背景斜面に貝殻と縄文土器、磨製石斧の出土を記しており、古来から人が住んでいた形跡を残しています。

著名人の墓域も多く麻布区史によると、 戦前は、
・車屋善八-宇喜多秀家の子孫で非人頭
・櫻井宗辿-江戸の儒者
・赤松沙鴎-松山候儒臣
・赤松太痩-沙鴎の子、儒者
・山田慥斎-儒者
・安見元道-幕府儒官
・勝川春英-浮世絵師
・勝川春好-浮世絵師遁世して善福寺に遇する
・松波筑後守-14代江戸南町奉行。弁天小僧を裁断。
・木下道圓-儒者
・木下杏林-道圓の子。儒者
などがあり、後には幕末に善福寺に頻繁に出入りしていた福沢諭吉の墓が移転してきます。 福沢諭吉は1901(明治34)年2月3日臨終を迎え、葬儀を8日に福沢家の菩提寺である善福寺で行ったのちに、諭吉が 生前自ら買い求めていた品川区大崎の本願寺(現在は常光寺)に埋葬されました。 その時の様子を「考証 福澤諭吉 下」では、
二月八日は、前日の末明から降り続き地上に真白に積もった雪も、朝あけとともに一天からりと 晴れ渡り、定刻までにほぼ乾いて、塵埃もおこらず却って好都合であった。

午後零時四十分、普通部生徒七百余名を先頭とし、幼稚舎生徒二百余名がこれに続き、葬送曲 を吹奏するラッパに歩調を整え、次は商業学校生徒三百余名、大学部学生三百五十名、いずれも 四列縦隊を組、これにつづいて大学部学生九名が交代で竹筒に挿んだ尺余の樒三対を持ち、導師 麻布超海以下僧侶五名いずれも黒染の法衣に徒歩で加わり、続いて香炉を捧持した 石川幹明、位牌を捧げた日原昌造、故福澤諭吉之柩と大書した銘旗を大学部学生がこれを捧持 し、次は諭吉の遺骸を納めた檜白木造、長さ七尺三寸・幅三尺一寸の簾輿、その蓮台の長さは四 間一尺、白丁五十人でこれを担ぎ、輿の周囲には小幡篤次郎、荘田平五郎以下塾員の長老がつきそい、 喪主福澤一太郎・捨次郎以下親戚の人々いずれもフロックコートを着用し、行列中一基の生花も造花も なく、また高声で談話する者も喫煙する者もなかったのは、沿道の人々を感動せしめたという。
~中略~
麻布山善福寺に到着したのは午後二時ごろで、葬儀焼香の終わったのは午後三時ごろ。
それか霊柩は埋葬地なる大崎村本願寺の墓地に向かった。幼稚舎生徒は善福寺かぎりで引き取る ことにしたが、その生徒たちは白金台町に達するや道の両側に整列し、哀悼のラッパとともに挙手 注目、脱帽または捧銃の敬礼をする中を、霊柩は粛々と通過し、本願寺の墓地に 埋葬の儀を完了したのは午後五時ごろであった。
と細かく伝えていますが、棺が自邸を出たのが午後12時40分で善福寺の到着が午後2時としているので 三田から麻布まで1時間20分をかけての、かなりゆっくりと進む葬列であったことがわかります。

時は下って1977(昭和52)年、諭吉の墓が常光寺より善福寺墓地に移設された際には、土葬であった事と偶然に水温の低い地下水に浸っていたため遺骸は埋葬時のままのほぼ完全な形で発掘されます。諭吉の遺骸を学術解剖や遺体保存の声もあったそうですが、 遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされました。現在常光寺には慶応義塾により建立された「福沢諭吉永眠の碑」が残されています。

諭吉の命日の2月3日は雪池忌と呼ばれ、現在も塾長以下学生、OBなど多くの慶應義塾関係者が墓参します。
また、同じ墓所入り口付近には越路吹雪のモニュメントもありますが、これは墓ではなく歌碑であり越路吹雪の墓は川崎市宮前区の本遠寺とのことです。

