2013年3月24日日曜日

麻布山善福寺(其の一)


麻布山善福寺の起源はひじょうに古く、東京都内では、浅草寺「推古天皇36年(628年)」、深大寺「天平五年(733年)」に次ぐ古刹で「天長元年(824年)」とされています。

 弘法大師により開かれ、鎌倉時代、了海上人の親鸞上人との出会いにより、真言宗から浄土真宗に改宗されています。 その経緯は、5年間常陸に師(法然上人)と共に流され、放免で京に戻る途中の親鸞上人は、おなじ藤原一門(紀氏ともいわれる)の出身である 青年僧で後に関東六老僧の一人となり麻布山善福寺中興の祖と呼ばれることとなる、了海上人のいる善福寺に立ち寄ります。
この時了海上人は、親鸞を試そうと煮え湯の中に自分の手を入れて、「師もこのような 事ができますか」と言い熱湯の入った手桶を親鸞の前に差し出します。すると親鸞は静かに立って庭の水瓶から水を汲み 手桶にさしぬるま湯としました。そして「宗教とは、修行した者のみが、独占するべきではない、だれもが親しみやすいものであるべきだ。」と言い諭します。この言葉に悟りを開いた了海上人は、ただちに浄土真宗へと改宗したといわれています。
そして親鸞が善福寺を去る時に、手に持っていたイチョウの杖を地に突き立てたのが大きく育ち、麻布七不思議 の一つとして数えられる「逆さいちょう」の起源となったいわれています。

さらに本堂裏山には楊枝杉と呼ばれた杉の木があり、 江戸期の書「続江戸砂子」には、
是は弘法大師廻国の時、やうしをさし給ふに、此杉七株わかれて大木となる。その梢に白き麻布の旗のことくなるもの一流ふりくたる。よって当所を麻布といふと也。そのゝち木奇端多くあるにより、天台の霊場とす。此杉はかれたるよし、一株もなし。▲此麻布の説、甚誤也。麻生の地名は、よく麻の生る地にて、布の事にはあらす。又麻茅生(あさじふ)といひて、草の浅々と生る地をいふとも云。これは浅生(あさふ)也。古来の御図帳には麻生と書しよし、古老申侍也。
麻布山善福寺 勅使門

とあり、「あざぶ」の語源となったと思われる「麻降る山」の伝説を残しています。しかし、この杉の木は残念ながら現存していません。
そして、もう一つの現存する麻布七不思議として柳の井戸も同寺内参道に残されています。

その後、麻布山善福寺は鎌倉後期の蒙古来襲時(文永の役-文永11(1274)年)に亀山天皇の勅使寺となり、それ以来善福寺の中門は「 勅使門」と呼ばれました。(昭和20年焼失1980(昭和55)年再建)。
 時代が下ると織田信長の本願寺攻めの際には本願寺に援軍を送り、 豊臣政権が誕生すると豊臣秀吉から所領を安堵されています。

そして江戸期には将軍家の庇護を受けたといわれ、初代将軍の徳川家康は、麻布山善福寺に天正19(1591)年11月付けで朱印を授け、 寺領の保護を誓約しました。 そして、この時の住職第14世堯海は家康と親しくしており、ある時家康が急に善福寺に立ち寄り銭十貫を求めたので直ちにこれに応じたことを代々伝え、 家康が将軍となった後も善福寺は毎年正月6日に十貫を納め、将軍家からそれに時服を添えて返礼されるのが徳川将軍家の正月正月行事となり慣わしとなります。

勅使門 解説板
その後二代秀忠、三代家光も善福寺を鷹狩りの途中などでたびたび訪問しますが、とりわけ家光と麻布の繋がりは深く、建築頭領の元締めである甲良豊後守に命じて本堂の建立を行わせていまする。 また、家光は善福寺の山号をこの寺のある麻布山の山形が亀に似ていることから 「亀子山」に改めさせ「亀子善福寺」としています。この山号は家光の死後再び「麻布山」に戻されますが、この時の山号変更の痕跡が境内の手水鉢と会館正面の額に残されています。
 そして、家康・秀忠・家光が鷹狩りのさいの休憩・昼食などに使用したといわれる境内の将軍家専用の茶屋は「栖仙亭」と名付けられ服部南郭撰文の「栖仙亭記」 にその名を残しています。

善福寺の本堂は昭和20年の空襲により消失していますが、再建された本堂は徳川家康が慶長12(1607)年に東本願寺八尾別院本堂として建立したもので、 東本願寺の御影堂としても使用されていたものを1960(昭和35)年に大阪から移築したそうです。

また麻布山善福寺オフィシャルサイトによると江戸期には麻布の他に善福寺池(杉並区)を奥の院、さらに江戸城虎ノ門を元は麻布山善福寺の山門としています。 また大田区西蒲田(荏原郡六郷領女塚村)近辺を寺領としていたとあり、当時の権勢が伺えます。

麻布氷川神社の元地(暗闇坂西面)から見た相対的な場所を町名として宮村、宮下、坂下などの各町が起立したのに対して、 東町、西町、山元、の各町は麻布山善福寺の門前町であり、やはり相対的な場所を町名として起立しました。

