2013年3月26日火曜日

ハリスと唐人お吉

万延元年(1861年)12月5日、中ノ橋近辺で暗殺されたアメリカ公使館通訳ヒュ-スケンは、ハリスに来日以来ずっと従ってきた書記兼通訳でした。
アメリカ領事館員は来日時ハリス、ヒュ-スケンに中国人下僕5人の計7人しかおらず、日本語を全く理解しないハリスに代わってヒュ-スケンは、一時「代理」も勤めていたそうです。これは、当時の日本人が全く英語を理解できず、唯一日本側通訳に通用するのはヒュ-スケンの母国語であるオランダ語だけであったためだと思われます。

一行が日本に上陸して約10ヶ月後の安政4年(1857年)5月19日、ヒュ-スケンはハリスの命を受けて下田奉行所を訪れ、前日に交わしたばかりの「3か条の覚書」をつき返しました。これは、当時病を患っていたハリスが下田奉行に対して病気看護の女性の斡旋を依頼していたが、聞き入れられなかったのでその日本政府(幕府)の不誠実さを怒り、「3か条の覚書」も破談にするとヒュ-スケンに伝えさせたことによります。事実ハリスは当時の日記には、

  • 安政3年12月13日--体がひどく悪い。
  • 同20日--丹毒が回復しかし体重が18キロ落ちた。
  • 安政4年2月20日--体がだるく、大量の血を吐いた。
  • 同3月24日--入港したアメリカフリゲ-ト艦での診察を希望。

などとあり、実際に病気であった事がわかります。

当初、他国の外交官からも同様の申し出をされては困ると考えて答えを引き伸ばしていた幕府側も「3か条の覚書」の破談に驚き、再審議の上ハリスの要求を受け入れる決定をし、また同時にヒュ-スケンにも「看護の名目」で女性を派遣する事を決めました。
これはおそらくヒュ-スケンがハリスの要求は本当の意味での「看護人」を指していたのに対して、彼は「看護人の名目」での船形相手の酌婦を要求したための措置であったと考えられます。またこれは、ヒュ-スケンがハリスの代理として幕府側通訳の森山多吉郎を訪れた際の、職権乱用の結果であるとも推測ともいえるのかもしれません。

5月22日、ハリス、ヒュ-スケンのもとに看護人の下田芸者の女性らがが顔見せに現れた。それらの女性の名は「きち」「ふく」と言い、17歳のお吉と、15歳のお福でした。
お吉は早速その日からハリスの看病を始めたが、わずか3日でハリスのもとに通うのを辞めています。そして二度とハリスの元に戻る事はありませんでした。これは、お吉自身も腫れ物が出来て自宅療養を余儀なくされたためであり、その後お吉はたった三日の異人への奉公(一説によると60日とも)から「唐人お吉」と呼ばれることとなります。 唐人お吉は、芸者に戻ってからも異国人相手の侍妾であった事から以前の様には売れなかったといわれ、これについて下田市役所に現存しているお吉の母親から下田奉行に宛てた願文には、
「異人と交わったためにそれまでの家業が出来なくなり、暮らし向きにも困っているので、以前に決められた唐人接待の給金を支払ってもらいたい。」

という内容のものでした。

その後お吉は、アメリカ領事館の麻布移転と共に下田の町から姿を消し、明治元年(1868年)から横浜で大工と同棲生活を送り明治4年、下田に戻って髪結いを営みます。しかし酒癖がこうじて三島に移り、再び下田に戻ったのは明治15年でした。そして小料理屋を開いたが、その自暴自棄の酒癖から破産へと追い込まれてしまいます。その頃お吉は、昔同じ侍妾だった「お福」を訪れ度々施しを受けていたといいます。お福はお吉とは対照的に、ラシャメンの勤めを辞した後、「おみや」と改名して進められた縁談から船宿の女房となり、持ち前の器量と客あしらいで店は繁盛し、幸せな生活を送ったといいます。
明治20年(1890年)零落したお吉は病にかかり、明治23年3月23日夕方友人の「おりん」を訪れた帰り道、河内門栗の淵(お吉ヶ淵)に身を投げて50歳の生涯を閉じたそうです。
同時期に異国人の侍妾となった「きち」「ふく」のその後の人生を分けてしまったものは、一体何だったのでしょうか?

その他にも看護の名目で仕えた女性達は、彼女達を含めて以下に(契約期間)

ハリス
お吉---安政4年5月22日~8月18日
おさよ--安政5年7月16日~安政12年12月15日

ヒュ-スケン
お福---安政4年5月27日~安政12年12月15日
おきよ--安政5年2月頃(すぐに暇を出される)
おまつ--安政5年2月29日~安政6年1月31日
おつる--月雇いの囲妾安政6年8月6日~?


ヒュースケンに仕えた「おつる」は麻布十番の造り酒屋「鶴屋」の娘であったといわれています。