麻布山善福寺 開山堂

墓地内にある「開山堂」は真言宗の蔵王権現として中興の祖「了海上人」が蔵王権現の申し子とされていたために開かれました。そして、 麻布の地名の由来は諸説ありますが、「麻に布」で「あざぶ」と読むのはそれまで代官支配地で江戸郊外あった麻布各村が 町奉行支配となり「町」となって江戸に編入された江戸中期以降と思われます。これは善福寺の山号が その昔麻布山に麻が降ったことがあり、麻布留山(あさふるやま)と言ったのを後に略して麻布山と唱えたのが広まったことや 寺の住職が代々麻布姓を名乗っていることから来ているともいわれていますが、その根拠は明らかとなっていません。

善福寺には太平洋戦争当時の東部軍管区兵站部海軍燃料廠の感謝状が残されており、また宿坊も近衛四連隊・東部八部隊・六部隊の宿舎として徴発さ れたという。さらに寺横の斜面(昭和期に篠崎製菓があった裏手の斜面)から各方面に向けて本土決戦用の巨大な地下壕 が掘削されました。



開山堂 解説板
このように時代の支配者達からも認められた善福寺には、以下の文化財が保管されているといいます。(十番わがふるさとより)
1.鎌倉初期、了海上人の木像
2.北条氏直の文
3.豊臣秀吉の文
4.長尾景虎(上杉謙信)の文
5.弘法大師の名号
6.親鸞上人の名号
7.見真大師、真筆の軸
8.石山本願寺の旗
9.石器時代の斧

その他、善福寺は手塚治虫の「日だまりの樹」などにも登場し、幕末にアメリカ合衆国公使館となることとなりますが、ハリスの公使館については 次項で。












より大きな地図で 麻布の寺社 を表示

2013年3月18日月曜日

光福寺の大いちょう

しながわの昔ばなし
前回お伝えした品川区大井の古刹光福寺の大銀杏は、高さ40メ-トル、幹廻り7メ-トルもあり、明治の頃までは出漁した漁師たちの航行の目印として使われていたそうです。つまり、現代の灯台の代わりとして漁師に利用されていました。

この大いちょうにまつわる昔話が残されており、「しながわの昔ばなし」という書籍に掲載されています。今回はその光福寺の大銀杏にまつわる昔話をお伝えします。


むかし、むかし、この寺の庭の手入れをしていた植木職人の親方が、あまりにも伸びすぎたイチョウの枝をおろそうと思い、弟子に声をかけました。


「おい、お前、その仕事が済んだら、あのイチョウの枝をおろせ!」
「親方、それはいけませんや!」
「どうしてだ!」
「私の爺さんが、光福寺の大イチョウは、祟りがあるからさわるな!と良く言ってました。」

光福寺の大いちょう
 「わしも聞いてはいるが、いちいち怖がってたら、植木屋なんかつとまるか。そんなバカな事があるものか!」とどなりました。
「そう言われれば、そうですね。」と言って、
弟子は、その日の夕方、はしごをかけて大イチョウに上りました。南の方に伸びている大きい枝を切ろうとして、
のこぎりを枝の中程に当て差し込んだ時です。
どうしたはずみか、足をすべらせて、ずしんと地面に落ちてしまいました。
親方をはじめ、寺男や小僧たちがかけつけて介抱すると、気を失っていた弟子は、やっと気がついて目を開けました。

「あっ、よかった。気がついて。」
「おい、しっかりしろ!」
「大丈夫か?」
と、口々に声をかけましたが、気がついた弟子は、あたりをきょろきょろと見回しているだけで、一言も言葉を発しません。
「どうした、わかっているのか?」
「しっかりするんだ!」
そのうちに弟子は、「あ-、あ-。」と言い出しました。
いちょうと解説板
「どうしたんだ、何とか言えよ!」
「あ-、あ-。」
弟子は、ただ「あ-、あ-。」と言うだけで、言葉は一言も話せなくなってしまったのです。

その翌日、うらめしそうにイチョウの木を見つめている植木屋の親方に、「親方、仕事が済みましたら、お茶でもいれましょう。」と、寺男の爺さんが声をかけました。
「ありがとう......」
「どうしました、イチョウの木を眺めて。」
「だって、いまいましいじゃないか、昨日は若い者が落ちて、口がきけなくなってしまった。」
「昔から、この大イチョウには、はさみを入れない事になっていますんで........」
「祟りがある。そんなバカな事があるものか、木が切れない植木屋じゃ仕方ない。よし、わしが枝をおろしてやる!」
「親方、危ないからおよしなさい。」
「何が危ないんだ!四十何年、木と言う木を切り、高い所へ登りつけているわしだ。木の上は、地上と同じだ!」
「人の止める事は、やめるもんですぜ。ねっ、親方。」
「言い出したら後へは引かない俺だ。若い者は、修行が足りないんだ。わしの腕前を見せてやる。」

いくら寺男の爺さんが止めても、言う事を聞かず、親方は、はしごを登り始めました。

昨日弟子が登った枝より、もう2つ上の高い枝に登って、長く伸びた枝にのこぎりを立てた時です。
いきなりもんどり打って、マッサカさまに落ちて、庭石に頭を打ち付けたからたまりません。
親方は、そのまま息が絶えてしまいました。


それからは、この大イチョウには、誰一人として刃物を加える者がいないので、思う存分に枝を伸ばし、樹齢をかさねています。 














 
 
 
 
 
 
 
 






より大きな地図で 麻布の寺社 を表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


2013年3月17日日曜日

了海上人と大井山光福寺

大井山光福寺
麻布山善福寺の中興の祖といわれる了海上人は、品川区大井で生まれとされていますが、その場所は私の住まいの比較的近くにある事を最近になって知りました。

品川歴史館(品川区大井)の裏手に「光福寺」という寺があります。その寺は延暦元(782)年顕教房栄順律師の開創といわれ、当時は天台宗の寺で「薬王神宮寺」と称していたそうです。しかし元久兵乱で失脚して土地の豪族紀実経の庇護を受けた頭中将光政(東国に流されていた鳥羽院の皇胤左大臣信光の嫡男)と紀実経の娘(一説には滋野井宰相の女とも?)の間に生まれた「松丸」は8歳で剃髪し、長じて比叡山に上り浄栄僧都の門に入って修行し、帰国後親鸞上人の弟子となって「了海」と改めます。
了海は祖父である実経から寄進を受けた土地にある薬王神宮寺を真宗に改め「大井山光福寺」と改称します。この「光福」とは父、頭中将光政も親鸞の門に入って「空範」と号したので、元の名をとって寺号としたそうです。

大井山と書かれた山門をくぐると大きな銀杏の木があります。この木は麻布山善福寺の 逆さ銀杏の枝を了海上人がこの地に植えたものが大木となったといわれ、幹周りが6.25メ-トルもある大樹で品川区の保護樹と指定されています。

この樹には面白いことに樹皮を煎じて飲むと乳の出が良くなる。という言伝えが麻布山善福寺と全く同一であり、また墓地には「開基了海上人産湯井」と書かれた石碑が建っている。了海上人の父、頭中将光政は子が無いために日常蔵王権現に子授けを祈願したところ、妻が身ごもって了海上人を生んだ。この了海出生の際、住持覚律師は夢でこの井戸を知らされ、行ってみると水が自然に湧き出していたという伝説があります。

健保元(1213)年6月15日[史実では延応元年(1239年)とも?]、この井戸水で産湯を使った「松丸」こと了海上人が生まれます。この井戸から近隣の地域を「大井」と呼ぶようになり、山号も「大井山」と称する様になったと伝えられています。そして文永2年(1265年)了海上人はこの寺を浄土真宗に改め、その後同寺を父の空範に託し麻布山善福寺に入りました。後に関東六老僧といわれるまでになったなった了海上人は、再び京都に赴き仏光寺四世となり、元応2年(1320年)正月28日、82歳で没することとなります。
逆さ銀杏の兄弟樹

光福寺門前の狭い道は古東海道と言われ高輪-居木橋から新井宿、矢口に通じていて寺の近辺は、大井の行政の中心であったといわれています。また江戸時代には付近に札場(お触れ、規則を書いた高札場)があったそうです。


この光福寺の井戸からついた「大井」という地名は了海上人が生まれなければ存在しない名称であったともいえます。また大井氏(紀実直の次男実春が大井氏を名乗る。)、品川氏(紀実直の三男清実が品川氏を名乗る。)も共に当然「紀氏」であり、当然了海上人との関わりもあったと思われます。





江戸名所図絵には、
 「この地は麻布山善福寺の中興の了海上人の旧跡なり。当寺に桜の老樹ありて春時奇観たり。了海上人産湯の井、寺の後楽にあり。」とある。

そして、新編武蔵風土記稿には、
「大井跡。客殿の北の方山腹に在り。横に深き穴なり。或書に云。この井は大いなる穴にて臨むもの目くるめくとあり。今はうづもれて穴の径六七尺もあるべし。」とある。 
銀杏解説板














  






大井の語源となる井戸「大井の井」












大井の井解説板










  


より大きな地図で 麻布の寺社 を表示
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2013年2月16日土曜日

福沢家の墓所2



麻布山善福寺福沢家墓所
麻布山善福寺福沢家墓所には、
①福沢諭吉・お錦夫妻の墓碑  ②福澤百助之妻阿順之墓と書かれた諭吉の母の墓碑、そして③「福澤氏記念之碑」があり、さらにこれら福沢家墓碑の他に
正面右手にはやや小ぶりの墓で、④「高仲熊蔵・はな夫妻の墓」があります。




明治三四年1901年福沢諭吉が脳出血により逝去麻布山善福寺にて葬儀後上大崎に埋葬されたおりに建てられたもの。
明治 六年1873年龍源寺墓所に福澤家の略譜を記した「福澤氏記念之碑」を建てたもの。
明治 七年1874年福沢諭吉の母お順が歿し、三田龍源寺の墓所に埋葬されたおりに建てられたもの。
明治四三年1910年福澤家に奉公した下僕の万蔵が急死して白金重秀寺に埋葬されたおりに建てられたもの。
 

 









①福沢諭吉は遺言として自身を上大崎に葬る際に、墓碑は母の墓と同じ60cmほどの大きさにしてほしいと生前周囲の者にいっていましたが、それと同じでは後々塾関係者が墓参の際不都合も多かろうとの判断から、一般のそれと同程度の高さ一メートル強(約三尺五寸)の墓石となったようです。
墓碑右側面には福沢諭吉の戒名など、大観院獨立自尊居士/天保五年十二月十二日生於大阪/明治三十四年二月三日歿於東京/齢六十八歳
墓碑左側面には福沢錦の戒名など、香桂院静室古錦大姉/弘化二年五月十九日於江戸/大正十三年六月二日於東京/齢八十歳
福沢諭吉・お錦夫妻墓碑
が刻まれており、ちなみに福沢諭吉の戒名は1898(明治31)年一回目の発病時に小幡篤次郎が選んだとされています。
また、上大崎の常光寺に改葬された、

●明治五(1872)年、妻お錦が死産の女児を分娩し三田龍源寺に埋葬され後に上大崎に改葬。

○墓碑(石碑)
・正面   自覚孩女
・左側面  父福沢諭吉/母阿錦/明治五年七月二十二日死胎
●明治十(1877)年、福澤家に死産の男女の双子が生まれ、白金の重秀寺に埋葬され後に上大崎に改葬。
○墓碑(石碑)
・正面   自音孩子・自性孩女
・左側面  父福沢諭吉/母阿錦/明治五年七月二十二日死胎
これら死産であった子供たちの墓は善福寺には移転されませんでしたがこれは善福寺への改葬時に父母の墓に合祀されたものか、またはそれぞれの当初の埋葬地である三田龍源寺・白
金重秀寺から上大崎に改葬された折に合祀されたものかを確定する文献は見あたりませんでした。