また、麻布区史によると逆さいちょうの下一帯と寺の背景斜面に貝殻と縄文土器、磨製石斧の出土を記しており、古来から人が住んでいた形跡を残しています。

著名人の墓域も多く麻布区史によると、 戦前は、
・車屋善八-宇喜多秀家の子孫で非人頭
・櫻井宗辿-江戸の儒者
・赤松沙鴎-松山候儒臣
・赤松太痩-沙鴎の子、儒者
・山田慥斎-儒者
・安見元道-幕府儒官
・勝川春英-浮世絵師
・勝川春好-浮世絵師遁世して善福寺に遇する
・松波筑後守-14代江戸南町奉行。弁天小僧を裁断。
・木下道圓-儒者
・木下杏林-道圓の子。儒者
などがあり、後には幕末に善福寺に頻繁に出入りしていた福沢諭吉の墓が移転してきます。 福沢諭吉は1901(明治34)年2月3日臨終を迎え、葬儀を8日に福沢家の菩提寺である善福寺で行ったのちに、諭吉が 生前自ら買い求めていた品川区大崎の本願寺(現在は常光寺)に埋葬されました。 その時の様子を「考証 福澤諭吉 下」では、
二月八日は、前日の末明から降り続き地上に真白に積もった雪も、朝あけとともに一天からりと 晴れ渡り、定刻までにほぼ乾いて、塵埃もおこらず却って好都合であった。

午後零時四十分、普通部生徒七百余名を先頭とし、幼稚舎生徒二百余名がこれに続き、葬送曲 を吹奏するラッパに歩調を整え、次は商業学校生徒三百余名、大学部学生三百五十名、いずれも 四列縦隊を組、これにつづいて大学部学生九名が交代で竹筒に挿んだ尺余の樒三対を持ち、導師 麻布超海以下僧侶五名いずれも黒染の法衣に徒歩で加わり、続いて香炉を捧持した 石川幹明、位牌を捧げた日原昌造、故福澤諭吉之柩と大書した銘旗を大学部学生がこれを捧持 し、次は諭吉の遺骸を納めた檜白木造、長さ七尺三寸・幅三尺一寸の簾輿、その蓮台の長さは四 間一尺、白丁五十人でこれを担ぎ、輿の周囲には小幡篤次郎、荘田平五郎以下塾員の長老がつきそい、 喪主福澤一太郎・捨次郎以下親戚の人々いずれもフロックコートを着用し、行列中一基の生花も造花も なく、また高声で談話する者も喫煙する者もなかったのは、沿道の人々を感動せしめたという。
~中略~
麻布山善福寺に到着したのは午後二時ごろで、葬儀焼香の終わったのは午後三時ごろ。
それか霊柩は埋葬地なる大崎村本願寺の墓地に向かった。幼稚舎生徒は善福寺かぎりで引き取る ことにしたが、その生徒たちは白金台町に達するや道の両側に整列し、哀悼のラッパとともに挙手 注目、脱帽または捧銃の敬礼をする中を、霊柩は粛々と通過し、本願寺の墓地に 埋葬の儀を完了したのは午後五時ごろであった。
と細かく伝えていますが、棺が自邸を出たのが午後12時40分で善福寺の到着が午後2時としているので 三田から麻布まで1時間20分をかけての、かなりゆっくりと進む葬列であったことがわかります。

時は下って1977(昭和52)年、諭吉の墓が常光寺より善福寺墓地に移設された際には、土葬であった事と偶然に水温の低い地下水に浸っていたため遺骸は埋葬時のままのほぼ完全な形で発掘されます。諭吉の遺骸を学術解剖や遺体保存の声もあったそうですが、 遺族の強い希望でそのまま荼毘にふされました。現在常光寺には慶応義塾により建立された「福沢諭吉永眠の碑」が残されています。

諭吉の命日の2月3日は雪池忌と呼ばれ、現在も塾長以下学生、OBなど多くの慶應義塾関係者が墓参します。
また、同じ墓所入り口付近には越路吹雪のモニュメントもありますが、これは墓ではなく歌碑であり越路吹雪の墓は川崎市宮前区の本遠寺とのことです。

麻布山善福寺 開山堂

墓地内にある「開山堂」は真言宗の蔵王権現として中興の祖「了海上人」が蔵王権現の申し子とされていたために開かれました。そして、 麻布の地名の由来は諸説ありますが、「麻に布」で「あざぶ」と読むのはそれまで代官支配地で江戸郊外あった麻布各村が 町奉行支配となり「町」となって江戸に編入された江戸中期以降と思われます。これは善福寺の山号が その昔麻布山に麻が降ったことがあり、麻布留山(あさふるやま)と言ったのを後に略して麻布山と唱えたのが広まったことや 寺の住職が代々麻布姓を名乗っていることから来ているともいわれていますが、その根拠は明らかとなっていません。

善福寺には太平洋戦争当時の東部軍管区兵站部海軍燃料廠の感謝状が残されており、また宿坊も近衛四連隊・東部八部隊・六部隊の宿舎として徴発さ れたという。さらに寺横の斜面(昭和期に篠崎製菓があった裏手の斜面)から各方面に向けて本土決戦用の巨大な地下壕 が掘削されました。



開山堂 解説板
このように時代の支配者達からも認められた善福寺には、以下の文化財が保管されているといいます。(十番わがふるさとより)
1.鎌倉初期、了海上人の木像
2.北条氏直の文
3.豊臣秀吉の文
4.長尾景虎(上杉謙信)の文
5.弘法大師の名号
6.親鸞上人の名号
7.見真大師、真筆の軸
8.石山本願寺の旗
9.石器時代の斧

その他、善福寺は手塚治虫の「日だまりの樹」などにも登場し、幕末にアメリカ合衆国公使館となることとなりますが、ハリスの公使館については 次項で。












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