2013年3月22日金曜日

乃木希典余話-美人コンテスト

末広ヒロ子
以前、日ヶ窪にある長府毛利藩邸(現六本木ヒルズ)で誕生から幼年期を過ごした乃木将軍についてお知らせしましたが、今回はその続編ではなく余話としてのお話をご紹介します。

日露戦争で旅順要塞を陥落させ、1906年(明治39年)に凱旋帰国して軍事参議官に任ぜられた乃木は、翌1907年(明治40年)1月学習院院長となります。おりしもこの年には、日本で最初の美人コンテストが開かれました。これは、アメリカの新聞「シカゴ・トリビュ-ン」が世界の素人美人コンテストを企画し、日本代表を「時事新報」社に依頼したのがきっかけとなったといわれています。審査員は芸術家、歌舞伎役者、医者など13名で、岡田三郎助、高村光雲、中村芝翫、三島通良などが名を連ねました。

選考結果は翌年3月に発表され1位に輝いたのは、学習院女学部中等科3年の末広ヒロ子という女性でした。応募は本人が知らないうちに義兄がしたものであったといわれ、現代ならばさしずめシンデレラ・スト-リ-としてその後のスタ-への道を約束されたようなものですが、当時、しかも学習院であったことが災いしてしまいます。

コンテストの結果は世間で大評判となり、ほどなく学習院院長の乃木の耳に達します。すると、乃木は激怒したそうです。無骨の権化のような乃木は、学生に対して平素から「男は片仮名を使え、めめしい平仮名は使うな!」「男は弁当の風呂敷に、赤や綺麗な模様のものは使うな!」「学生の分際で腕時計は持つな!」「野球、テニスなど西洋のスポ-ツはするな!」などと言っていたので、美人コンテストなど認めるはずも無く、末広ヒロ子は即刻、退学処分となってしまったそうです。

こうして歴史に残るべき初代ミス日本は、失意のどん底に落とされてしまいます。
一方、2位に入選した金田ケン子(19歳)は末広ヒロ子と正反対に、発表から数日後に200通もの結婚の申し込みを受け、その父は手放しで喜んだといいます。

その後、「時事新報」は不幸なミス日本の入選を取り消そうとせず、末広ヒロ子の写真を「シカゴ・トリビュ-ン」に送りました。結果は、6位になったという説もありますが、実際は写真が届いたのが6番目ということらしく、順位は不明だそうです。

ここまでの話だと、頑固じいさんに葬り去られた悲劇の初代ミス日本という結末になってしまいますが、実はこの話には、後日談があります。

 乃木将軍の日露戦争当時の戦友に、野津道貫という元帥がいました。この元帥は侯爵でもあり、子供に鎮之助という大尉がいました。乃木はこの 鎮之助大尉に末広ヒロ子を娶らせ、自らが媒酌人となって仲介の労をとったそうです。乃木の真意がどこにあったかを示す文献は現存しませんが、この一件から乃木が、退学処分にした末広ヒロ子を気にかけていた事は間違いなく、また末広ヒロ子自身も結果的には「侯爵婦人」と呼ばれる身分になり得たために、「ハッピ-・エンド」といっても良いと思われる結果となりました。