福澤百助之妻阿順之墓
②は、明治七(1874)年五月八日福沢諭吉の母お順が歿し、翌九日三田龍源寺の墓所に埋葬されたおりに建てられたものですが、この墓所までの葬列の際の福沢諭吉の姿は、
黄八丈の着物にパッチをはき、尻端折りで一太郎、捨次郎の二子を伴った
といわれています。

○墓碑
・正面 福澤百助之妻阿順之墓
・側面 明治七年五月八日死 齢六十九歳七ヶ月
橋本濱右衛門之女  福沢百助之妻
福澤三之助・小田部阿禮・中上川阿婉・服部阿鐘・福沢諭吉)之母



③は、明治六(1873)年龍源寺墓所に福澤家の略譜を記した「福澤氏記念之碑」を建てたものを上大崎の常光寺、麻布山善福寺と移築した記念碑。
この碑文は福澤家系図を典拠として諭吉自身が書いた文章だといわれています。


  福澤氏記念之碑


福澤氏記念之碑
福澤氏の先祖は信州福澤(地名)の人なり。元禄宝永の際、
其の子孫兵助なる者、豊前中津の海岸下小路に住し、
宝永六年五月二十三日死して中津桜町明蓮寺内に葬
る。これより以前の事は得て詳にす可らず。○兵助の子を
兵左衛門と云ふ。兵左の孫を友米と云ふ。友米始て中津の
奥平藩に奉公して足軽と為りたり。これに由て考えれば
福澤氏の先祖は必ず寒族の一小民なる可し。○友米に一女
あり。阿楽という。同藩中村氏の男を養子と為し、これを
第二兵左衛門とす。文政四年九月二十一日死す。妻阿楽は
嘉永五年六月十八日死し、共に中津竜王の浜に葬る。○兵
左衛門に三男三女あり。長を百助と云ふ。同藩橋本浜右衛門
長女阿順を娶て二男三女を生む。
文政五年より同藩元締の小頭として会計の下役を勤め、大阪
の藩邸に在る十五年、天保七年在勤中に死す。百助は文学を
好み志操高尚にして正直潔白の名あり。○百助の大阪に死す
るとき、長男三之助十一歳、末男諭吉生まれて十八箇月、三
姉妹と共に母に従て中津へ帰る。三之助長ずるに及んで文を
好み頗る穎敏の聞あり。同藩藤本氏の女を娶て一女を生む。
安政三年九月三日死して竜王の浜に葬る。○兵助より三之助
に至るまで歴代の墓は皆中津の明蓮寺内と同処金谷村の三昧
と竜王の浜とに在り。三之助死するに及んで諭吉福澤の家を
続ぎ、安政五年より東京に居住し、明治六年十一月先祖記念
のため爰に其碑を建つ。




司馬遼太郎は「街道を行く34(大徳寺散歩、中津・宇佐のみち)」文中で、この碑文の文中、

・・・・・これに由て、考えれば福沢氏の先祖は必ず寒族の一小民なる     可し(東京の福沢氏の墓所の碑文)

と、福沢諭吉自身がいう。福沢のあかるさがよく出ていて、いい文章である。

としています。





高仲熊蔵・はな夫妻の墓
④は、1910(明治43)年、福澤家に奉公した下僕の万蔵が急死して白金重秀寺に埋葬されたおりに建てられたもの。


高仲熊蔵・はな夫妻の墓

墓碑正面が諭吉夫妻の墓に向けて設置されているので墓所正面から見るとこの小さな墓の設置理由が書き込まれていたようなのですが、多くの文字が剥落しており文章として理解する
のは難しくなっています。しかし南側面には、
熊蔵 万延元(1860)年二月二日生 1910(明治43)年十月二七日歿
は● 1917(大正6)年四月一五日歿
西側正面には、
高仲熊蔵 之墓
妻 は●


