2013年3月25日月曜日

麻布山善福寺-(其の弐、ハリスの公使館)

ハリス顕彰碑
安政三(1856)年7月21日、総領事タウンゼント・ハリスを乗せたアメリカの軍艦サン・ゼシント号が突如下田に入港します。 大統領の信任状を示し上陸します。そして、困惑する下田奉行をよそに、同28日に下田郊外柿崎村の玉泉寺に駐留、8月5日には、領事館旗を掲げました。その後8月25日には幕府も渋々、駐留を認めることとなります。

 玉泉寺駐留の翌日にサン・ゼシント号は帰途に就いてしまったので、砲艦外交も出来なくなり通訳のヒュ-スケンと通商条約の締結に奔走しました。しかし、幕府は引き延ばし工作を行い憔悴の日が続きます。

 翌、安政四(1857)年2月16日、下田奉行井上清直との間に長崎の開港、アメリカ人居住権、領事旅行権、犯罪人処分法など9項目にわたる条約を締結します。しかしハリスはこれとは別に、自身が江戸で幕府当局者と、直接新しい条約の交渉をする事を強く希望しました。これは、下田奉行には交渉決定権がなく一々江戸に伺いを立て、交渉の引き延ばしを図ったためで、幕府も苦慮の末8月14日江戸出府の許可を布告しました。 10月21日、ハリスは江戸城に登城、将軍家定に大統領の親任状を提出。翌日、老中堀田正睦に会い通商の必要性を説きます。これにより幕府は、目付の岩瀬忠震、下田奉行の井上清直を委員とし通商条約の審議に入りました。

ハリス顕彰碑
 安政5年1月5日条約の審議が終わりますが、幕府は勅許の必要を理由に調印の2ヶ月延期をハリスに要請、老中堀田正睦を通商条約の勅許を得るために京都に参内させました。しかし、公卿が勅許反対の圧力をかけたため、再度協議せよとの勅諚が下りました。その後も、度重なる調印延期要請にたまりかねたハリスは、江戸沖に軍艦ポ-ハタン号を乗り入れて幕府を脅迫したため、6月19日、勅許のないまま日米修好通商条約が調印されました。 これにより6月24日に前水戸藩主徳川斉昭らが登城の上、井伊大老らを詰問しましたが、7月5日彼らは許可のない登城の罪で処分を受けます。 
そして8月水戸藩への陰謀疑惑をきっかけに、安政の大獄が始まることとなります。この大獄の嵐の中、安政6年6月27日ハリスは、総領事から公使に昇格した事を幕府に通告、公使館を麻布山善福寺に置きました。
貿易商が本職のハリスは幕府の要請で度々、国際法の講演会を善福寺本堂において開催し、その折アメリカから持参した工芸品絵画等を鑑賞させ、幕吏の国際化にも勤めました。

その頃の公使館の様子を「十番わがふるさと」は古老の話として、

護衛の武士に一度ステ-キを振る舞ったところ、味が忘れられなくなり中国人コックに頼んで盗食を繰り返した。これがハリスに発覚。注意されたため代理に犬を食べたが、うまくないので止めた。

と記されています。
文久2年(1862年)、アメリカの外交方針変更により解任されたハリスの帰国後の様子は、歴史のなかに埋もれていました。そして1936(昭和11)年12月19日、ハリス在任時の通訳見習いで、三井財閥関係者でもある益田孝氏が施主になり、善福寺境内に顕彰碑が建てられることとなります。この顕彰碑の除幕式には徳川家達氏、グル-駐日大使などが参列します。 

幕末の麻布山善福寺
しかし太平洋戦争で米国が敵国となったことから顕彰碑は寺により隠匿され、再び建立されたのは、日米修好条約百年祭が行われた1960(昭和35)年5月12日のことでした。
この戦時中の様子を「十番わがふるさと」 の著者稲垣利吉氏は、

~戦時中は排外思想鼓吹が盛んで、その煽りをうけて町会までが敵国人ハリスの碑を邪魔にし、取り払いを要求する始末であった。昭和12年日支事変以来戦災に至るまで、善福寺は近衛四連隊、東部第八部隊及び第六部隊の兵士兵士約三十万人の出入りの宿舎に使用されて、末期には墓石の下まで防空壕を掘るような状況であった。照海師(※当時の善福寺住職)はハリス碑を守るため、或る時は菰をかぶせ、また或る時は箱で覆い、箱に亀山天皇勅願寺善福寺と筆太に書いて、上に土をかぶせ人目につかぬしょうにカモフラージュし、多くの兵隊のいる中を守り通した。~
と記しています。この1960(昭和35)年の日米修好条約百年祭以降、新任の米国大使が着任すると必ず善福寺のハリス顕彰碑に参拝をすることが慣習となったとも記されています。ちなみにこの式典時に訪れたのは、元連合軍最高司令官ダクラス・マッカーサー将軍の甥であるダクラス・マッカーサー2世駐日大使であったそうです。

話は戻りますが、昭和10年にこの日が建立された後、善福寺住職の麻布照海師により幾度となくハリスのその後の消息を照会したそうですが、墓所さえも不明でした。

そして碑の再建立から1年後の1961(昭和36)年、照海師がバチカンを初め世界の宗教団体に仏書を贈呈するイベントに出発のさい、アメリカ大使館からハリスの墓所発見の報が届きます。
麻布照海師は渡米の上ニュ-ヨ-ク、ブルックリン・ウッドの広大な墓所を3時間ほど探して遂に墓石を発見します。その墓石は、麻布山善福寺の顕彰碑よりも少し大きく、墓名の終わりに「フレンド・オブ・ジャパン」と記されているそうです。


★関連項目
 
 ◆麻布山善福寺

 ◆タウンゼント・ハリス

 ◆ヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケン