2013年3月29日金曜日

ヒュ-スケンとお鶴、お里

安政6年6月27日、総領事から公使に昇格したハリスはこれを幕府に通告、公使館を麻布山善福寺に置きました。そして米国政府の要求

「一、善福寺詰栗原啓太郎、夜来る。魯コンシュル外一人、同寺へ来る由申し聞き候。ヒ-ス(ヒュ-スケン)女一条云々、申し聞き候。(7月18日の条)」

「一、ヒ-スケン下女抱入れの儀、伺の通りあい済み、清五郎を以って御渡し。(10月27日の条)」

これにより雇われたのが麻布坂下町にある清蔵店久次郎の娘で横浜の遊女屋に年季奉公中の「つる」という18歳の娘でした。


とは別にヒュ-スケンは幕府に対して「下女の雇い入れ」を要求します。この時の要求と、その結果を外国奉行兼下田奉行村垣淡路守範正の日記に見る事が出来ます。
給金は下田の時とほぼ同額の一月7両2分といわれ、彼女が勤めていた遊女屋の6倍半以上の給金であったそうです。ヒュ-スケンはよほどつるを気に入ったと見えて、彼が切られて運び込まれた時も善福寺の宿坊である善行寺でつるが彼の「死に水」をとったといわれます。

また宮永孝著「幕末異人殺傷録」流浪の果てに-アメリカ公使館通訳ヒュ-スケンの暗殺の100ペ-ジに、アムステルダム海事博物館に所蔵されているポルスブルック伯のアルバムの写真が掲載されていて、そこには子供を膝に乗せた日本人女性が写されています。その写真の下には「Madame Heusken」と書かれている事から、著者はこの写真が「つる」と彼らの子供だと推定しているようです。

ヒュ-スケンは、このつるの他にも気になる女性がいたようで、芝浦に停泊した外国の軍艦の見物人を相手にした「掛け茶屋」の一つで、最も繁盛していた「万清」で働く「お里」という娘に、恋をしていたと思われます。
お里は芝浦の船頭の娘で、父は松蔵といいました。ヒュ-スケンは沖の船に用事がある時は度々松蔵の小船を使って行ったので、その内に松蔵とヒュ-スケンは懇意になり、松蔵は娘の働く万清にヒュ-スケンをもてなした。

そんな中でヒュ-スケンはお里に心を動かされ、やがて松蔵ぬきで一人で現れるようになったそうです。最初は彼を恐れていたお里も、やがて酌や話し相手もするようになります。しかし、ヒュ-スケンが三日と明けずに通うようになると、地元の若い衆らが嫉妬と怒りからお里を「ラシャめん」と呼び罵声を浴びせます。そのために父親の松蔵は地元の若い衆らと大立ち回りを演じたといいます。

その後ヒュ-スケンは暗殺されてしまい、二人はプラトニックなままだったといわれていますが、中里機庵「幕末開港綿羊娘情史」には、ヒュ-スケンの死後、墓を訪ね密かに香華をたむけて涙するお里の姿が見うけられたとあるので、すでに恋愛関係にあったとみることが出来るのかもしれません。

前回までお知らせしたヒュ-スケン事件では知らなかった事を少し補足させて頂くと、
ヒュ-スケン暗殺に憤慨した各国出先機関は江戸からの退去を決め実行に移します。しかしアメリカ領事ハリスだけは、事件を私情から起こったとして江戸に残留し、幕府に対して損害賠償を請求しました。
これにより幕府はヒュ-スケンの母親に対する慰謝料として4,000ドル、扶助料6,000ドルの10,000ドルを洋銀(メキシコドル)で支払い和解しました。これは当時でも大金であったといわれ、その総てがハリスによりヒュースケンの母親に支払われたそうです。

ヒュ-スケンの母親は当時アムステルダムに住んでおり、不思議な事に彼が殺された三日後に在日オランダ副領事のポルスブルック伯がヒュ-スケンの母親から受け取った手紙には、彼が殺されたらこの老母に知らせてほしいという内容が記されていたといいます。また息子の死を知らされ、賠償金を受け取った後に母は、ハリス宛の手紙を書き、息子を失い悲嘆に暮れている様子と、賠償金、息子への供養に対する懇ろな礼を述べています。

この項の主題である異国人とその侍妾について、本人の日記を含めて外国側の資料は全く無いといわれていますが、皮肉にも日本側の公式文章には頻繁に女性たちの名前が登場しているようです。