この熊蔵は、福沢家の従順な下僕で、福沢家では「万蔵」と呼ばれていました。そして、やはり福沢家の女中であった「はな」と結婚します。

「はな」は、福沢諭吉の長女「里」が中村家に嫁す時に雇って連れて行った女中でした。子守などもしたそうですが、1895(明治28)年に里の夫中村貞吉が亡くなると、里は子供たち・はならと福沢諭吉の家に戻りました。その後はなは、福沢家の使用人である高仲万蔵と結婚して、晩年は広尾の福沢家の別荘(現在幼稚舎)に住み、その留守番のようなことをしており、そして週に何回かは三田の福沢邸にも通っていたといわれています。 広尾の別荘は福沢が長男の一太郎名義で同所に所有していた水車もあったのでその作業も行っていたのかもしれません。

この万蔵は本名を熊蔵といい、諭吉のお気に入りの下僕でした。1889(明治22)年福沢一家が関西に旅行したさいには万蔵もこれに同行し、奈良の大仏殿にある柱の穴を見事にくぐり抜けたので諭吉は「万蔵も首尾良くぬけたるは平生正直なるが故ならん」と記してその正直な生き方を讃えています。また1898(明治31)年8月、福沢家の飼い犬が狂犬病にかかりこれに
万蔵が左手首を噛まれ伝染病研究所に入院した際には万蔵を「忠僕」とした治療依頼を書いています。

このように愛された万蔵も1910(明治43)年お里、お房の二人を人力車に乗せて引ひいている際に愛宕下近辺で心臓発作を起こし急死します。そして、それを哀れんだ福沢家により同家の墓所に埋葬されたものと思われますが、とりわけ諭吉の妻「お錦」の意向が強かったのではないかと考えられているそうです。また、高仲万蔵が本名の熊蔵ではなく万(萬)蔵と呼ばれていたのかを明らかにする文章は見つけられませんでした。

最後に「高仲熊蔵・はな夫妻の墓」は昭和40年代に福沢家がこの墓碑を修復(立て直し?)したといい、剥落した墓碑裏面の文章は其の折に書かれたものであるといわれています。また福沢家記念碑についてもこの碑文とは異なる拓本慶応義塾図書館に残されており、これらの墓碑が建立された当時そのままの墓碑であるかは疑問が残ります。















2013年2月8日金曜日

福沢家の墓所

前回の福沢諭吉の命日「雪池忌」文中で、

「葬儀を8日に福沢家歴代の菩提寺である麻布山善 福寺で行った」

とお伝えしました。しかし、福沢家先祖の墓があるのは中津市桜町の明蓮寺とのことで、麻布山善福寺で葬儀が行われたのは明蓮寺と同じ浄土真宗本願寺派の寺院であったことに依るそうです。

品川区上大崎の常光寺
そして、東京における最初の福沢家墓所は現在の古川橋際にある三田龍源寺で、これは江戸期に中津藩主奥平家が山形から宇都宮に移封された頃の領主昌章らが、この龍源寺住職伽山和尚に深く帰依していたので、それ以来奥平家から浅からぬ庇護を受けており、藩主の墓こそありません(中津藩主奥平家の菩提寺は品川清光院)でしたが多くの家臣藩士はこの寺を菩提所としていたそうです。これにより福沢の妻お錦の実家も檀家となっているそうです。また慶応義塾が芝新銭座にあった当時、収容しきれなくなった五十余名の塾生を受け入れる「外塾」を三田龍源寺に設置したことからも、そのゆかりの深さがしのばれます。

前述したとおり福沢家の宗派は門徒でしたが、龍源寺は臨済宗妙心寺派ですので、福沢諭吉は東京での墓所を宗派よりも藩または妻の実家とのゆかりを優先して購入したともいえます。ちなみにこのあとに墓地を購入した白金重秀寺(白金氷川神社脇)も龍源寺と同じ臨済宗妙心寺派ですので、やはり龍源寺とのゆかりを優先したものともいえそうです。
そして1896(明治29)年に福沢諭吉の日課の散歩の道筋にあり初代幼稚舎長和田義郎の墓のあった、市外の目黒村大字上大崎の墓地を購入することとなりますが、この土地を見つけるきっかけは明治8年ころに狸橋~幼稚舎となる土地2,200坪を別邸として取し、付随する水車場を経営し経営塾生の食費捻出に乗り出します。そしてこの別邸から日課としていた散歩の途中に上大崎の墓地を見つけたといわれています。
常光寺
福沢諭吉先生永眠の地碑
この墓地はふたたび福沢家の宗派とは違う浄土宗本願寺派の墓地でしたが南に開けた眺望の良さから諭吉自身が選んだといわれています。この墓地はその後正福寺となり、正福寺が廃寺となると寺地は泉岳寺近くにあった増上寺末寺の常光寺が移転してに引き継がれることとなります。











常光寺
幼稚舎創立者和田義郎碑




















港区三田の龍源寺


















港区白金の重秀寺






















福沢家年表
安政 五(1858)年大阪の適塾で塾頭を務めていた福沢諭吉に江戸出府が命じられ岡見彦三の要請で中津藩築地鉄砲洲の中屋敷で蘭学塾を開く
万延 元(1860)年 2/10咸臨丸艦長木村摂津守の従者として渡米。6/23帰国。
万延 二(1861)年木村摂津守の斡旋で蘭学塾を芝新銭座に移転する。
文久 三(1863)年蘭学塾のより広いスペースを確保するため鉄砲洲中屋敷に戻る
慶応 三(1867)年幕府の軍艦受取委員会随員として再渡米
慶応 四(1868)年鉄砲洲周辺が外国人居留地となるため再び蘭学塾を芝新銭座に移転し、元号にちなんで「慶應義塾」とする。
明治 三(1870)年新銭座に収容しきれなくなった五十余名の塾生を受け入れる「外塾」を三田龍源寺に設置。
明治 四(1871)年三田の島原藩中屋敷跡地を貸し下げられ移転する。
明治 五(1872)年妻お錦が死産の女児を分娩し三田龍源寺に埋葬。福沢家の東京における最初の墓所となる。
明治 六(1873)年龍源寺墓所に福澤家の略譜を記した「福澤氏記念之碑」を建てる。
明治 七(1874)年福沢諭吉の母お順が歿し、龍源寺の墓所に埋葬。しかし朱引内埋葬禁止令が発布され以降の龍源寺への埋葬が不可能となる。
明治 八(1875)年この頃後に狸橋~慶応幼稚舎となる土地2,200坪を取得。付随する水車場を経営し経営塾生の食費捻出に乗り出す。
明治 十(1877)年福澤家に死産の男女の双子が生まれ、白金の重秀寺に埋葬
明治二四(1891)年東京市十五区と八王子市で土葬が禁止される。
明治二九(1896)年福沢諭吉の日課の散歩の道筋にあり初代幼稚舎長和田義郎の墓のあった、市外の目黒村大字上大崎の墓地を購入し、龍源寺にあった母お順の墓、死産の女児の墓、福澤氏記念之碑、そして、重秀寺の墓を、全て上大崎の墓地に移す。
明治三四(1901)年福沢諭吉脳出血により逝去麻布山善福寺にて葬儀後上大崎に埋葬される
明治四三(1910)年福澤家に奉公した下僕の万蔵が急死。白金の重秀寺に埋葬
大正十三(1924)年妻お錦逝去。上大崎に埋葬される
昭和五二(1977)年上大崎にある福沢家墓所を麻布山善福寺に改葬









より大きな地図で 福沢家墓所変遷 を表示